<2> 王妃の恋心

 帰国してからのノアは、今まで王座を空けていた分、公務に追われ、多忙な日々を送っていた。その上、さくらの足の怪我が想像以上に酷いため、完治するまで、夫婦としての生活は先送りされた。

 ノアはそれが面白くなかった。正直、すぐにでもさくらを抱きたかった。ドラゴンだった時から、時々、無性にさくらが欲しくなる感情と必死に戦っていた。そして今、やっと人としてさくらの前にいるのだ。それも夫として。

「はぁー・・・」

 ノアは自分の執務室の机で両手を前に組み、それに頭を付けて、大きな溜息をついた。ドラゴンだった時は常に一緒にいたのに、今は多忙過ぎて、さくらに会うこともままならない。ノアは横目で机の上の書類の山を睨みつけた。


 一方、さくらは三日間ほど寝たきり状態だったが、四日目にはリハビリと称して、城の中を徘徊し始めた。手始めに図書室に通うようになり、もう少し歩けるようになると、庭園にも出てみた。

 そこで初めて気が付いたのだが、第一の宮殿内に監視の目が増えていた。今回の事件を受けて、城の警備の強化とさくらの監視が厳しくなったのだった。救助に当たった近衛隊には『異世界の王妃』の存在と、さくら自身が知れ渡ったので、彼らも第一の宮殿内を見回る兵士として加わることになり、さくらの監視役はイルハンだけではなくなった。おかげでさくらは顔見知りが増え、監視が強くなっても、あまり苦にならなかった。それだけではない、今はノアがいた。


 ノアは朝夕の食事をさくらと共にし、昼間でも空いている時間を見つけると、さくらに会いに来てくれた。さくらはノアの気遣いがありがたかった。今まで未知の存在の夫に漠然とした不安を抱いていたが、ノアはその不安を吹き飛ばした。常にさくらに紳士的に接し、何かと気を配ってくれた。多少、俺様なところもあるが、それは国王なのだから仕方がない、許せる範囲だ。そして何よりもハンサムで頼りがいのある男性だった。彼が自分の夫と思うと鼻が高くなる。たとえ理由はどうであれ、好意を持たれていることは純粋に嬉しかった。


 十日ほどたったある日、さくらは図書室に来ていた。まだ杖を突いているが、大分楽に歩けるようになってきた。窓辺近くの席で本を読んでいると、一つの影が本の上を通り過ぎた。さくらはハッとなって外を見た。鷹ぐらいの鳥が窓辺の横を飛んで行ったのだった。さくらは思わず窓を開けて、飛んで行った鳥を目で追った。

 途端にさくらはドラゴンのことを思い出した。もちろん忘れていたわけではない。ずっと心に思っていた。だが、小さくなったドラゴンと同じ大きさの鳥を目の前にすると、急に胸が苦しくなるほどの不安に襲われた。

(あの子は、あの大きさで本当に生き延びていけるの?)

 さくらは図書室の窓から見える山を見た。

(もし帰ってきていたら・・・)

 さくらは居ても立ってもいられなくなった。すぐにでも、洞窟に飛んでいきたい気持ちにかられた。だが、まだ杖の助けを借りて歩いている以上、あの洞窟までの道のりを歩くのは難しそうだ。でも・・・。

(いや、気になる!明日行ってみよう!)

 さくらはそう決心すると、頭の中で、明日の計画を立て始めた。


 翌朝、さくらは小さい袋に少しだけ果物を入れて、庭に出ると、監視の目を潜り抜け、難なく森の中に入ることに成功した。ただ、ここからが難関だった。道らしい道は途中までで、その先はなかなかの獣道だ。何度も通っているので、普通の時のさくらにはどうってことのない道だが、杖を付きながら歩くにはかなりの至難だった。痛めた足を庇いながら、ゆっくりと進んでいき、いつもの倍以上の時間をかけて、やっと洞窟に辿り着いた。

 さくらは洞窟に向かって声をかけた。もちろん返事はなかった。さくらは何度も何度も声をかけた。しまいには涙声になり掠れたが、それでも声をかけた。さくらは涙を拭き、袋から果物を出すと、洞窟の入り口に置いた。

「また来るね・・・」

 さくらは洞窟に向かって呟くと、もと来た道を引き返していった。




 二週間以上経つと、さくらはノアに対して、大分フランクに話せるようになった。何よりもノアがそれを望んでいたし、彼の積極的なアピールが、さくらの緊張感や警戒心を解していった。

 さくらはノアとの距離がどんどん縮まるのを感じ、もしかしたら、彼の好意は『異世界の王妃』ではなく、自分自身に向いているのではないかと期待し始めた。そう思い始めたら、さくらがノアに恋に落ちるのはあっという間だった。


 ある日、庭園を散歩していると、ノアがやってきた。まだ杖を付いて歩いているさくらに、必ず二人以上で散歩するようにしろ、転んだらどうすると説教した。

「心配性ですね」

とさくらは笑った。ノアはそんなさくらの手を取ると、

「こっちに行こう」

と歩き出した。ノアに突然手を繋がれ、さくらの鼓動は急に早くなった。ドキドキしながらも嬉しくて、繋がれた手をぎゅっと握った。ちらっとノアを盗み見たが、ノアは顔色一つ変えず、澄まして歩いている。少しがっかりして、目線を前に戻すと、ノアの手がさくらの手をぎゅっと握り返してきた。たったそれだけのことだが、恋する乙女には天にも昇る思いだった。


 ノアが向かったのは第一の宮殿と第二の宮殿を繋ぐ中庭の回廊だった。そしてその回廊の隅にある一つの廊下に入った。さくらはこの薄暗い廊下に見覚えがあった。

(そうだ!イルハンさんに怒られた、あの箱庭に続く廊下だ)

 さくらは黙ってついて行くと、案の定、ちいさな扉に辿り着いた。ノアは躊躇なくその扉を開けると、さくらの手を引き、中に入った。

 やはり、そこには見たことがある景色が広がっていた。手入れが行き届いていない木々に、真ん中にある可愛らしい噴水、そして端の方にある月見台・・・。

「あの・・・。陛下、ここは・・・」

 さくらは恐る恐る訪ねた。イルハンに絶対に来るなと言われた場所だ。それを自由に出入りできるとは、国王だから?・・・つまり?

「ここは俺だけの庭だ」

(やっぱりー!!)

 さくらは、冷や汗が流れた。

「他に入れる人は・・・?」

「誰も入ることを許していない」

(だからか・・・)

 イルハンが頭を抱えるわけだ。自分はとんでもないところに入り込んだのだ。今度はさくらが頭を抱えた。

「・・・?どうした?足が痛むのか?」

 さくらが青くなっていることに気付いたノアは、さくらの前にしゃがみ、怪我している左足を見ようとした。

「違います!違います!」

 さくらは慌てて、ノアを立たせた。そして、意を決したように、

「ごめんなさい!」

と頭を下げた。ノアは驚いてさくらを見つめた。さくらは顔を上げると、

「実は・・・」

 自分はここに来たのが初めてではないことを正直に話した。勝手に忍び込んだこと、もう一つの扉を抜けて、第二の宮殿まで行ったこと、そこでイルハンに捕まり、大目玉を食らったこと、すべて隠さずに告白した。


 ノアは、最初は目を丸くして聞いていたが、途中から、くくっと必死で笑いを嚙み殺しながら聞いていた。いかにもさくららしい行動だと思った。ドラゴンの洞窟までやってくるような女だ。宮殿内など探索しつくしていてもおかしくない。

 さくらは自分の告白に、怒るどころか、肩を震わせて、必死に笑いを堪えているノアをポカンと眺めた。

「いや、笑ってすまん・・・」

 まだクスクスと笑いながら、ノアは、

「お前は特別だ。いつでもここにきていい」

 そう言い、さくらの手を引くと、端にある月見台の近くに来た。その奥の壁には一つの扉があった。その壁はとても高くそびえ立っている。よく見るとそれは第二の宮殿の壁だった。上の方には窓が二つあり、その下に小さい穴のような小窓が数個、縦に並んでいた。

「一度来たなら分かると思うが、この庭は、第二の宮殿の一番端に、無理やりつけるように作った箱庭だ」

 ノアはそう言うと、壁の窓を指差した。

「あの窓のある部屋が、俺の執務室だ。そしてこの扉は、俺の執務室に続いている階段だ」

 ノアがその扉を開けると、確かに細く急な階段が螺旋状に上に伸びていた。

「ホントだ、階段・・・」

 さくらは興味深そうに中を覗いた。僅かな光しか入らず、とても薄暗い。小さい穴のような窓は、この階段の明り取りだった。

「じゃあ、行くぞ。負ぶされ」

 ノアは、さくらの前に背を向けてしゃがんだ。

「はい?」

 さくらは驚いて、目を丸くした。戸惑っていると、ノアは顔だけ振り向いて、さくらを見上げた。

「その足では登れないだろう」

(でも、おんぶって・・・)

 恋する相手というだけでも、躊躇するのに、それ以前に彼は国王陛下だ。安易に負ぶさっていいものなのか?

 なかなか負ぶさらないさくらに、ノアが立ち上がると、さくらを横に抱き上げた。

「!!」

 突然のお姫様抱っこに、さくらの目はもっと丸くなった。

「これだと、足元が見えづらいから、負ぶさってもらった方がよかったのだがな」

 ノアは意地悪そうに口角を上げて、さくらを見た。その笑みにさくらの心臓はもう持ちそうになかった。

「わかりました!おんぶで!おんぶでお願いします!」

 さくらは真っ赤になって降りようともがくが、ノアはしっかりとさくらを抱えると、

「もう遅い」

と言い、階段を上り始めた。


 薄暗い階段を上りきると、小さな扉があった。ノアはそれを押して、中に入った。

「わぁ!」

 そこは茶色を基調にした、重厚感あふれる部屋だった。扉のすぐに傍に執務用の大きな机があり、立派な椅子がある。机の向こうには広々とした空間あり、応接用のソファーとテーブルのセットと、軽い打ち合わせができるようなテーブルと椅子が置いてあった。執務机のすぐ横に、裏庭に抜ける扉があるということは、有事の際は、そこから外に抜け出せるための通路なのだろう。さくらは直感的にそう思った。そして窓から下を覗くと、さっき自分たちがいた箱庭が見えた。

「ここでいつもお仕事をされているんですか?」

とさくらが聞くと、ノアは執務机に寄りかかりながら、頷いた。

「すごい書類の山ですね・・・」

「・・・訳あって少し仕事を溜めていたからな」

 ノアは肩をすくめた。

「あー、結構長い間不在にされていましたものね。理由は聞きませんが」

 さくらは気の毒そうにノアを見た。さくらも社会人経験があるので、休んだ後の仕事の追い込みがどれだけ大変かは分かるつもりだ。

「私にも何かお手伝いできることがあればいいんですけど・・・」

 さくらは書類の山を見て呟いた。

「・・・じゃあ、お願いしようか」

 ノアはさくらに近づいた。ノアの口角はわずかに上がっている。さくらは、思わず後ずさりした。じりじりと近づくノアに、あっという間に窓辺に追いつめられた。

「何故逃げる」

 ニッと笑うノアに、さくらの心臓はドクンドクンと波打った。まともに顔を見ることができずに、思わず目を逸らすと、長い指がさくらの顎を掴み、前を向かせた。

「手伝ってくれるのだろう?」

 ノアの親指がさくらの唇をなでた。揺れた瞳がじっとさくらに注がれる。

「え・・・。あ、まぁ、その、お仕事を、です・・・」

 さくらはドキマキしながら答えた。もうノアの甘さにノックアウト寸前だった。

「ふん、仕事か」

 ノアは目を細めて、さくらの顔を両手で包んだ。

「では、仕事をするための鋭気をもらおう」

 さくらは目を閉じた。ノアはその表情を愛しそうに眺めると、さくらの唇に自分の唇を重ねた。

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