第87話 吃音の青年 Ⅰ

 「風魯大将軍、本当にありがとうございました!」


 と、重ね重ねに謝意を示すのは、あの諸葛孔明。

どうやら俺の一言が決め手になったようだ。



 (しかし、川の対岸が騒がしくなってきたなぁ)


 風魯は今、孔明や孫呉の軍勢とともに揚子江南岸の赤壁というところにいる。

周瑜はこの赤壁の地こそが決戦の場に相応しいと考えたようだ。


 赤壁の地にはその南岸(孫呉側)に山がある。

決して高い山ではないが、揚子江の流れに削られた崖からも分かるように

本当に河川に近い。


 これは山に登れば川の向こう一帯を見渡せることを意味する。

そう考えると曹操軍があえて対岸に布陣しないのでは、と思うかもしれないがそうではない。


 むしろ曹操は相手にその軍事力を見せつけるかのように対岸に大々的に布陣したのだ。


 風魯が感じた対岸の騒がしさは間違いなく曹操軍が陣を敷くその騒音である。


 ちなみにだが、赤壁の対岸は地名的に言うと烏林にあたる。

曹操軍はそこに陸軍を整列させ、さらに揚子江の上流である荊州の江陵から水軍を移動させた。

 そして、その水軍は烏林に築かれた水辺の要塞(水塞)に入り、勝機を窺う。


 よって、戦況は一触即発の状態であるが、その緊張感の中で異彩を放つ男がいる。


 隠すまでもない、風魯だ。


 「あーあ、なんかつまらないから散策にでもでるか」


 風魯は緊張感など皆無で、揚子江の川辺を毎日のように散策している。

間違いなくいざとなった時に慌てるタイプだが、張り詰めた雰囲気の中でも彼の周りだけ張り詰めた糸がくねくねと曲がっているようにさえ見えた。


 (ふーん、なんかいい景色のところもあるな)


 風魯は何気なく揚子江の流れを鑑賞していたが、いざという時にはこの川が赤く染まることなど想像だにしていないようだ。



 「やいっ、この吃音小僧!何を言いたいのかハッキリせいやっ」


 「そうだそうだ!こっちはイラつくんだよっ!」


 遠くからこんな感じの怒鳴り声がした。

嫌なものを感じた風魯はこっそりと現場に近づく。


 「い、い、い、いや・・・そそそ、そんなこと言われても・・・!」


 現場となる原っぱを見ると吃音らしき一人の青年がいかつい二人の男に暴行を受けていた。


 (何とかして助けないと・・・)


 風魯は自分の実力が皆無なことなど考えもせず、その場に飛び出した。

すると、勇敢に飛び出した風魯の頭が一人の男の背中を直撃。


 不意を突かれた男は避けようと咄嗟に動いたところをもう一人の男と激突。

頭蓋骨同士でぶつかったため、その痛さに耐えきれず倒れ込んだ二人。

 しかも、そのうち一人はそこら辺の尖った石に頭をぶつけ、もう一人は逃げ出したところ蜂の巣に激突。


 結局、方や出血と方や大量の蜂に刺されたショックで両方とも絶命してしまった。



 (あー・・・、死んじゃったかな?)


 風魯は却って二人を心配したが、絶命したとわかると引き上げようとした。

だが、それを吃音の青年が引き留める。


 「たたた、助けていただき、あ、ああ・・・!ありがとうございました!」


 彼は風魯に感謝の意を伝え、また何かで恩返しをしたいと言った。


 だが、恩返ししてもらうほどのことがなかった風魯は、丁重にお断りした。

ただ、それでも食い下がるので、風魯は一言。


 「誰でもいいから、最初に受け入れてくれた人に仕官したら?」


 「え・・・」


 これに彼は一瞬の沈黙の後・・・


 「でで、で、ではあなた様に・・・!」


 と言ったが、風魯は首を横に振る。


 「私の名前知ってる?あの風魯だよ?悪いけどもっと強くてしっかり守ってくれる方に仕えた方がいいさ」


 「それこそ受け入れてくれるのなら曹操でも何でも私は構わないから」


 「私は君が安心して過ごせればいいからね」


 と述べて風魯は来た道を戻った。

その姿を見届けた彼は諦めかけていた仕官への道を歩み始める。


 その青年、名前を鄧艾とうがい

まだ二十歳にも満たぬ青年だが、彼の才能は遠からず発揮されるのである。



 ※人物紹介


 ・鄧艾:武廟六十四将の一人、生まれつき吃音だがそれを乗り越えて出世したことで、吃音を持つ人の希望の星として長く語り継がれている人物。


 ※武廟六十四将は唐代にそれ以前の中国の名将64人を選出し太公望の廟に合祀したもの。三国からは鄧艾・張遼・関羽・張飛・周瑜・呂蒙・陸遜・陸抗の8人が選ばれ、後世の演義で評価の高い諸葛亮は正史に基づき落選した。

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