<118> 新しい命

春うららな日々も過ぎ、そろそろ夏になる頃、いつの間にか日も伸びて夕方でも明るい。

縁側では、そんな夕方の日を全身に浴びた柴犬が気持ち良さそうに寝そべっていた。


その縁側の前の庭で、昌子は洗濯物を取り込んでいた。

犬は忙しく働いている昌子の事など見向きもせず、のんびりと欠伸をしている。

時折、傍にある大きなバスケットの中を覗くが、中を見ると安心してまたゴロンと横になる。それを繰り返していた。


家の奥からは、夕飯の支度中の良い匂いが漂ってくる。

そこに幸之助が畑から帰って来た。


柴犬は幸之助に気が付いても、起き上がることもなく顔だけ向けた。

ただ、尻尾だけは引きちぎれるほど激しく振っているので、喜んでいるのは分かる。

自分が幸之助の傍に行くのではなく、老人が自分のところに来て、撫でてくれるのを待っているかのようだ。


(自分はここを離れられないのだから、早く来て撫でて!)


と言わんばかりだ。

幸之助はニコニコしながら、柴犬の傍に来ると、ぐりぐりと頭を撫でた。


「おお、いい子だな。今日も穂香のお守をありがとな」


そうして、バスケットの中を覗き込んだ。

その中には、赤ん坊がスヤスヤと眠っていた。


「おじいちゃん、ちゃんと手を洗ってちょうだいね」


昌子は洗濯物を取り込みながら、幸之助を注意した。


「おお。分かってるよ。汚い手で穂香に触ったらお前にも怒られるもんな」


幸之助は柴犬に笑いながら話しかけると、外にある水道で豪快に手を洗い始めた。


「おかあさま。ちょっとお味見して頂いていいかしら?」


そこへ、エプロン姿でお玉を持った綾子がやって来た。


「ああ、はいはい。ちょっと待ってね。おじいちゃん、穂香を見ててね」


よっこいしょと言いながら、縁側から家に上がると、綾子と一緒に台所に向かった。


幸之助はこれもまた豪快に濡れた手をブンブン振って水気を払うと、バスケットの傍にドカッと腰を下ろし、中を覗いた。

スヤスヤ眠っている赤ん坊を、今にもトロけそうな笑顔で見つめると、無意識に頬を撫でようと手を出した。

すると、柴犬は幸之助の手が赤ん坊の顔に触れる前に、その手を鼻先でツンツンと押しやった。


「そ、そうか。お越しちゃいけねえな」


幸之助は慌てて手を引っ込めて、柴犬を見た。

そして、二人、いや、一人と一匹は幸せそうにバスケットの中を覗いた。


暫くすると、玄関の方から扉が開く音が聞こえ、柴犬は立ち上がった。

そして、赤ん坊と幸之助を置いて玄関まですっ飛んで行った。


「ただいま!」


香織は、興奮して飛び跳ねて抱きついてくる柴犬を、優しく抱きしめると、グリグリ頭を撫でた。


「ララちゃん、今日も穂香のお守してくれた?」


柴犬はハッハッと興奮しながら、香織に体を一度擦り付けると、今度は「ついて来い」とばかりに、赤ん坊の元へ走って戻った。


「ただいま、おじいちゃん」


香織は赤ん坊を覗いている幸之助に声を掛け、バスケットを覗いた。

愛おしそうに赤ん坊を見ると、にっこりと笑顔を幸之助に向けた。


「よく寝てるね。よかった」


「はははー!ホントによく寝る子だなあ!」


「そうだ!外にお母さまの車があった。来てるの?」


そう幸之助に聞いた時、台所から昌子と綾子が楽しそうにおしゃべりしながら出てきた。


「あ、お帰り、香織。早かったね」


香織に気が付いた昌子が声を掛けた。


「ただいま、おばあちゃん。こんにちは!お母さま・・・。って、お母さま!なんて格好してるんですか!?」


香織は、エプロン姿の綾子に驚いて、思わず声を上げた。


「ちょ、ちょっと、おばあちゃん!お母さまは私のお姑さんであって、おばあちゃんの嫁じゃないから!なに台所仕事なんてさせてるの!」


「いいじゃない、ちょっとお手伝いしてもらっただけだよ。ねえ、綾子ちゃん?」


「そうよ、何を大げさに言っているの。そんなことより、お風呂沸いているから入ってらっしゃい。赤ちゃんが寝ているうちに」


「・・・はーい」


二人の結託に負け、香織はスゴスゴ風呂場へ向かった。



                  ☆



陽一と香織が結婚してから三年の月日が経っていた。


案の定、正則は勘当を撤回し、陽一に戻るように懇願したが、陽一は佐田を出ることを選んだ。


陽一が辞めることで会社は当然大騒ぎになったが、それ以上に、香織の立場がとんでもないことになってしまった。

香織のせいで陽一は会社を辞めざるを得なくなったとされ、大悪女になってしまったのだ。

香織は、陽一に順風満帆な人生を捨てさせた魔性の女だと、会社中の注目を浴びた。


それに対し、陽一は何もフォローしてくれなかった。

香織の為に副社長のイスを捨てるのは間違いではない。

否定しないどころか、肯定したような態度を貫いていたので、香織の立場はどんどん悪くなる。

しかし、お陰で、バックには陽一が付いているというアピールになり、香織自身、直接嫌がらせを受けることはなかった。


そんな大悪女で魔性の女は、どれだけ美しい女性なのだろうと、さりげなく香織を見物に来る人たちがかなりの人数いた。

そして、実物を見る度に、


「あれ・・・?意外と普通・・・?」


と言う声が漏れて、香織の耳にも届く。

故意でも悪意でもない、本当に口からポロっと零れるような言葉に、どれだけ凹んだか知れない。


(ええ、ええ、どうせ普通ですよぉ!悪うございましたねぇ!)


最後の方には、腹の中で悪態を付けるほどのゆとりは持てるようになり、あまり気にすることもなくなった。


そうして、無事二人して退職した後、陽一は早速動いた。


幸之助の農家の仕事を法人化したのだ

幸之助を代表取締役に据え、自分と、そして綾子を取締役とし、昌子と香織を従業員とした家族経営から始めた。


陽一は農業に関しては素人だが、会社経営に関してはプロだ。

気が付くと、農地が増え、従業員が増え、自社ブランドができ、取引先が増えていた。

いつも間にか、原田の家のすぐ近くに小さな事務所まで建っていた。


香織はその事務所から帰ってきたのだ。

柴犬のララは、原田家と同居を始めた時に、陽一の希望で飼い始めたのだが、多忙な陽一よりも、ずっと香織に懐いている。

そして、今や、穂香のお姉さんだ。


香織が風呂から上がってくると、目を覚ましてグズグズ言い出した赤ん坊を昌子が抱いていた。

香織はすぐに赤ん坊を引き取ると、優しく揺らしながら、顔を覗き込んだ。


「ご機嫌直してください~♪お散歩でもしましょうか~♪」


歌うように話しかけると、縁側から庭に降りた。

もう薄暗くなってきた。だが、寒くもなく暑くもなく気持ちの良い夕方だ。


赤ん坊をあやしながら、ゆっくり庭を歩いていると、一台の車が入ってきた。


「あ、パパが帰ってきたね~」


香織は赤ん坊の顔を覗いた。


「今日はパパ早く帰ってきたね~、嬉しいね~」


赤ん坊の手を取ると、車に向かって可愛らしく振った。


陽一は車から降りると、ゆっくり二人に向かって歩いてきた。

優しく手を振りながら、ただいまと言いながら、幸せそうに笑いながら、ゆっくり歩いてくる。

香織と赤ん坊はそんな陽一を、微笑みながら迎えた。



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