笑顔
俺はもう橘を見上げる余裕もなかった。
もしこの腕から橘の体が放り出されてしまったら、俺はきっと一生後悔する。
ぎゅっと目をつむり、腕に力を込めた。
歯を食いしばって踏ん張る。
ドンッ!!!! という大きな衝撃。
そして、ザパーーーーンッ!! という水音……。
え? 水音???
店長の車が停まる。
顔を上げると、橘は海の方を見つめていた。
俺もそちらへ視線を向ける。
何かに大きくぶつかられたように側面が凹んだ車が、ゆっくりと海に沈んでいくのが見えた。
老人や眼鏡秘書たちが、なんとか車から脱出する。
「海に落ちて……るっ!?」
とてもじゃないが、あれではこれ以上の追跡は無理だろう。
何を思ったのか、店長が運転席のドアを開け、降りた。
沈んでいく車の方へ近づき、海の中でバシャバシャと泳いでいる老人を見下ろした。
「今は攻撃担当が橘くんだったから、それで済んだけど……また次、うちの身内に手を出したら――……本気で消すよ」
「み、身内……だとっ!?」
老人は辛うじて水面に浮かびつつ、問い返した。
俺と橘からは店長の背中しか見えない。
どんな
けど、店長が本気で怒っているのだけは分かった。
「ムーンサイドには近づかないように……ちゃんと部下にも言い聞かせるんだ、いいね?」
店長の声は透き通るように綺麗なのに、ひどく冷たく、でもどこか楽しそうだ。
「わ、分かった……っ……、約束する……」
老人の答えを最後まで聞くことなく、店長はクルリと踵を返して車へと戻って来る。
「消す……って、殺すってこと……だよな、……」
俺は直感した。
組織を壊滅させるとかそういう意味じゃなく、あれは『殺す』という意味の『消す』なんだ。
思わず小さく呟いた俺に、橘が車内に体を戻しつつ声をひそめた。
「殺すのではなく、消すんです。魂そのものの消滅のことかと……」
「え……それって――……」
俺が問い返す前に、店長が運転席に乗り込んで来た。
「さ、帰ろう」
店長の声は、今さっき老人に言い聞かせていたのとは別人のように、優しく柔らかい。
車が発進した。
橘は神妙な
俺もなんと言えばいいのか分からず――……、ずいぶん経ってからようやく口を開いた。
「助けに来てくれて、ありがとう……ございます」
☆*:;;;:**:;;;:*☆*:;;☆*:;;;:**:;;;:*☆
ムーンサイドの店舗裏にある駐車場に、車が停まる。
店長に連れられ、橘と俺はムーンサイドではなく八神医院へと向かった。
そこには心配そうな百園さんが待ち構えていた。
八神医師はぐったり疲れたという様子で椅子に座っている。
「都築さんっ! パトラッシュも! 皆さん、ご無事で……良かった!」
涙ぐむ百園さんに、俺も涙が浮かびそうになる。
俺たちは手を取り合い、無事に生還できた喜びを噛み締めた。
「百園さんも、無事で良かった……他の子たちは?」
「八神先生が駅で降ろして下さって、皆ちゃんと帰りました」
「そっか……うん、良かった」
八神医師は咥え煙草で椅子に座ったまま、店長と橘、そして俺を順に頭から足先まで観察するように視線を走らせた。
「どいつも怪我はなさそうだな。……まったく、俺はただの医者なんだぞ。無茶させるなよ」
愚痴る八神医師に、店長は小さく笑った。
「そんなこと言って……都築くんが
「当たり前だろうが……都築がいなくなったら、誰がお前の
二人の茶化しあいに、『助かった』という実感が沸き上がってきて、俺はようやく体から力が抜けた。
「八神先生、本当にありがとうございましたっ!」
改めて礼を言い、俺はしっかりと頭を下げた。
☆*:;;;:**:;;;:*☆*:;;☆*:;;;:**:;;;:*☆
八神医師が百園さんを車で家まで送り届けるということで、二人と別れた俺たちは、店へと戻った。
俺が暖房をつけると、店長がコーヒーを淹れてくれる。
「橘くん、そこに座ってて」
「はい」
店長に促され、橘は店の奥のソファへと腰を下ろした。
店内にふわりと拡がるコーヒーのいい香りに、俺はまた涙ぐみそうになった。
ほんの二、三日だったのに、何年かぶりに戻って来れたような感覚だ。
俺と店長もソファへと移動し、三人でコーヒーを飲む。
温かさが体全体に染みわたっていくようだ。
店長は優雅にコーヒーカップを口に運び、ほっと小さく息を吐いた。
「アレクは退院したばっかりで、まだまともに動けないし、今回は橘くんが居てくれて助かったよ」
店長らしからぬ素直な物言いに、橘は何故か少し寂し気に微笑み返した。
「微力ながら、お役に立てて良かったです」
「でも、どうして橘が? 仕事でこっちに来てたのか?」
俺の問いに、橘はコーヒーカップをソーサーへと戻した。
橘は気持ちを整えるように一つ深呼吸をしてから、改めて店長と俺を交互に見た。
「実は……橘家からムーンサイドへ、依頼があって参りました。来てみたら都築さんが攫われてしまっていて、それどころではなかったのですが……改めて、依頼させて下さい」
店長はコーヒーをコクリと喉に流し込み、スッと目を細めた。
「依頼内容は?」
一瞬、橘の瞳が揺れたように見えた。
しかし、橘はゆっくりと事務的に言葉を続ける。
「橘家の次男である万里が禁忌の術を使い、他の能力者の方々に多大なご迷惑をおかけし、
俺は弾かれたように橘を見た。
しかし橘は俺ではなく、まっすぐに店長を見つめている。
そうだ、橘は全日本霊能力者連盟のトップなんだ。
わざわざ店長がマンションでの事を報告しなくても、その情報網で万里のことはしっかり把握しているということか。
橘が続ける。
「橘家として、このまま放置しておけません。人間の霊を使った式神は、陰陽道では最大の禁忌です。式神を解放し、必要であれば万里の粛清を行います」
「それが依頼?」
店長の確認に、橘は軽く首を振った。
「いえ、それは僕がやります。ムーンサイドは、僕が失敗して死んだ場合に万里の始末をお願いしたいんです」
なにを、言って……る?
以前、マンションで祓いの最中に万里と遭遇した時のことが鮮明に蘇る。
あの時……俺は、店長が死んでしまうんじゃないかと思った。
ものすごく、怖かった。
今度は、橘と万里が……!?
足元からどんどん体温が奪われていくような感覚に襲われる。
あまりに冷静に話している二人が、まったく別世界の人間のように見える。
「それでいいの? 橘くんが死んで、万里くんも始末してしまったら、橘家の血脈は途絶えてしまうよ?」
冷静に問いかける店長に、俺は口を開こうとして、そのまま閉じた。
今ここで、俺が言えることなんて……何もない。
何もないじゃないか――……。
橘は、さきほどのカーチェイスで俺に向けた、あの笑顔で、ふわりと微笑んだ。
「大丈夫なんです。母は体が弱く、僕たち二人しかもうけられなかったため、……父は掟に従って他に子供を作っていました。存在は公表されていませんが、僕と万里には……弟がいるんです」
笑うな……そんなの、笑って言うことじゃないだろ……、橘。
叫び出したいのに、俺は声を失ってしまったように言葉が出ない。
橘は続ける。
「だから、僕が死んでも……万里が死んでも、大丈夫なんです」
大丈夫なわけあるか!
死んでいい奴なんかいない!!
ぜんっぜん、大丈夫なんかじゃない!!!!
俺はぎゅっと拳を握りしめた。
その時、ふいに橘が店長から俺へと視線を移した。
「都築さんが『自分の命を大事にしろ』って怒ってくれた時……驚いたけど、本当は……すごく嬉しかったんです。だから、なるべく失敗しないように頑張ります。上手くいったら、ちゃんと褒めて下さいね」
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