第77話 長坂橋に張飛あり Ⅱ

 「遂に劉備玄徳を捉えたり!いざ血祭りに致さんっ」


 そう叫び、近づいてくるのは降将という身分ながら武勇名高き武人、張郃ちょうこう

彼は同じく曹操麾下の猛将である許褚きょちょをも引き離す勢いで劉備軍に迫る。


 ここでようやく劉備は領民を軍勢と引き離したが、既に時遅し。

曹操軍の先鋒が劉備軍の殿しんがり(最後尾にて敵の追撃を防ぐ役目)である張飛の部隊を打ち破って劉備の姿を捉えた。


 武勇でその名を轟かす張飛も流石に退却しながらの応戦とあって力を発揮できなかったようである。


 「劉備様、この趙雲子龍、身を賭してでも主公様とそのご妻子をお守り致します」


 趙雲がそう劉備を励ますが、劉備自身は不安でならなかった。

しかも、今は関羽や孔明らが江夏の劉琦へと援軍の要請に向かっていて不在であるため、なおさら不安は大きい。


 「ええい!こざかしい張郃め!この燕人張飛がお相手だっ!」


 態勢を立て直した張飛が張郃と渡り合ってこれの侵入を防いだが、曹操軍には猛将が多く、許褚や于禁の攻撃までは防ぎきれない。


 「劉備玄徳!ご覚悟!」


 許褚が遂に劉備に迫り、槍を振り下ろそうとしたが、それに趙雲が相手し難を逃れた。

 しかし、それに続いて于禁がやってきて劉備は関羽を行かせてしまったことを悔やむ。


 (そうだ!ここであの男が役立つかも!)


 劉備はとっさの判断で逃げ惑う風魯の手を引っ張り、人間の盾とした。


 「ご覚悟・・・、あんたはまさか・・・、風魯!?」


 風魯の妻は于禁の妹であるため、彼はここで風魯を斬れば妹が悲しむと考えたようで、手が止まってしまう。

 だが、彼は劉備の敵である曹操の家臣だ。

 遂に腹をくくった于禁は劉備を風魯ごと斬ろうと槍を振り上げる。


 「待ってください!兄上!」


 ここで劉備と風魯のさらに前で両手を広げ于禁の手を止めたのは、紛れもなく風魯の妻である。


 彼女は劉備軍の一足先を逃げていたが、夫の危機を察して駆けつけてきたのだ。


 「二人を斬るなら、私も斬りなさい!」


 これにシスコンの于禁はどうにもならず、槍を下ろして立ち去った。


 こうして、劉備は危機を脱したが、この乱戦の中で側室の甘夫人と彼女との子である阿斗を見失ってしまう。


 「まずい、さらわれたかもしれない!」


 劉備はひどく焦ったが、そこに許褚を退けた趙雲がやってきてこう述べた。


 「この趙雲子龍、敵陣へと突入し、必ずや主公様のご妻子を取り戻して進ぜます!」


 劉備は答えに窮す。

これで趙雲を失ったら困るし、かといって妻子を失うのも困る。


 だが、趙雲は劉備の答えを聞かぬうちに敵陣へと馬を進める。


 「甘夫人!そして阿斗様はおられるかっ!?」


 彼はたてついてくる曹操軍の将兵を相手にしながら敵中で叫ぶ。

すると、敵陣の脇にある草木がかすかにざわつき、それに気配を感じた趙雲は曹操軍の兵を振り切ってその草むらへと向かう。


 「おお!甘夫人!そして阿斗様!ご無事であらせられるか!?」


 そこには確かに二人の姿があったが、夫人の方は足に矢傷を負って歩けない様子であった。


 「ささ、甘夫人。阿斗様を抱えて私の馬に乗ってください!」


 趙雲は夫人にそう求めたが、彼女の傷は思いのほか酷く、馬にも乗れない状態のようだ。


 「趙雲殿!助けに来てくれてありがとうございます。ただ、私はこのような有様。ですから、阿斗だけを抱いて戻ってください」


 甘夫人はそう言い残すと趙雲の答えも聞かぬうちに近くに会った古井戸に身を投じて命を絶った。


 こうなれば、せめてもの阿斗だけは助けなければならないと趙雲。

まだ赤子の阿斗を抱えて馬に乗ると、草むらを出て自陣へと鞭を打つ。


 この帰陣の間にも数多くの敵将を斬って、無事劉備のもとへと帰還したのであった。



 ※人物紹介


 ・許褚:曹操配下の猛将、時には曹操の護衛も務め、信頼を得た。

 ・張郃:元は袁紹配下で曹操に降る、劉備が曹操配下で最も恐れた名将、吉川英治版では手違いからか三度死んでいる。



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