<115> 最後の挨拶


「じゃあ、そういう事で」


陽一は次に綾子に振り向いた。


「で、お袋はどうする?」


意地悪そうに口角を上げて、綾子を見た。


「俺は出ていくけど、お袋はどうする?」


綾子は陽一を睨みつけた。


「お袋が佐田家にしがみ付いているのは俺のためだろう?」


陽一は綾子をしっかりと見つめた。


「もう親父もいないのに、一人で頑張っているのは全部俺のためだろう?俺が家も会社も全部継げるように」


その通りだ。

何のために今まで辛い目に遭っても耐えてきたのか。それは全て息子のためだ。

夫に先立たれ、誰も庇ってくれない中、ひたすら耐えたのは陽一がいたからだ。


それなのに、佐田と縁を切るなど、なんて勝手なこと言い出すのか!


さっきから、怒りで腸が煮えくり返っていた。

いつ、この怒りを叫ぼうかと思っていたのに、すべて陽一から先に言われてしまった。


「いつ逃げ出してもよかったのに、俺がいたから残ってくれてたんだろ?ずっと感謝してたんだよ」


綾子は陽一を無言で睨みつけた。その目から一筋の涙が流れ落ちた。


「お袋が佐田家じゃなく、俺たち夫婦を選んでくれるなら、俺は嬉しいけど」


「・・・」


「そうしたら今後、お袋の事は俺が守るし、面倒も見る。香織と一緒にね」


「・・・そう」


「いつまでも、親父に義理立てしなくてもいいんじゃないか?」


「・・・そうね」


綾子はそっと目を閉じた。

その目からポタポタっと涙が落ちた。

綾子は涙を拭うと目と開き、陽一と香織を見つめて、ふっと笑った。

その笑顔はどこか寂しそうだが安堵感が漂っていた。


美しいその顔に香織は見惚れた。

緊張しっぱなしで、息も絶え絶えだったというのに、綾子の美しい笑顔に目を奪われた。


「あなた達が出て行くというのなら・・・、お母さんも婚姻関係終了届・・・提出するわ」


綾子は静かにそう言った。

陽一は満足そうに笑うと、正則に振り向いた。


「いい?おじいさんこれで?孫だけじゃなく、嫁も失うことになるけど」


正則は目を丸めたまま、呆然としていた。

綾子と陽一の会話が理解できないようだ。丸めた目をパチパチして、固まっている。


「まあ、跡取りなら隼人がいるし問題ないか。おじいさんの理想の家との繋がりなら、あいつが叶えてくれてるもんな」


「・・・」


「ということで、今後の事は後日改めて。何なら弁護士も用意する」


「・・・」


「では、荻原さん。祖父のために御足労頂き、ありがとうございました。これも縁と言えば縁ですので、これを機に祖父との、『佐田』との個人的なお付き合いをされることはいいと思いますよ。それほどまでに佐田と繋がりたいのであれば」


陽一は得意な王子様スマイルと老夫婦に向けた。


「それでは、どうぞお元気で。香織、最後にご挨拶しておけ」


香織に振り向くと、優しく頭に手を添えた。

陽一に促されるように、香織は荻原夫婦に頭を下げた。


「・・・今まで・・・、ありがとうございました・・・。どうぞ、お元気で・・・」


頭を下げたまま、蚊の鳴くような小さな声で挨拶をした。

陽一はそんな香織の頭を「良く出来ました」とあやす様に撫でると、綾子に振り向いた。


「じゃあ、お袋、帰ろう」


綾子は目を見開いた。


『お袋、帰ろう』


そんな言葉、いつから掛けられなくなっていただろう?

久々に自分を誘う陽一の言葉に、綾子はまた目頭が熱くなった。

それを誤魔化すように、ツンとすまし顔を作ると、ソファから立ち上った。


「そうね、帰りましょう。荻原様、お義父様、失礼いたしますわ」


綾子は優雅に老人たちに頭を下げると、扉を開けて待っている陽一のもとに歩いた。

そして、振り向きもせず、客間から出て行った。

陽一も香織の手を引いて、その後に続いた。


三人が出て行った客間はシーンと静まり返り、暫くの間、誰も言葉を発しなかった。

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