<20> 償い

 その帰り、ノアが馬屋で馬を返している間、さくらは通りで待っていた。ポケーッと立ったまま通りを眺めていると、一角の細い道から声が聞こえてきた。何やらもめているような声だ。

(え~・・・。嫌だなぁ・・・)

 喧嘩かもしれないと思うと、さくらは身震いした。早くノアが戻ってこないかと思った時、

「助けて・・・!」

と微かに女性の声が聞こえた。さくらはギョッとして、声の方に目を向けた。するともう一度、

「誰か・・・!」

という声が聞こえた。さくらは思わずその方向に走り出した。


 さくらが駆け付けた場所は、小さの路地だった。その奥で、一人の男が女からバッグを奪おうとしていた。女は必死に抵抗し、バッグを離さない。既に何度も殴られたのか、髪は乱れ、顔は腫れている。それを見てさくらは恐怖で足がすくんだ。息を呑んで見つめている間にも、女は殴られている。さくらは我に返り、

「誰かー!誰か来てください!」

と大声で叫んだ。その声に二人はさくらに振り向いた。女は安堵したのか力が抜けたようだ。男はその隙を見逃さず、バッグを奪い取ると、さくらに突進してきた。

「・・・ひっ!」

 さくらは小さく悲鳴を上げると、目を閉じた。体当たりされる覚悟し、首を竦めて身構えた。

――ドン!

という音という衝撃音がしたが、さくらには何もぶつかってこなかった。

(あれ・・・?)

 さくらは恐る恐る目を開けると、目の前にひったくり男が仰向けに倒れていた。隣に人の気配を感じ、目を向けると、フード付きのマントで顔を隠した長身の男が立ち、片手を前にかざしていた。

 フードの男は無言でひったくりを立たせると、腕を背中側に捻り上げた。その時ノアが駆け込んできた。さくらを抱きしめると、自分の背中にさくらを匿い、フード男を睨んだ。

 フード男はそんなノアを無視するように顔を背けると、ひったくりが落としたバッグを拾い上げ、女に渡した。女はお礼を言いかけたが、フード男の顔を見て叫び声をあげ、腰を抜かして尻もちをついた。その様子にひったくりも恐る恐るフード男の顔覗き込んだ。途端に悲鳴を上げ、後ろ手に捻り上げられた腕を解こうと暴れだした。

 その異様な様子にノアもさくらも立ち尽くして、呆然と見つめていた。しかし、ちらりとフードの隙間から男の顔が見え、さくらは絶句した。その顔は酷いケロイドだった。ノアもその顔が見えたのだろう。顔を歪めると、鋭い目線をフード男に投げかけた。


 そこへ巡回中の兵士たちが駆け寄ってきた。すぐさまフード男を捕えようとしたので、さくらは慌てて前に飛び出した。

「違います!違います!こっちの男が犯人ですっ!あの女性からバッグを奪おうとしたの!そうですよね!?」

 さくらは女に向けて同意を求めた。女は尻もちをついたまま、無言で頷いた。

「この方は私を助けてくれた上に、犯人を捕まえてくれたんですよ!」

 さくらは兵士に向かって必死に訴えた。被害者の女も、相変わらず無言のまま、何度も頷いている。二人の女の態度と、隙あらば逃げ出そうとする男の様子に、兵士たちは確信したのか、フード男から手を離した。

「失礼した。ご協力感謝する」

 そう言うと、ひったくり男を連行していった。

 さくらは女に駆け寄ると、

「大丈夫ですか?」

と声を掛け、立ち上がるのに手を貸した。それを見たひとりの兵士が、女に近寄り、

「怪我が酷い。近くの診療所までお連れしよう」

と手を差し出した。

 女はさくらと兵士に深々と頭を下げ、お礼を言った。そしてフード男にも目を逸らしたままだが、深くお辞儀をして、兵士と共に路地を抜けていった。


 その間もノアはフード男から目を逸らさなかった。まるで矢を射るような鋭い視線を向けているノアを見て、さくらの心臓のドクンドクンと波を打ち始めた。さくらの中でも「もしかして」という漠然とした思いがあったが、ノアの強い視線がそれを肯定しているようで、鼓動がどんどん早くなっていった。

 祈るような思いで、二人を見ていると、フード男はゆっくりノアの方に振り向き、片膝を付いて頭を下げた。

「生きていたんだな・・・。イルハン」

 ノアの低い声が路地に響いた。フード男は無言で頷いた。

 さくらは両手を口に当て、膝から崩れるように、その場にへたり込んだ。目から涙がどんどん溢れ、二人の姿がすぐにぼやけてしまった。

「・・・よく、俺の前に姿を現せたものだな・・・」

 さくらの感動とは裏腹に、ノアの声には怒りがこもっていた。そして、腰に差している剣の柄に手を掛けた。さくらはノアの行動が理解できず、目を見張った。

「俺に殺されに戻ったか?」

 ノアの恐ろしいほど低い声に、さくらはゾクッと背筋が凍り付いた。ノアは剣を抜くとゆっくりイルハンの前に近寄よった。そして、頭を下げているイルハンの首元に剣を近づけた。それを見てさくらは全身が総毛だった。ジュワンに剣を突き付けられたことを思い出し、息がどんどん苦しくなった。

「・・・どのような理由があれ、陛下を裏切った事実には変わりません。それは大罪でございます。どうぞこの場で私の首を刎ねてください。償いのために戻りました」

 イルハンの声はかすれていて聞き取りにくい。おそらく声帯も火傷を負ったのだろう。しかし無理やり絞り出す声には、迷いは感じられなかった。

「そうか・・・」

 ノアは冷ややかにイルハンを見下ろして、剣を持つ手に力を込めた。その時、後ろで酷く荒れた呼吸が聞こえ、驚いて振り返った。

 さくらは過呼吸に陥り、苦し気に胸を押さえて蹲っていた。ノアは慌ててさくらに駆け寄り、抱きかかえた。

「どうした!?さくら!しっかりしろ!」

 ノアに抱きしめられ、ノアの体温を感じると、さくらは次第に落ち着いてきた。自分が過呼吸に陥ったことに気付き、呼吸を吸うことより吐き出すことに集中した。そして少し呼吸が落ち着くと、ノアの剣を指差した。

「剣が・・・、剣が怖い・・・です・・・」

 ノアは急いで剣を鞘に納めると、もう一度さくらを抱きしめた。

「すまない!」

 さくらは暫くノアに身を任せたまま、呼吸を整えていたが、ある程度普通の状態に戻ると、ふらっと立ち上がった。ノアもすぐに立ち上がり、さくらを支えた。さくらはノアが支えた手を上から握ると、にっこりと微笑んだ。そして、そっとその手を外すと、ゆっくりイルハンの方に向かった。イルハンは心配そうにさくらを見ていたが、さくらが自分に振り返ったことに気が付き、慌てて頭を下げた。


 さくらはイルハンの前に来ると、同じ目線になるように膝を付いた。そして優しくイルハンの手を握った。イルハンは驚いて顔を上げたが、自分の顔が醜いことを思い出し、すぐに顔を伏せた。一瞬見えたさくらの瞳は涙で潤んでいた。その瞳にイルハンの胸に熱いものが込み上げてきた。

「あの時、助けてくれてありがとうございました。イルハンさん」

 さくらは両手でイルハンの手をしっかり握りしめた。

「・・・。私は、陛下を・・・、さくら様を裏切ったのですよ・・・?」

 イルハンはさくらの言葉が信じられないように、思わず顔を上げてさくらを見つめた。さくらはイルハンの視線を外すことはなかった。

「でも、最後は助けてくれたじゃないですか。おかげで私たちは今生きているんですよ」

 さくらはイルハンに優しく微笑んだ。イルハンの眉毛もまつ毛もない瞳から涙が流れ落ちた。

「私はイルハンさんが生きていてくれて嬉しいです。でも、イルハンさんには酷なことかもしれませんね。でもここで簡単に命を捨てるのは逃げですよ」

 さくらはイルハンの手を自分の胸元に引き寄せ、じっと瞳を覗いて力強く言った。

「あの時に命を落としていれば、自分の人生を美しく終わらすことができたと思っているのでしょう?でも、あなたは生きている。このような辛い姿で・・・!これが償いでなければ何なのでしょうか?」

 イルハンは空いている手をさくらの手に重ねた。そして力強く握りしめると、それを額に押し付け嗚咽した。さくらも目を赤くして、それを見守っていると、上から強い視線を感じた。見上げると、ノアが近くで二人を見下ろしていた。その瞳にはまだ怒気が残っているが、目の淵に光るものがあった。

「・・・陛下・・・」

 さくらはノアに向かって呟いた。その言葉にイルハンも顔を上げた。

「・・・いつまでさくらに触れているつもりだ?」

 イルハンはさくらから手を離し、ノアの前に跪いた。

「・・・二度目はない。いいな?」

 ノアは低い声で言うと、さくらを立たせ、自分の方へ引き寄せた。イルハンはノアを見上げた。

「これからも、お前は俺の手足だ。それだけがお前の生きる道だ」

 イルハンはノアの前にひれ伏すと、むせび泣いた。何度も何かを口にしたが、掠れて聞き取れなかった。ノアとさくらは、イルハンが泣き止み、立ち上がるまで、ずっとその場で見守っていた。

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