鋭角と鈍角の間で
雨宮吾子
鋭角と鈍角の間で
高校の文化祭の準備をするために教室で居残りをしていた私は、クラスメイトが貸してくれたプラスチック製の三角定規を使って作業をしていた。私が書いたデザインを基礎にして制作される看板や飾り付けなどのこと、それから飾り付けられた教室が賑わう様子を想像すると、心がどこかに羽ばたいてしまいそうなくらいに幸せで、私は足元を掬われないように地道に線を引いている。私に付き合う義理はないはずなのに、三角定規がとても大切な物なのだろうか、貸してくれた彼女は私に付き合って居残りをしてくれた。さすがに作業を手伝ってもらうのは申し訳ないからと断ったのだけれど、最初から手伝うつもりはないし、たまには居残りというものをしてみるのも楽しいだろうからと優等生の彼女は言った。読書をしたり黒板に落書きをしたりしながらその時間を過ごす彼女の背中を見ていると、私は無意識のうちに彼女の善意を期待していたことに後ろ暗いものを感じて、居心地が悪くて、私は口を噤んで必死にペンを走らせることにした。
「ねえ、『あわい』って知ってる?」
その「あわい」という言葉を聞いたとき、私の頭の中には「淡い」という文字が浮かんできた。彼女が貸してくれた三角定規の線や数字が掠れてしまっているせいもあったのだろう。ただ、彼女が黒板にチョークで「あはひ」と書き記してもまだ足りなかった。その横にやや大きな文字で「間」と付け足されてようやくピントが合ったのだ。
「仕方ないよ、急に『あわい』と聞いて全てが繋がる人なんてそうそういないから」
彼女は指先に付いたチョークの白い粉を厭うことなく、優しく手を叩いて世界に還していく。秋の終わりの早々と暮れていく夕日を浴びているせいもあってか、きらきらとしたものが中に舞っているのだけれど、私はそこにいる彼女が天使のように見えた。私は空想の中で、この学校には存在しないはずの合唱部が賛美歌を歌うのを聞いた。
妙な空想の間も彼女はその微笑みを絶やさない。
「あなたはちょっと優しすぎるのね」
私は居心地の悪さを引きずりながらそう言った。
「そうかなあ」
「あまり優しすぎると裏切られたときが辛いよ」
優しく接してくれる相手に対してこんな口を利くのが私の悪いところだ。いつも言葉を発してしまってからそんなことに気付くのだけれど、彼女は私の想像していた以上に優しい。
「大丈夫よ。私を傷つける人なんて、あの人以外には……」
彼女はそこまで言って口を噤んだ。あの人とは、誰だろう。家族、それとも友達? まさか恋人だなんてことはないだろうけれど……。
誰であるにしても、私は彼女の特別な相手に何故かしら嫉妬した。そんな感情の芽生えを感じる間も世界は廻っている。
「今日はちょっと鋭角すぎるわね」
「何が?」
「あの光よ」
山の向こうに落ちていく太陽を、彼女にしては機嫌の悪そうな眼差しで――言うまでもなくただ眩しいだけなのだけれど――眺めている。いや、見つめている。眩しいのだったら視線を外せば良いのに、どうしても最後の一瞬を見逃すまいとして彼女は太陽を見つめている。
「光に鋭角だとか鈍角だとか、そういうものがあるの?」
「あるわ」
彼女は最低限の言葉を発しながら、いよいよ厳しい表情で太陽を見つめている。その果てに彼女の失明があるように思われて、私は必死になって彼女の気を引こうとした。
「鋭角だとか鈍角だとか、そういうものとは別に淡いとか濃いとか、そういうものもあるの?」
「ないわけじゃない、でしょうけど……」
「じゃあ今日の光は淡いの、それとも濃いの?」
そう問いかけた瞬間、彼女の瞳の緊張が解けた。一瞬の後に彼女には珍しく快活な笑い方をして太陽から視線を外した。そのとき、私は何かとてつもなく大切な機会を彼女から奪い取ってしまったような気がした。
「あなたってとても面白いのね」
「あなただって鋭角だとか鈍角だとか、変なことを言うじゃない」
「そうね、そうかもしれない。……でもそれが、私に許されたたった一つの表現法なの」
急にしんみりとした気分になってしまった。彼女と話しているといつもこうだ。いつの間にかよく分からない会話に巻き込まれて、何も解決しないままに時間が移ろっていく。ひぐらしの盛んな鳴き声が妙に寂しい気分を思い起こさせるように、街に灯っていく明かりは何か虚しい気分を誘い寄せる。
「ねえ、最後の一つだけあなたに訊きたいの」
「なに、最後って」
「あのね、時間というものはどんなふうに存在していると思う?」
「哲学はできないよ。それとも理科の話? 私、理数系は苦手なの」
私は机の上に視線を落として、両親が買ってくれた自分の三角定規はここまで使い込んではいないなと思い返しながら応えた。
「そんなに堅苦しく考えなくていいの。あなたなりの意見、あなたなりの考えが聞きたいだけ」
私よりずっと賢いはずの彼女がそんなことを尋ねてくることには疑念があったし、そもそも質問が漠然としていた。
「例えば真っ直ぐに進んでいるのか、それとも曲がりくねりながら進んでいくのか、どっちだと思う?」
「時間は曲がったりしないわ」
「そう。じゃあ、砂時計を思い浮かべて。落ちていく砂とその先に積み重なっていく砂、どちらがより時間の本質を表していると思う?
「……強いて言うなら、積み重なっていくものだと思う」
彼女はしばらく考え込んでいたけれど、何を考えていたのかは分からない。ただ後になってみればそれは考える素振りをしていただけで、きっと彼女の中にはたった一つの答えがあったのだろうと思う。
「ありがとう」
「別にお礼を言われるようなことじゃないけど」
「いいえ、大事なことなの。あなたに答えてもらえて嬉しかった。ありがとう」
太陽はもうとっくに沈んでしまっていた。屋外が暗くなるにつれて教室の照明はより強く自己主張をしていく。
「ところで、『あわい』という言葉だけど……」
「ああ、そうだった。でも、もうその話はいいの」
「どうして」
「多分、もう分かってしまったのね。曖昧な線がそこにあったとして、私はもうその先へ踏み出そうとしている。それを止められるものなんてもうないし、止めようとする人のいないことも分かっている。だから、もう『あわい』というものは私の中には存在しないの」
光の強さに反して全てが曖昧になっていく。記憶の中にいる彼女の顔を私はもう思い出すことができない。いや、本当はその瞬間でさえも彼女の表情をはっきりと認識することすらできていなかったのではないか。私の記憶している彼女の最後の姿は、忍ぶようにして自己主張を遂げたそのときのものだ。
そういえば、返しそびれた三角定規を私はどこへやったのだろう。全ては曖昧なままに存在し続けている。彼女だけでなく、この私も。
鋭角と鈍角の間で 雨宮吾子 @Ako-Amamiya
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