親友の厚意

―――――私は走る。胸を締め付ける様な息苦しさを感じながらも。頭部からしょっぱい汗で顔を濡らしても。足の踵から膝までの筋肉に痛みが奔っても。私は、肉体、精神に鞭を打ってその足を止めない。


 夕陽が完全に沈み切り、月が昇る時刻。

 健康を目的に建設された施設、県民健康広場健康促進センターの運動場で、光は近い内にある陸上部のレギュラー選抜の為に、己の脚を酷使しながらに走っていた。

 去年の夏に過剰練習オーバーワークで脚の靭帯を負傷した光だが、彼女は諦めずに今年の大会出場に向けて練習に励んでいた。

 

 誰もが光の活躍を期待してはいない。

 その理由は、光の脚の怪我で高校での陸上は断念してあると周知されているから。

 故に、誰も光が陰で一人練習に励み、今度の大会を狙っているなど知る由もない。光もその事を秘匿している。


 光が今度の大会に向けて練習している事実を知るのは光の両親を除いて2人。

 光の家の隣に住む幼馴染で元カレである古坂太陽。彼には合宿の際に偶然に練習している場面に遭遇されてしまった為に太陽もこの事を知っている。

 そしてもう一人、それは光が周回3キロある運動場を5周走り終えた所で現れた。


「お疲れ様、光ちゃん。今日も頑張ってるね。私的にはあまり無茶しないで欲しいって所だけど。人の忠告を聞かないのは昔からだから、もう諦めたよ。はい、差し入れのスポーツドリンク」


「はぁ……はぁ……ありがと千絵ちゃん。差し入れと一緒に小言もどうも」


 激しく打つ心臓の鼓動を整った呼吸で整え、光は千絵が渡す水滴が付着する冷え冷えのスポーツ飲料を受け取る。

 

「差し入れしてくれるのはありがたいけど。私も自分で買ってるから、別にわざわざ持って来なくてもいいんだけどな? お金も受け取らないし」


「これは私の勝手なお節介でしていることだから、お金は要らないよ。それよりも光ちゃん。足の方は大丈夫なの?」


 疲労でか、微かに震える光の脚を見て千絵は問う。

 光は頬を掻きながらに半笑いを浮かばせ。


「大丈夫……って訳じゃないけど。勿論、痛いって訳でもない。最近は治りかけているのか足の痛みも前と比べると大分マシになって来たからね。これだと近々のレギュラー選抜にも間に合いそうだ」


 光は爪先でトントンと地面を蹴って説明するが、千絵は胡乱な半眼を向け。


「痛くないから治っているって解釈は間違いだよ。怪我は悪化すると痛みを感じなくなる事がある。逆に無理している現状だと、更に悪化しているって思っておいた方がいいよ。現に、タイムも昔と比べると大分落ちているでしょ?」


 痛い所を突かれた様に光は口を詰まらす。

 そして参ったと笑い。


「……正解、かな。痛みは感じないけど、脚に違和感はあるんだ。まるで脚に重りを付けた様に重い。それに、千絵ちゃんの予想通り、全盛期と比べるとタイムは全然遅い。これだと選抜でも落ちるかもね」


 自分の事なのに笑顔を絶やさずに答える光の表情の奥に、諦めない気持ちと悲しみの感情が交錯しているようにも思えた。

 

「それでも光ちゃんは、頑張るつもりなんだよね……幾つもの理由を持って」


 千絵の問いに光は笑顔を沈ませてから少し哀しみを見せながらに頷き。


「うん。晴峰さんは私にとって憧れの選手。多分、この期を逃せば闘える機会があるかどうかも分からない」


「けど、同じ学校にいるんだから来年でもいいんじゃ……そうすれば、今よりもマシな状態で走れるんじゃ」


 確かに怪我してから1年と2年では回復量は違うだろう。

 御影は光との再戦を望み、それで最も再戦の機会が多い様に同じ学校に転校して来たのだ。

 なら、1年見送り、来年で再戦をすればいいのだろう。

 だが、光はそれを認めずに首を横に振る。


「太陽にも言った事なんだけど。先がどうとか分からない事に固執するのは私の性に合わないんだ。目の前の事を全力で頑張る。転校して来たからずっとこの学校にいる保証もない。もしかしたらまた転校するかもしれない。そうなれば、陸上を高校までって決めている私は、再戦の可能性もなくなるかもしれない」


 光が元より陸上を続けているのは太陽の存在が大きい。

 彼からの声援、応援があって始めた頃より辛い練習を乗り越えて全国の名を轟かせるまでの名選手になった。

 だが、今の光の傍に彼はいない。その為に、光は頑張る意欲を失いかけている。

 そして、自分が近くにいると彼と目の前の親友である千絵にとって邪魔な存在になってしまう為に、光は高校を卒業した後に県外の大学に進学するつもりでいる。

 そうなれば、増々陸上をする理由が無くなり、光は高校で陸上を辞めると前から決めていた。

 だから、そうなる前に自分を好敵手と認めてくれた憧れの御影ともう一度競い合いたいと思っている。

 

 だが、理由はそれだけではなかった。光自身は認めたくないが、胸につっかえる小さな感情。


 御影が転校して来て間もないあの日。

 朝露が消えない程の早朝で見た光景。

 まるで、昔の自分が居た位置で彼といる御影の姿。


「……なんでかな……。あれを思い出すと無性に、彼女だけには負けたくないって思うんだよね」


 太陽の気持ちを一切考えずの自業自得とはいえ、光は心の隅に微かに嫉妬の炎が燃える。

 もう一人の幼馴染である千絵なら全然良い。だが、ぽっと出の少し前まで他人だった御影に彼を譲る程光は大人ではない。光はその為に、自分の気持ちを押し殺して彼との関係を壊したのではないから。

 分かっている。馬鹿らしいと。自分勝手だと。今の光にそう思う資格はないと。


 それでも光は、彼女だけには負けたくないと、捨てたいと思っても捨てきれない彼への想いがそうさせる。


「何を言っているのか分からないけど、昔から光ちゃんは人の忠告を聞かないし、一度決めた事は何がなんでも達成しようとするからね。……分かった、光ちゃん。私に出来る事なら、全力で光ちゃんをサポートするよ。だからまず第一に、自分の身体を大事にして」


 千絵はそう言って事前に持って来ていたメモ紙をポケットから取り出し光に差し出す。


「これは?」


 光は渡されたメモ紙を開き中身を拝見。そこには電話番号らしき数字が並ばれていた。


「私の知り合いに整体師がいるんだけど。なんか最近この街に引っ越して来てね。私はあまり知らないんだけど、腕前は中々に評価される程らしいから、そこに電話してみて。無力な私に出来る事はそれだけだから」


「……ううん。ありがと千絵ちゃん。千絵ちゃんの厚意は本当にいつも助けられるよ。頼ませてもらうよ」


 月夜が浮かぶ夜空の下で、幼馴染の2人は笑顔を交わす。

 そして光は思う。

 

―――――千絵ちゃんがここまでしてくれるんだ。絶対に負けたくない。

 

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