第7話 電話

 後期が始まってもう数週間。毎週水曜日は同じ講義を取っているから会えるとして、それ以外の日にはほとんど会えない。それがいずみは不満だった。あまり表には出さず言葉にすることもほとんどないが、それでもいずみは彩葉いろはと一緒にいることが一番好きだった。彩葉がそばにいない日はやる気も元気も出ない。「もしかしたら大学構内で会えるかもしれない」という気持ちだけを持って大学に通っているほどだった。

 ゼミの課題に取り組むため開いたパソコンを眺めながら、大きなため息を吐いた。目の前に起ち上がっているメモアプリには白が広がるのみ。まだ一文字だって打ち込んでいなかった。横に開いた教科書とノートに目もくれず、ただ伸びた爪を見つめているだけ。

 毎日会いたい、毎日あの笑顔を見ていたい、毎日潰しそうなくらい強く抱き締めたいし、毎日キスしたい。暴走しかける脳を、頬を叩いて現実に戻す。ちらりと教科書を見て、またため息を吐く。どうせ同じ教室にいる学生たちだって真面目にやって来ないだろうに、どうして自分は真剣に向き合おうなどと一瞬でも思ったのだろう。こんな課題なんて、流すようにやってしまえばいい。

 と、膝の上に置いておいたスマホが震えた。何かと思って開き、届いたメールを確認する。案の定どこかの会社からのどうでもいい定期的なメールだった。さっさとそれを削除し、画面を消してまた膝の上に置く。

「……そうか」

 いずみは呟くと、素早くスマホを開いた。メッセージアプリを大急ぎで起ち上げ、目当てのアイコンをタップする。

 でも、といずみは考える。もしかすると今は忙しいかもしれない。電源を切っている可能性だってあるし、誰かと一緒にいることも十分にありえる。思ってから時計を確認する。まだ午後九時だ。きっと寝てもいないし、何かやっていたとしていずみと同じく課題くらいなものだろう。覚悟を決めて画面を押そうとしたとき、スマホが震えた。

『いずみちゃん、今暇だったりする?』

 彩葉の声に、いずみは思わず笑みを漏らす。

「うん、ちょうど今電話かけようと思ってた」

 同じことを考えていたのかと思うと、それも嬉しくてたまらなかった。教科書もノートも閉じ、リュックの中に放り込む。今日は彩葉と話そう。課題なんていつでもできる。

『そうなの? えへへ、何か運命的だね』

「課題も特になかったし、何より彩葉と話したかったし……嬉しい」

 カチカチとマウスを操作して、パソコンの電源を落とす。

「まあ、明日水曜だし、会えるんだけど」

 いずみが言ったとき、電話の向こう側から何か暗い影のすれる音が聞こえた気がした。彩葉のためらうような声に、不安を覚える。

『あの、ごめんね、明日は行けなくて……』

 そういえば、何となく彩葉の声は湿っているような感じがする。明るく振る舞っているが、それも無理矢理調子を上げているようにも、聞こえなくはない。嫌な予感がした。しかしいずみは深追いしなかった。彩葉が自分から言わないということは、きっとまだ話すときではないのだろう。そう判断したのだ。

「そっか。じゃあ、今週は会えないってことだ」

『うん。本当に……ごめんね』

「いやいいよ、大丈夫。彩葉が謝ることじゃない。用事あるなら、仕方ないよ」

 言いながら、少しずついずみの声は落胆の色を載せていった。来ることができないのは、会えないのは、仕方ない。そうはわかっていても、好きな人に会える唯一の日が潰れたとなればがっかりするのも当然のことだろう。彩葉の答えた悲しそうな、うん、が胸に刺さるようだった。

「でも――」

 このままでは彩葉が向こう側で泣いてしまうような気がして、いずみは努めて明るく楽しそうに切り出した。

「でも、彩葉の声聞けて良かった。明日会えない分、補給しておかないと」

 電話の向こうからは何も聞こえない。間違えてしまったろうか、それとも聞こえなかった? いずみは何もないのに自分の部屋をキョロキョロと見回す。

「彩葉の声、好きだし、聞いてて落ち着くし」

 はらりとカーテンをのけて、窓の外を見る。すっかり秋になろうとしているその姿は、暗い夜でも見て取れた。彩葉と再会して、恋人という関係になって、もう一ヶ月が経ったのだ。そう思うと、自然と笑みがこぼれる。

「好きだよ、彩葉」

『……』

「ん? 好きだよ――」

『き、聞こえてるって!』

 やっぱり電波が悪いのだろうかと再び言おうとすると、彩葉が大声で遮った。どうやら聞こえていたらしい。いつもだったら言わないような、いずみの言葉。それが彩葉の心臓を刺したのかもしれない。

 ふたりはそのまま、朝日が顔を見せるまでずっと他愛のない会話を続けていた。

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