<34> デートのお誘い
先週と同様、残業を終えて家に帰る途中の立ち食い蕎麦屋で、蕎麦をすする香織の横には、当然のように湊がいた。
「・・・」
香織は熱そうに天ぷらに噛り付いている湊を、少し困ったように見つめた。
「加藤君、いつも遅くまで付き合ってくれなくていいんだよ。今日だって、そっちは早く終わったでしょう?」
「まあな。でも、そっちは終わってなかったじゃん」
湊はハフハフ言いながら、天ぷらを頬張ると、平然と答えた。
「まあ、そうだけど。でももう、大分要領つかめてきたから、一人でも大丈夫だよ」
「そうかぁ?」
「もちろん、困った時にはヘルプをお願いすると思うけど、いい加減、甘えるのもねえ?新人じゃないんだから」
「・・・何?俺が手伝うのって、迷惑?」
「え?」
香織は瞬きして、湊を見た。
湊は少し寂しそうに香織を見ている。
「い、いや・・・。迷惑なのは私の方じゃなくて、加藤君でしょ?私のせいで、毎日遅くちゃ、自分の時間無くなっちゃうじゃない」
「俺は別に迷惑と思ってないし」
「そ、そう?」
「うん」
「・・・」
香織はそれ以上何も言うことができずに、黙って蕎麦をすすった。
(・・・ってことは、この状況がまだ続くってこと?)
香織は困惑気味に、湊を盗み見た。
おそらく、明日も明後日も残業になるだろう。
それに湊は付き合う気か?
そうなったら、また一緒に夕食・・・?
(・・・流石に、何かこれはマズイ気がするんだけど・・・)
香織は陽一に対して後ろ暗い気持ちに襲われた。
先週末の飲み会の怒り具合からしても、できることなら、湊と二人きりの食事は避けた方がよさそうだ。
(これからは残業になっても、真っ直ぐ家に帰ることにしよう)
そうじゃないと、不誠実な気がする。
なんか浮気しているみたいな・・・
(・・・は?浮気?何言ってんの?)
香織は我に返って、残りの蕎麦を一気にかき込んだ。
そして、ドンっと音を立てて丼をテーブルに置いた。
(マズイ!思考回路がおかしくなってる!)
「おい、どうした?」
その仕草に湊は驚いて、香織を見た。
「ううん。何でもない。ご馳走様。さあ、帰ろう!」
「お、おー」
勢いよく店から出る香織を追いかけるように、湊も急いで店を出た。
「それじゃあ、加藤君、お疲れ様。おやすみなさい」
そう言って、地下鉄の駅に向かおうとするところを湊が引き留めた。
「原田、あのさ」
「?」
「今度の金曜日、映画行こうぜ。レイトショーなら、残業後も間に合うじゃん?」
「え?」
「映画。見たいのがあるんだよ、付き合ってくれよ!な!」
「・・・えっと・・・」
香織は思考回路が止まった。
これはどういう状況だ?
もしかして、デートに誘われた?
いやいや、見たい映画があるけど、一人じゃ行きづらいっていう女子的な思考?
「えー、ダメか?用事ある?」
湊がガッカリしたような顔で、香織を見た。
その様子に、香織はなんだか申し訳なくなり、返答に困ってしまった。
その時・・・。
『だから、恋人を作りなさい』
香織の頭の中で、綾子の声が聞こえた。
そうだ!綾子とのミッション!一つ目の『恋人を作る』!
やっぱり、湊は新物件かもしれない。
香織は慌てて湊に向かって首を振った。
「ううん。用事無いよ!」
香織は元気よく答えた。
だが、直後、胸にチクッと何かが刺さるような痛みを感じた。
「ホントか?良かった!」
湊の無邪気な笑みに、香織の胸の痛みはますます強くなり、思わず手で胸を押さえた。
「じゃあ、金曜日はあんまり遅くならないように、明日から仕事巻いて行こうぜ!じゃあな、おやすみ!」
そう言うと湊は手を振って、JRの駅に向かって歩いて行った。
香織はズキズキ痛む胸を押さえたまま、湊の背中を見送った。
(いいんですよね?これで。お母さま・・・)
香織はさっき頭の中で聞こえた綾子の声に向かって答えた。
だが、もう一つの声が香織の心に響いてくる。
『ま、それにもう半分以上は落ちてるだろ?』
香織はその声を消すように、胸をトントンと叩いた。
(いいえ、落ちてません!)
そう自分に言い聞かせて、もう一度胸を押さえた。痛みはまだ消えない。
そして、胸を押さえている右手を見た。
その手首にはブレスレットが揺れている。
「・・・」
香織はブレスレットごと、手首を掴んだ。
(だって、落ちたくたって、落ちることができないんだから・・・)
香織はため息を付くと、駅に向かって歩き出した。
相変わらず、胸の痛みは消えないまま、重い足を引きずって歩いた。
帰ったら、ブレスレットを外さなければと思いながら。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます