時計塔高校の怪人……怪人・火廻りの巻

イチカ

第1話

プロローグ 髑髏の王様

 ――これは有名な話なんだが、時計塔(とけいとう)高校を知っているか? そう、校舎に高い時計塔が建てられているあの高校だ、あそこさ、昔から奇妙な事件が起こるだろ? 生徒の失踪事件とか謎の放火事件、凄惨な殺人事件まで……歴史のある大きな学校だから、とかマスコミで庇われているけど、実は違うんだ、時計塔高校は死の世界と繋がっている、だから怪事件が多いんだってさ……いや、俺も聞いた話なんだけど、あの学校の地下には広大な迷宮があって、その奥に王宮があるそうなんだ、昔のヨーロッパの宮殿みたいな金銀の装飾品に溢れかえった広間だよ、そこに玉座がある、つまり王様の座る椅子、ロープレとかで王様が座っているだろ? あの豪華な椅子だ、その玉座には髑髏の王様が座っているらしい、髑髏で時計塔高校の制服を着て、金の冠を被った奴だ、その王様は実は死者の王で、そこから人間のいる世界を見張っているんだって、何のため? 隙を見せた奴を自分の世界に引き込んで、僕にするためさ……いや、信じなくてもいいよ、俺も実は半信半疑だからな、だけどあの学校、よく不審者が出るだろう? ほら『怪人』とか呼ばれている奴ら、そいつらはみんな髑髏の王様に魅入られて、僕になった連中らしい、だからお前も気をつけろ、来年受けるんだろ? あの高校、いいか時計塔高校は死の王、髑髏の王様が治めている場所だからな、髑髏の王がな。


『火炎怪人・火廻り』

 炎に照らされる「あの人」は美しい。

 ぱちぱちと火薬が爆ぜるたびに浮き上がる「あの人」の笑顔に、私はいつも魅せられてしまう。

 誰もが知る光の下の「あの人」とは違う、私だけが知る表情が私の胸の奥を乱暴にかき乱し、むくむくと溢れる欲求にいつも体が震える。 

「あの人」を独占したい。この火の下で「あの人」と共にいたい。 

 だが、私はこうして闇の中から「あの人」を見つめている、ただの影でいい。

 私は「あの人」の前に現れなくてもいい。

 見ているだけでいいのだ。

 そうだ、「あの人」の約束された未来を、私はただ遠くから見守るのだ。

 だからあり得ない。「あの人」がここで止まるなど。

「あの人」が、こんな所で消えるはずがない。

 消えるはずがないのだ。


 葛城優(かつらぎ ゆう)の朝は早い。

 冬場は朝の五時前、夏場は四時には起きている。目覚まし時計など不要だ、体が自然と覚醒するようになっているからだ。

 しばらく後の三田村美音子(みたむら みねこ)のノックは、いつも通り七時きっかりだった。

「おーい、優くーん、朝だよ、起きなさーい」

 優は硬く結んでいた唇を、ふっと綻ばせた。

「……はい、今起きます」

 とっくの昔に睡眠を打ち切っているのだが、それを教える必要はない。だから優は、たった今起きたような顔で、三田村太一郎(みたむら たいちろう)のいる居間へと降りた。

「おはようございます」

 優が挨拶すると、太一郎は大きく頷く。

「やあ、おはよう」そして左腕を上げ、煌めく時計を確認する。

「君はいつもどおりだね」

「はい、美音子さんに起こして貰っていますから」

 優が自分の椅子に座ると、テーブルにパンとサラダ、スープが置かれた。

「ありがとうございます」

 謝辞を受けた美音子は、頬に片手を当てる。

「あら、いいのよ、……もうっ、優君は他人行儀なんだから」

「そうだよ」ごほん、と新聞から目を離さず太一郎が咳払いをする。 

「君はどうもいい子すぎる、私は昔から男の子が欲しかったから、張り合いがない」

「そんなことないです」勿論、いい子すぎる、という部分を否定したのだ。

「僕は太一郎さんと美音子さんを困らせる度胸が、ないんです」

「あら~残念、多少グレても私たち大丈夫なのに、一緒に盗んだバイクで暴走するのに」

 にこにこ微笑む美音子がどこまで本音なのか判らないから、優は無言で目礼を返した。

「……しかし、遅いな」

 太一郎がばさりと新聞をたたんだ。視線が空いている席へ向いている。

「ホントね、あの子ったら……少しは優君を見習って欲しいわ」

 美音子はがっくりと大げさに肩を落とした。

「……ねえ、優君、頼んでも良いかしら?」

「はい?」

「古乃美」

 悪戯っぽい美音子の目に何か言おうとしたが、優は結局引き受けた。


 葛城優が三田村家に引き取られたのは七年前のことだ。 

 ある事件に巻き込まれた優は、それによって頼るべき唯一の肉親を失った。

 三田村太一郎はそんな彼を家族へと迎えてくれたのだ。

 七年の時間によりすっかり見慣れた廊下を通り、部屋へとたどり着く。真白い塗装をされた飾り気の無い木の扉を、軽くノックした。

 返事はない。今一度試す。しばらく待っても何もない。

「はあ」と優はため息を吐いた。

 となれば最終手段しかないが、それはこの歳でどうなのだろう、という疑問もある。

 しかし優はそれを実行する。

 母親の美音子が父親の太一郎の前で頼んできたのだ、構わないのだろう。 

 渡された合い鍵を使い、優は扉を開いた。

 薄暗い部屋の中は甘ったるかった。この世代特有の瑞々しい果実のような匂いだ。優は無表情に進んだ。周りの色々な物に目もくれない。

 それについて、つい先だって「プライバシーが……ううう」と涙目で訴えられた。

 だから一本道を歩むように天蓋付きベッドの横につける。

「古乃美ちゃん、朝だよ」

 すうすう、という寝息だけだ。

 仕方ない。優はもこっと膨れた掛け布団から覗いている頭に手を触れた。

「古乃美ちゃん、起きなよ」ゆさゆさ揺らす。

「はう? ……もう少し……ママ、お願い」

「でも、もう起きないと遅刻すると思うんだ」

「……う、ううん、もう五分……えっ!」

 がばっと三田村古乃美(みたむら このみ)がベッドから起き上がった。きらきらと輝く瞳が大きく見開かれている。

「ゆゆゆゆゆ、優君……なんれ?」

 布団で胸元を覆いはわはわと焦る古乃美に、優は説明する。

「美音子さんに頼まれた」

「ママっ! ああああ、何てことを」

 古乃美が頭を抱えて悶える。優はその顔をまじまじと見つめた。

「寝癖あるよ、それからよだれの跡も」

「うううううわわわわあああっっっ!!!」

 古乃美は一度熱したやかんのように真っ赤になり、その後爆発した。


 葛城優が引き取られた三田村太一郎の家には、彼と同学年の娘がいた。

 三田村古乃美。そばかすがチャーミングな女の子だ。二人はそれから七年、時には熾烈な喧嘩相手として、頼れる相談相手として兄妹のように育った。

 優にとって古乃美は最も近しい少女だったのだが、最近どうも彼女の様子がおかしかった。

 いつも出入り自由だった彼女の部屋は突然鍵がかけられるようになり、優の部屋にも古乃美は滅多に顔を出さなくなった。一時期、お風呂も一緒だったのに、今はちょっとした着替えさえ彼の前ではしない。

「古乃美、気付いたちゃったのよ」

 それについて美音子はそうウインクしたが、優には良く分からない。

 そんな微妙な二人だったから、今朝の彼の行動について、古乃美は酷く腹を立てていた。

「全く優君……信じられないよ、女の子の寝ている部屋に」

 憤懣に満ちた呟きを、彼女はバスの中で何度も連呼する。

「女の子が寝ているんだよ!」

「はいはい」優が聞き流すと古乃美は二房の三つ編みを跳ね上げて振り返り、ぐっと握った両こぶしを胸元に上げる。

「何それっ、反省していないよね? 私の傷ついた乙女心に対して、済まないという気持ちが欠片もないよね! 裁判でも私の勝ちだよ! 裁判員は私を思って涙にくれるんだからっ」

「だって古乃美ちゃんが起きないから……また深夜アニメ観てたの?」

「ううう……それは……プライバシーと言う名の乙女の神聖なる秘密なの」

「こないだダウンロードしたゲームの事、美音子さん何て言うかな、試してみようか……」

「はわっ」今まで攻勢だった古乃美の顔色が、すうっと変わる。

「そそそ、そんなこと、し、したら、だめなんだからね」

「でも、成績落ちてるし」

 ここぞとばかりに責め立てる優の前で、古乃美がしゅんとした。

「判っているもん、優秀な優君とは違うもん、どうせ私なんか……」

 一転古乃美は落ち込み、ぶつぶつと自虐的に「どうせ」と繰り返し出し、優を拒絶した。

 そんな遣り取りをしている内にバスは停留所に着き、学校が近づいて来る。象徴である高い時計塔が、他の家々の屋根の上から見え出した。

 二人が通う、私立時計塔高校。 

 時計塔高校は昨今珍しいマンモス校で歴史も古い、大正時代からなんちゃら、時計塔の由来がなんちゃらと、入学式の時に理事長が長々語っていたようだが、優が覚えている訳がない。

 ただ由緒がある、と言うのは本当らしく、時計塔も含めた校舎は全て煉瓦造りで、正面から見た外見は大きな聖堂のようだ。

 最も数十年前までは動いていたシンボルの大時計は今は止まっている。珍しいものとして建築系雑誌にも載っている機械仕掛けの鐘も、定刻に鳴ることはない。

 時々、それが真夜中でも狂ったように打ち鳴らされることもあるが、壊れた機械の悲鳴のようなものだ。

 まだ自虐ぶつぶつを続ける古乃美と門をくぐると、校庭で運動部がせわしなく動いていた。

「ご苦労様だね」

 時計塔高校の運動部は強豪揃いだ。県大会は勿論、全国大会常連というチームもある。ただ、それに仲良く混ざろうとは考えたこともない。

「なによそれ」

 唯一彼の皮肉を見破れる古乃美が、ぷくぅと頬を膨らませた。

「優君、頑張っている人たちをバカにしたらダメだよ、大体、優君は運動神経いいんだから、何かやればいいのに、きっとすぐレギュラーだよ」

「やる気と根気が、ね! 僕にはないんだよっっ」

「なんでドヤ顔なの! もう」

 さらに膨らむ頬に、優は急いで違う話題を考えた。すぐ野球部を発見する。

「あれ、三浦先輩だろ? ……まだ橋爪先輩、帰っていないのかな?」

 優の視線を辿って、校庭にあるマウンドの上を確認した古乃美は、暗い表情になった。

「……そうみたいだね……でも、橋爪先輩、どうしたんだろ?」

 その疑問について悩んでいるのは、三田村古乃美だけではない。

 一週間ほど前、野球部のエースで四番の橋爪啓一(はしづめ けいいち)が突如、失踪した。

 学校の有名人の出来事に生徒達は騒然としたが「どうもその日学校から帰宅した様子がない」と警察関係者が漏らすと、騒ぎはさらに大きくなる。

 つまり、学校の中で、もしくはその帰り道『何らかの出来事』があったらしいのだ。

 校内の話題はそれ一色になり「髑髏の王様の呪いだ」とか、くだらない噂が散々乱れ飛んだ。

「そんな年頃だからね、突然家出でもしたのか」

「それはないよ」

 古乃美が一刀に切り捨てたので「え」と振り返る。

「だってこの時期だよ? 橋爪先輩は最後の甲子園に賭けていた、なのに練習も放って家出なんておかしいよ」

「だから、逆にプレッシャーに負けたとか、野球部のエースだけど勝っていく自信がないとか……良くあることだよ、人間は弱いものだから、ま、つまり平常運転」

「なによっ、優君はどうしてそんなに冷静なの?」

「古乃美ちゃんは、橋爪先輩って人、知っているの?」

「う……知らない……」

「なら判らない、人間の本心なんて誰も判らない、所詮他人だからね、心の中に何があるのか」

「むううう」古乃美が軽い足音を立て正面に回り込み、彼を睨み上げてきた。

「な、なに」

「何で優君はいつもそうなのかな? どうしていつも、いっつも憎まれ口ばかりっ」

「いやあ」再び優は目を泳がせる。違う話題、話題。

「お、三浦先輩、流石に良い球投げるね!」

 丁度、マウンド上の三浦が一投した所だった。

「そりゃあね」横目で突いてくる古乃美だが、話しには乗る。

「三浦先輩は去年、二年まではエースだったから」

「ラッキーだね」

「え?」

「なら三浦先輩がいれば、橋爪先輩いらな……」

 優は言葉を飲みこんだ。古乃美の肩がわなわな震えている。

「何て事を言うの! 優君のばかっ! 鬼っ、悪魔っ、よくそんな酷いこと口に出来るよね! うううわわわああっっ!」

 朝に続いての大爆発。優は首を竦めて、嵐が過ぎるのを待つ。

 俯いて耐える彼の足元に、空気を読まず、ころころと呑気に白い球が転がってきた。

「…………」優はぐにっと踏む。

「わぁ! 何してんの優君! 何の迷いもなく……ばかっ、白球は高校球児にとって神聖な物なの、もはや神なの! それを踏むなんて」 

「え」と顔を上げた優は、古乃美の会心の体当たりによろめいた。

 彼女はかがんで優が踏みつけた野球のボールを手に取る。

「すみませーん」

 野球部らしきユニフォーム姿の男子生徒が帽子を取って立っていた。

 部活の掟なのだろう丸刈りながら、なかなか見栄えの良い日焼けした男子生徒だ。

「はいっ」

 古乃美はちらりと優を一瞥した後、わざとらしい笑みになりそれを投げ返したが、あさっての方向をへろへろと飛んで行き、男子生徒は悲しそうな表情で慌てて追いかける。

「……いや、古乃美ちゃん……そこまでは僕も出来ないよ、古乃美ちゃんもよっぽど鬼だよね、ちょっと引いた」

「ち、ち、違うのっ!」古乃美は手をばたばたと顔の前で振る。

「これは、私の技術的な……問題で、運動神経……の不都合で……私に悪意は100%なかったのです……ええっと……ああ! 三浦先輩調子よさそうだよね! 優君」

「橋爪先輩帰ってこないでくれ、て願っているだろうね、もしくはとっとと辞めちゃえって」

「……なっ、優君…それって本音……これは、もう、許せないな、これは、もう説教だよ……うん……今夜家族会議だから……覚悟だよ」 

 う、と優は無意識に腹部を押さえる。

 古乃美との生活の中、幾度か彼女と喧嘩になった。その度に彼女は強烈なパンチを彼のボディに見舞ってきたのだ。

「おやおや」救いの手は、意外な事に横から差しのばされた。作業服姿の男性が、節穴の目を細めて穏やかに笑っている。

「二人とも仲が良いね、朝から楽しそうだ」

 時計塔高校の用務員・熊谷剛(くまがい つよし)は軍手と作業帽という完全武装だった。

「そんなことありません」

 不意に攻撃的だった古乃美がクールダウンし、その差に優は目を白黒させてしまう。

「あれれ」三十台中頃にしては童顔の熊谷も気配を察して、だらしなく頬を弛ませた顔に戸惑いを浮かべた。

「何か悪いこと言ったかな?」

「いえ」

「うん、どうしたの古乃美ちゃん?」

 首を傾げた優に、古乃美は弱々しく笑って見せる。

「そんな訳ないよ……優君と私が……そんな風に見えるはず無いんだっ」

「はあ……」訳が分からない優に、熊谷の視線がねとっと絡みついてくる。

「うーん、お兄さん……いい男だね、しかし男はもっとワイルドの方が、おじさん好みだな、君はなんだか綺麗な女の子みたいだ」

 熊谷の突然のカミングアウトに、優は引いた。ドン引きだ。

 ――こいつソッチかよ!

 と、作り笑顔を浮かべて熊谷の視界から逃れ、校舎へと急ぐ。古乃美はその間、優の話題に乗らなかった。曖昧に頷くだけだ。

 戸惑う優だが、彼等のクラス・一年二組はもう目の前だった。

「お! 葛城!」

 教室に一歩踏み入った途端、彼は騒々しく呼ばれた。

 級友の山本惣多(やまもと そうた)が、好物を見つけた子犬のように駆け寄ってくる。 

「待っていたよ、葛城……と三田村さん」

「おはよぅ」優の背後にいる古乃美の挨拶は小さく、短い。

「うん?」と視線を転じると、彼女は切りそろえられた前髪にでも隠れるかのように、俯いている。

「どうしたの? 古乃美ちゃん?」と優が問う前に、山本が割り込んでくる。

「葛城! 新大久保行こう!」

「はあ?」

 優は茶色長髪の山本に、眉を顰めた。意味が分からない。

「……い、いや、その、ちょっとした親睦会があって」

 へどもどの山本の奥で、どういう訳かクラスの皆が遣り取りに耳を傾けている。

「行かない」と優はそっけなく切った。が、山本は食い下がる。

「頼むよ、この通り」と神様にでもするかのように拝む。

「お前を連れて行くって、約束したんだよ」

「誰と? どうして僕がいないところで僕の身柄について、の相談が成されるの? 人身売買?」

「そう言うなよ、頼むって、一生の、否、来世も含むお願い」

「あれれ? 見覚えが……これはデジャヴュ? 遠い昔の記憶、前世の……ああ違う、この前と同じだ、そうして教えた僕のLINEアドレス、君は売ってたよね? 知らない女の子からメッセージがバンバン来たんだけど、君の来世人生は案外近いかもね」

「その件については海よりも深く反省している次第です」

「捜したからねグーグルで、君を沈める海溝を」

 と、気付く、古乃美が背後にいない。探すと彼女はもう自分の席に着いていた。古乃美はいつも優と誰かの会話に混ざらない、こうして影のようにいなくなるのだ。

 ――古乃美。

 だが彼女に小柄な少女が笑いかけていた。早川里見(はやかわ さとみ)、そんな名前のクライメイトだったはずだ。

 二人はちょこっと頭を下げて挨拶を交わすと、熱心に話し出した。恐らく話題はアニメかゲームのそれだろう、早川の趣味がそうだからだ。

「ふ」と優は相好を崩す。古乃美の様子に安堵したのだ。

 改めて、頭を垂れ手を併せる山本に、向き直った。

「判ったよ、でも、興味はそんなに……」

「やったぜ!」山本は聞いていない。渾身のガッツポーズに忙しいのだろう。 

「これで女子達に面目が立つ」

「何の話し?」

「いや、あー、親睦会、女の子達も来るから……沢山」

 罠の存在をどこかで嗅ぎつけていたが、優にはどうでも良かった。 


 晴れ渡る五月の世界は美しい。

 青い絵の具を水で溶いたような空が見渡す限りどこまでも続き、所々に綿菓子のような雲が浮いている。空気は香に満ち、呼吸をすると胸の中に爽やかな風が吹き抜けるようだ。

「葛城優!」  

「わあ」と優が我に返る。教室は静まりかえっていて、教科書片手の女性が机の前に仁王立ちしていた。

「何度呼べば判るの? いいえ、何をぼうっとしているの!」

 権現伊吹(ごんげん いぶき)先生は優達の担任であり、現代国語の教師だ。

 ――そっか、現国か……。

 ようやく彼が机から教科書類を取り出し出すと、権現先生は「はああ」と肩を落とした。

 権現先生は美人だ。教師よりネオン街が似合うイマドキお水ギャルのような、派手な容姿をしている。他者の目を極端に恐れる未成熟な女子生徒から反感を買う要因のはずだ。

 しかしいつも皺一つないぴしっとしたスーツを着こなし、テキパキと動き回り、年頃の女の子の良き相談相手となっている為に、生徒達の好意を得る事に成功している。

 今はどうしてか、朝食を食べ損ねたように肩を落としていた。

「気付いてくれたかしら? 葛城君」

 権現先生がこめかみを押さえながら問うので、「はあ」と答えると、ようやく彼女は居住まいを正す。

「全くもう、本当に、君は……で、でも、でも……はあわわああ、本当に似ているわね、君似すぎ……こうして見ていると、燎様そのものだわぁ」

 授業中なのに顔を手で覆い腰をくねくねさせている権現先生と優の間には、妙な縁がある。

 彼女は『葛城燎(かつらぎ りょう)』のクラスメイトだった。

「ふうう」手を離した権現先生の瞳にきら星が瞬き、頬は風呂上がりりように熱く上気している。

「思い出すわぁ、燎様……」

 何度聞いたか判らないが、実はこう見えてハードパンチャーな先生の機嫌のために邪魔はしない。

「燎様はこの学校、いえ、ここら周辺の女の子達の王子様、誰もが憧れた夢だった……そう、夢の中の王子様……艶めく漆黒の髪、大きな瞳、ふっくらとした頬に真っ赤な唇、燎様と少しでもすれ違った夜は悶え苦しんだものよ……もう七転八倒して自作の妄想日記にポエムを添えるの」

 それはどうなのか、と内心悩みながら優も思い出す。

 兄・葛城燎。

 僅かに残った写真の姿は確かに今の優に似ているらしい、誰もが生き写しと感心する。長髪にしている燎、髪をぷっつりとカットしている優、これくらいの違いしか見いだせないと。

 だが優にはその印象がなかった。生きていた兄の容姿に関する記憶がごっそりと抜けている。

 七年前、同じく時計塔高校に通っていた燎、時計塔高校で殺された燎。

 優の目にちらつくのは、虚だ。木にあるような穴が、人間の顔面にあった。後は赤。たった一人の肉親が流した膨大な血の色。

 そして、怪人。

 返り血に染まる髑髏の仮面と学生服。あまりにも重い兄の亡骸。

 優の心から光が消えた。世界から輝きが消えた。残るのは怪人への思い。

 怪人。怪人。怪人。怪人。怪人。怪人。怪人。怪人。怪人。怪人。怪人。怪人。怪人。

 まだ権現先生は思い出に浸っているが、優は再び隣にある窓から外を眺めた。

 徐々に夏へと向かっている太陽の光が強くなっていく。人間が陰で行う醜い行為を暴き立てるような、偽善者の操るスポットライトだ。 

 チリチリチリチリ、と突然鳴ったベルが、誰しもの思いを打ち砕いた。  

「え!」権現先生が不意打ちの騒音に固まり、反響の中で立ちつくしていた。

「火災報知器だ!」クラスメイトの誰かが叫び、一年二組は騒然とする。

「落ち着きなさい!」

 クラスは浮き足だったが、流石教師、権現先生は両手を上げて皆を落ち着かせる。

 優は咄嗟に古乃美を探した。彼の席とは離れた、廊下側の一番前。

 彼女も驚いているようで、不安そうに辺りを見回している。どうやら冷静さは失っていない、何より無事だ。胸をなで下ろす。

 がらり、と教室の扉が開いて一人の教師が現れた。「先生」と権現先生を呼び、しばし何かひそひそと話し合う。

「わかりました」権現先生は頷いて、息を潜める生徒達を振り返った。

「皆さん、これは火事ではありません、避難する必要もないそうです、落ち着いて下さい」

「ええと」権現先生の唇が少し震える。何か言いにくそうだ。

「それから……皆さん、気をつけて下さい、どうやら……その、不審者が現れたそうです」

「ええ!」とクラスが、特に女子生徒がざわめいた。当然だ、彼女達は守る物が多い。

 優は再び古乃美の小さな背中を追う。

「だ、大丈夫です、け、警察の方が来て下さるそうです……それでは皆さん、職員会議があるそうなので、しばらく自習です」

 泳ぐ目を誤魔化し、権現先生は一年二組を後にした。先生が消えると、待っていたかのようにクラスは絶叫の渦と化した。


「不審者、とんでもねー奴らしいぜ!」

 受業は次の時間も自習になった。が、情報が早い山本は、前の時間突如とした起きた異変の詳細を、もう仕入れていた。

「何でも、火を吹いたらしい……口から」

「は?」優は強めに聞き返した。それではウルトラ怪獣だ。バルタンが好き。

「いや、マジだって」

 生徒達の寄せられる眉に、山本は手を振る。

「ガソリンみたいなものを口に含んで火を吐くんだとさ、そんな芸があったろ? で、どうも格好はこの学校の運動部のもので、顔は包帯だらけで判らない、とさ」

「なんだそれ」

 優が呟くと、近辺の女子生徒が同調して頷く。

 どうも想像しにくい犯人だ。山本情報が正しいのならバカバカしい位に支離滅裂だ。

「……だから職員会議か」

 権現先生も列席している会議を思う。時計塔高校敷地内で、運動部姿なら生徒である可能性が高い、となると学校側は『管理責任』という避けたい問題にぶつかるのだ。

「おいおい、学生の悪戯にしちゃあ度を超えているだろ? 生徒に火を吐いたんだぜ! ガソリンだし、一歩間違えば大惨事だよ」

「確かに……」優もそこは認め、他の生徒の後ろに隠れるような古乃美を思った。しばらく彼女の傍らから離れられない。

「それって……」数秒の空白の後、一人の生徒が、おずおずと口を開く。

「怪人……なんじゃないの?」

 瞬間、集まった生徒達が凍り付いた。皆、怯えたような、何かを期待しているような、どっちつかずの視線を交わし合う。

「バカバカしい」その意見を突き放し椅子の背に保たれる優だが、一年二組の面々に浮かぶ憂色は消えない。

「……この学校は、怪人に呪われた学校だ」

 山本の声は珍しく沈んでいる。

「大正時代の開校以来、幾多の怪人が跋扈し、報道できないような事件を起こしてきた、その王様が……」

「髑髏の王」

 優が驚いたのは山本の言葉を継いだのが古乃美だったからだ。早川の隣で今まで口を開かなかった彼女が、ぽつりと漏らした。

 教室が静まり返り、突然エアポケットの中のような静寂が訪れた。 

「……で、狙われたのは誰?」

 耐えられなくなった優が訊くと、山本は「ああ」と元気なく応じる。

「野球部の先輩だって、スポーツ特待で受業免除だから練習してた」

「え! そ、それって三浦先輩?」

 今までただ唇を結んでいるだけだった早川里見が、びくり、と体を震わせ、前髪を跳ね上げる。

「い、いや」山本は見たこともない迫力の彼女に気圧されている。

「……違うけど」

 ほうっ、一回り縮むくらい大きく、早川が息をついた。

「お前、もしかして」 

 山本が敏感に気配を察すると、あわあわあわと早川は小さな腕を上下させる。

「ち、違います、そんなんじゃないです、そんなんじゃ、ありませんっ」

 非常に判りやすい反応だが、目元まで赤くした彼女の動きは、すぐに止まる。

「そんな筈がないでしょ? 私が三浦先輩なんて……そんな高望み無いよ……ただ、ただ昔から近所で、昔から知っていた、というだけ、昔から優しかったの、それだけ」

 昔から好きだったの、としか優には聞こえない。

「そうだよなあ、三浦先輩、付き合っている彼女いるしなぁ、ええと、須藤先輩だ……こないだもデートしてた、映画観て喫茶店行って、ラウンドニャンで二時間」 

 山本は無神経な情報通か、無神経なストーカーだ。空気読めない情報を持ちすぎている。

「……でも、なんだかあの二人、最近ギクシャクしているって噂だけど」

「それは! 須藤先輩が酷い人なのっ。須藤先輩は、三浦先輩と付き合っているのに、橋爪先輩に告白したらしいの! 酷い人」

 また早川にスイッチが入り、そのまま怒りをぶちまけそうな勢いだったが、皆の視線が集まっていると悟り、腕を上下させてあわあわを再開させた。

「あ、別にそんな…私、その、そんな意味じゃなくて」

「そうだ!」山本が自前のKY能力を駆使して、膝を打った。

「火廻り、てのはどうだ?」

「ヒマワリ? なんだそれ?」誰かのツッコミに、山本はドヤ顔になる。

「今度現れた怪人の名前……怪人・火廻り! ……だってこの高校の名物だろ? 決めた、怪人・火廻り、だ」

 

 怪人・火廻り。

 その呼称はその日の内に全校へと広がった。昼休み、至る所にいる生徒達がヒマワリ、ヒマワリ、ヒマワリと囁き合っている。 

 学食での昼食を終えて教室へと向かう優の耳にも、何度も触れた。

「全く、山本は無駄に行動力がある、何だよこれ……この学校は噂が大好きだな」

「でも」一緒に食事して一緒に帰っている古乃美が、唇の横に人差し指を添える。

「実際、そう言う人がいたんだから、そんなに的はずれじゃないんじゃない?」

「どこかの目立ちたがりの悪戯だよ」

「そうかな? ガソリンで火を吐く、私も尋常な人じゃないと思うけど……もしかして本当に野球部の誰かに害意を持っているのかも……このままにするのは危険だよ」

「……古乃美ちゃん、どうしてみんなの前でそれを指摘しないの? 古乃美ちゃんももう少しみんなと話したら」

 優が疑問を口にすると、古乃美は花が萎れるように縮まった。

「ダメだよ……」

「何で?」古乃美が教室で自分を極限まで抑えつけているのが、優には判る。

「私……ブスだし」

「は? 何それ? そんなことないよ!」

 それは優の本心だ。

 三田村古乃美は確かに男子生徒達が会話の中で挙げる有名女子生徒ほどの華はない、色香もないかもしれない。が、大きな黒い瞳は知性に輝いているし、三つ編みにしている髪もしなやかで清潔だ。本人が世界の終わりみたいにがっくりするほど気にしているそばかすだって、個性の一つだと優は思っている。なにより彼女の微笑みは、彼の心をどうしようもなく浮き立たせてくれる。

「いいのよ」

 反論を察したのか、古乃美の唇がちょこっと綻んだ。

 優は苛立つ。勝手な自己採点で気を落とす彼女の姿が気にくわなかった。だが、それ以上何も言えなかった。

 彼女から強烈な拒否のオーラが出ているのだ。この話題おしまい、と言外に表している。 

 仕方なく黙る。そのまましばらく二人は会話もなく学校の廊下を歩いた。

「あれ」

 立ち止まったのは見知った少女を見つけたからだ。早川里見が階段の横の壁に寄りかかっていた。一人でじっと考えているようだ。

「早川さん」

「ひ、ひわわわ、かか葛城君、と、古乃美……ど、どうしたの?」

 相変わらずあわあわと両腕をバタバタする様子に、優は微笑む。

「君こそどうしたの? こんな所で」

「ええっと、その、何でもないよー」

 すーすーと尖らせた唇から空気が漏れる。口笛のつもりらしい。

「ヘンなの、里見」早川の前だと普通の古乃美が、その様子にくすくす笑う。

「悪かったわね! このっ」

 早川は古乃美に掴みかかろうとしたが、その前に「どうしてだよ!」という男子生徒の声が聞こえ、彼女の動きがぴたりと止まる。

「なんだ?」

 優は頭だけ横に倒して、階段を覗いた。上階へ続く踊り場に一組の男女が居る。

 三浦先輩と、今時の女子高生らしい可愛い女生徒が言い争っていた。

「何あれ?」誰ともなく尋ねると、表情を曇らせた早川が「三浦先輩と……須藤先輩」と律儀に答えてくれた。

 ――なるほど。

 優は状況を理解した。思い人とその彼女の様子が気になって、二人の話を早川は聞いていた。密かに窺っていたのだ。

「何で、何でそんなこと言うんだ! 今更、俺頑張っているんだ! お前のために、もう橋爪に負けないし……だから……」

「ごめん、三浦君、でも私……」

「俺がもうエースじゃないからか? 橋爪の方が優れているからか?」

「違うわっ!」

 優は苦い気分になる。他人の諍い、しかも男女のもつれに関わりたくない。迷惑だし面倒この上ない。だが早川と古乃美の息はぴたりと合っていて、二人共さっと壁に張り付き聞き耳を立てている。

「……古乃美ちゃん」

「しいっ」険しい顔で古乃美は口の前に指を立てた。

「ごめん、三浦君……でも、これ以上、私、自分にウソつけない」

「何でだよ! アイツはもう居ないんだぞっ」

「ごめん……ごめん、ううう」

 あちゃー、と仕方なく聞いていた優は頭を抱えた。須藤がついに泣き出し、その場にへたり込んだのだ。とんだ愁嘆場である。

「納得できねーよ! 納得しねーからなっ」

 割れた声を残した三浦が階段を駆け下り、彼等のすぐ近くを通過して行った。

「あ」と早川が微かに声を出す。

 うっうっうっ、と須藤がしゃがみ込んで泣いている。 

 ――これは、どうしようもない……

 ぼんやりそう考える優の横を、むん、と肩を張った古乃美が歩いていく。油の切れたブリキロボットのようなぎこちない足取りで階段を上がり、須藤の傍らで止まる。

「せ、先輩っ……これ使って下さい」

 古乃美はポケットからハンカチを取り出し、彼女に手渡した。

 ――またいつものおせっかい…… 

 仕方なく、優は彼女の背に続いた。

「あなた達は……ご、ごめんなさいね、下級生にも何だかメーワクかけて」

「そんなことないです」

 古乃美は須藤を労るように首を振る。

「あ、あのっ、いいんですか?」

 優と共にいた早川が、突然口を開く。

「え?」

「三浦先輩、行っちゃいましたよ……お二人は、付き合っているんですよね?」

 目を丸くしていた須藤だが、ついとそれを伏せる。

「ついさっきまで、わね……今別れたわ、見てたんでしょ?」

「そ、そんな! どうしてですか! 三浦先輩のどこが悪いんですか?」

 いつも控えめな早川とは思えない剣幕だ。

「あなた早川さんね……本当にみんな知っているんだね……私達の事」

 泣き腫らした赤い目を細める須藤に、早川は眉を逆立てた。

「三浦先輩がエースじゃなくなったからですか? 橋爪先輩に負けたからですか?」

「違うわ!」きっと須藤は早川を睨むが、しばし唇を開け閉めすると力無く顔を伏せた。

「……ううん、そうなのかも」

「そんな……私知っています、橋爪先輩がいなくなったのは、須藤先輩のせいです!」

「えっ」古乃美が動揺に震えるから、優はその肩に手を置いて抑える。

「三浦先輩から聞きました、須藤先輩が橋爪先輩のことを好きになった、と言う話を、三浦先輩と橋爪先輩は仲が良かったのに、なのに、なのに須藤先輩は……」

 早川の言葉が途切れた。代わりに目から涙があふれ出す。

「みんなあなたが悪いのよ!」

 くるりと踵を返して早川が走っていく。恐らく三浦を追ったのだろう、たんたん音を鳴らして階段を下りていった。

「……あの子、三浦君のこと、好きなのね」

 残った誰もがしばらく呆然としたが、そっと須藤が吐息する。

「みたいですね」

 優が頷くと須藤の表情は歪み、両手で顔を覆った。

「判っている、判っているの、私が二人を引き裂いたって……橋爪君はきっと、私に会いたくないから姿を消したんだ、私、酷い女だもん」

 優は困惑して古乃美を見た。彼女は何かを考えているのか、須藤の告白に耳を傾けている。

「橋爪君と三浦君は同じ中学出身で、同じ野球部で親友だった、私は最初三浦君が好きだった、それは本当、だから付き合った……でも、どうしても、どうしても光の中のマウンドで輝く橋爪君を見てしまう、橋爪君の行動が、私の心をどうしても揺らすの、だから耐えられなかった、もう黙っていられなかった」

「もしかして、それを橋爪先輩に」古乃美がはっとして尋ねた。

「うん、二人に……三浦君にも、もう付き合えないって……そしたら次の日から、橋爪君……」

 失踪した。優は頭を掻く、徐々に事件の輪郭は判ってきたが、だからどうした、という気分でもある。他人の事情など、心底どうでもいい。

「私があの日二人に話さなければ……」 

「きゃー!」須藤の後悔を遮り、どこかで悲鳴が上がった。

「なんだ?」と優が首を傾げると、チリチリチリチリと火災報知器が鳴り出す。

「な?」しかしそんな優よりも、古乃美の動揺は大きかった。

 いつも血色のいい頬が青ざめ、目を大きく見開いている。

「あの声は、里見!」

 古乃美が走り出す。先程早川が消えた方向だ。

「古乃美ちゃん! 危険だ!」 

 古乃美は早かった。体育の徒競走で万年ビリで涙目な彼女とは思えないスピードで、慌てて続く優さえも追いつかない。

 古乃美は階段を下りきると、速度を全く落とさず渡り廊下の方向へ駆けた。

 突然、止まる。

 急停止に、全力で追跡していた優が仰け反る。

「うわっ」

 廊下の一角が火に包まれている。窓のカーテンが燃え、教室の壁が焼け、真っ赤な炎が生きているかのように床を這っていた。

 優は反射的に古乃美を庇いながら、さっと周囲を観察した。

 腕を押さえて床で呻いている三浦がいる。そして……、

 炎の中に小柄な人影があった。

「三浦君!」遅れて到着した須藤が、三浦に気づき近寄る。

 だが優はそれに構っていられない。彼と恐らく古乃美は、倒れる三浦、炎の中の誰かに注意を向けていられなかった。

 肉の焦げる寒気を誘う臭気が鼻を刺激したが、力づくでぐっと堪えた。

 ぬめぬめと蠢く炎の向こうに、異様な人物がいるのだ。

 顔を厳重に巻いた包帯で隠し、運動部……野球部のユニフォームを着用している、長身の人物だ。

「誰だ! お前っ」

 古乃美を背後に押しやりながら、時間稼ぎも含めて優が誰何すると、意外な所から答えが返ってくる。

「は、はしづめ、くん」

 須藤の声は夢でも見ているかのように、ふわふわとしていた。

 改めて見直すと、確かに着ているユニフォームに『橋爪』と記されている。

「だけど」優は唇を噛んだ。

 それでけでは断定できない。橋爪のユニフォームなど、手に入れるのは簡単だ。

 ゆらり、包帯ユニフォームが腕を上げた。指を真っ直ぐ倒れる三浦に向ける。

「裏切り者……」

「え?」苦痛に頬を歪ませながら、三浦が答える。

「花火と共に誓った友情を裏切った、裏切り者……その要因たるゲスな女は始末した」

 包帯男の声はくぐもり、地の底から響くようだ。

「俺が……殺してやった」

 そして「ははははははははははははは」と耳障りに甲高く笑うと、近くの窓から外へ飛び出した。

「待て!」優は咄嗟に追おうと考えたが、前面が火の海になっている故に諦めた。

「はしづめ……あれは、橋爪だ」

 須藤に肩を借りて起きあがった三浦が、ぽつりと呟いた。


 優は機嫌が悪かった。

 部屋の電灯も点けず、何時間も自分のベッドに深々と腰掛ける。

 とっくに日は落ち、彼の部屋は闇に薄くなぞられている。が、どうでもいい問題だ。

「ち」と舌打ちをする。一番見たくない物を見てしまった。

 焼けこげた死体、橋爪らしき人物にガソリンをかけられ焼かれたのは、早川里見だった。 

 犯人が去り、駆けつけた教師らと火を消したが、彼女はもう息をしていなかった。

「ち」と今一度舌打ちを繰り返す。

 古乃美は泣いた。早川の変わり果てた姿にすがりつき、わんわん子供のように泣き喚いた。

 どうにかなだめようとした優だが、事件の内容故に大騒ぎになり、結局時機を逸してしまった。

「里見と話していたらいきなり橋爪が現れて、口から火を吐いた」 

 腕を火傷した三浦はそう証言したが、そこらは他人の出来事だ。

「古乃美ちゃん」と一人呟いていた。  

 彼が決心したのは、まだ彼女が心配だったからだ。そして、自分の無力さ加減が憎い。

 音を立てない足取りで今朝と同様のルートで扉に向かい、そっとノックした。

「はい」優の心が揺れる。返事が掠れていた。

 すぐに扉は開いて、頬を赤くした古乃美が顔を出す。

「なんだ、優君か」

 古乃美はにっこりと笑った。ただ、それが無理をした物だと優には判る。

「入っていいよ」

「あ、ありがとう」

 古乃美の部屋は変わらない。衣服やらゲームやらアニメ円盤やらが雑多に散らばっている。

「女の子なんだから」と美音子によく叱られているが、彼女は片づけられない三田村古乃美でいいのだ。

「むー、じろじろ見ない……今片づけようとしていたの!」

 古乃美はいつもと同じ風を演じて、むくれて見せてくれる。

「判っているよ」優はゆったりと頷く。

「で、何? 優君」

「うん」優は視線をカーペットに落とした。

 あるいは事件について、もう掘り返さなくてもいいのでは、と考えたのだ。早く忘れる方がいい事もある。

 だが古乃美はその『話題』を避けるつもりはないようで、涙で腫れた目を手の甲で撫でた。

「ねえ、優君……どうして人は人を殺すのかな? 命って大事な物だっていつもアニメや漫画でみんな言っているのに」

「古乃美ちゃん」強引に話題を変えようとしたが、辞めた。彼女の眼差しがあまりにも真剣だったのだ。

「……ある人物にとって、命はかけがえのない物だ、が違う誰かにとって、時に同じそれはどんなことをしても奪わなければならない物になる、それが人間の本性だよ、命が大事、と言っている奴らも、知らない嫌いな奴の命は大切ではないはずなんだよ」

「そんなの! おかしいよ」古乃美は激しく首を振った。

「それじゃあ、人は立場や感情で、誰でも人殺しになるってことだよね?」

「そうだよ」 

「そんなのイヤっ! どうしてそんなこと言えるの? 優君」

「古乃美ちゃんは優しすぎるんだ」

 三田村古乃美は太陽のように明るい光なのだ。優さえも憧れてしまう。

「わ、わたし……決めた!」

 古乃美の声に突如力が宿った。

「え」と驚く優の目の前に、決意に煌めく瞳がある。

「私、この事件を解決する!」

「古乃美ちゃん」

「だって、このままじゃ里見が可哀相すぎる……」

「でも、それは警察に任せれば……」

「ううん、私が暴く、怪人・火廻りの正体を」

「いや……でも」優は制止の方法を思い巡らせたが、古乃美はふるふると拒否する。

「優君が心配してくれるのは判る、でも警察だと時間がかかってしまう、そしたらあの怪人、また現れるかも、また……里見みたいに……それは絶対阻止するの!」

「だって、手がかりもないし」

「いいえ」優ははっとした。古乃美の声には自信があるのだ。

「怪人は手がかりを残したわ、それを確かめる」

「ふう」と優は肩を落とす。

「判ったよ、でも僕も行く」

「え、優君は……その、危険だし」

「ばかっ、だから僕も一緒だ、古乃美ちゃんはドジでマヌケだから、犯人にどんな目に遭わされるか判らない」

「なにそれ」ぷくぅ、と彼女は頬を膨らませた。

「優君の中での私、そんなにドジキャラなの?」

「何言ってんの? 僕の中の古乃美ちゃんは、むしろゆるキャラだよ」

 古乃美は衝撃を受けたようだ、目を丸くしてぴたりと動きを止めた。 

 だが優の心に温もりが戻ってくる。古乃美の元気は彼の何よりの活力なのである。泣いた姿は絶対に見たくないものだ。


 古ノ美の父三田村太一郎はエリート官僚だ

 彼は警察にも人脈があり、三田村古乃美と葛城優が、容易く三浦省吾の収容されている病院へ入れ、彼に面会できる手はずが整ったのは、三田村太一郎の見えない力だった。

 当然、あまり現場警官には歓迎されなかった。彼等とすれば高校生の少年少女など捜査の邪魔であり、探偵の真似事は越権行為なのだ。

 だが、決意した古乃美は強かった。非友好的な視線をはじき返して、ずんずんと三浦の病室へと歩く。

『三浦省吾(みうら しょうご)』とプレートがかかった一人用の病室を前にしても臆することもなく、ノックして返事の前にもう扉を開けていた。 

「な、なんだ……お前ら?」

「三浦先輩……私は一年二組の三田村古乃美です、こちらは葛城優君、私たちは今回の事件を、怪人・火廻りを捕まえるために来ました」

「はあ?」三浦は目を白黒させ、聞き返す。

「事件を解決するために、お話を聞きに来ました」 

 こんな時、古乃美はもの凄い行動力を発揮する。三浦の了承を得る前に、壁に立てかけてあるパイプ椅子を取り、三浦のベッドの横に座った。

「……ま、まあいいか」三浦が頷いたのは、明らかに古乃美の迫力に負けたからだ。

「まず、あの怪人……先輩に火を放った人物ですが、三浦先輩は橋爪先輩だ、と断定しました、何故ですか?」

「ああ、それか……花火だよ……ええと、俺と橋爪は夏休みの練習後、必ず学校の屋上で花火をやったんだ、二人だけで……これは須藤も知らない……俺たちだけの秘密だ、あいつはそれを知っていた、だから橋爪だ」

「あの人殺しは橋爪だ」吐き捨てるように三浦はもう一度断じた。

「花火……詳しく教えて下さい」

「うん? そんなこと意味あるのか? まあいいさ、ほら、この街夏に花火大会やるだろ? 俺と橋爪……まだあいつがマトモだったときにそれを見にいこうとしたんだ、だけどスゲー人混みで、とても居られなかった、そん時あいつが学校の屋上に思い付いたんだ、で、行ってみるとこれがドンピシャで、花火大会の隠れ名所だった、その後くらいから、何となく屋上で二人で花火をすることになったんだ、まあ、コンビニで売っている程度の奴だが、俺たちも色々ストレスがあって、夜の屋上で発散してたんだな、誰々先輩は嫌いだ、とかコーチのクソ野郎、とか叫びながら」

 三浦の瞳に違う色がたゆたう。過去の自分たちを見ているのだろう。

「でも」古乃美は唇の横に人差し指を添えて、考えている。

「学校はその時間閉まっていますよね? 屋上も」

「ああ、それは用務員の熊谷さんに話しを通したんだ、いい人だよ、いつからか花火も用意していてくれるようになった」

「なるほど……で、須藤先輩のことですが」

 ぐぐっと三浦が白い歯を剥き出して唇を噛む。まだその話題は地雷のようだ。が、古乃美は臆さない。

「須藤先輩は橋爪先輩の失踪は自分のせい、と言っていましたけど、それについてですが」

 三浦はふて腐れたように顔をそむけるが、古乃美は待つことにより催促する。

「わかったよ……ああ、そうかもな……実は、今まで黙っていたことがあるんだ、その、ケーサツにも」

 三浦は唇を歪め、綺麗に狩っている頭部に手を置いた。

「橋爪があんなだし、言わなければ行けないなー、とは思った、だから教えてやる、アイツが消える前、俺とアイツで殴り合いの喧嘩したんだ、須藤についてな」

 優は息を飲む。それは確かに新情報だ。

「放課後の学校で、んで俺がノックアウトした、まあ喧嘩は俺の方が強かったんだ、アイツは白目を剥いてぶっ倒れたから俺は怖くなって人を呼びに言った、だけど戻ってきたらアイツはいなくなっていた、鞄や持ち物も一緒に、きっと気が付いたけど恥ずかしくて帰ったんだ、と思った……その後消えちまった」 

 ここで言葉を切ると、三浦は毛布の上から自分の足を叩く。

「だけどよ、だからって復讐しに来ること無いだろ? なんで里見を殺したんだよ! あの人殺し!」

 三浦は荒れ、橋爪への憎しみの言葉を幾つも宙に投げつける。

 優は詰まらない映画を鑑賞しているように無感動だが、ぎゅっと握った拳を膝の上に置いていた古乃美は、前触れもなくすっと立ち上がった。

「古乃美ちゃん?」

「判りました……ありがとうございました」

 三浦は驚い様子で黙ったが、一切構わず古乃美は病室から出た。

「はあ」と大きな息を吐く。

「優君」

 古乃美は泣き笑いのような表情で、見上げてきた。

「私、判っちゃった……何もかも」

「ええと」

「動機も、怪人の正体も、きっと当たりだよ」

 優は答えられない、古乃美の寂しげな微笑を見つめるだけだ。

「どうして火だったのか、どうして三浦先輩なのか……里見は……」

 ぶつぶつと誰かに呟いている。

「その……優君、だから私、同じ方法で怪人を捕まえようと思うの……つまり、うん、だから三浦先輩を囮にするわ」

「……それは危険だっ! 古乃美ちゃん!」

 子細を聞いた優は反対した。古乃美の提案は無茶だった。相手が『怪人』かはまだ判らない。しかし、普通ならアルコールを使う芸の火吹きを、口の粘膜を考慮しないでガソリンを使う『尋常ならざる相手』であることは間違いないのだ。

 が、彼女は頑固に首を振る。

「これが一番なんだよ、怪人をおびき出す」

「でも」優は更に幾つか彼女への反論を舌に乗せてみた。が、結局それを形にしない。いざというときの古乃美がテコでも動かないことを知っている。

「わかったよ……古乃美ちゃん」長い討論の末、優はため息と共に首肯した。


 次の日、時計塔高校は事件の余波でただの登校日になった。

 受業は行われず、担任教師からの注意事項を伝えられたら終わり。電話で済ませればいいのに、と誰もが文句ぶーぶーのスケジュールだ。

 優はいつも通りの時間に出席して、何食わぬという風を装った。

「葛城、いつ新大久保行く? 二高の女子からせっつかれてさ」

 案の定山本が馴れ馴れしく、話しかけて来た。

「そんなことより知っているか? 三浦先輩……すごい度胸だよね」

「え! 何がだよ、教えろ」

 山本の目が輝く。

「今日、夕方七時頃学校に一度来るらしい、昨日忘れた荷物を取りに来るんだとさ、狙われているのに」

「へーそうなんだ、それはいいこと聞いたぜ」

 もうそわそわし出した喜色満面の山本を、優は黙って見上げた。


 三浦省吾の教室は三年一組だ。

 時刻は午後六時半、午前受業故に他の生徒達は完全に下校しているが、そのクラスだけ電灯が灯っていた。

 白っぽい蛍光灯の下に、ユニフォーム姿の人物がいる。

『三浦』と名前の入ったユニフォームと、野球帽の着用を横目で確認した優は、窓から外を覗いた。

 夕方と夜の境にある朱色と青色の世界が広がっている。

 ふと、気配を感じ、振り向く。人影がいくつも動いていた。

 古乃美の作戦のキモになる警察官達だ。

『三浦を囮にして怪人をおびき寄せる作戦』は、警察に好意的に受け止められなかった。『囮』の部分に引っかかりを覚えたのだろう。しかし結局、彼等は古乃美の要請のまま配置に付いている。

 三田村太一郎の力に、そこは感謝だ。

 後一つ、すごいのかどうか判らないが、山本の無駄な行動力にもだ。

『三浦先輩が今日訪れる』との噂は、あっという間に校内に広がった。怪人らしき者に狙われている渦中の人物の行動故に、それらは生徒達の関心を引いたのだ。

 全く皆噂好きである。

 門が閉じられる寸前、『三浦』と入ったユニフォーム姿が隠れるように学校に入っていったという最新情報も、耳聡い生徒達の間では常識のように語られている。

 ……ここまでは古乃美の策通りだ。

 だけど問題は……この先だ。誰もいない学校へわざわざやってくる三浦。犯人がマトモな、ただの人間なら胡散臭く思うだろう。

 古乃美はあくまでも『怪人』を想定している。そこら辺、優には確証がなかった。

 考えている間に日は落ちていたようだ。鏡のように自分の姿が映る窓に近づき、この高校の象徴たる時計塔を眺めた。

 午後七時二分。

 スマホで確認し「うーん」呻る。微動だにしないユニフォーム姿が気になった。

 やはり見え見えの手に引っかからないのではないか、だが優が口を開く前に、どこからか悲鳴が聞こえてくる。

「な、なんだ?」

 その問いの回答を携えているのか、三年一組の前の扉が勢いよく開き、制服姿の警官達がなだれ込んでくる。

「で、出た、怪人だ! 正体不明の不審者が警官二名に火を吐いた」

 警官の一人が子細を説明する前に、優はユニフォームの人物の前に、盾になるために飛び出した。

「ぎゃああっー!」

 また悲鳴が上がる。かなり近い。気のせいか教室も酷く熱を帯びだした。

 そして、すぐに、現れた。

 暗闇の洞窟のような廊下から、ゆらゆらと亡霊のような足取りで、そいつは現れた。

 顔を包帯で覆った『橋爪』と名が入った野球部ユニフォームの人物。

 怪人・火廻り。

「……裏切りもの」

 周りの空気を熱気で歪ませながら、一歩一歩、教室へと入ってくる。

「待っていました」

 ユニフォーム姿の人物が振り返る。三浦のそれを着用した……三田村古乃美だ。

「……うう」流石に驚いたのだろう、怪人物の包帯から覗く目が大きくなる。

「残念でした、本物の三浦先輩はまだ病院です、私はあなたと同じ手を使っただけです」

 立ちつくす包帯男に、古乃美はびしっと指を向ける。

「怪人・火廻り、いえ……」彼女は次の台詞に力を込めようと、すうう、と大きく息を吸った。

「熊谷剛さん!」

「な」優は目を大きく開いた。古乃美からそこまでは聞いていなかった。包帯男の正体が用務員の熊谷だとまでは、彼女も教えてくれなかった。

「捕まえろ!」

 我に返ったのか、周辺の警官達が熊谷に殺到する。

「ぶふーふー」と口から炎が放射され、「うわわ」と警官達の足が止まる。

 ごきゅごきゅ、とその間に一升ビンを満たす濁った液体を、熊谷は飲み込んだ。

 ――あれがガソリンか……。

 優は油断無く熊谷を睨みながら、古乃美を数歩後退させた。

「私が」その古乃美は、優の背中に両掌をつきながら説明を始める。

「私が疑問に思ったのは、あなたが里見を殺したことです、三浦先輩に憧れていただけで、それほど関わっていなかった里見、しかしあなたは里見を須藤摩耶(すどう まや)先輩と間違えた、須藤先輩の代わりに殺したんです、……それは早川里見を知らなかったから、須藤先輩も知らなかったから、本物の橋爪先輩ならこの間違いはありえない」

 早川は須藤先輩と誤認された殺されたのか……優は改めて彼女が哀れになる。  

「しかし、あなたは三浦先輩と橋爪先輩の秘密を知っていた……でもっ、それは本当に二人『だけ』の秘密だけだったんでしょうか? 違います、この話には裏方がいます、二人を夜の学校へ入れた人、鍵を外してくれた人、あなたですっ、熊谷さん!」 

「はははははははははは」突然熊谷は笑い出した。

「そうだ、オレだ、オレが橋爪くんに火の素晴らしさを教えたんだ!」

 もう熊谷は顔を隠してはいなかった。自らの手で包帯をはぎ取り、殺意に歪む顔をさらけ出す。

「どうして? どうしてここまでして三浦先輩と須藤先輩を狙うんですか?」

「それは……」古乃美の問いに熊谷は胸を大きく突き出した。

「あいつらが橋爪くんの未来を奪ったのだ! 美しい橋爪くんの未来を! くだらない恋愛ゴッコで台無しにした」

「そうですか」古乃美は悲しそうに頷いた。

「橋爪先輩は死んだんですね? 殺したのは……三浦先輩です」

「な……」優は言葉にならない。ただ思い出す……ノックアウト、喧嘩。

「そうだ! 三浦は須藤とやらのために橋爪くんを殺した、殴り殺した、オレはその時誓ったのだ、復讐を!」

 恐らくいつかの早川や優達と同じように、彼等の諍いを熊谷は聞いていた。橋爪が殺されるのを目の当たりにしてしまった。

 それは過失なのだろう。三浦に殺意はなかったのだろう。

 だが……橋爪は死んだ。殺された。三浦に……殺された。

「オレは……オレは、橋爪くんを遠くから見ているだけで良かった、橋爪くんの輝く未来を、ずっと遠くから応援しようと決めていたんだ! それでけでオレは幸せだ、彼の存在だけで生きていけた……生きていこうと思った」

 思えば熊谷が同性愛の気があることを、優も感じていた。橋爪を深く愛していたとは知らなかったが。

「殺す、三浦と須藤を殺す! 勝手に橋爪くんの前に現れ、勝手な理屈で殺したあいつらを」

 ぼうっ、と熊谷の呼気に炎が混じった。

「……つまり、三浦はまだ病院なんだな?」

 熊谷はにやりと唇をつり上げ、古乃美が両手で口を抑える。

「いけない!」

 しかしその手首を掴んだ優は、彼女を強引に引き三年一組から飛び出した。

「優君、ダメよ! 三浦先輩が危ないの!」

「古乃美ちゃん、それは警察の仕事だ!」

 暗い廊下を走る間、古乃美は優の手を振りほどこうと苦心していたが、彼は離すつもりはない。

 背後では怒鳴り声と悲鳴が切れ切れに交差している。古乃美を巻き込むわけにはいかない。

 一気に三階から一階まで駆け降りた優は、自分たちのクラスである一年二組の扉を開け、古乃美を押し込む。とっくに真っ暗闇だが、そこは我慢してもらうしかない。

「ここで待ってて! 助けを呼んでくる、出ちゃダメだよ!」

「優君は?」

 古乃美の心配そうな瞳に、優は片目をつぶる。

「大丈夫! 僕は古乃美ちゃんより運動神経良いんだからっ」 

「あ……でも、なら私……」

 古乃美はまだ何か言いたそうだが、ぴしゃりと扉を閉じた。

 ここからは彼女の出番ではない。

 この先は彼女のような光はいられない。ここからの世界は死体のように蒼く、ぷかぷかと夜の闇に浮かんでいる。


 熊谷の口から放射される炎が教室を焼いていた。

 警官達が必死に取り押さえようと奮戦しているが、肌を肉を骨を焼く火の壁に手も足も出ない。

「くそっ」一人の警官が、ぱちぱち爆ぜる火の粉を両手で遮りながら悪態を付く。

「どけ、邪魔だ」彼は警官の背を押しのけるように蹴った。

「うわ、なん……」警官の舌が止まるが構わない、彼は警官の目に自分がどう写っているか知っている。

 夜故に、鏡のように世界を反射する廊下の窓に、己の姿が映っている。

 数年前まで使われていた時計塔高校の旧制服、両手には鈍色に光るグラブ、足にはやはり鈍色のブーツ、そして顔には……髑髏の仮面。

『髑髏の王様!』

 山本なら彼を一目見てそう叫ぶだろう。

「なん、だ? キサマは」

 警官達が口々に誰何してくる。答えてやる義務はない。

「やかましい、失せろ」

 彼は近寄ろうとする者を眼光で射すくめ、躊躇無く炎の中へと歩を進めた。

 生物を徹頭徹尾拒否する赤とオレンジの渦の中心に、目標はいた。酒ビンに入ったガソリンを喉を鳴らして飲み、新たな死の息を吹く熊谷剛。

 だが、その熱も煙も発生するガスも歪む空気も、彼には関係なかった。

「おい」

「……うが?」熊谷剛の動きが止まる。

「外に出ろ、こんな所で死なれたら掃除が大変だ」

 嘲笑うと、熊谷はくるっと背を向けた。そのまま自らが張った火の壁を突っ切って逃げていく。

「ゴミがっ!」

 苛立った彼が拳を叩きつけると、コンクリの壁に大穴が開いた。


 熊谷が見た目と裏腹な素早い動きでたどり着いたのは、時計塔高校の屋上だった。

 ごうごうと夜風が鳴く中、熊谷はコンクリートの床に立ちつくす。

「で?」

 彼は尋ねた。給水タンクの横で腕を組みながらだ。熊谷の様子から行き先を見破り、先回りをしていた。

「これからどうするつもりだ? お前はもう詰んでいるんだよ、人生がな」

 ごきゅごきゅ、とガソリンを飲む音が返ってくる。

「それが答えか? いいだろう、お前が『怪人』なのかイマイチわからんが、どうせもう終わりだしな」

 両腕に装着した鋼鉄製のグラブを胸の上に持ち上る。それが彼の『武器』だ。絶対なる硬度を持ち、死と破壊を司る両手のグラブと両足のブーツ。

 それらに殴られた者は砕け、蹴られた者は潰される、髑髏王の鉄の牙だ。

「死ね」

 彼は跳び、駆けた。一直線に熊谷へと突っ込む。

 炎が吹かれた、しかしそれを頭を振ってかわして右拳を突き出す。

 熊谷は刹那、左腕で体を庇った。

 がきゅり、容易く骨が砕け肉が潰れる。

「ぐわわわわぁぁぁ!」熊谷は絶叫し、一歩退いた。

「お別れだ」彼は熊谷の胸に向かって左拳を振る。ひしゃげた左腕が持ち上がってたが、気にもしなかった。

 爆発と閃光に包まれ、右肩から鉄柵に叩きつけられた。

「ぐう……」何が起こったか、一瞬後に彼は理解した。

 熊谷には左腕がない、そして戦闘で露出した右腕にもびっしりと包帯が巻かれていた。 光に眩んだ視界ながら『それ』を確認した彼の血が痺れる。体中に流れる血、指先の毛細血管の先まで電流が走った。

 愉悦、という感情だ。

「はははははははははははははははははははははははははははははははははははははは」

 髑髏の仮面の下、つい歯を剥いて笑ってしまう。

「見でいだ……花火の光の中、橋爪くんは美しがっだぁぁ。だからゆるざないっ、橋爪ぐんをごろじだ、びうらぁぁぁぁ」

「認めるぞ! お前は『怪人』だ! 怪人・火廻り!」

 肩の痛みなど無いかのように彼は宣言して、歪んだ鉄柵から身を起こした。

「怪人と人殺しの違いを知っているか? 人殺しは所詮自分の保身も考えて行動するただの人間だ、だが怪人は違う、目標を殺すために手段を選ばない、人であることを辞める……精神の歪みが肉体を凌駕する……お前のように、自分の肉をえぐって、そこに花火の火薬を詰め、炸裂させる……そうだ!」

 真っ直ぐ熊谷に、人差し指を向ける。

「お前は怪人だ、故に名乗ろう」

 拳を作った彼は、己の胸を親指で指す。

「俺は怪人・髑髏王(どくろおう)……怪人を喰う怪人だ! だからお前を喰らう、怪人であるお前は俺にとってご馳走だ」

 熊谷……怪人・火廻りは聞いているのか聞いていないのか、自らの血と肉片を体に貼り付けながら、ゆらゆらと左右に揺れている。

 その時、鐘が鳴った。

 ゴーン、ゴーン、ゴーン。

 重々しい金属の音が、幾度も夜の闇を震わせる。

 時計塔の機関室は今では『開かずの間』である。単に誰かが鍵をなくした……程度の色のない理由なのだが、それによって時計塔の機械仕掛けの鐘は制御出来ない。制御しようにも機関室に入れない。だからどうして時々目覚めたように動き出すのか、さえも分からない。

 ゴーン、ゴーン、とだが鐘は鳴り続ける。人の罪を打擲するかのように。

「さあ、罪を償う時だ、貴様が殺めた人たちの為に、祈れ!」鐘は途切れ……髑髏王は駆けた。

 鉄のグラブとブーツ、それらの重しを着用しながら疾走できるのが、怪人なのだ。 

 火廻りが近づく、残った右腕が上がる。

 髑髏王は次の瞬間、後方に跳んでいた。

 火廻りの一本しかない腕が再び爆発して、辺りにこまごまな人体を降らせる。

「……だろうな、手品の種明かしは一度きりだ」

 両腕を失った火廻りに髑髏王は改めて接近する、紅蓮の火炎がドラゴンの舌のように伸びたが容易く片腕でガードする。

「宴会芸は俺には利かない! 食らえっ」

 火廻りの表情が大きく歪む。鉄の拳が腹部を深々とえぐったのだ。

「おおおええええっっっっ!!!!!」

 口からガソリンを吹き出した火廻りは、その場に崩れ落ち、苦しみにのたうつ。

 巻き散らかしたガソリンがばっと引火し、二人の怪人は炎に包まれた。

「確かにお前は怪人だ、が大した怪人ではない、俺の敵にはなりえない」

 炎など微塵も気にせず、髑髏王は鈍色の拳を構えた。

 敵たる火廻りはほぼ戦闘不能にした。しかし相手は『怪人』なのだ。油断してはならない。

 ちらちらとした炎のために判別できるが、自分の血の中で足掻く火廻りの脚には、包帯がびっしりと巻かれている。

 脚の肉も削り、火薬をべたべた詰めているはずだ。

 髑髏王は火廻りの頭に狙いを定めた。鋼鉄の拳は頭蓋骨など容易く破壊する。

「さて、祈ったか?」

 ……が、

「待って!」

 髑髏王の総身が震動する。いつの間にか何者かがこの場に居合わせていたのだ。ただ、振り向かない、振り向く必要がない。声で判る。

 三田村古乃美。

 あれだけ、動くな、と言い含めたのに聞いてくれなかった。

 突風が怪人達を彩っていた炎の息の根を止め、辺りは突然暗くなる。

「……そこまでよ、もう終わり、終わりです」

 そう宣言した古乃美に、髑髏王は大仰さを演じて振り返る。

 彼女はかたかたと小刻みに震えていた。顔からは血の気が引いていて、強風の中二つの三つ編みが助けを求めるように動き回っている。

「もうその人はもう動けないわ、だから戦う必要はないの、殺す事はないの、後は警察に引き渡して……」

 彼女は怪人・火廻りを指している、だが怪人はこんな事では殺戮を諦めない。諦めないのだ。

 怪人は目的を達するまで動き続ける。ゾンビのように、機械仕掛けのように、立ち上がる。

 殺さない限りだ!

 髑髏王は微かに迷った。迷いなど無いはずの彼が、躊躇したのだ。

「お願い!」古乃美の口調に熱が帯びる。

 ふう、と息を吐き、髑髏王はゆっくりと腕を降ろした。

「ほっ」古乃美は安心したように胸に手を置いた。

 次の一瞬で髑髏王は火廻りの頭部を潰した。無造作に片方の拳だけで。

 生卵が中空で破裂したかのように、ぐしゃりと目玉や内容物は飛び散った。

「きゃあああっ! うわわわわわわっっっ!!!」

 古乃美は声の限り叫び、その場に跪く。

「ひ、ひどい……」じわっと目に涙を溜めながら、彼女は見上げてきた。

「殺す事無かったのに、ひどい! ……あなたそれでも人間なの?」

「……違う」髑髏王は仮面の下で、苦労して声色を変えた。

「俺は怪人だ、人間ではない、人間の理にも言葉にも従わない」

 古乃美の背後、屋上への出入り口が騒がしくなる。警官の姿がちらほら見え出した。

 髑髏王は素早く踵を返す。

「待ちなさい!」鋭く古乃美が制しようとした。

「逃がさない! ……ここで逃げても私が探す……怪人・髑髏王、私が必ずあなたの仮面を剥いで、その罪を償わせる! 絶対の絶対の絶対!」

 髑髏王喰無言だ、語る必要がない。ただ屋上の鉄柵を跳び越え、黒々とした闇へと舞う。

 体にまとわりつく闇は、太陽の光よりも火廻りの火薬よりも、暖かかった。


 太陽は何事もないように輝く。いつも通り早く起きた彼は、古乃美の部屋の前に立っていた。

 軽くノック、デジャヴュだ。否、先日もした。

 既視感はそこまでだった。

「はーい」と古乃美が返事をしたのだ。

 思わず優はがばっと、扉を思い切り開いていた。

「あう?」

 鏡台の椅子で髪を編んでいる古乃美と鏡の中で目が合う、しばらく彼女はそのままの姿で停止した。

「きゃあー!」

 優は大きく仰け反った、古乃美が手近にあったブラシを顔面に投げてきたのだ。

「ななななななな、なんれっ、優君?」

 薄いパジャマに隠れた豊かな胸部を隠すように、彼女はベッドの中に飛び込む。

「なんで普通にドア開けるの? 返事したよね? その後『入って良い?』じゃないの?」

「は、入って良い?」

「もう入っているでしょっ!」

「い、いや、あまりにも非現実な、超常現象的事態が起こったから……」

 じろっと、彼女の瞳が優へと動いた。

「……今日は寝坊していない……と?」

「うん、そうだよ! あの朝が全くダメな古乃美ちゃんが、あの片づけるというスキルが皆無の古乃美ちゃんが、あの卵焼きも満足に作れない古乃美ちゃんが、あのテストも散々の古乃美ちゃんが……びっくりだよ!」

「うーん、優君、何から言うべきか判らないけど……後で体育館の裏ね」

 はっきりと腹パン危機を感じた優は、研がれた彼女の瞳に無理に笑いかける。

「そんなことより、ど、どうしたの今日? 世界の終わり? 明日はないの?」

「むう」古乃美は唇を尖らせて指をさす。

 古乃美が向かっていた鏡台に、スマートフォンがあった。

「朝早くに電話があったんです……その、事件のことで……ええっと、色々なことがわかりました……でも……優君には聞かせられません」

「……あのねえ古乃美ちゃん、僕は古乃美ちゃんが思っているような人間じゃないよ、だから多少残酷な話しでも良いんだよ」

「うん……その、橋爪先輩の遺体が見つかったんですって……熊谷さんのアパートから」

「やっぱり、橋爪先輩は死んでいたんだね……三浦先輩の喧嘩で」

「うん……故意ではなかったけど警察は事情聴取を始めたわ、三浦先輩もきっと学校も退学でしょう……悲しいけど……でも良かった、優君が会わなくて、あの男、あいつに」

「……あの男? あいつ?」

「うん、火廻り事件で現れたもう一人の怪人・髑髏王…………あんな人殺しに優君を遭わせたくないよ、これからもずっと」

 冷たく強ばる古乃美の顔に、優はスマホを重ねる。

「……ちなみに、ただ今七時一二分になります、そのまま毛布の中にいても良いんでしょうか?」

「あっ!」古乃美がベッドの上で跳び上がった。

「ひどい! それをそんなに楽しそうに……うう、優君なんて、優君なんてっ、こんなに心配しているのにっ、心配なのにっ……もう着替えるから部屋から出て行って! このばかっっっ」

 三田村古乃美の部屋から追い出された優は、温もりを全身に感じつつ廊下を歩いた。

 朝の太陽は三田村家を優しく照らしてくれる。

「だけど……」優には判っていた。いつまでも毛布の中には居られない事を、いつか彼女なら髑髏王の正体にたどり着く。そうなれば、闇の中にしか行く場所はなくなる。

 葛城優は歩み続ける……兄を殺した怪人へと続く道を。 

                                                             

                               了

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時計塔高校の怪人……怪人・火廻りの巻 イチカ @0611428

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