第二章 密林に叫ぶ

11.傷つきますわ

 エングロッザ王国の王都ジンバフィルは、険しい山脈の下、高原と密林、湾曲わんきょくした巨大淡水湖にまたがる城郭都市じょうかくとしだ。


 淡水湖には大小様々な魚、貝、甲殻類こうかくるいが豊富に生息し、それらを捕食する水棲哺乳類すいせいほにゅうるい爬虫類はちゅうるい水鳥みずどりなども王都住民の食卓をにぎやかにした。


 山脈に連なる高地ならではの、暑熱しょねつの穏やかな気候で、牧草地での山羊やぎ湖畔こはんでの水牛の牧畜と、周辺の密林を開墾かいこんした広大なはたによる芋類いもるいの栽培も盛んだった。


 山脈かられる岩塩、石材や鉄鉱石、翡翠ひすいや黄金を巧みに利用し、流通させ、密林をへだてて点在する多くの部族を良好に統率した。


 太古から続く創造神そうぞうしん末裔まつえい、を自称する王族が治めて、二階層の広大な宮殿が都市の中心にあった。


 明るい色の煉瓦れんがと石造りの精緻せいちな建築物で、同じ構造の防壁が宮殿と都市全体を二重に囲んでいる。


 その宮殿の廊下を、アーリーヤは得意満面で歩いていた。朝と昼の中間の、まぶしい陽光が差し込んでいた。


 鮮やかな色彩の衣装からのぞく、健康的な肉づきの手足と黒檀こくたんの肌が、うっすら汗ばんでいた。金茶色の巻き毛が短く方々にねて、丸い顔をさらに丸い笑顔にした十歳のアーリーヤを、使用人や女給たちが仰天ぎょうてんして見送った。


「お兄さま、御機嫌ごきげんようですの!」


 宮殿の一室の扉を、挨拶あいさつと同時に勢いよく開けて、アーリーヤは手に持った獲物を高々とかかげた。


 アーリーヤの顔ほどにも大きい、まだ口から点々と血をたらした、丸々と太った野鼠のねずみだった。


「このところ料理長の菜園さいえんを荒らしていた不とどき者を、わたくしの罠が捕まえましたの! お兄さまに助言いただいた甲斐かいが、ございましたわ!」


「ああ、うん……あれ、本当に試したんだ……?」


 窓際の机で書類を広げていたヒューネリクが、曖昧あいまいな苦笑をした。


 アーリーヤとは少し年齢が離れた十八歳で、均整の取れた身体に、王族としては質素なあさの衣服を着て、黒い肌の精悍せいかんな顔立ちに、金茶色の短い髪を遊ばせている。


 さりげなく書類を片づけようとしたヒューネリクの手を、アーリーヤは見逃さなかった。兄の、大きくて骨張った手が好きだったからだ。


「また新しい、外国の本ですの? お兄さまは勉強家ですわ」


「これは新聞っていう物でね。本とは、ちょっと違うかな。もっと手軽に配られていて、近い時期の出来事や、他の国の情報なんかが書かれているんだよ」


 ヒューネリクが、形の良い目をくもらせた。


「ぼくも、半分くらいしか読めないけど……密林の外は、ずいぶん騒がしいみたいだね。世界中が戦争をしていて、なんだか、この国だけが大昔に置き去りにされたような気がするよ」


「戦争をしなくて済むのなら、それは、良いことではございませんの?」


「目も耳もふさいで、ろうともしない子供のままでは、大人と肩を並べられないっていう心配だよ」


「それくらいの心遣こころづかいで、わたくしにも目と耳を向けて欲しいですわ。少し前までの、可愛い妹ならともかく、今は可愛い婚約者ですのよ?」


「……ぼくは、納得していないよ」


「傷つきますわ」


「そういう話じゃなくてね」


 ヒューネリクが、少し種類の違う苦笑をした。


「近親婚なんて、なんの利点もない因習いんしゅうだよ。密林に閉じこもった、創造神そうぞうしん末裔まつえいを自称する未開民族なんて、滑稽こっけいもいいところだ。父上は、知識も思考も古すぎる」


「難しい話はわかりませんが……まあ、見知らぬ殿方と比較して、仲良くできるかどうかという不安はありませんわ。これも王族の責任として、他にいとしい婦女子がいらっしゃれば、お父さまと同じく側妻そくさいにすればよろしいですの」


 言いながら、アーリーヤがほおめて、胸の前で手を組んだ。


「恥ずかしながらわたくしも、物語のような大恋愛にはあこがれますが……それは、結婚と別口で考えますわ」


達観たっかんしてるね」


 アーリーヤと、アーリーヤの組んだ手からだらりとたれ下がる野鼠のねずみを交互に見て、ヒューネリクが、また種類の違う苦笑をした。


「アーリーヤ……世界は広いよ。君ならきっと、どこへでも行ける。王族とか責任とか、そんなものとは関係なく、幸せに生きて欲しい。いつか……そう言ってあげたいんだ」


「ではわたくしも、その時、同じことをお兄さまに言って差し上げますわ。結婚は助け合いですもの」


 アーリーヤは満面の笑顔で、野鼠のねずみをヒューネリクの眼前に突き出した。


「さしあたって本日の昼食、お兄さまは衣揚ころもあげと塩茹しおゆでの、どちらの気分でございますか?」


「……それ、選ばなきゃいけないのかな?」


「さんざん、しゅんの野菜を食べられましたもの! きっと脂身あぶらみもさっぱりして、美味おいしいですわ!」


 ヒューネリクが、今度こそ苦笑にもならない、微妙びみょうな形に口を引きつらせた。



********************



 朝と昼の中間くらいの、明るい陽光の感じが夢の中と似ていて、アーリーヤはぼんやりとしたまままぶたを上げた。


 香草焼こうそうやきのような匂いが、かすかにただよってきて、それがまた夢と今とを曖昧あいまいにした。


「ああ……それも、ありでしたわ……」


 アーリーヤは、身体を起こした。清潔でやわらかい、寝台の上だった。


 目をこすりながら足を下ろす。ふらついたが、それ自体に、気がつかなかった。意識が半分以上、心地好ここちよい眠りを引きずっていた。


 なんとか歩いて、部屋を出る。服のあちこちがつっぱるような、妙な違和感があったが、食欲をそそる匂いが他にもいろいろ流れてきて、それどころではなかった。眠気ねむけが、強烈な空腹のに取って代わられて、意識は変わらずぼんやりしていた。


 むしろアーリーヤ自身が野鼠のねずみのように誘われて、廊下の、突き当たりの扉を開けた。


 絵画と調度品で飾られた、迎賓室げいひんしつだった。長方形の食卓に、山羊肉やぎにくらしい香草焼こうそうやきと大きな魚の甘酢煮込あまずにこみ、落花生らっかせい根菜こんさいの汁物、野菜と魚介ぎょかい雑穀ざっこく香辛料炊こうしんりょうたきに、いもいたもちなどが、けっこうな物量で並んでいた。


 二人が、蜂蜜入はちみついりの発酵乳飲料はっこうにゅういんりょうを飲みながら、忙しそうに料理を食べていた。別のもう一人は、少し辟易へきえきしたような顔で珈琲カッフェを飲んでいる。


 二人は少年で、一人は年配の男だった。


「レナートさま……っ! 良かった、御無事ごぶじでございましたか……!」


 瞬間的に、記憶の最後の場面に追いついて、アーリーヤは歓声かんせいを上げた。睡眠欲と食欲を横に置いて、まずは人として、望ましい再会の第一声だった。


 駆け出した。振り向いて、夢の中の使用人たちのように仰天ぎょうてんするレナートに、そのまま抱きついた。


 銀髪で青い目の、中性的な顔が固まって、二人そろって勢いのあまりひっくり返る。椅子いすの背中と、レナートの側頭部と、アーリーヤのおでこが、ほとんど同時に床に激突した。

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