あのひとの一杯

ritsuca

第1話

「あれ、どうしたの?」

 それはこちらが言いたい、と思いながら、中嶌はぐっと堪えて口を開く。

「忘れ物というか、風呂浴びてるうちになんかこう、思いついてしまったので、忘れないうちにと思って」

 街灯ばかりが照らす道を自転車で駆け抜けて8分。カードキーで解錠したドアを潜り抜け、人感センサーのおかげで煌々と明るい廊下の途中、うっかりかかった溶剤のおかげで怪しげな色合いの在室表が貼られたドアを開けてみれば、研究室の紅一点、一学年上の先輩――鯵坂がまだ機器を操作していた。

 時刻は22時、それも2月のまだまだ寒い時期、おまけに今日は新月。いくら研究室の方が設備が整っているからと言って、帰ることを考えれば女性が居残るにはそろそろ危険な時間帯だ。ここしばらく帰っていないんじゃないかと教授が零していたのも、あながち冗談でもないのかもしれない、と疑念が過ぎる。

「真面目だねぇ。メモだけ残しておいて明日の朝来ればよかったのに」

「あ、そうか」

「近いのも善し悪しだね」

「そですね」

 ドアが開いた瞬間にこちらを向いていた視線は、実験機器から動かない。操作が必要なタイミングが近いのかもしれない。「良すぎる」タイミングに訪れてしまっただろうか、と思いながら鯵坂のいる島とは反対側、PCの並ぶ島に移動する。

 PCの電源に触れてから自席に腰を下ろすと、今更になって指先に軽いしびれのような感覚が出てきた。実験機器のある側しか明かりも暖房もついていないようだが、それでも自転車で走り抜けてきた外よりは十分に暖かい。

 昼間より格段に静かな研究室のなか、ぎゅっ、ぱっ、と握っては広げてを繰り返すうちにPCは起き上がり、それから小一時間もしないうちに、PCはまた眠りに就こうとしていた。拍子抜けするくらいにあっさりとしたものだった。

 忘れないうちにと来てはみたものの、たしかに鯵坂の言うとおり、メモ書きを残しておく程度でも問題のなさそうなことではあったらしい。年明けすぐの卒論提出からこちら、発表準備と本番が終われば今度は修正と学会発表の準備と目まぐるしく動き回っているうちに今日だ。疲れを自覚したことはなかったが、実際、疲れてるのかも、と息を吐く。

 持ち物らしい持ち物もなく、手早く上着と帽子を身に着けていると、カツ、カツと足音が近づいてくる。鯵坂だ。他に誰もいないままなのだから。

「お疲れ様。いまから寒い中を帰る君には、これを進ぜよう」

「なんですか、これ?」

「見ての通り、コーヒー。暖まると思うよ」

「どうも」

 にこりと笑みを浮かべた鯵坂の手には、湯気の立つコーヒーマグ。ゆらゆらと上がる湯気に、タイピングをしてもさほど暖まらなかった指先がつい伸びる。

 口元に近づければ少し甘い香りがして、一口含むといつも自分で淹れるコーヒーよりもこっくりと濃いのにまろやかな味がした。

「……って、アルコール入ってません?」

「ふふ。気がついてしまったか。冷蔵庫に入ってるのを失敬した」

「怒られますよ、それ」

 教授の秘蔵だったらどうするのか、と半目で見やれば、ノンノン、と指を振られる 教授の秘蔵だったらどうするのか、と半目で見やれば、ノンノン、と指を振られる。切り替わった鯵坂は全身の表情が豊かだ。

「だーいじょうぶ。持ってきたのたぶん私だから」

「先輩って、酒飲めたんですか」

「まあね。いろいろ混ぜるの楽しいし」

 ぐるぐる、とかき混ぜて見せる手つきは、慣れているようにも、そうでないようにも見えた。以前、自炊は不得手と言っていたが、それとこれとは別らしい。

「ああ、それでうちの研究室に」

「そ。さあ、それ飲んだら帰ってしっかり寝ておいで」

「はい。――ごちそうさまでした」

「気をつけてね~」

 ひらり、と振られた手に手を振り返して、中嶌は研究室を出た。研究棟の外に出れば、あっという間に吐く息は白く凝る。

 飲酒運転にならないようにと自転車を押して行きの倍くらいの時間をかけて帰ってそれから、鯵坂をひとり、研究室に残してきたことに気がついて、中嶌は頭を抱えた。


***


参考:

https://www.doicoffee.com/blog/recipe/2012/02/post-15.html

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