床
凡imi
床
キッチンの電気だけをつけて、冷蔵庫からホーローの大きめの容器を取り出す。
蓋を開けると、小さなキッチンに酸っぱい匂いがたちこめる。
冷たい糠床に指先からゆっくりと手を押し入れる。
男性のそれはこんな感覚だろうか。なんてことを考えて、おかしくてふっと鼻で笑う。
大丈夫だ。私はとても冷静でいつもと何ら変わりなんてない。
おととい浸けた茄子を取り出して糠を拭って、ボウルに入れる。
糠床を下からおこすようにかき混ぜて、底に空気を入れてからいったん押して平らにならす。塩揉みした茄子と胡瓜を埋め込むように押し入れて、表面を平らにならす。容器のまわりの糠を拭き取る。
取り出した茄子と手を洗って、ホーロー容器の蓋を閉めて冷蔵庫に戻す。
水気を拭いた茄子の糠漬けを縦半分に切る。真ん中は白く、外に向かうに従って綺麗な紫色をしている。
斜めに切り分けた茄子をお皿に移す。
夫は浮気をしている。浮気をする理由も、嘘をつく理由も多分私には一生分からない。
人を好きになるのはきっととめられない。そういうものかもしれない。
でも、じゃあ結婚って何?夫婦って何?私の存在はあなたに芽生えた恋心を止めるブレーキにはならなかった?
どっち付かずのあなたは、私に、それから相手の女にも不誠実だ。
夫婦は糠床みたいに時間をかけて育てていくものだと思っていた。
ラップに包んだ冷めたご飯を茶碗に移す。茶碗のへりについたご飯粒を指先に取って、指ごと口の中に入れる。頬の内側に触れて私の中を確かめる。
それが私であることと、別の女であることに何の違いがあるのだろうか。
急須に茶葉を適当に入れてお湯を注いで、少し待ってから冷たいご飯にお茶を注いで茄子の糠漬けと一緒に流し込む。
それから食器を洗って、水切りかごに伏せて置いた。
テーブルに離婚届と指輪を置いて、小さな荷物を手にする。
何も知らずにあなたが眠る部屋の前を通って、早朝家を出た。
糠床をワックスをかけたばかりのリビングのフローリングにぶちまけてやろうかとも思ったけれど、やめておいた。
だって理性ってそういうことでしょ?
幸いなことにうちにこどもはいないから、悲しいのは私だけだ。それに私には仕事だってある。
部屋を借りて、新しい糠床を作ろう。
嘘をついたら閻魔様に舌を抜かれるっていうけど、あなたの嘘の原因が生物の本能的な下半身から来るものだとしたら、もしも地獄に堕ちたら、嘘つきなあなたのあれを引っこ抜いてくれたらいいのにと心底思う。
ねえ、だからもう嘘をつかないでね。どうか嘘はつかないでね。
床 凡imi @bon60n
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