第19話 片桐
半分、夢から覚醒した長閑の鼻腔を香ばしい匂いがくすぐった。目を覚ますとリビングの四方のカーテンが全開してあり、緩やかな朝日が差し込まれていた。
(こんなに窓があったとは……ここに初めて来た時はカーテンなんて分からなかったなぁ)
そして明るくなったリビングで、あらためて豪邸を見回す。すると、奥に見えるアイランド風キッチンに一人の人影が忙しそうにチャカチャカと動いていた。
(ん? あれはたしか……片桐さんだっけ?)
そんな風に考えながらソファの背もたれにもたれかかった。そうすることで膝の上に滑り落ちる毛布に気がついた。
(この毛布は片桐さんがかけてくれたのかな?)
長閑は立ち上がり、キッチンへと足を向けた。近づくにつれて片桐さんの姿がクッキリと目に入る。初老の女性は額に汗してせっせと何かを洗っていた。
「あのぉ……お、おはようございます」
長閑の挨拶を聞いてびっくりした片桐は、小さな皿を一つ床に落としてしまった。ガシャーン。皿はその小ささにそぐわない音をたてて派手に飛び散った。
「ああ! す、す、すみませんお嬢様! お、お怪我はございませんでしょうか?!」
片桐は慌てた様子で長閑に近寄り、泡だらけの両手をワラワラと上下させながら怪我がないかと確認を繰り返してきた。
「だ、大丈夫ですよ」
長閑はそう言ってその場にしゃがみ込み、皿の破片を集め始めた。すると、それを見ていた片桐がボー然と立ち尽くし、そしてハッとして焦ったように口を開く。
「お、お嬢様! そんなこと……私がやりますので!」
「え? いや大丈夫ですよ、これくらい。手伝います」
オロオロとする片桐を見て、長閑は申し訳なく思い、皿の破片を集め始めた。しかし、それを見た片桐は一瞬、きつねに摘まれたような表情を作ったと思えば、次に夢から覚めたように慌てて破片を集め始めるのだった。
長閑がリビングの長机に戻ってくると、机の上には皿やナイフやフォークなどがそのまま散らばっていた。おそらく、舞子達が朝食をとった後なのだろうと、長閑がその散らばった食器達を一つにまとめ始めた。
すると、
「お、お嬢様! そんなこと私がやりますので! 放っておいてください!」
片桐が慌ててキッチンからやってきて、机の上の物を片付け始めた。
「か、片桐さん……わ、私がやりますので、洗い物をお願いします」
長閑は、初老の片桐が腰を叩きながら洗い物や、洗濯、掃除をこなしている姿が目に浮かび、手伝わずには居られなかった。
実際、長閑の幼少期や、実家に家政婦なるものは居ない。と言うか、それらの職業を生業としている人達がちゃんと居て、こんな風に職業として成り立っていることすら何処か遠くの国のことくらいにしか考えていなかった。
これが上流階級の暮らしだとまざまざと見せつけられているのだが、それが皮肉や嫌味にならないのは、彼女〈片桐〉の風貌がどこか田舎のおばあちゃんに似ているからなのかもしれないと、長閑は感じていた。
長閑のおばあちゃんは六十歳を越しているのだが、それだけ初老の片桐から醸し出される雰囲気が苦労を重ねた女性と言わざるを得ないのだった。
そんなことを考えていると、片桐が不意に、
「お嬢様、これ今日のお昼ご飯の弁当です」
と言って、赤い布に包まれた箱を長閑に手渡した。
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