第5話 儀式を執り行う

 大きな広間で狸のマサ吉が作った料理を食べた。

 朱実が提案した皆んなで食べようが、受け入れられたのだ。

 とはいえ広いこの部屋では、お互いの距離が遠い。主人である泰然は上座で、神使しんしのマサ吉とお加代は入口近くの下座に座り、客人扱いの朱実はその中間あたりにいた。

 泰然は愛がわらずの無表情、マサ吉は黙々と食し時々うんうんと頷く。自分が作った料理を評価しているのかもしれない。お加代は言うまでもなく、機嫌良く終始しっぽが振り切れ状態で食べていた。


(よかったのか、わるかったのか分からないね。でも、やっぱり一人で食べるよりはいいかな。こんな広い部屋でわたし一人だけでなんて、無理)


 もっとも朱実を驚かせたのは、配膳は大きなテーブルにお料理が出されるスタイルではなく、自分の前に一人用のお膳が出てきたことだ。旅館でもこのスタイルで出すところは現代ではほぼ無いのではないだろうか。小さな自分専用の箱のようなお膳に、かなり感動していた。


(時代劇みたい! 食べ終わったらコンパクトになるんだわ、きっと。お椀の手触りも本物だし。今時のプラスチックじゃない! 漆塗りかしら)


 朱実はお汁の入ったお椀を持ち上げて、まじまじと眺めた。それを見ていた泰然が朱実に声をかけた。


「そんなに珍しいのか」

「そうですね。ここの全てが珍しくて、驚いてばかりです。見えないだけかもしれませんが、建物には釘が使われていないみたいですし、このお椀もお膳もプラスチックではない。先ほどいただいたお風呂もとても贅沢な香りがしました。お金をかけた旅館ならまだしも、ここが個人の自宅だなんて信じられない」

「気に入ったか」

「気に入るもなにも、夢のような世界です。あ、夢の中だからでしょうけど」

「ふむ。ならば良いな。儀式を進めよう」

「え? 儀式?」


 泰然の言葉を聞いたマサ吉とお加代は、深々と頭を下げた。何やらとても仰々しい。そうこうしていると、泰然がパンと手を打った。

 すると景色が一転した。

 気づくと朱実は再び、ふかふかの布団がある部屋に移動していたのだ。


「ええっ! あ、お布団のお部屋だ」

「布団の部屋を寝室というのだぞ、朱実」

「そうですね。それは知っていますが」


 いつの間にやら泰然は狩衣から浴衣に着替えていた。そして、静かに朱実の前に腰を下ろした。


「では、始めるか」

「なにをですか?」

「婚前に行う儀式だ」

「こんぜんに行う、儀式……とは」


 きょとんとした朱実に泰然は近寄り、ぽんと朱実の肩を推して布団に倒した。すると、朱実の上から泰然が現れる。そして、泰然の薄い表情でありながらも、その麗しい顔がゆっくりと近づいてきた。


「えっ、え?」

「朱実に印をつける」

「し、しるっ……しるしって⁉︎」

「むむっ」


 泰然の顔があまりにも近いので、朱実は思わず泰然の顔を手で押し返した。頬が歪んでも泰然はイケメンであった。


「こんぜんって、結婚前のってことですか! なんのために! あなたはわたしをどうしようとしているの!」

「よからぬ虫がつかぬよう、まじないいをかけるのだ」

「だから、なんで!」

「朱実はわたしの妻になるからだ。いなりをわたしにくれたであろう。あれは大変美味であった。人の手で丁寧に育てられた稲穂、それを天の恵みに感謝する人々の想い。そして、その想いを神に伝える五穀豊穣の祭り。朱実の狐の舞が全てを表していた。あの日、晴れた空に雨が降り注いだであろう?」

「雨……」

「それを狐の嫁入りと、人々は言う」

「そ、それとわたしがどう関係しているの」

「朱実がわたしに嫁ぐということだ。この土地を治めるわたし氏神の、妻になる。だから妙な虫がつかぬように……」


 朱実の思考はぐるぐると慌ただしく動き始めた。

(待って! 待って、待って! これ、夢だよね!)


「これは夢だから! 夢から醒めて!!!」

「おいっ」



 ◇



 大混乱に陥った朱実はふかふかの布団の上で散々に暴れてぐったりしている。その隣で泰然は大の字で横たわっていた。おそらく落ちつかせようとした泰然は朱実の大暴れに巻き込まれたのだろう。


「おかしい。ぜんぜん夢から醒めない」

「夢ではないからな」

「そう、なんだ」

「そろそろ観念したらどうだ」

「好きでもない人とそういうことするのは嫌です。わたし、そんな軽い人間じゃないですから!」

「そんなに嫌なものか。神と契りを交わせば朱実の未来は安泰だぞ。それに朱実だけではない、朱実が住むこの多田羅の町もよくなるのだが」

「多田羅の町も?」


 泰然はゆっくりと体を起こし、朱実の前で姿勢をなおした。


「この町はもうかれこれ10年以上も天候に恵まれていないはずだ。半刻ほどしか離れていない椎野町は毎年豊作。多田羅となにが違うと思う」

「多田羅に晴れの日が少ないのは、地形のせいかしら」

「しかし昔は晴れていた」

「じゃあ、なにが違うの? わたしには分からない」


 朱実が子どもの頃までは、この多田羅町もよく晴れていた。雨も風も程よく、大きな自然災害もなかったという。しかし、ある時を境にそれは変わってしまった。


「答えは、多田羅町には土地神がいなかったからだ」

「え! 神様がいなかったの? うちは代々神社をお守りしてこの土地の氏神様を祀ってきたのよ。いないって、え? 多田羅神社の中身は空っぽだったってこと⁉︎」

「そういうことだ。少なくともここ十数年は不在であっただろう。だからわたしが此処にきた」

「どこに行っちゃったの? 多田羅神社の氏神様は」

「分からぬ。わたしもずっと探しているのだが、もうこの人間界にはいないのかもしれないな」

「そういえば、あの旅の装束を着ていたのは、前の氏神様を探しに行っていたからなの?」

「そうだ。その帰りに朱実の舞を見た」

「信じられない。すごくショック……うちの神社が空っぽだったなんて」

「朱実の父上は心当たりがあると思うのだがな……まあよい。わたしがその穴を埋めるから心配しなくていい。さあ、分かったならば儀式を始めよう」


(父は知っていた? 待って、どういうことなの)


 朱実の体に、ずっしりとした重みが加わった。泰然が朱実を組み敷いたのである。朱実が気づいた時には微動だにできないようになっていた。どんなに体に力を入れようとしても、麻痺したように動かない。


「体が、動かない」

「あのように大暴れされてはかなわんからな。すこし、術を施した」

「どうして、わたしなの」

「決めたからだ」

「いくら神様だからって、勝手すぎます」

「神とはそういうものだ。そうだな、神は人間よりも勝手なのかもしれぬ。対価を求めるし、妬みもする。わがままで傲慢だ。それを人間が勝手に高貴な者だと思い込んでいるだけだ」


 泰然は組み敷いた朱実の手のひらに自分の手を重ねた。泰然の長い5本の指が絡まって、布団に貼り付けられる。朱実は泰然を跳ね返したいのにそれができない。それどころか絡められた指にドキリとしてしまう。指の一本一本に泰然の体温を感じたから。


「その手を離してっ」

「怒るな。痛いことはしない」


 泰然の顔が朱実の胸元に近づくと、すんっと鼻を鳴らした。朱実は自分の胸元にある泰然の顔を見た。整った眉、長い睫毛、形の良い鼻、逞しい首元を見て、胸の奥に感じたことのない疼きを覚えた。


(ダメダメダメ……しっかりしてよわたし!)


「純潔の狐の娘」

「やめて!」

「では、始める」


 朱実は目を瞑った。

 観光客を装ったストーカーから逃れられたと思ったら、今度は神を名乗る者から犯される。自分はなんてついてないのだろうと、ただ心の中で嘆いた。


(これから浴衣を脱がされて、いいように弄ばれるんだわ。わたしの人生、ここで終わりよ)


 泰然は朱実の嘆きなど気にとめない。ゆっくりとその顔を朱実の首元に寄せた。


「う、んっ……」


 泰然の吐息が耳にかかり、くすぐったさと少しだけそこに熱を感じた。そして、チリとかすかな刺激に体がぴくんと反応した。痛くはない。


「よし、終わったぞ」

「……おわ、終わった?」


 朱実は恐る恐る目を開けた。間近には悔しいほどイケメンな泰然の顔がある。


(もう! 顔はいいのは認めるけど!)


「ここにわたしの印を残した。悪しきものから朱実を守ってくれるだろう」


 泰然はそう言いながら指で朱実の耳の後ろを触った。その瞬間、なんとも言えない芳しい香りが朱実を包み込んだ。


(なにこの、香り。とても、いい匂い……そういえば、この人からも同じ匂いがした)


「花のにおいがする。これは確か、沈丁花じんちょうげ?」


 朱実はそう呟きながら泰然を見上げた。すると今まで無表情だった泰然の顔がほんの少し動く。頬がわずかに上がったように見えた。


「ほう……分かるのか。たしかにこの香りは沈丁花だ。わたしの花だ」

「あなたの、花」

「朱実に危険が及べばこの香りが反応して充満する。わたしはいつでも朱実を見つけることができるのだ。だから何かあったらわたしを呼べ。この香りを放つのだ。よいな」


 初めて泰然が朱美に微笑みかけた。

 沈丁花は三大香木と呼ばれる花の中で最も香りの範囲が広いことで有名だ。またの名を千里香という。


「たとえ千里離れていようとも、わたしはおまえを見つけてみせる……」

「え……」


 突然、強い睡魔が朱実を襲った。夢を見ているはずなのに、夢の中で眠くなるなんておかしい。そんなことを思いながら、朱実は瞼を閉じた。

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