ラブレター

イチカ

第1話

プロローグ

 鼻を突く排泄物の臭いに、史垣剛(しがき つよし)は背を向けた。

 全ての光景、現実からも目をそらした。

 認めたくなかった。この恐ろしい事実から。

 認めてしまったら、彼の心は折れて砕け、二度と修復はならないだろう。

 涙でぼんやりとした視界に机が、勉強机が写る。

 見慣れた部屋の見慣れた机だ。実際、彼はそれを十年以上前から目にしていた。

 だが違う。世界が変わると何もかもが違って見える。

 この部屋の女の子らしい苺柄のカーテンも、ピンク色のカーペットも、小型のテレビも、何もかも異世界の物体のようだ。

 不意に剛に吐き気がこみ上げた。突然吹き上がる間欠泉のようだ。

 彼は耐える。喉元までせりあがった昼食を飲見下す。

 あまりのの不快さに、彼は力無く勉強机に手を突いた。

 ぎしぎし、と背後でぶら下がっている物が彼を責めるように鳴っている。

 再び喉に違和感を覚える。

 だがついに剛は嘔吐しなかった。

 見つけたのだ、片づけられた勉強机の中心にある一通の封筒を。

 自然と彼はそれを手にしていた。

 自分が見て良い物か? 何て考えなかった。

 剛は知りたかった。何がこの状況を生んだのか、何が悪かったのか。

 だが一読して彼は喫驚した。

 封筒の中の手紙はラブレターだった。

 しかも彼、史垣剛に向けた愛の告白だ。

 まるでエアポケットの中に入ったように、剛は呆然とした。

 ラブレターなんて貰うのはそれこそ生まれて始めてだ。

 剛の体が冬の風に冷えたようにぶるりと震えた。

 自身の気持ちにようやく気付いたのだ。

 彼も好きだった。愛していた。

 こんな場合に発覚したが、まさかの両思いだったのだ。

 剛の萎えた四肢に力が戻ってくる。

 同時に灼熱が身体の全てを満たしていった。

「これでいい」彼は呟いていた。

「これだけで俺はいい」

 剛は赤く燃える頬のまま、何度も飛びっきりのラブレターを読み返した。


 第一章

 夜の街は光に満ちている。

 各家の窓や玄関で輝く電灯の白い光が、闇の中渦巻いている。まるで家が泣いているみたいにも見えた。

 史垣剛は滲むそれら光を次々に追い抜きながら、自転車を漕いでいた。

 緊張感が彼の体を硬くし、自転車は幾度か乱暴に揺れた。

「もー」と彼の緊張の元がその度に文句を漏らした。

「もっとちゃんと漕いでよねー。か弱い女子が乗っているんだから」

 嘉嶋美咲(かしま みさき)が剛の肩を掴みながら愚痴る。

 とっても不本意だ。

 そもそも剛は体育会系ではなく文化系だ。体力がないからまず自転車の二人乗りが上手くない。次に幼馴染みとは言え、女子高生と自転車二人乗りをするなどというイベントは、彼の足腰に重い羞恥と緊張の錘をぶら下げる結果となっていた。

「いや、ごめん、重くて」

 つい大失言をしてしまう。

「はあ?」

 案の定、背後の空気が変わる。

「重い? ほほう、なかなか剛毅よのう。付き合っている女の子の体重に触れるとはな。そんなに死にたいのか?」

 付き合っている女の子に殺されたくない剛は慌てて訂正する。

「違う! 美咲がじゃなくてこれがだよ」

 彼の自転車の側面には鋼鉄の棒状の器具が取り付けてあった。今夜絶対使う物だからくくりつけたが、その重さは微妙に自転車を狂わせる。

「ふーん、なら私はどうなの?」

 剛の背せに電流が走る。

 この世には絶対に間違えてはならない二択がある。

「も、勿論軽いよ! 空気みたいだ……あははは」

 ウソではない、美咲は軽い。女の子はこんなに軽いのか、と感動を覚える。

「うむ、よろしい」正解を導き出した剛を、美咲は重々しく褒めた。

「女の子の体重について語らぬとは、お主も成長したのお」

 何故、時代劇、と思わないでなかったが、剛は答えられなかった。

 成長などしていない。昔の弱虫のままだからだ。 

 だから何も出来なくて、悔しくて悔しくて、こんな夜更けに自転車を漕ぐことになった。

 忸怩たる思いを抱える剛に対し、美咲はご機嫌なようだ。

「うふふー」と明るい笑い声が背後から流れてくる。

「剛ちゃんと二人乗りって何か久しぶりー。小学校低学年以来だね」

「ああ、高学年になり妙に俺を意識し始めた美咲が、恥ずかしいとか何とか言って乗らなくなってからだ」

「うぐっ」

 美咲は言葉を失う。

 わざとだ。ちょっとした調整。

 付き合っている男女はこうして立場を微妙に調整し続けないと、どちらかが一方的な暴君になる。失言で立場が下がった剛はすぐさま態勢を立て直した。

「ふ、ふん。だってあの頃の剛ちゃんはダサかったし」 

 すかさず美咲がマウントを取ろうとする。

「だよねー。だから一緒にお風呂入ってくれなくなったのかー……あれ?」

 剛はバランスを取りながら片手でこめかみを触る。

「この記憶は! この記憶は何だ!」

「あっ! ちょっと待って! ううん、ごめん、ごめんなさいっ!」

 気配を察した美咲が叫ぶように阻止しようとする。だが剛は語り出す。

「あああ、確か美咲と最後にお風呂に入った時、美咲は一緒に入った湯船でおしっこしちゃったよね……そ、それで、恥ずかしくなった君はもう一緒にお風呂に入らなくなったんだ! ああ! こ、この記憶は何?」

「死んだのよっ!」

 美咲が剛の肩に顎を乗せるまで体を起こす。

 彼女が空気のように軽くなかったら、バランスを崩して転倒していただろう。

「お風呂が気持ちよくておしっこしちゃう嘉嶋美咲は過去の者! 彼女は死んだ! おお、美咲よ死んでしまうとは何事だ」

「はいはい」

「うー」

 剛は少し反省する。美咲の弱点を突きすぎた。彼女は屈辱に歯ぎしりしている。

 話題を変える。

「いや、それにしても……ラブレターありがとう。嬉しかった」

「えっ!」心得たのか、美咲も簡単に乗った。

「そ、そう……私としてはガクブルだったけどね。何せ剛ちゃんの気持ちが分からなかったから」

「俺の気持ちはずっと同じさ」

 数日前、突然美咲は剛にラブレターを贈っていた。

『好きです』と告白した。

 その瞬間、剛も自分がずっと美咲を想っていたと気付き涙した。

 二人の交際はそこから始まった。

 ずっとずっと美咲が好きだった剛は、いつの間にか無くしていた勇気を取り戻した。

 だからここにいる。

「さて、ここら辺かな」

 剛は自転車のペダルを握る。

 何の変哲もない住宅街の一角だ。暗闇に抗するように街灯が一つ立っている。他はコンクリートの壁が並び、夜の海のようなアスファルトが足元に敷かれている。

 コンクリ塀で拒絶しあっている家々は背を向けあっていて、一種独特の暗さがあった。

「榎本さんはいつくるの?」

 美咲の質問に剛はスマートファンで時刻を確認する。

「あと十分かな。今頃丁度塾が終わった頃だよ」

 剛は先程から自転車を傾かせていたシャベルを側面から外し、確かめる。

「うーん、汚くしたくないんだけど……買ったばかりだし」

「シャベルってでもいつか汚れる物でしょ? ケチだなあ」

 剛はまじまじと美咲を見つめる。

「な、なに?」

 美咲は可愛い。鼻はそれ程高くはないが、目は大きく唇は桜の蕾のようだ。 

 もし彼女が自分の美貌を武器に上手く立ち回れば、今の立場何かより数段上に行けるだろう。

 だが美咲は生まれ持っての内気な性格故、教室でも静かに、目立たないようにしている。 

 だから目を付けられた。

「何か顔に着いている?」

 不安なのか白い手を頬に当てていた。

「いや、大きくなったなってね」

「何それ、何故に上から目線。自分だって大きくなってるし、私が年相応に成長するのも当たり前」

「でもさ、中学の頃までは幼児体型だったじゃん」

「当たり前でしょ! 年齢的に」

「でもなあ、中学一年で急に胸とか大きくなり出して、なのに下着を着けなかったから男子は密かに美咲の胸ばかり見てたんだよ。時々先が体操着の下から浮くから」

「死んだのよっ!」

 再び夜の街に絶叫がこだます。

「体操着の下にブラも着けなかった破廉恥な嘉嶋美咲は過去の者! 彼女は死んだ。何てこった」 

 尖った目で剛を睨み、両腕で胸を隠す。

「今はちゃんとしてるもーん。てかさ、剛ちゃんは私のプラジャー見たいわけ? この変態」 剛は反撃しようかと想った。が辞めた。

 何しろこの娘は黒歴史が多いのだ。ここで暇つぶしで全て披露するのは勿体ない。

 等と益体のない会話をしていると、目標が現れた。

 自転車の音に気付いて、コンクリ塀に身を隠し剛は頭だけで確認する。

 彼女だった。

 榎本麻美(えのもと あさみ)……同級生で同じ高校の同じ二年一組だ。

 榎本の白い顔が、街灯に照らされては闇に消え、再び街灯で明らかになり近づいてくる。


 剛は一つ大きく息を吸うと、シャベルを背に隠し道路に飛び出した。

 ききっ、と嘲笑うような金属音が響き、榎本の自転車は止まる。

「何よ! 危ないだろ! このバカが!」

 彼女らしく突然の出来事にも罵声。

「あん?」自転車のライトが剛に当たっていた。

「何だ、史垣か、なんでこんなとこにいんの? あんた」

 剛は相も変わらず苛々とした彼女の問いに答える必要を感じなかった。

「どうしてあんなことをした!」

 ただ自分の疑問をぶつける。

「はあ? 何言ってんの? あんた頭大丈夫」

 剛の目の前が赤くなる。こめかみで蠢く血管を感じた。

「何で美咲に酷いことをしたんだ!」

 榎本麻美は他の二人と美咲をいじめていた。学校で美咲は涙の日々を送った。

 だが剛はその時何も出来なかった。

 カビのように、教室の隅にいただけだ。

「何でそんなことあんたに言わなきゃならないわけ? 邪魔なんだけど、早く消えてくんない」 普段の剛なら不機嫌な榎本に震え上がっただろう。だが今は美咲からラブレターを貰っている。

「答えろ、どうして美咲をいじめた」

 ち、と榎本は舌打ちする。

「ウザかったからよ、もういいでしょ」

 見下すような榎本に、剛は頷いた。

「ああ、お前はもういい」

 次の瞬間、剛はシャベルを榎本の顔面に向かって振り抜いていた。

 野球の要領だ。

 がちゃ、と意外にも固い音がして、次にがしゃりと自転車が転倒する。

「ああ」剛は嘆息した。

 やはりシャベルは汚れた。

 榎本の血に。

「うえぇ、うえぇ」榎本は潰れた鼻から血と鼻水を垂れ流し、何か呼吸のような言語のような意味不明の音を口から漏らしている。

「お前がそうなったのはウザかったからだ」

 軽い足取りで剛が近づくと、「ひいぃ」と倒れた榎本が逃げるように這う。

「思い知れ」

「ちょっと待って!」

 前歯を数本失った榎本が停止を求めるが、もう知ったことではない。

 剛はシャベルを縦にして榎本に振り下ろした。

 ざっくりと鋼鉄色のシャベルは榎本の頭に突き刺さる。

 ぴゅー、と血が何かのショーみたいに吹き上がった。

 剛は素早く避ける。

 こんな奴の汚い汁で汚れたくない。

「はい一人」

 剛が肩をすくめると、背後で沈黙していた美咲がため息を吐いた。

 彼女の目には涙が堪っている。

 剛は少し慌てる。これは全て美咲のためだ。

「仕方ないんだよ美咲、これは仕方がないことなんだ。今行われている学校内の殺し合いに置いて殺されないために」

「殺し合い?」

「ああそうだ……知っているかい? 今中高生の自殺が急増しているらしい、何故か、沢山の要因があるだろう、だが俺が考えるのは学校での人間関係だ……つまりいじめ」

 その身で思い知っている美咲が身震いする。

「いいかい、今僕等は殺し合っているのさ、学校を舞台にして……なんだっけあの映画……そう! バトル・ロワイヤルなんてとっくに始まっている、俺達は学校に命がけで通わなければならない、そんな時代だ」

 剛は歯を食いしばった。

「教師や教育委員会なんて助けてくれない、奴らは見て見ぬフリさ。自殺者が出ても学校に責任はなかった、と第三者委員会とやらがほざくだけだ。俺達は自分を守るためにヤらなければならない。俺達の敵、俺達をいじめる奴らを殺していかなければならない、そうしないと楽しい学園生活なんて夢だし、命を奪われるまで苦しめられる」

 剛の指が真っ直ぐ血が止まりつつある榎本の死体を指す。

「こいつは君をいじめた。人権と尊厳を踏みにじり、命を絶つ可能性を知りながら。だったら思い知らせないとならない。いつまでも殺す側にい続けられる訳じゃないと……そう、これはれっきとした正当防衛なんだ! わかったかい?」

 こくん、と美咲が頷いた。

「よし」と剛は笑みを作り、ぐんにゃり倒れている榎本麻美に近づいた。

 ポケットからスマートフォンを取り出し、榎本の死体の指紋を使って起動させる。

 後は指紋認証からパスワードへと切り替えて設定を済ませると、自分のズボンのポケットにしまう。

 これからが骨だ。

 剛は周囲を見回した。今更だが時間故人気はない。

 あの場所まで運ぶのは簡単だ。

 彼は榎本の脇に手を入れると、屍を引きずる。

 簡単にはいかない。死んだ人間は結構重い。

「美咲、手伝って」

 声をかけると彼女は足の方へと回った。

 息を合わせて死体を動かす。

 先程とあまり変わらない。仕方ない、美咲は女の子だし自分をいじめていた奴の死体なんて触りたくないのだろう。

 剛は苦労しながら榎本を公園へと運んだ。

 ここを襲撃場所にした理由、それは土の地面の公園が近場にあるからだ。

 やはり人気のない公園の一角に死体を運んだ剛は、シャベルを取りに帰ってからそれで公園の片隅、トイレの裏を掘り出した。

 この公園は普段は子供を連れた若い母親や、ジョギングするおじさんで賑わうが、トイレの裏の土が変色していても気に掛けないだろう。

 時間を掛けまあまあの穴を掘った剛は、榎本を蹴り入れると埋めた。

「はあ」と一仕事終えた彼は、シャベルを地面に突き刺し額の汗を拭う。

「後は自転車だけど、防犯登録のステッカーを剥がして駅前にでも放置しよう」

 彼等はそれを全て終えると、再び自転車に乗る。

「シャベルをきれいに洗わないとな」  

 剛が呟くと、美咲は無理に微笑んでくれた。

「さあ、今日は帰ろう」

「うん」

 二人の自転車は走り出す。

 闇も同時に走り出した。


 第二章

 朝、気持ちよく起きた史垣剛は早速学校へ行く準備をした。

 昨夜の虐殺に関してはもう心の片隅にもない。

 彼自身が昨日明言したとおり、これはやるかやられるか、なのだ。

 どうして学校がそんな場になったかは知らない。いつからがっこうがそんな場になったかも知らない。

 しかし現実に彼等が通っている中学、高校は今や弱者など顧みられずいびり殺される闘技場だ。

 ならば勝者にならなければならない。

 負けて死ぬのは真っ平だ。大切な人を失うのも真っ平だ。

 用意を整えて剛が家の扉を開くと、嘉嶋美咲が待っていた。

 控えめな笑みで何かを訴えている。

「ああ」と剛は心得て頷いた。

 榎本達の獲物だった彼女は学校へ行くのに勇気がいるのだ。

「一緒に行こう」

「ありがとう……剛ちゃんがいてくれてよかった」

 剛の片頬が痙攣する。

 彼は自分がそんな賛辞を受けられる身分でないと分かっている。

 何しろ、最悪の事態になりラブレターを貰うまで美咲へのいじめを見て見ぬふりをしてのだから。

 だがもうしない。

 剛の心はかつてのふにゃふにゃな獲物のそれではない。

 鋼鉄のように硬い反乱者だ。

 二人は手を繋いで学校・県立野々山高校へと向かった。

 正門から入り、校舎に近づくと明らかに美咲が怯えだした。

 いじめのPTSDだろう。

 剛は敢えて力強く、彼女の手を握る。

「大丈夫、昨日の榎本を見たろ? 君をいじめた奴はぶっ殺してやるから」

「うん、ありがと」 

 もう彼女の目は濡れている。

 下足箱で靴を履き替え、二人は二年一組へと向かった。

 彼等の席があるのは今はそこだ。

 教室はいつもどおりだ。

 朝の新鮮な空気の中、夏に近づく外の熱気に負けずに級友達が何かを語り合っている。

 剛は自分の席へと向かい、鞄を降ろす。

 と気配に気付いた。

 美咲が硬直していた。

 う、と剛は呻き、震えるような怒りに襲われた。

 彼女の席の机の上に一輪の花か入れられた花瓶が置かれているのだ。

 これは彼女がいじめられ出してから毎日行われていた卑劣な悪戯で、クラスの誰もが知らんぷりをした。

 剛は強い足取りで近づき、花瓶をひっつかんで机から撤去した。

 皆の目が集まる。

 爆発しそうになった。

 何もしない連中のクセに、他人の行動に妙に絡む。

 そうだ、教室は今の時代戦場だ。

 剛はそれらの視線を更に強い視線で黙らせた。隙や弱味はもう見せない。

 花瓶を置いた奴もすぐに後悔させる。

「……ありがとう、剛ちゃん」

 美咲は囁くと、皆に隠れるように席に座った。

 待ってろ美咲、剛は内心で思う。

 教室で息を殺さなければならなくなるのはすぐに奴らになる。

 剛は花瓶を教室後方のロッカーに放ると、自分の席に戻った。

「おい史垣」すぐに前の席の戸部大地(とべ だいち)が声を殺して話しかけてくる。

「いい加減辞めろって、悪目立ちしているぞ。密かに女子の話題にもなっているし」

 戸部と剛は親しいというほどの仲ではない。否、剛は今までクラスに親しい人を作れなかった。

 だから構わずその襟首を掴む。

「あんなのを見過ごすのか? お前は」

 戸部は剛の手を払うと、

「俺はお前がハブられないように忠告してやっているんだ」と言い残し背を向けた。

 ふん、と剛は鼻で笑うと美咲を見た。

 相変わらず背を丸めて誰の目にも止まらないようにしている。

 構う物か。

 剛は決心している。

 彼女の為ならどんな悪評も受け入れてやる。

 何せ彼は彼女からラブレターを貰っている。

 美咲がいれば教室での孤立なんて怖くない。彼女の想いがあれば大丈夫だ。

 それに……いじめなんてすぐに終わる。

 現に首魁の一人・榎本は今日休んでいるのだから。   

 はははは、軽く煩い笑い声が上がった。

 堀内修司(ほりうち しゅうじ)は相変わらず沢山の仲間と一緒に軽薄な顔をしている。

 彼は騒がしいだけの人間に与えられる名称・陽キャであり、勉強も出来バスケ部のエースで、容姿も剛よりも余程整っている。

 女子生徒からの熱い視線を独り占めするのも仕方がない。

 だが剛は知っている。

 堀内はただのゲス野郎だ。

 さらに奴の運命はもう決まっている。

 剛は密かに美咲と目配せしあった。

「でもさー」美咲が心配げに話しかけてきたのは放課後だ。

 オレンジ色の夕日が斜めから教室を染め上げる時間。

 二年一組の生徒達は、皆それぞれ部活やら家やらに向かい、残っているのは剛と美咲だけになる。それまで待った。

「堀内君は喧嘩も強いらしいよ、剛ちゃんで大丈夫?」

 小癪な物言いに、剛は考え込むフリをする。

「確かに、俺は喧嘩何かしたこともないよー。だけど、中学生の課外学習で牧場に行った時、動物触れあいコーナーでウサギに泣かされていた美咲よりマシだと思うんだ。中学二年でだよ」「死んだのよっ!」

 教室内で美咲の大声を初めて聞いた。

「かわいいだけと思っていたウサギに噛まれて泣きじゃくった、テッシュペーパーよりも弱い私は過去の者、死んでしまいました。すでに成仏しております。ちーん……てかさ」

 美咲の目が細められた。

「ナチュラルに私の古傷エグるのやめてよね。言っとくけど、こちとら剛ちゃんの古傷も熟知しているからね」

「ほう、どっちが多いかな?」

 美咲は天井辺りに目をさまよわせ少し考え、がっくり肩を落とした。

「済みません、チョーシ乗ってました」

「ううむ、許して使わす」

「くそぅ」

 剛は美咲をからかいながら、昨日手に入れた榎本のスマホを取り出した。

 LINEを起動し、堀内へメッセージを送る。

『あたし、麻美だけど』

 すぐに既読が付き、堀内から返信が届く。

『あ? 麻美じゃん、お前どこいんの? 行方不明って騒ぎになってるぜ』

『ぷちっと家出』

『はあ? ウける。なにあったん?』

『それきーて欲しいからさ、これから時間ある?』

『ああ、もうすぐ部活終わるからいいぜ』

『なら旧部室棟のバスケ部の部室きて』

『んだよ、メンドー』

『頼むって』

『そんなに込み入ったハナシ? 有紗もつれてく?』

『それはいい、堀内だけきて』

『なに? もしかしてオレにコクるの?』

『ばーか、じゃあ三〇分後ね』

『おう』

 返事を確認して、剛は榎本のスマホをしまう。

 準備は整った。

 剛は鞄に潜ませたあれを取り出しす。夕暮れの光がギラリと反射した。

 荷物検査が無くてよかった。

 旧部室棟は野々山高校のグラウンドの隅にある。

 まだこの学校の生徒が多く、部活動に励む生徒が今の倍いた頃に使用されていた。

 外見は木の建物の連なりであり、それぞれ中はそれなりに広く、部活ごとの用具入れなどがあった。

 現在は使われていない。

 経年劣化により建物のそこここにひびが入りささくれが出来て危険になったことと、少子化の中なんとか生徒を確保しようとした学校の思惑により、鉄筋コンクリートのテラスのような部室が完成していた。 

 旧部室棟は取り壊されるのを待つだけの身だ。

 だがそれから結構経った。

 取り壊しが決まったのは五年前だが、業者の選定や費用などの諸事情により、役目を終えた部室達は農閑期の案山子のようにほっとかれている。 

 ただし、教師からは、だ。

 前述したとおり古くて危険な建物の為に鍵が掛けられていたのだが、いつのまにか解錠されていた。

 理由は高校生カップルのお楽しみ場所として使うためだ。

 現に堀内などはここの常連であり、幾多の女子生徒を奪ってきた。

 剛が旧部室棟を選んだのは、だから彼が油断すると踏んだのだ。

 堀内は時間通りにはこなかった。

 三〇分後、と榎本のフリをしてメッセージを送ったが、彼が訪れたのは一時間近く経過した頃だ。

 この男は万事こうだ。

 剛は堀内が旧バスケ部の木扉を引いて中に入ったことを確認すると、美咲と陰から現れた。

「いくよ」と彼女と自分に言い聞かせると、堀内を追って扉に手を伸ばす。

「あ?」

 堀内は突如入ってきた剛に怪訝な表情になる。

 剛は部室に入ると鞄を持っていない左手ですぐに扉を閉めた。

 旧バスケ部は辛うじて人影が認識できるほどの暗さになる。

「なんだおめー? ここはこれから使うんだ、失せろ」 

 剛は薄く笑う。

「残念だけど榎本は来ないよ、堀内」

「はあ?」堀内の顔が不機嫌に歪む。剛が呼び捨てにしたからだろう。

「何だお前?」

「どうして美咲にあんな事をした?」

 剛の肩が怒りに震え、背中の美咲は息を飲む音が聞こえる。

「あんな事? なにそれ?」

 堀内はにやにやと笑う。

「榎本を使って着替え途中の美咲を写真に撮り、LINEでみんなに送っただろ!」

「ああ、あれか。ノリだよ」

 容易く彼は答えた。人を傷つけたのにゲームの話をしているように容易く。

「ただのその場のノリ。てかさ、いちいちおめーに説明する必要なくね? 何イキってんの?」「あれで美咲がどんな目にあったか知っているのか! 画像はパソコンで拡散され、皆に嘲られたんだ!」

「うっせーな、ノリだってば……あんなのに負ける奴がザコなんだね。何だか知らねーが榎本こないなら行くぜ。メンドー」

「待て」帰ろうとする堀内の前に剛は立ちふさがる。

 ち、と舌打ちが上がる。

「お前何なんだよ、最近妙にウゼーじゃん」

 どうやら剛の行動が堀内に火をつけたようだ。

「花瓶片づけたり俺達に突っかかったり、勘違いしてねー? このクソ隠キャが」

 ぎりり、と剛の奥歯が鳴る。

 確信した。堀内修司は反省などしていない。美咲を傷つけたことについて何とも思っていない。

「これ以上イキるとガッコー来れなくするぞ、ええ? それともお前の言う嘉嶋みたいに……」 我慢の限界を越えた。

 剛は堀内に殴りかかる。

「剛ちゃん!」美咲が悲鳴のような声を出した。

 一撃で床に這い蹲る羽目になったからだ。

「何? お前」剛を殴り倒した堀内はへらへら笑う。

「勝てると思った? ボクちゃん」

 剛は立とうとしたが、その前に堀内の革靴が脇腹に刺さる。

「うぐっ」と呼吸が止まった剛は転げ回る。

「辞めて!」美咲が今度こそ悲鳴を上げたが、堀内は構わなかった。

「うらっ、うらっ、うらっ」連続で剛の腹を蹴る。

「テメエみたいなノリの分からない奴は教育しないと行けないんだよ!」

 堀内が背後まで足を上げ渾身の一撃を剛に見舞おうとした。瞬間、剛の手が鞄に滑り込む。

「あ、え……?」妙な声を彼は出した。

 足に突き刺さる銀色の金属を目にしたのだろう。

 剛が鞄に入れてきた柳包丁。

 この時のために駅前の刃物店で購入した、切れ味抜群の包丁は堀内の革靴さえも切り裂いていた。

「え? ちょっとおい……うわぁ!」

 堀内が力が抜けたように木の床に尻から落ちた。ようやく痛みを自覚したのだろう。

「え、いたっ! 何だよこれ」

 片方の足から染み出る血に彼は呆然としている。

 剛は咳き込みながら立ち上がった。

 手にはもう一本の包丁がある。

 高かった。

 切れ味抜群は値段も抜群だ。

 剛はそれを二本買うのに今までのお年玉全て使い切った。

「あ、あああ」

 ようやく事態を飲み込んだのか、堀内がらしくない声を上げ出す。

「おい、何をするつもりだよ。こんなことしていのかよ?」

「ノリだよ堀内、ただのノリだ。楽しもうぜ!」

 剛が包丁を振るうと、堀内は反射的に手を出して守ろうとする。

 だから掌がざっくりと切れた。

「うわぁぁぁぁ!」

 今度こそ堀内は絶叫した。彼に惹かれる容姿しか見られない女子生徒達が幻滅する程、顔が歪んでいた。

「なんだよ堀内、つまんねーな。ノリを楽しむんだろ?」

「待ってくれ! タンマ、許してくれ。俺が悪かった! 分かった美咲には謝る。謝りに行く、だから……」

 こんな物だ。

 どんなに学校で目立ちイキってても、ちょっとしたことで無様に這い蹲る。

 どうして連中はたかが学校で優秀だったくらいで、世界の頂点に立ったような顔をしているのか。

「必要ない」

 剛は首さえ振らない。

「ノリで死ね!」

 彼の包丁が怯える堀内の喉に突き刺さった。

 生ぬるい液体がシャワーのように剛に降り注ぐ。

 堀内の目から生気が失われ、ガラス玉のようになった。

 ノリで人を傷つけるクズは、ノリで死ぬ。ただそれだけだ。

「つまんねーやつ」

 剛は木の床に唾を吐いた。

「剛ちゃん、大丈夫?」

 はらはらと見守っていた美咲が駆け寄るから、笑ってやる。

「ああ、全然問題なし……でも、やっぱり喧嘩はこいつが強かったな」

「あまり無理をしないで! 剛ちゃんまで死んだらどうするの」

「大丈夫さ」

 剛は強く頷く。

「クズどもを皆殺しにするまでは大丈夫」

 剛は包丁を入れてきた鞄からタオルを出すと顔を念入りに拭い、ジャージに着替えた。

 流石に血まみれのまま校内をうろつけない。

 だがもう些細な問題かも知れない。

 何しろ目標は後一人なのだ。

「あっと一人ー」 

 剛は鼻歌に乗せて呟いた。

 今日中に決着を着けるのだ。


 第三章 

 堂島有紗(どうじま ありさ)はこの野々山高校のアイドル的存在で、同時に女子のリーダー格だ。

 彼女はそこらのアイドルさえも田舎娘にしか見えないほどの美貌を持ち、成績も全国レベルで、皆の人望も厚いから生徒会に入っている。

 父親は会社を幾つも経営していて、母親がPTA会長だ。

 どうしてこの毛並みのいい目立つ少女が美咲をいじめていた他のゴミと同調したのか分からない。

 分かりたくもない。

 運命は変わらないから。

 剛は時間が過ぎ、夕闇に翳る教室で待っていた。

 生徒会の会議が終わるのを。

 終わったら有紗は必ず教室に寄る。彼女の荷物が置いてあるからだ。

 美咲はここにきて不安なのか、しきりに彼の前をうろうろしていた。

「大丈夫かな? 堂島さん、結構鋭いから」 

「大丈夫さ」

 剛には自身がある。

 彼と堂島有紗はどんな運命か中学一年の頃から高校まで同じくラスであり、その頃からカースト下だった剛が厄介事を押しつけられると何故か帰宅が遅くなるのに手伝ってくれた。その接触から彼女の性格について、弱点について心当たりがあった。

 中学三年の体育祭だ。

 クラス対抗リレーの際、リレーの選手に選ばれていた足の速いだけの生徒がつまらないことで怪我をした。リレーの寸前に。

 その時堂島はパニックを起こした。

 辺り構わず怒鳴り喚き、この世の終わりのように取り乱した。仕方なく剛が他の生徒に頭を地まで下げて頼んだのだが、その折号泣までして感謝した。

 堂島は突発的な出来事に弱い。

 彼女はいつも何事もなかったように、穏やかに微笑んで万事進めているが、それはあくまでも予定を書き込んだ手帳があってからこそだ。

 いきなり、の自体に冷静さと頭の切れを発揮できはしないだろう。

 それも、『いきなり』命を狙われるのだ。彼女の対処を越えているはずだ。

「大丈夫かなぁ」

 美咲は余程心配なのか、幼い頃のクセである親指の爪を噛む、を再開させている。

「はあー」と剛はわざとらしくため息を吐いた。

「美咲は本当に臆病だなぁ。チキン南蛮め」

「違うよ! わたしは慎重なんだよ! そしてチキン南蛮は美味しいよ」

 案の定噛みついてくるから、指を天井に向ける。

「でもさあ、小学校高学年の山の合宿の時、お寺の和尚さんが怖い話しをしたら夜、トイレに行けなかったじゃん。わざわざ夜中男子部屋まで侵入して俺を起こしたよね」

「あ、あれは……あれは、だって、和尚さんがトイレに出てくる幽霊の話しをしたから……」「で、外で俺の横でトイレしたの? しかも大きい……」

「死んだのよっ!」

 また出た。

「男の子のとなりで野グソしてしまう乙女としてどうなの? の嘉嶋美咲は過去の者! 死んだの。今や転生の最中です! 完全生物になるでしょう!」

 その後、肩たたきのように剛の頭をぽかぽか殴る。

「言わないでしょ、普通! そんな女の子の暗黒歴史忘れてくれるでしょっ! 剛ちゃんは優しさの欠片もない悪魔だー」

「……紙がないから、俺が近くの木の葉っぱ……」

「わーん! コイツ意地悪だー」

 つくづく黒歴史の多い娘だが、とにかく先程までの不安は何とか解消できたようだ。

 ただじとっと睨んでくるのがうっとうしいが。

 ふふ、と剛は笑ってしまい、美咲の目は更に鋭くなる。

 だが彼は彼女の黒歴史を笑ってのではない。

 こうして美咲といる瞬間が幸福で堪らないからだ。

 どうしてこの幸福な時間を守ろうとしなかったのか? 剛はかつての自分を理解できない。

「……ごめんね」

 美咲から出た言葉は何故かそれだった。

 恨み言や悪口を待っていた剛は虚を突かれ、目を瞬かせる。

「何? どうしたの? 悪い物でも拾い食いした?」

「……あのさ、剛ちゃんの中の私ってそんなキャラなの? 一度とっくり聞かせてよ」

 また目がぎらっと光るが、美咲はすーはーとすーはーと幾度か息を吸い、話題を変える。

「私が弱虫だから剛ちゃんにこんな事をさせちゃった」

 ああ、剛は得心した。

 彼女は剛を巻き込んだことを後悔しているのだ。

 この殺し合いの中に。 

「そんなの」剛はわざとぶっきらぼうに答えた。

「謝るのはむしろこっちだよ。君の苦しみを無視していた……ラブレターを受け取らなかったら、今も見て見ぬふりだったかも知れない」

「うん、だから私が変な手紙書かなければ……」

「変じゃない! ……俺は嬉しかった。美咲が俺のことを好きだと書いてくれたこと。このラブレターは一生の宝物だ」

「本当?」

「ああ、君の黒歴史と共に大事に後世に伝えるよ」

「それは忘れなさいっ!」

 美咲は噛みつくように顔を近づけた。

 ふふ、とどちらからか笑みが漏れ、ややあって二人で笑い出した。

「ずっとこういう時間にいたいね」

 剛は美咲の輝く瞳に首肯する。

「ああ……だから、その為に……」

 がらり、と丁度その時教室の扉が開いた。

「あら」堂島有紗は可愛らしく小首を傾げた。

 もう時刻は七時近い、外には夕日の残滓も残っていない時刻だ。

 彼女はみんな帰っている物だと思っていたのだろう。

「どうしたの? 史垣君」

 剛は有紗の笑みに騙されない。

 彼女はこうして人を操る。

「うん、ちょっと君と話したくてね」

 そう答えたのは彼女との距離がまだ遠かったからだ。

 最後の道具は必殺の距離まで近寄らないと使えない。

 が、不意に彼女は踵を返して走り出した。

「誰かー!」

 人のいない廊下で、有紗が叫ぶ。

「いけない! ばれた!」

 剛は素早く鞄から大降りの金槌を取り出すと、有紗を追った。

 学校の電灯が白々しく照らす中、剛は有紗を追う。

 何故見破られたかは知らないが、もう堀内を殺している。

 死体はバスケ部の旧部室に転がしたままだから、すぐには……明日には何もかも露見するだろう。榎本の件も完璧に隠せたとは思っていない。

 保身の工作を一切していない剛はすぐに警察に捕まる。

 今日この時間、この瞬間しか堂島有紗を殺すチャンスはない。

「剛ちゃん!」

 美咲が息を切らせているが、今は振り返る暇はない。

 剛は掛けた。金槌を手に有紗の背に向かった。

 徐々に大きくなる。

 やはり有紗は不意の異常事態に弱いらしく、上手く走れていない。

 今だ!

 だがその前に大人の影が横合いから現れた。

「どうしたの? 騒がしいわね」

 二年一組の担任・柴田秀子(しばた ひでこ)だ。

 美咲に対するいじめなど無かった、美咲の勘違いだった。と本人の言葉を否定した教師。

「先生! 史垣君が変なんで……」

 柴田先生の頭蓋が鳴る。

 剛の金槌の威力は抜群だ。

 柴田はばたりと倒れ、電流でも流れているかのように痙攣している。

 だが美咲の時を鑑みると、剛の勘違いだった、になるのだから問題ない。

「きゃー!」

 有紗は喧しく喚いた。

「何だ?」

 剛は舌打ちする。生徒会のメンバーが集まってきたのだ。

 最後の最後に面倒なことになった。

 素早く考えた。

 撤退はない。ならば、一つだ。

 わらわらと呑気な顔をして生徒会メンバーが集まる。

 有紗は疲労したのか近くの生徒会室へと入った。

「どうした?」 

「きゃ、柴田先生が」

「君、何があったんだ?」

 生徒会メンバーは頭から血を流して倒れている柴田先生に気付き、騒然としている。

 剛は素早かった。

 まず柴田先生の傍らに座った副会長の後頭部に金槌を叩き込み、はっと息を呑んだ書記の顎を下から砕き、ここに至ってようやく現状を理解した計理の顔面を潰した。

 皆、まるで熟れたトマトのような感触だった。

 だから汁も赤い。

 彼等はこの一件には関係ない連中だ。本心では巻き込みたくなかった。

 仕方ない。

 学校は今や殺戮の場所だ。時代を読めない己が悪い。

 はあはあはあ、と剛は荒い息をする。

 折角着替えたのにジャージはもう真っ赤だ。

 濡れた感触も気持ち悪い。

 もう少しだから耐えた。

 今度こそ人気の無くなった廊下でしばし立ちつくすと、ゆっくりと生徒会室の扉を開いた。

「ひっ」隅から声が上がる。

 堂島有紗は教室の隅に座り込んでいた。

 馬鹿な奴だ、剛は嘲笑う。彼が生徒会メンバーを相手にしている間に逃げればよかったのだ。 どうして袋小路の教室なんかに入ったのか。

 やはり有紗は普段は才女でも、緊急の時は愚鈍だ。

 ゆっくりとした足取りで剛は有紗に近づいた。

「な、何なのあんた!」

 ヒステリックに有紗が訊ねてくる。

「見ての通り、史垣剛だけど」 

「違うわよ!」有紗の唇がわななく。

「その怪物のような顔は何?」

 ああそうか、剛は納得する。

 自分は怪物になっていたのだ。榎本麻美を堀内修司を殺し、表情が変わっていた。だから一目で有紗は逃げ出した。

 なるほどねえ、と一人納得した剛は訊ねる。

「どうして美咲をいじめたんだ?」

 それは、三人全てに聞いた質問だ。

 彼には理解が出来ない。

 剛は例え美咲じゃなくても誰かを痛めつけようとか思わない。誰かを泣かしてやろう何て思わない。

 かわいそうだからだ。

 大多数で一人を意味無く苦しめる行為は、自分を貶める行為だと思っている。

 なのに何故彼等は醜い行いが出来るのか?

 特にこの堂島有紗はアイドルとか抜きで、親切な女子だと記憶していた。

 少し抜けていると自覚している剛が色んなミスをしても、彼女は中学の頃からカバーしてくれた。宿題も「しかたないなあ」と写させてくれた。

 テストで苦しんでいる時、さりげなく出題予想のレジュメを渡してくれた。

 なのにどうして美咲を……。 

「どうして私をいじめたの?」

 傍らの美咲も問うが、この期に及んで有紗は美咲を無視した。

 彼女は激しく頭を振る。

「いじめてなんか、いない」 

「は?」意味不明だ。

「私はただ苛々したの、嘉嶋さんに」

「どういう事だ!」

「だってあの子、宿題もやってこないし、話しかけても本ばかり読んでいるし、体育でもみんなの足を引っ張るし……とにかく苛々したから注意した」

 それだけなのだ。

 剛はしばし呆然とした。

 人間には個性がある。本好きでもいいだろう、運動が下手でもいい。

 それが人の多様性の一つだ。

「苛ついて他の連中と美咲をいじめたのか?」

 剛は呆れていた。

「他の連中? 知らないわよ! 確かに時々榎本さんと堀内君と一緒になったけど、私も彼女たちは好きじゃないし……」

「ふざけるなっ!」

 つよしは怒鳴っていた。視界が赤く染まっていく。

「そんなつまらない理由で美咲を苦しめたのか?」 

「謝ったわよ! 誰よりも先に! 私も後悔しているの、あんなことになるなんて」

「謝った?」

 振り返ると美咲は首を振る。

「嘘をつけ! 彼女は否定しているぞ」

「本当よ! 休みに時間を作って謝りに行った」

 剛は首を捻る。

 有紗は何を言っているのだろう。

「美咲、どういう意味?」

 美咲も分からないようで、口を半開きにし目をぱちくりしている。

「えっ!」突然、有紗が驚く。

「史垣君……誰と話しているの?」

 剛の腸に火が入る。

「何無視しているんだ! 美咲だろ! ここにいるじゃないか!」

「えっ」有紗が怯える。

「何を言ってんの史垣君……」

「美咲、こいつやっぱり最低だ、ここに来てまだシカトだよ」

 剛は苛立ちの息を吐く。

「本当、どうしてこんな奴にやり返せなかったのかしら」

「そうだよ、やり返せばよかったんだ」

「史垣君!」

 不意に有紗が身を起こして剛の腕を掴む。

「ねえ、大丈夫? どうしたの?」

「何がだよ、おまえはここにいる美咲に謝れよ!」

 剛は乱暴に有紗の手を払い、美咲を指す。

「な、んのこと? 訳が分からない」

 がたがたと有紗が震える。

「俺は美咲からラブレターを貰って、戦うことを決心したんだ。おまえら最低の連中と」

 剛が懐からラブレターを出すと、有紗は頭を押さえる。

「何だよ、今更自分の罪を恐れるのか?」

「み、史垣君……聞いて、嘉嶋さんは、嘉嶋美咲さんは自殺したのよ……第一発見者はあなたで、あなたが持っているのは彼女の遺書よ!」 

「そう、私は死んだ!」

 美咲が高らかに認める。

「いじめられても黙って耐えているだけの嘉嶋美咲は過去の者。あなた達のお陰で死んだのよ。今は復讐を果たす鬼だわ」

 剛は脱力感に肩をすくめる。

「何は言うかと思えば……美咲はここにいるだろ?」

 美咲の肩を有紗に押す。

「誰もいないわよ! あなた、狂っているわ!」

「狂ってるのはどっちだ!」

 剛は絶叫した。

「ウザいから、ノリだから、人と違って苛つくから、で他者をいじめるおまえらの方が狂っている。そうだ狂っているのはおまえらだ!」

 剛は金槌を振り上げた。

 有紗は何か言いかけたが、その口元に鋼鉄の塊が落ちる。

「ぐえっ」帰るが潰れるような音だった。

 金槌が上がり、落ちる。金槌が上がり、落ちる。金槌が上がり、落ちる。

 時を置かず堂島有紗の美貌は赤い肉塊となり、彼女の体から力が消え崩れた。

「ふう」と一仕事終えた剛は額の汗を袖で拭う。

「これで終わり、俺達は殺し合いに勝った」

 振り返ると優しく微笑む美咲がいた。

「ありがとう、本当にありがとう剛ちゃん」

 剛は照れて無意識に頬を掻く。

「いや、こちらこそラブレターありがとう。好きだと言ってくれてありがとう。あれで俺に戦う勇気が出来た」

 はにかむ美咲に剛は宣言する。

「ずっと好きだよ、美咲」


 遺書 

 お父さん、お母さん、ごめんなさい。

 私が死んじゃうと悲しむかな? 

 でも悲しまないで、私なりに考えた結果です。

 もういじめられるのは嫌です。

 相談できなくてごめんね、してもきっと無駄だったとおもうけど。

 先生に言っても無駄だったから。

 どうやらみんな私にいなくなって欲しいようなので、最後にみんなの期待にこたえてやります。

 お父さん、お母さん今までありがとう。幸せだったよ。

 あと、今さらだけど史垣剛君に伝えて下さい。

 子供の頃からずっと好きでした。いまでも大好きだよ。本当はちゃんと告白して付き合いたかったね。

 ではさようなら。幸せな人生を送って下さい。  

美咲

 PS

 私をいじめた、榎本麻美、堀内修司、堂島有紗、私はあなた達を許しません。


 エピローグ~とある蛇足

 こんこんこん、と規則正しいチョークの音が教室に響いていた。

 保身ばかり考える柴田先生は、何事もなかったかのように授業を続けている。

 二年一組の教室は倦怠感のような物に包まれ、それぞれ脱力してこそこそ談笑しあっていた。 史垣剛の目に熱い物が込みあげる。

 美咲の死など本当になかったみたいだ。

 まだ葬式からだった一ヶ月なのに。

 美咲の死は無駄だった。

 彼女の遺書に名指しされていた三人はそれぞれ否定して、教室の皆も追従したために、このクラスで起こった殺し合いは美咲の勘違いに貶められた。

 柴田先生の痩せぎすの背中がぼやける。

 剛の目から涙がこぼれだしていた。

 あまりにも無力な自分が情けなかった。

 くすくすくす、とどこからか笑い声がする。

 榎本麻美だった。

 彼女は泣いている剛に気付いて、何か友達と悪意を囁き合っている。

 本当なら、彼女は昨夜死ぬはずだったのに。

 塾の帰りに自転車を止め、シャベルで顔面を殴る……計画だった。

 隠しもしないあくびが上がる。

 振り向かなくとも分かる。堀内修司だ。今頃脱色したふわふわの髪でも撫でつけているだろう。

 彼は今日仕留めるつもりだった。

 だが……出来なかった。

 昨晩、計画通りに榎本を待ち伏せした。

 心細い一人故、美咲の声を妄想しながら復讐の機会を待った。

 出来なかった。

 シャベルを持つ手も、否、その前に彼女の自転車の前に出ることも出来なかった。

 ただ榎本は剛が隠れている道を自転車で通過していった。

 堀内も有紗にも何も出来ない。

 だからずっと妄想していた。

 彼等を殺し、美咲の仇を討つ。

 くだらない空想だ。

 無力な想像だ。

 剛の体が怒りに震える。

 結局、史垣剛が思い知ったのは自分がどうしようもなく下らない人間だ、ということだ。

 妄想の中では榎本も堀内も有紗も、責任逃れの柴田先生も問題にもしなかった生徒会の連中さえぶち殺したのに。

 現実では立ちつくすだけ。

 力が欲しい……剛は闇に吠える。

 人を殺せる勇気が欲しい。

 不条理な世の中に何も出来ない自分は嫌だ。

 俺は情けなくい程弱い。

『それでいいんだよ』

 剛はぎょっとした。

 どこからか声が聞こえた。それも忘れられない美咲の声だ。 

 また妄想か? と疑ったが、違うようだ。

 美咲の声が続いたからだ。

『剛ちゃんはそれでいいんだよ。中高生の学校での殺し合い何かに入っていったらダメなんだよ』

 剛は辺りを見回す。

 どうやら声が聞こえるのは彼だけらしい。

『死んだのよ。……そう、いじめてた人達を恨んでいた嘉嶋美咲は過去の者。今はいいや、もういい』

 でも、それじゃああんまりだ。

 剛は歯を噛みしめる。

 どうして何もしていない美咲が死んで、彼女をいじめていたクズが笑顔でいられるのか。

『あの人達の事は天に任せるよ。罰が当たるかそうならないかは、天に任せる。私はそれでいい』

 でも。

『剛ちゃんは待ってて、生まれ変わる私を……どうやら三年くらいかかるらしいから、二〇年後あなたは若いお嫁さんを貰うのよ』

 剛の涙は溢れた。

 二〇年。そんなに待たないといけないのか? この暗黒の世界で。

『なあにほんの少しよ……てか、もしその時誰かと結婚なんかしていたら無理矢理別れさせるから、既成事実を作って家庭崩壊させるから』

 恐ろしい宣言だ。

『だから少しだけ待ってて、必ず私が、黒歴史のない私が剛ちゃんを見つけるからね』

 ついに彼は両手で顔を覆った。

「あれ? どうしたの史垣君」

 主犯の一人なのにしれっと授業を受けていた堂島有紗が彼の様子を見て手を挙げた。

「先生、史垣君が何か苦しそうなので保健室へ連れて行きます」

 柴田先生が許可すると、保険委員でもないのに有紗が近寄る。

「史垣君、どこか痛いの? 保健室へ行きましょう。私が連れて行ってあげるから」

 有紗が妙に顔を近づけるから、少女特有の口臭を剛は嗅ぐ。

 彼は黙って立ち上がる。

 美咲を殺した仇の一人に支えられ。

『生まれ変わったら、絶対に私をお嫁にしてね』

 彼だけに聞こえる美咲の声に、剛に渦巻く闇と怒りは微かに薄れた。

 それだけだ。 

              了

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ラブレター イチカ @0611428

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