隣の姪はよく飯食う姪だ

嶋野夕陽

一話目

 雑賀祐介はエコバッグから、野菜を取り出して、台所に並べた。

 ついつい買いすぎてしまったが、明日からは休みだ、困ることもないだろう。


「アレクサ、お気に入り流して」


 台所の横に置かれたスピーカーからご機嫌な音楽が流れだす。

 祐介は鼻歌を歌いながら野菜についた泥を洗い流し始めた。 




 祐介がご機嫌なのには理由があった。今日で年度末のめんどうな締め作業にようやく目途がついたのだ。ご機嫌にもなろうものだった。


 そろそろ会社に務めて丸8年になる。年も今年で31歳、中堅社員と言って差し支えないだろう。

 入社数年は毎日が忙しすぎて、プライベートも何もあったものではなかった。

 初年度では泣きながら残業していた憎き年度末の締め作業であったが、今では余裕をもって終わらせることができる。

 主任という役職を与えられ、部下のような後輩のような気のいい奴らと、『とっとと終わらせてさっさと帰るぞ』をモットーに、無駄をなくし、少しずつ先の仕事を終わらせるようにしたところ、3月の半ばだというのに残業たった1時間で帰宅をすることができた。玉ねぎもご機嫌に刻めるというものである。

 こんな風に仕事をできるようになったのも、鼻水と涙で書類を濡らすめんどくさい自分を黙ってサポートしてくれた上司のおかげである。

 課長、ありがとう。

 彼は今日も仕事が終わらず半泣きの新人をサポートするため残業している。それを自分の仕事と思っているようで、文句も言わずに同じことをしている。毎年恒例の光景だ。

 その癖仕事がすでに終わっている祐介たちのグループを見つけて「早く帰りなさい」と会社を追い出すのだから実にいい人だった。

 祐介は不器用で不愛想な上司を思い出して心の中で感謝した。




 社会人になってしまうと、気の合う友人を新たに作るのは難しい。旧友と遊ぶにも、互いの予定をすり合わせていたら数か月先まで遊べない、なんていこともざらにある。

 大人になったら金が自由に使えて、どこにだって行けて、楽しい毎日が待っているに違いないと思っていたものだが、現実はそう甘くない。金はあっても時間がないのだ。折角訪れた休みに何も予定がない、なんて日も結構多かった。


 暇に飽かすと趣味が欲しくなるのが人の性だ。

 祐介は元々季節ごとのスポーツや、みんなでワイワイする遊びが好きだったから、一人で何かをするという趣味がなかった。

 灰色の毎日にせめて彩りを、と思い始めた趣味が料理だった。


 料理はいい。

 なにせ材料なんて大きなスーパーに行けば大概何でも手に入る。しかも今の時代、インターネットでちょちょいと検索すればレシピはごまんと出てくる。

 さらに作れば楽しく、その上おいしくいただける。大変実用的な趣味だった。



 そうこうしながら数年が過ぎるうちに、友人たちの一部は家庭を持ち、ますます遊べる機会は少なくなる。最近では外に出ない分、本を読んだり、一人でゲームをすることも増えてきた。

 祐介は割とその時間が悪くはないと思っていたが、着々と独身貴族への道を進んでいることには気づいていなかった。


 一度くし切りした玉ねぎの束をボールによけて、さぁ、みじん切りに入るかと腕まくりをした瞬間に、スマホの着信音が部屋に響いた。特に設定を変えていないものだから、誰から来た電話なのかはわからない。

 まさか会社からじゃないだろうな、と恐る恐る画面を覗くと、ディスプレイには【母】と表示されていた。

 なんだよ、驚かせるなよ、と勝手にビビったくせに理不尽な不満を心に秘めながら、手を洗って画面をスワイプした。


「もしもし、どうしたの母さん」

「もしもし?祐介?今暇かしら?」

「え、まあ、料理してただけだから暇っちゃ暇だけど」

「そう、じゃあちょっと話があるから火をつけてるなら消してから聞きなさいね」

「あー、大丈夫、まだ火はつかってないから」


 母が長くなるというのなら本当に長くなるのだろう。割とさっぱりとした母親で、あれこれ無駄話をするタイプではないのだ。キッチンペーパーで雑に手を拭いて、スピーカーの音を小さくした。ソファへ移動し、腰を下ろした。


「今度ね、みやこちゃんが旦那さんについてアメリカに移住するらしいのよ」

「……ふぅん」


 祐介は顔をしかめた。嫌な名前が聞こえた。

 みやこというのは祐介の姉の名前だ。ただし、義理の、だが。

 祐介が8歳の時に結婚した夫の連れてきた子で、年は7つはなれている。最後にあったのは母方の祖父の葬式の時だから、もう10年近く前になる。

 その時もあまりに顔を出さないのを母に叱られて、しぶしぶ出かけたのだが、姉とはできるだけ顔を合わせないように気を付けていた。


「あんたね、何でそんな嫌そうな返事するの?昔はみやこちゃんのこと大好きだったのに、どうしてそんなになっちゃったんだか。みやこちゃん、いつも悲しんでるわよ」

「……それはいいから、続きは何?」

「はぁ……、それであなたの姪のあかりちゃん、覚えてるわよね?」

「ああ、うん、まあ」


 生まれたばかりの時と、その葬式の時にしか見たことなかったが、もじもじしながらも自分の後ろをついてきていたのをなんとなく覚えていた。姉によく似ていたが、いったい今はどんな風に成長しているのだろうか。


「明日あなたの横の部屋に引っ越すから世話してあげてね。204号室よ」

「……は?」

「海外転勤が急に決まって、あかりちゃんは受かった高校に通いたいからこっちに残るのよ。私たちは北海道に住んでるからあまり見てあげられないし……。あなたなら東京に住んでるからちょうどいいでしょ。あかりちゃんの高校まで2駅らしいわよ」

「いや、いやいやいや、何言ってんの?社会人なんだから世話なんかしてやれるわけないじゃん。そもそもそんな大事なこと前日に言うとか何考えてんの?」

「どうせあんたみやこちゃんの話だしたら、なんのかんの言って断るでしょ。あんなに良くしてくれたんだから、あなたも恩返ししなさい。雑に扱ったら許さないからね!わかったわね?!」


 声を大きくして文句を言う祐介に、さらに大きな声で怒鳴りつけた母。途中まで女手一つで育てられた祐介は、母が苦労した姿を知っていたし、大人になった今、母には相応に感謝の気持ちを持っていた。


「わかったの、わかんないの?」


 静かな声で問われた祐介は、力ない声で返事をした。


「わかった、わかったよ……」


 打ち据えられた精神で、いくつかの注意を聞き流しているうちに、通話がきれる。

 しおしおと萎んだ気持ちで、台所に戻ると、くし切りにされた大量の玉ねぎを鷲摑み、まな板に載せる。ザクザクとみじん切りを始めてしばらくすると、祐介の目からぽろりと涙がこぼれた。別に泣きたいほど悲しいわけではなかったが、なんだか憂鬱な気持ちのまま祐介は料理を続けた。



 みじん切りの玉ねぎを炒めるうちに、部屋にそのいい香りが漂ってくる。本当は強くてあまりいい匂いではないのかもしれないが、その味を知っている祐介にとっては玉ねぎの匂いはいい香りなのだ。次第に上がっていく気分。

 弱火でじっくり、いい感じのあめ色になるまで炒め上がったころには、祐介の気分はすっかり上向いていた。美味しいもののことを考えると元気になるものだ。少なくとも祐介はそうだった。


 玉ねぎをフライパンから取り出す。

 大きめに切って、水にさらしておいたジャガイモとにんじんを代わりにフライパンに投入し、軽く炒める。

 音楽を小さくしていたのを思い出して、音を大きく戻した。


 炒め終わった野菜を全て圧力鍋に放り込んだら、フライパンをさっとふき取り、油を垂らしてあたためる。

 温まったところで、シチュー用、と書かれたトレーのフィルムをはがし、でてきた牛肉にカレー粉をまぶしてフライパンで焼き色を付ける。これだけで美味しそうだが、今回は直接食べたりしない。名残惜しいがほんの少しのお別れだ。フライパンを傾けて、そいつらも圧力鍋へダイブさせた。


 水を入れて、ケチャップにソース、それに蜂蜜を少々。美味しくなるのかならないのかは知らないが、うま味が入ってそうなものはとりあえずぶち込むことにしている。圧力なべを火にかけ、湯だってきたら慎重に灰汁を取りのぞく。

 それが終われば一度火を消す。

 しっかりとふたを閉め、今度こそ圧力なべの本領を発揮してもらうため、コンロの火を最大にした。

 徐々に煙が噴き出し、やがて気の抜けるような小さな「ぽん」という音がして、圧力がかかり切ったことが分かった。

 ここまでくれば火を小さくしてやって、後はこいつにお任せだった。


 読み途中の漫画を一冊、最後まで読んで火を止める。

 シャワーを浴びて、出てきたころにはすっかり圧力も抜けて、ふたを開けられるようになっていた。


 蓋をあけてみれば、いい感じに柔らかくなった具材が鍋の中で踊っている。

 ボールに残ったくし切りの玉ねぎを、ざざっと鍋に流し入れて、再びほんの少しの間火にかけた。祐介は溶けた玉ねぎの味も、歯ごたえのある玉ねぎも好きだったから、最後にこうして玉ねぎを足し入れることにしている。ちなみにジャガイモはドロドロが好きだ。

 カレーはシンプルだけど、実はベストを追及すると好みが分かれるものである。

 市販のカレールーを使えばどれも同じ、と思うなかれ、ほんの少しの工夫が味を大きく左右するのである。


 とは言ってもここから先にすることは大して変わらない。火を止めると、辛口のカレールーと、中辛のカレールーを半分ずつ割入れてぐるぐると溶けるまでかき回した。何も考えなくても進むこの作業が祐介は結構好きだった。今日みたいな憂鬱になりやすい気分の時には特にだ。


 混ぜ終わるとふたを閉めて祐介はその場を離れる。



 そしてコンビニで買ってきたおにぎりを食べた。



 祐介は、一晩おいたカレーこそ至高だと思っていた。













 翌日の朝になり、祐介は台所に立っていた。

 日はすっかり登っていたが、休みなのだから構うまい。

 米は焚いた、4合焚いた、今日は朝から晩までがっつりカレーの日なのだ。


 ピンポーンとインターホンが鳴り、祐介は火を止める。焦がしては折角一晩おいたカレーが台無しだ。


「はいはいはい、今出ます」


 どたどたとボールペンをもって玄関に走る。何を頼んだか忘れたが、インターネットで買ったものが届いたのだろう。たぶんまな板だ。大きいのが欲しくて先日購入したのだった。

 サンダルをひっかけてドアを開けると、そこには見覚えのある女性が一人立っていた。

 祐介は唸るように小さく声を漏らした。


「み、みや、姉ちゃん……」


 その女性は輝くような笑顔を浮かべ、元気にはきはきと祐介に話しかける。


「ゆう兄ちゃん、久しぶりです!あかりです!今日からよろしくお願いします!ところでなんだかおいしそうなカレーのいい匂いがしますね!私はおなかが減りました!!」


 お腹をなでながらぐぎゅーと可愛い様な、凶悪なような大きなおなかの音をさせた彼女は、どうやら祐介の姉のみやこではなく、姪のあかりであるようだった。


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