第29話 その笑顔の裏側は

 眩しかった太陽もすっかり傾き、西の空には燃えるような夕焼けが今日の終わりを告げようとしていた。

 蒼然は泰然と朱実の訪問に驚きながらも、自身の神殿へと二人を招いた。

 いくら温暖な地域とは言え、山間部になれば朝夕は冷え込む季節である。案内された神殿の地理的位置はわからないが、蒼然が住む神殿は日本古来の建築を思わせる立派なものだった。平家ひらや建てではあるが、神社を建てるときのように釘を使わない木の温もりと優しさを肌で感じることができるものだった。


(いい匂い……まるで、新築の神社だわ)


 轟然のとも龍然のとも、もちろん泰然のとも違う雰囲気に、これが蒼然という神の表れなのだろうと思った。

 癒しの館だと言われればそうなのだと納得する。何ひとつ拒まれるような空気はなく、静かなのに静かすぎない不思議な空間だ。

 二人を案内するために前を歩く蒼然はいったいどんな気持ちでいるのだろう。


「どうぞ、こちらのお部屋へ」


 客間に通された朱実と泰然は、静かにテーブルの前に座った。

 一度姿を消した蒼然が盆にお茶を乗せて再び現れた。

 鼻を通るお茶のよい香りがした。そのお茶は朱実と泰然の前に茶菓子と共に置かれた。畑で会って以降、蒼然はずっと伏し目がちで朱実の顔をまともに見ようとはしない。


(やっぱり、気まずいよね。突然の訪問で、しかも、結婚を約束していた人の娘だなんて。やっぱりわたし、酷いことをしている)


 来た時とは違い、朱実の心は沈んだ。蒼然の泣きそうな笑みが頭の中から離れない。

 すると、泰然が朱実の手をそっと握った。朱実の心の声を読み取ったのだろう。


(泰然さま)


「お茶は冷めないうちにどうぞ。ああ、それからこの干し芋ですが、この土地で採れたものです。有機栽培なんだそうですよ。砂糖も使っていないのにとても甘いのです。さあどうぞ」


 蒼然の導くような優しい話し方は人の耳を容易に傾かせる声色だった。朱実は自然とその干し芋に手を伸ばし、指で半分にさいて口に持っていった。

 厚みがあってしっとりとした食感と、口の中にふわりと優しい甘味が広がった。もうひと口含むと、甘みは最初よりも濃く感じられた。そして、お茶を飲む。


「美味しい! 干し芋ってもっと甘くて硬くて、よく噛まないと飲み込めないものだと思っていました。でもこれは違います。喉に詰まるような感じもないし、小さな子供でも食べられますね!」


 さっきまで落ち込んでいた朱実は、干し芋を食べただけで満面の笑みをのぞかせた。ころころ変わる表情に蒼然は一瞬目を見張った。そして、納得したかのように口元を綻ばせた。

 元気を取り戻した朱実は、勢いのままお土産に持ってきたいなり寿司をテーブルに乗せた。


「あの、蒼然さま。実は、多田羅町で採れたお米でいなり寿司を作ってきたんです。もし、お嫌いでなければ……その、味を見ていただけないでしょうか」

「いなり寿司、ですか?」

「はい。わたしが作ったので、あまり美味しくないかもしれません。今の多田羅町とわたしの精一杯の秋の収穫の証です。天候不良が続いて、思うようなできではなかったみたいんですが、それでも昨年よりは美味しいと、農家さんが……。えっと、秋の大祭も無事にできましたのでその報告です」


 朱実はそう言って、持ってきたいなり寿司の包みを解く。蒼然がどんな顔をしているのか怖くてまともに見ることができない。うつむいたまま蒼然にそれを差し出した。

 隣に座る泰然は何も言わない。

 数秒だろうか、沈黙が続いていたたまれなくなった。突然の訪問に加え、収穫した米の味を見てくれというのはあまりにも失礼過ぎたかもしれない。


「あの、やっぱり出直してきま――」

「いただきます」

「あ……」


 蒼然は朱実が差し出したいなり寿司を一つ手でつまみ、ゆっくりと口に運んだ。女性のように長く美しい指、艶のある唇に朱実は見惚れた。飲み込んだいなり寿司が喉元を通過すると、しばらくして蒼然が顔を上げた。

 蒼然は真っ直ぐに朱実を見ている。


「えっと、その……お、お味は」


 蒼然は何も言わない。

 すると、代わりに泰然が口を開いた。


「蒼然、あなたならば分かるでしょう。多田羅の現状が。米の粒の大きさが不揃いだが、これでもよくなった方です。若者は大学進学を理由に町を出て、就職を理由に進学先の町に留まる。大きな産業はなく、古くから農業で生きてきた多田羅はそのうち隣の町と統合されその名は近い将来消えるでしょう。それでも昔のような活気と華やかさは戻らない。土地神としてできることには、限界がある。それを補うのは四季の神だ。しかし、多田羅にいちばん必要な秋の神がいない」


(やっぱり、美味しくなかったんだわ……)


 朱実はテーブルの上に置いたいなり寿司の包みを手元に引き戻した。泰然が気に入っているから蒼然にも美味しいと、言ってもらえると思っていた。

 しかし、秋の神に通じるわけがなかったのだ。


(甘かったのよ……いつも、わたしの考えは甘いわ)


 多田羅のいちばん良き時代を支えていた蒼然を満足させるなど、おこがましいにもほどがある。


「泰然さま、帰りましょう。わたしたちがここにいては蒼然さまの邪魔ですよ。蒼然さまは、もうこの町の神様ですから。この町から神さまを奪っては、いけない……っ」

「朱実……」


 泣くまいと思っていたのに、その意思を嘲笑うかのように涙が頬を伝った。自分はいったい何を期待してここまで来たのだろう。


「蒼然さまに、大変ご迷惑なことをしてしまいました。ごめんなさい」


 すると、ずっと黙っていた蒼然が口を開いた。


「泰然の言わんとすることは理解しましたが、どうするかは正直決めかねています。むしろ、今の生活を変える気はまた起きていません。ただ、確認したいことはあります」

「確認?」

「ええ。そちらのお嬢さんをしばらくの間、お貸しください」

「しばらくとは」

「しばらくに、期限をつけることはできません」

「その申し出を、断ると言ったらどうする」


 泰然がそう尋ねると、蒼然は見たこともないような妖艶な笑みをこぼした。龍然ならまだしも、蒼然の雰囲気からは想像のつかない笑みである。泰然の背筋にゾワリと何かが走った。


「くっ……」

「泰然さまっ! 泰然さま!」


 なんと泰然の姿がだんだん薄くなり透き通って見えるようになってきたのだ。朱実が慌てて声をかけるが、泰然は苦しそうな表情で蒼然を見ていた。


「少し、朱実さんをお借りします」


 蒼然がそう言うと、泰然の姿は朱実の隣から跡形もなく消えてしまった。蒼然の力は泰然よりも格が上なのだろう。


「蒼然さま! 泰然さまに何をっ」

「あなたとお話がしたくて、少し席を外していただきました。心配するような危害は加えておりませんので、ご安心ください」

「でもっ」

「わたしから聞きたいことがあるのでしょう? だからここまで来たんですよね。そうでなければ、すぐにあなたも多田羅にお帰りいただきます」

「いえ。泰然さまが無事ならよいのです。そうであればわたしは帰りません。聞かせてくださいますか? 母のこと、そして、蒼然さま自身のことを」


 朱実は真っ直ぐに蒼然の顔を見た。

 すると、蒼然はゆっくりと口角を上げる。柔らかな表情ではあるが、今はそれを素直に受け止めることは難しい。


「よいでしょう。まずは、わたしの仕事を手伝ってください」

「仕事? あっ、はい!」


 朱実はこの時、蒼然の優しさの表情の裏側がまるで見えなくて怖さを感じた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る