第二章 多田羅の神々

第14話 好きの気持ち

 朱実は父に泰然と結婚することを告げた。父は安堵した表情で朱実におめでとうと言った。

 父は泰然が神社庁から紹介された神職であることを疑ってはおらず、むしろ良い人材を紹介してくれたと感謝さえしている。少し前までは神職を辞めて町を出て行こうと心に決めていたのが嘘のようだ。


「挙式はどうするかな? この神社を継いでもらう人だから、氏子さんたちがあれこれ口を出してくるかもしれないね」

「そうね。でも派手にしたくないの。まあそれでも、最低限のことはしないとだよね。彼と話してみる」

「うん。そうしなさい」


(神様が神様に結婚のご報告って、どうなるの? 泰然さまは渋い顔して妙な気分だっていうかしら)


 ◇


 朱実は再び神殿に来ていた。これからのことを話すためだ。

 今回の神殿訪問は人の世界の時間は止めていない。朱実が自分だけ先に年を取るのはごめんだと言って神殿に来ようとしないので、泰然は朱実に時を止めないと約束をした。

 とはいえ、もう止める必要がないのだ。朱実の意志で泰然に会いにいくと、父に伝えているのだから。

 前に泰然が朱実を連れてきた時は不測の事態であり、時を止めないと朱実が行方不明になったと町で騒動になるのではないかとの神なりの配慮だった。


「泰然さま。わたしたちの結婚のことなんですけど。氏子さんたちの手前、お式をしないわけにはいかないと思うのですよ。でも、神様である泰然さまが神前で結婚の報告をするというのはどうなんですか?」

「うむ。想像するに実に奇妙な光景だな」

「ですよねぇ」

「それより朱実。もう少し近くに来ぬか。結婚の儀の事もよいが、夫婦になろうというもの同士の距離がこれではつまらぬ」


 二人は執務室にいるのだが、泰然はつまらなさそうに机に頬杖をしながらそう言った。朱実は机を挟んで泰然の前に正座をしている状態だ。


「お仕事中なので仕方がないと思います」

「では休憩にする」

「えっ」


 ぱちん! と泰然が指を鳴らすといつのまにかふかふかの布団がある寝室に立っていた。

 いつ来ても高級旅館の一室である。


「お茶をお持ちしました♪」


 そして、待っていたかのように神使のお加代がお盆にお茶とマサ吉が作ったという和菓子を乗せてやってきた。


「朱実さま。真面目一筋の泰然さまがお仕事の手を止めるなんて、なかなかない事ですよ。朱実さまのことを大事にされている証拠です。うふふ」

「お加代さんっ」

「では、ごゆっくり」


 お加代とマサ吉は松乃家で働いているが、泰然が呼べばすぐに現れる。人間には到底考えられないが、瞬間的な移動が可能なようだ。


「さて、朱実。先ずは近づきの印に触れ合おうではないか」

「触れ合い、ですか?」

「結婚をするということがどういう事か、分からないわけではないだろう? 夫婦になるのだ。夫婦になればいつか、子を授かる。子を授かるということは、どういうことであろうか」

「赤ちゃんができるということですね! それは男女が……えっ」

「まさか朱実はそういう未来を考えずにわたしと結婚をすると言ったのではないだろうな。一生涯清い関係で過ごそうと考えていたのなら、さすがに神にとっても生き地獄というものだ」

「あ……」


 朱実は実は失念していたとは言えなかった。が、そうであることは朱実の表情を見れば明らかである。


「困ったものだな。好きでない者とは無理だと朱実は言っていたが、わたしのことはその好きには入らないのだろうか。好きでなければ結婚もできぬと解釈するが、朱実はわたしのことが好きなのだろうか?」

「えっと、わたしは泰然さまのことを――」


 残念ながら朱実は、好きとか愛するとかいう類の感情を異性に抱いたことがない。恋愛をしたことがないのだから当然だ。父と二人で暮らして来た朱実の人生は、何をするにも一生懸命であっという間に毎日が過ぎ去ったという感覚しかない。


「たとえばわたしが、朱実にこのようなことをしたら。朱実は嫌かな?」


 泰然は朱実のおとがいを優しく持ち上げて、はらりと流れた前髪から覗く額に口づけを落とした。

 朱実はその所作の美しさに気を取られ、容易くそれを許したことに驚きと恥ずかしさが込み上げた。


「朱実、どうだ。嫌か」


 泰然は朱実の顎から指を離してそう問いかけた。

 朱実は首を横に振った。


「嫌な気持ちは、ないです。ただ」

「ただ?」

「すごく恥ずかしいです! 困ります!」


 目の前で首を傾げながら問いかける泰然は、今まで見たことのないあまりにも無邪気な顔で、朱実はいっそう顔を赤くした。思わず両手で顔を隠してしまったのだ。


(キス、キスされたっ。おでこにチュッて! あんな顔で、そんなこと……恥ずかしいっ、恥ずかしいよ)


 朱実はクールな泰然がする行為はいちいちかっこいいと首をぶんぶんと横にふって悶えている。朱実のその反応に泰然はさらに悩んだ。

 恥ずかしいと、困るということが理解できないのだ。


「朱実。ここにわたしと朱実の二人しかいない。何に対して恥ずかしいのだ? なぜにそれが困るのだ」

「泰然さまがいるじゃないですか」

「ますます分からん」

「泰然さまは平気な顔でわたしに、その、キスしましたけどっ。された時のわたしはとても滑稽です。ドキドキして、どんな顔をして泰然さまを見たらいいのか分からないですもん。わたし、変な顔してるから!」

「変な顔? どれ、顔を見せてみよ」


 両手で顔をガードしたはずの朱実の手を泰然はひょっと簡単にどかしてしまった。咄嗟にもう一度隠そうと手を上げようとしたができなかった。

 泰然が朱実の手首をしっかりと掴んでいたからだ。


「ちょっと、泰然さまってば! なにしてるんですか」

「どんな顔をしているのか確かめているだけだ。うむ。どこもおかしくはないぞ。少し頬が赤いが、それはそれで可愛らしいと思う」

「えっ、ええっ」


 朱実は顔から火が出そうだった。女心を分かっているのか分かっていないのか、泰然は相変わらずな表情で朱実を見つめて恥ずかしげもなくそう言ったのだ。


「なるほど。朱実は触れられると恥ずかしいし困るのだな。そして顔が赤くなって、わたしに見せられる顔ではないと思い込んでいたのか。そうであれば気にすることはない。わたしは朱実の赤く染まった顔も好いている」

「何を言っ……んんっ」


 泰然は朱実の両頬を手のひらで挟むと、自分の方に引き寄せた。そして、再び顔を近づける。


「ん、ふっ」


 唇と唇が重なり合った。泰然の唇は柔らかく、少し温かい。朱実はどうしたらよいか分からなかったが、反射的に泰然の着物の襟を掴んでいた。

 離れようと思えば離れられる口づけだが、朱実から離れることはなかった。初めてのキスに驚きと表しようのない感動があったのだ。

 朱実はとうとう目を閉じた。

 泰然は自分の胸元で弱々しく収まる朱実に、感じたことのない庇護欲が湧いた。口では朱実が愛する全てを愛し守ると言ったが、心からそう思えたのは今が初めてである。

 泰然は朱実の腰をさらに引き寄せて、その小さな唇を舌先で押し開けた。


 もっと朱実を味わいたい。

 もっと朱実に触れたい。


 思ったよりも簡単に、泰然の舌先は朱実の口内へと導かれる。


「あ、ふ……」


 溢れる小さな声が、泰然の身体を一瞬にして熱くした。制御するのが難しいと思えるほどの欲望が朱実に向けられる。

 朱実は泰然の熱を感じながら、ただひたすらに受け止める。泰然が朱実を支える手の温かみ、気遣うように探るその仕草からは優しさが溢れていた。


(好き……かも。わたし、泰然さまが、好き)


 しばらくすると泰然はゆっくりと朱実から離れた。


「今日の触れ合いは、ここまでだ。朱実の気持はしかと受け取った」

「心の声、聞きましたね」

「今度はこの口で言霊にのせて、聞かせてはくれまいか」


 泰然は朱実の唇を親指で撫でながら、朱実の言葉を待っている。泰然の朱実を見つめる瞳は少しだけ濡れていて、まだかまだかと催促しているように見えた。

 わたしの愛情は揺るがない、だからおまえもそうだと言ってくれ。そう、懇願されているようだ。


「好き、です。わたしは、泰然さまのことが……好き」


 導かれたように朱実はこたえた。


「その言葉に二言にごんはないのだな」

「二言だなんて、言葉がかたいですよ。はい、嘘はありません。わたし、泰然さまが大好きです」

「人間の男に心を奪われることは許さぬぞ」

「ありえません」


 朱実がそういうと、泰然は目を輝かせ口角を上げた。


(笑った! 泰然さまが、笑ってる!)


「約束しよう。わたしは生涯、朱実を愛すると。この町を必ず繁栄へと導こう」

「泰然さま」

「そうだな。結婚の儀については、大国主おおくにぬしに頼んでみようか」

「大国主様って、出雲大社の大国主ですか⁉︎︎」


 泰然はなんでもないように、「うむ」と頷いた。

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