第241話


 か細く……ともすれば呼吸と断定出来ないような息遣いだった。


 ハッキリと分からない。


 それというのも……。


「え〜? ……初対面っすよね? なんか怒ってますか〜?」


 エフィルディスの上で目を丸くして驚いている女のせいだろう。


 全速力で殴り掛かった。


 問答無用でぶっ飛ばそう。


 静けさを増す森の中での全力は、強化魔法に集中している時に起こる時間を止めたような感覚を色濃くした。


 瞬きも終わらない一瞬で女との距離を詰め、何の遠慮も呵責も無く、右拳を振り切った。


 まずは鈍い音が。


 次いで激痛が。


 俺の右手から発された。


 素手で分厚いコンクリートの壁を殴ったような感覚――


 拳を止められたという感触と、痛みとして返ってくる反動が、何処かで似たような経験をしたと伝えてくる。


 いつ? 何処で?


 古い記憶を遡る一瞬の間に、強い力が体を走った。


 女は、未だに反応が無い――しかしこいつからの攻撃なのは間違いない。


 痛みや衝撃は無かった。


 気付けば女から距離を取らされるように後方へと飛ばされていた。


 透明で大きな手に、『下がれ』と後ろへ追いやられるような動きだった。


 風じゃない、圧でもない……まるで引力のような力……。


 勢いを止められた一瞬に、後ろへと引っ張られた。


 そんな感じだった。


 ポタポタと。


 拳が砕け、血が滴っている右手を一瞥する。


「ええ?! なんか怪我してるんすけど……突然。どうしたんすか? 今の一瞬に、一体何があったんすか?」


 余裕こいてやがれ。


 回復魔法で右手を癒やす。


 ニマニマと厭らしい笑みを浮かべる女を無視して、引っ掛かっていた記憶を引っ張りあげた。


「『アミュレット』……だったか? お前らのそれ」


 俺の右手から緑の光が発されたところで動揺すら見せなかった女が、分かりやすく表情を変えた。


 しかしそれは真剣なものというより、疑問を多分に含んだ不思議そうなもので、バレてはいけないという知識じゃなかったのだろう。


「え〜? なんで知ってるんすか? 珍しい。先輩やタナさんは持たない主義なんで……他からっすよね?」


 本当にそうなのか……。


 だとすると。


「今ので潰れたんじゃないか?」


「……もしかして心配してくれてます? 大丈夫っすよ〜。どこ情報か知らんっすけど、たぶんそれ古いタイプやつの話っす。改良型は潰れるとかないんで。安心して欲しいっす!」


「それは良かった」


「あはぁ。強がってます? お兄さんがあたしが思ってる通りの人なら……手が無くないっすか? 殴る蹴るが得意なんすよね?」


「……試してみるか?」


「あー……もしかして魔法に自信持ってる感じっすか? 詠唱無しの魔法の即時発動は、あくまで奇襲に有効ってだけでー……」


「そっちじゃない」


 治った右手をプラプラと振るって――――再び強く拳を握った。


 強く、強く。


 意思表示だ。


 メキィッ、と音を鳴らす右拳を見て、呆れたような表情になる灰色ローブ。


「いや〜……ヤメた方がいいっすよ? 何に自信持ってるのか知らないっすけど。改良型のアミュレットは、それがどんな攻撃でも完全に遮断出来る特性を持ってるんで。また手をピカピカ光らせるだけで終わりっす」


 四倍だ。


 静かに禁域へのスイッチを入れた。


 引き伸ばされる時間の感覚に体が適応しようと唸りを上げる。


 血が、肉が、骨が、意識が――


 決して踏み入れることのない――――踏み入れてはいけないところへと伸びていく。


 押し固められた地面なんて目標じゃないせいか、握りしめられた拳にも気合いが入る。


 全力で走った。


 地面が爆発したかのような勢いで土砂が捲り上がり、掻き分けた大気が衝撃を放つ。


 一歩毎に罅割れる大地が森を揺らし、右拳に込めた熱が空気を歪ませた。


 到達は先程より早く。


 静寂は過去より遠く。


 大きく胸を反らすように一歩。


 踏み込んで、持ち上げるように一発。


 拳を振るった。


 鈍い音が再び響く。


 反響は幾重にも重なり、体の外にも内にもうるさい程だった。


 素手でビルを殴って動かすようなものだろう。


 本来なら木っ端微塵どころか欠片も残さずに振り切られる筈だった腕の勢いが止められる。


 感じ取れているのかいないのか――女は呆れたような表情のままだ。


 攻撃の影響を受けていないのは明らか――――



 ここからだ。



 体の奥底から力を捻り出す。


 いいから進め! とばかりに右拳を突き出し、幾らでも沈め! とばかりに足を踏み込ませた。


 脳に酸素が足りないのか視界がチカチカと明滅し、噛み締めた歯が鈍い音を立てる。


 もっともっと! と急き立てるように血流が速さを増し、知ったことか! と限界を訴える骨を無視した。


 変化は鈍く、しかし確かに起きた。


 女の体が、エフィルディスの上から、ズレる――――拳に押されていく。


 ダメージが無いのは手の感触と変化のない女の表情からは明らかで。


 しかし矛盾を体現せんとばかりに女の体が拳の勢いに負けて飛んでいく――


 拳を振り切ると同時に、強化魔法が切れた。


 勝手にだ。


 初めての出来事。


 弾丸もかくやと森の奥へと飛んでいく女が、直ぐさま木々を折る音を響かせている。


 神経を引き摺り出すような激痛が来た。


「――――――――ッッッ!!!」


 声に鳴らない痛みを我慢して無我夢中で回復魔法を放った。


 エフィルディスへ。


 覆い被さるように。


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