凶者

M.S.

凶者

 待ち合わせをしていた。

 その用事は自分の中で優先順位としては低いのだが、〝女性と二人で花火を見に行く〟という経験は今回の機会を逃せば、今後の人生でもう無いだろうとも思い、後学の為にもそれをしようと、彼女の提案を受けて花火大会に赴く事にしたのだった。

 転校までの日数の間、時間を持て余していたというのもあって、その間無為に過ごすというのも、私の性が許さなかった。

 確かに、こう言う話を聴いた事がある。

 〝女性と手を繋いだ事も無い人間には、仕事は出来ない〟

 それは、この時代にいてははばかられるような言い草だが、時代錯誤の中年、年寄り連中はまだ平気でそういう事を言う人間が居るのも確かだ。

 今後、そんな事を言われた暁には、今の自分では反論のしようも材料も無いので、今回の彼女との事を〝材料〟にするためにも、まぁ、二人連れ立って花火を見に行くという行事はやってやらない事も無かった。個人的にこういう事はやった事が無いので、単純な興味もあった。


 はっきり言っておくと、花火なんざに興味は無い。

 情緒豊かな人間であれば、その一瞬の音と光に人の儚さを重ねるそうだが、残念ながら人間は花火じゃないし、なりたくてもなれないだろう。

 一応、読書は趣味であるので、これでも数々の本を読んで感受性については一通り学習したつもりでは居るのだが、花火を見た所で、感じるのは……、いや、何も感じないな。

 あれと、自分の部屋の電灯との違いを、明確に説明出来そうにない。

 いやはや、私も勉強不足という事かな。つくづく思索にふける度に自分の無能さに嫌気が差す。


 花火大会が行われる、神社、その鳥居が近づいてきた。

 人の往来は、とても多い。皆、花火とやらを見に来た暇人なのだろうか。どいつもこいつも、周りの浮かれた雰囲気にほだされたのかは知らないが、へらへらしている。

 私はその人ごみの中を歩く、男女の二人組を捕まえて、訊いた。

「すみません」

「何でしょう?」

「今夜、ここで花火が上がるのですよね?」

「ええ、そうですよ」

「……何で、花火をるんですか?」

 男女は顔を見合わせる。

「……それは、まぁ、綺麗だからじゃないですかね?」

「綺麗? あれが?」

 解せず、今までに知識として蓄積した〝花火〟に関係する事柄を頭の中で集めたが、どうにも彼らと同じ答えに辿り着けない。

 そこで、私は一つの仮定を立てた。

しや、花火と言うのは、女性と一緒に観る事で、そのきらびやかさが増すものでしょうか?」

「いや、それは……」

 私がそう訊くと、男女は顔を赤くして、伏し目がちにした。

 ……意味が解らない。私は今、可笑おかしな事を訊いただろうか?

「きっと、独りで観るよりは、幾らか良いとは、思いますよ」

 男性の方は、そう答えると女性の手を引いて、境内の向こうへ消えて行った。

 独りで観るよりは良い、か。

 ますます興味が湧いて来た。

 私は神社の鳥居にもたれて、彼女を待ち続ける事にした。


「ごめんね、遅れちゃって」

 それから五分程待つと、彼女が現れた。

 学級の委員長をやっている割に時間にだらしがないというのも、面白い。また、通常は眼鏡を掛けているというのに、今の彼女の耳に掛かるのは眼鏡のモダンでは無く、いつもはしどけなく垂らした髪をそこに掛けて耳を出しているのも、理解出来なくて面白い。

「何があった?」

「え?」

「いつもと様子が違う」

 最たる例は、その浴衣だろう。彼女の姿は学校でしか見ておらず、当然制服で来るものと思っていた。それが今はどうだろう。藍色のそれの上には川の流れを模した白い曲線と、金魚がしつらえられている。

「顔まわりの装いも違うし、その珍妙な着物も、見た事が無い」

「はは、君をびっくりさせようと思って」

「ああ、びっくりさせてもらったよ。花火大会に於いて女性は眼鏡を外さねばならない決まりがあるとは初耳だった」

「なによ、それ。別にいいじゃない」

 そう言って彼女は私の脇腹辺りを小突くが、自分の疼痛閾値いきち的に、この程度の痛みであればやり返す程でもないし、その労力が惜しい。

「君だって、何でわざわざ花火を見に制服で来るのよ。まるで喪服みたいじゃない」

「こんな催し物、今までに出た事が無い。当然、作法も知らない……、だが、いつも着ている制服を喪服と言ってしまうお前の言葉選びには脱帽だよ。成る程、確かにこの人の集まりは、夜空に咲く花達の葬列と言っても、過言ではないか……」

「……君、意外とロマンチストだね」

「花火を人間に重ねるような、ありふれたロマンチシズムを持つような奴には、負けるよ」

「それ、誰の事?」

「いや……、何でも無い」

 鳥居の先、参道を、彼女と歩いて行く。

「それで、花火はいつ上がる?」

「……えーっと、午後の九時だったかな」

「何? なら、まだ二時間もある。こんな早いうちから呼んでおいて、どうする気だったんだ?」

「ほら、参道に沿って、屋台が出てるじゃない。一緒に見て回ろうよ」

「興味無い」

「そう言わずに、さ」

 そう言って彼女は私の手首を掴んだ。


 参道には煌々と屋台が並び、そこに立ち並ぶ人熱ひといきれが夏の気温に乗算されて、早々にうんざりした。簡単に予想出来た事だ。私に言わせれば、サウナの中で態々わざわざ熱い茶をきっするようなものだ。何故、自分からこんな所に足を運んでいるのか自分でも訳が解らなくなってきたし、これの何が楽しいのか雑踏に揉まれている人間のひとりひとりに問いたい所だった。

「おい、葬列にしては、煌びやかだし、煩わしすぎる」

「だから、葬式じゃないってば。祭りなの。ま・つ・り。解る?」

 それから彼女は、私を連れ回して、きっと全ての屋台を回ったと思う。

 成る程。確かにこれは、此処には、私が今までの人生で触れて来なかったもののみで構成されていた。蛸の脚を細切りにして封じた食べ物にしても、玩具の銃にしても。

 あくまで〝異文化交流〟的な意味合いで、こういう世俗的な催し物に触れてみるのも、新規性に対する好奇心を満たす事としてはまだ良いかと思った。

 ただ、もう一度来よう、とは思えないが。

 それでも、やはり全てを解せる訳ではない。

 祭りを催す事によって齎される利点が。

 空に無駄に花を咲かせる事による利点が。

「なぁ、楽しいか?」

「うん、楽しいよ」

 餓鬼みたいにはしゃぐ彼女は振り返って、笑顔で言った。

「……それは、周りの雰囲気に当てられて、自分も楽しむ事を強制させられてるだけじゃないのか? そういう心理が、お前にそう、思わせているだけじゃないのか?」

「……君は、本当に猜疑心の塊みたいな人だね」

 猜疑心、か。

 私は、唯々、自分が解らない事を解りたくて、それを追究しているだけだ。疑う事ととは違う。言ってみれば、難しい問題に当たった時に、参考書を開くのと、何ら変わらない。

 唯の勉強だ。これは。

 なのに何故。

 彼女はそんなに、憐憫を含んだ眼で、私を見る?

 ……意味が解らない。私は今、可笑しな事を訊いただろうか?

「……ごめんね。怒ってるんだよね……? 私、君を守ってあげられなかった事。後悔しているの」

「守られる筋合いは無い。むしろ、守られないといけないのはお前達の方じゃ無いのか? 低い知能指数に偏差値、言葉が理解出来ない奴はすぐ手を出す、上履きを隠す、机に吐瀉物を入れる。どうすれば、こんな程度の低い事を思いつくんだ? 猿の求愛行動でも、こんな事は聞いた事が無い。低俗なお前達は、国で保護して更生施設にでも送るべきじゃないのか?」

 いつの間にか、裏参道で私達は二人だった。

 表の参道と比べて裏の参道は人気無く、お互いの言葉には何のフィルターも掛からない。そこでは、言葉には何の偽りも誤魔化しも、効かない。

 私は、黙りこくる彼女にこの場で追撃した。


「ずっと、訊きたい事があった。……学級委員長として答えろ。私は何故、俗に言う〝いじめ〟とやらを受けていた?」


 彼女は、浴衣の胸の部分を固く握ったらしい。そうしないと気持ちの興りを抑えられない程に、今の質問は難しいものだったのか?

 彼女は学業については、勿論私に遠く及ぶべくも無いが、それでも優等生の括りには入れても良い程度に出来る筈だ。

「どうして君、公式とか、メロスや李徴の心情については澱みなく答えられるのに、それが解らないのかなぁ……」

「何だと?」

「君、前回の試験、どうだった?」

「全教科百だが」

「……強いて言えば、君が百点しか取らないような、人間だからだよ」

「……? 意味が解らない。そもそも、試験に百以外の点数があるのか?」

「……そういう所だよ」

 彼女は私に向き直る。その瞳には淡い憐憫を湛えたまま。その表情から、察するに。

 どうやら私は、彼女からしてみれば、可哀想な人間らしい。


 参道から少し入った所に拝殿があったので、その裏手に、私達は腰を下ろした。

 彼女も馬鹿ではない、私のような人間を祭りに呼び出すのに何か思惑がある事は解っていた。それについて問い詰める事にした。

「何を考えている? お前がこれに私を呼び出している事にも、何か理由があるだろう。洗いざらい話せ」

「別に、企みって程の事でも無いよ……」

 彼女はそう言うものの、話す気にはなっていないらしい。サンダルから覗く足趾をぎゅっと握っては、脱力する、という事を繰り返して、目線を下に落としたままでいる。

「どうせ私は、来週には遠くに転校する。今更隠し事も、無いだろう」

 そんな彼女に、私はそう付け加えた。

 彼女に、何の呵責や忍びなさも齎さないようにする為、話し易くなるよう仕向けるように、そう言った。

 して、彼女は、観念したと言うように体の強張りを解いて、やっと話し始めた。

「……君、今の学校に来てから、良い事なんて何も無かったよね?」

「ああ」

 これは、簡単な質問だった。実際、今の学校に来てからも、〝いじめ〟は起こり、登校する度に制服はカッターで切られ、私の肩の肉には幾つものシャープペンの芯が埋まっている。

 ずっと。

 ずっと。

 そういう扱いを受けていた。前の学校でも、前の前の学校でも。

 だが、初めからそういう扱いを受けていた所為で、きっとそれが、学校に於ける〝普通〟なのだろうと考えていた。だから、味噌汁をふっ掛けられた時も、弁当を奪われて窓から捨てられた時も、深く考えてはいなかった。彼らがやるそれと、校庭でサッカーボールを蹴る事との違いが解らなかった。

 周りに転校を勧められるのは、学級の皆が私という〝サッカーボール〟に飽きたのでしなければならない不可避の行事だと思っていた。

 今の学校で彼女に会うまでは。

 ────君、大丈夫? いつも〝いじめ〟られているけど……。

 そこで、私はやっと、自分が〝いじめ〟とやらを受けている事を知った。

「君が転校しちゃうって聞いて、最後に少し、お話ししたかったんだ……」

 私に絡んで来る人間は、彼女が最初だった。そして、これで最後だとも思う。

「何故、私に付き纏う? お前が学級委員長だからか?」

「どうだろうね。そういう立場を利用したのは、否めないかな。……委員長でもないのに、君みたいな人に声を掛けるのは不自然だったし、その為に委員長に、なったんだったりして」

 どうやら彼女から自分は、〝委員長にならないと話し掛けられない〟人種だと思われていたらしいが、一体全体それは、どんな人種なのだろう。

「私はずるいよ。君を〝いじめ〟から守りたいとは言っておきながら、まず自分を守る為に委員長になったんだ。〝委員長〟という立場から君に話し掛ければ、〝排斥を受けている可哀想な同級生を案じる学級委員長〟っていう、自然な構図が出来上がるよね」

「そこまでは理解出来るな」

「もし、私が委員長でもないのに君と会話を交わしていたら、私も君みたいに、制服をずたずたにされていたかもしれないの……。君にはちょっと難しいかな」

「……解らない。何故、私と会話しただけでお前までもが〝いじめ〟の対象になる?」

 それはね、と彼女は言葉を区切った。

 第三者が、拝殿にやってきて、私達を見つけたらしい。

「同類と思われるからだよ」

「成る程」

 私は彼女の答えを聞いてから、第三者の方に顔を向けた。


「あれ、おいおいおい、委員長じゃん。……しかもそっちは、〝サンドバッグ君〟だし」

「え、ちょっと待って。……もしかして委員長達って……出来ちゃってる?」

「おいおい、もしかして、……最中だった? いやー失礼しました!」

 第三者の三人組は馴れ馴れしい態度でこちらに近づいて来た。いかにも軽薄で知能が低そうな、神経を逆撫でする声。

「おい」

 私は、彼らのけらけらと笑う声に耐え兼ねて、そう声を出して制そうとした。

「あ、おい、ちょっと待て。〝サンドバッグ君〟が何か喋ろうとしてるぞ」

「え、マジ? 口開く所初めて見たかも」

 向こうはこっちを知っているような口振りだが、私には何の事を喋っているのか解らない。

「……お前ら、誰だ?」

 私は思った事を、そのまま言った。

 すると、隣に座っている彼女は吹き出して笑った。

「君、忘れちゃったの? 少し前まで、同じ教室で過ごしたクラスメイトじゃない」

 記憶の糸を手繰たぐると、確かにこんな動物みたいな奴も、居たような。

 やっぱり居なかったような。

 だが、彼女がそう言っているのなら、実際に同じ学級だったのだろう。

「済まない、同じ学級だったのに、貴方達の事を忘れていたみたいだ。申し訳ない」

 なので、私は素直に、彼らに頭を下げて謝罪する事にした。

 だが。

「は? 何? 普通にムカつくんだけど」

「はぁ……、もう、ボコっちゃうか」

「激しく同意」

 雰囲気で、彼ら三人が臨戦態勢に入ったのが解った。無論、その矛先は言うまでも無く私のようだ。

 私は、彼女に訊いてみた。

「さっきの話を総合すると、お前は私と一緒に居る所を見られる所為で、自分も〝いじめ〟を受ける事になる、と言っていたな」

「いや、まぁ、身も蓋も無い言い方をすれば……」

 きっとそれを肯定すると、私が不憫であるからか、言葉を濁したが。

「じゃあ、今のこの状況も、お前に迷惑が掛かっている事になるな?」

「うん……、そう言う事に、しようかな」

 彼女は忍びなさそうに、そう付け加えた。

 それを受けて、とりあえず、邪魔者を排除する事にした。


 完全に伸びている三人を拝殿の中に放り込んで、ふたりの世界を取り戻した所、彼女はぽつぽつと話し出した。

「……そんな事だろうと思ったけど、君は、本当に何でも出来ちゃうんだね」

「人を殴るのも、方程式を解くのも、違いなんて無い」

 私の言い草で、彼女は、ふふ、と笑って空を見上げた。頭上の林の葉の間から覗く夜空にはまだ花火は上がっていないが、十分ここからでも見物出来そうだった。

 それはそれで好都合だった。元々今日の主な目的は、花火というものを民俗学的な見地から観察を行って、それを理解しようという事だった。一々また人集ひとだかりの中に潜って、その中で見物を行おうものなら夜空の大輪なんぞに集中出来るはずも無く、地上の人の熱気で私の角膜がくもるだろう。

「……君が〝いじめ〟られてしまうのはね、君が弱いからじゃない。君が強過ぎるからなの。……君は、土の上を歩く蟻の気持ちについて考えた事ある?」

「ある筈も無い」

「そうだろうね。私も、しょっちゅうは......無いかな。……でも、私達人間は気付かない内に、蟻を踏んでしまう事もある……」

 私はそこで、無意識に溜息を吐いてしまった。彼女には失礼かとは思ったが、彼女の話は不合理的すぎる。例えば、一足す一は二である事は分かりきっていると言うのに、それを態々取り上げて、本当にその解は〝二〟なのだろうか。その〝二〟というのは見掛けだけであって、本質は違うのでは無いか? そんな感じの禅問答のような事に私を付き合わせる癖がある。

「もういいから、さっさと答えの部分を言ってくれ。〝蟻〟と〝蟻を踏む人間〟は、それぞれ誰の事を差している?」

「私は、君に、それを自分で解って欲しいの……。じゃないと、君はこの先でも、今までと同じ扱いを受け続ける事になると思うから……」

「……」

 私はそろそろ苛々し始めてはいたのだが、そこで立ち上がって彼女を置いて、花火を見ずに帰路に就こうという気にはなれなかった。


 ────彼女の潤んだその双眸が、真っ直ぐに私を貫いた所為で。


 なんだ、これは。

 動けない。

 物理的に彼女が私に干渉している訳では無い。干渉しているとすれば、それは形では無い部分、私と彼女の視線だけだが。

 何と言うべきか、彼女が不可視の竹槍で私の肚を貫いているが如く、私を此処に留める。

 この感覚は、知らない。学校で習っていない。

「お願い……、今日、此処で、理解して……。理解してから、遠くへ行って欲しいの……。じゃ無いと、君は、近い将来、壊れてしまうかも」

 ……意味が解らない。彼女は今、可笑しな事を言っている筈だ。

 だが、今、私達二人の間に滞留している空気の重みは〝可笑しい〟のみで片付けるには重過ぎる。

 そして、 その重みに耐え兼ねたのか、彼女の瞳には涙液の膜が張って。


 初めて見たそれが、唇に艶を与える為のリップグロスではないかと、私は直感した。


 私は、自分の中で新しく生まれた本能のままに、自分の人差し指を彼女の眼球に当てがおうとした。

「……ど、どうしたの?」

 当然彼女の瞼は、私の指に対して眼瞼閉鎖反射を引き起こし、そのまま後ろにたじろいだ。

「駄目だ。瞼を開いてじっとしていろ」

 左腕で彼女を逃さないようにその体躯を抱きすくめ、右手の示指を彼女の眼に近づける。

 解らない事があれば、解るようにしておきたいのが私のさが

 そう。

 これはさがであって、せいでは無い。

 唯の追究だ。

「これをすれば、君は、私の言った事が理解出来るようになるの……?」

「解らない。出来るようになるかもしれないし、出来ないままかもしれない。けど、やってみたくなった。頼む、じっとしていてくれ」

「……うん、良いよ……」

 私の示指が眼に近づくに連れて、彼女の瞳孔が散瞳し、その瞳は私達の頭上に広がる夜空と大差が無くなった。

 そして遂にその夜空に触れた所、その暗闇から一雫ひとしずく驟雨しゅううの粒が、彼女の頬をつたった。

私は示指に付いた雨粒を、彼女の口唇に設えたのだが。


 そこで丁度、その夜空の中に夏紫苑はなびが上がった。


 すると、するとするとすると。

 その潤んだ夜空に咲く大輪の花は、私の中に、見た事も聞いた事も感じた事も無い情動反応を引き起こした。

 湿った吐息を漏らす艶かしく赤い、涙で化粧を施した鈴緒すずおを見て、心に魂縛を掛けられた。

 巫山戯ふざけている。

 毎日、同じ学級で過ごして居ながら、これを見逃していた自分が巫山戯ている。

 普段は彼女が眼鏡の奥に、こんなにも見惚れる程の夜景を隠して居たなんて。

 ……どうしてだ? こんなもの。こんなもの。本当なら持ち物検査に引っ掛かる筈だろう。こんなものを見落とすなんて、怠慢だ。

 先生も。

 私も。

 女性の瞳と言うのは、此処まで私の心の風紀をただれさすか。

 ……成る程。彼女が今日に限って眼鏡を外して此処に来た事も、納得がいく。〝涙とは女の武器だ〟と誰かが言ったらしいが、きっとそいつの死因は、その女の涙を見た所為だ。

 私の死因を、彼女の涙にしてみるのも、一興だ。

「……解るかもしれない」

「……え?」

「来いっ! 付いて来い! 花火をっ! もっと近くで見る必要がある!」


 その花火は神社の隣に流れている川を挟んで、向こう岸で着火されているようだった。

 こちら側の岸の河川敷に向かって、私は彼女の手を引いて走った。河川敷まで着くと大量に人で溢れかえって人垣で埋め尽くされていたが、私の中の最優先事項がそれらを突き飛ばして強引にその中を縫っていった。

 彼女は周りの人間に申し訳無さそうに軽く頭を下げながら、私にされるがままになっている。

「……あ、危ないよっ」

「瞳に暗器を仕込むお前が言う事じゃない!」

 そうしてそのまま周りの人間には目もくれず、突進するように人を押し退けて川沿いの転落防止柵まで来た。

 花火はまだ上がり続けている。

 私は彼女に命じた。

「その瞳に、あの花火を映してみろ!」

「えっ?」

「ああ、じれったい! 空を見上げてみろと言っている!」

 私は彼女の双肩を掴み、川と並行になるよう彼女の体幹の向きを強引に変えた。

「花火を、見れば良いんだね?」

「ああそうだ、ずっと見ていろ、まばたきは許さん」


 花火に向いた彼女の、夜空の瞳の中一杯に、大輪の夏紫苑が現れ。

 咲いては消えていった。

 ……何故消える?

 消えるな。

 ああ、妬ましい。私が硝子工芸職人でない事が妬ましい。もし私が工芸職人なら、今この瞬間に彼女の眼球を抉り取って、その瞳に宿る夏紫苑を永遠にしてやれたのに。

 ……待てよ。花火は毎年咲く。夏紫苑は毎年咲く。来年の夏紫苑を、まだ私は知らない。彼女の眼球を飾り棚に置いたなら、それはもう来年の夏紫苑を映さなくなる。

 それは違う。

 なら、私がなるべきは、硝子工芸職人などでは無い。

 ならば。

 ならば。

「解ったぞ……」

「え?」

 彼女が夏紫苑の瞳をこちらに向ける。

「お前がさっき言っていた話だ。……要するに〝蟻を踏む人間〟はお前で、〝蟻〟はお前以外だ!」

 解を見つけた私は川と花火に向かって、勝利宣言のような高らかな笑い声をあげて絶頂した。

 その笑い声は花火がその最後の一輪を夜空に溶かすまで続いた。

「全然、違うよ……。何よ、それ」

 そんな私を見て彼女はころころと笑いながら、瞳の奥から夏紫苑の花弁を経由して、更に露を落とした。


 どうやら、確かに花火とは、独りで観るよりは二人で観る方が良いらしい。

 瞳と頬に、涙液で化粧を施した彼女の横顔はもう、地上の星座、その一等星とも呼べる程に煌めいている。もう夏の大三角だろうが、冠座のアルフェッカだろうが、話にならない。もう私は今後一生、星座に興味を抱く事は無いだろう。


 花火とは。

 二人で観るから綺麗になるのでは無く。

 花火を観る女性が、唯々綺麗なだけだ。


────────────


 私は転校を取り止め、そのまま学校を退学した。

 あの日、私は彼女の涙に〝殺された〟

 その時までの私は死に、代わりに別の私が生まれた。

 魅せられたのだ。

 あの夏の日に、あの女に。

 あの夜空に。

 あの夏紫苑に。


 私は、女性を輝かせる為だけの、メイクアップアーティストになる事にした。


 技術を磨きながら、街に繰り出しては私の業の被験者になる女性を探して練り歩いた。色々な女性が居た。

 美人、醜女、佳人、儚い女性、消え入りそうな女性、色素が薄い女性、存在感のある女性、髪の長い女性、髪の短い女性、男性的な顔の女性、九頭身の女性、唇の厚い女性、睫毛の長い女性、眉骨の出た女性、顔の凹凸が少ない女性、目測でウエスト五十センチ程度の女性、胸が豊かな女性、そうでもない女性、頬骨の高い女性、小鼻が小さい女性、鼻柱のはっきりした女性、眉毛の濃い女性、耳の小さい女性、膝の裏が綺麗な女性、身長二メートルを超えた女性、全ての部品が黄金比に則った顔の女性。

 十年探したが、それでも、瞳に夜を湛える女性は、遂に見つからなかった。


 そんな中、同窓会の手紙が届いた。とある文化センターのホールで行うとの事だった。委員長の彼女が居た学校のものだった。

 特注で作った化粧箱を両手に、私は家を飛び出した。


 受付の人間に案内され、会場の入り口の両開きの扉を、両手が塞がっていたので蹴り飛ばして中に入ると。

 だだっ広い空間の真ん中に、化粧台と、その傍らに彼女の後ろ姿、その二つのみがあった。

「やぁ」

 近づくと彼女は振り返り、そう私に声を掛けた。

 こちらに向いた彼女の顔の上には、私の求めていたものが全て、乗っかっていた。

 長い年月の間に、彼女の夜空は成長していた。

「同窓会はどうなった?」

「今からやるよ? 君と私だけでね」

「粋な事をするじゃないか」

「君は周りの事を中々理解出来そうにないから、私が君を理解する事にしたんだ」

 そう言って彼女は、瞼を弧にすると、その夜空を三日月の形にした。

 それを見て、彼女の瞳を濡らしたい衝動が肚の奥の辺りから突き上げてくるのを感じる。

 もう、我慢出来ない。

 私は用意されていた化粧台の鏡を蹴り破り、その卓の上に自分が持参した化粧箱を開いた。

「鏡は要らない。お前を観るのは、私だけで良い」


 そうして私達は、そのままそこで、二人だけの結婚式を挙げた。

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