ギフテッド・バレンタイン

凪野 晴

第1話

「買い物に付き合ってくれないかな?」


 二月の三日。つまり節分の日の夜に、そんなメッセージを鬼のスタンプと共に送って来たのは、近所の幼馴染だ。高校三年生のぼくと同い年の女の子。ぼくはまだ残念ながら大学受験を控えている身だけれど、彼女はもう行き先が決まっている。


 それはもうあっさりと数ヶ月前に決めていた。一流の大学に推薦というよりも、大学から特待生のオファーが来たという有り様だ。そんなことがあるのかと驚いた。一言で片付けるなら天才というやつだ。授業料も無料だそうだ。


「こっちはまだ受験生なんだけど」と返す。

「うん。知っているよ! でもお願い!」


 可愛いキャクターがおねだりするアニメーションつきのスタンプを押し込んでくる。二回、三回と。


 今、そっちは何をしているか知らないけど、こっちは机に向かって勉強中。試験まで数えるくらいしか日付がないんだぞ。と打ちかけてやめる。沈黙を保つ。


 勉強に集中しないと、集中しないとだ。スマートフォンの画面を見ないように裏返して置く。メッセージが来ても見ないぞという覚悟だ。


 そんなぼくの決意をあっさりと無視して、スマートフォンが何回も震える。あーもう、何だよ。メッセージを確認する。


「土曜日の午後一時に女神が丘駅の北口改札で待ってるね」が一つ目のメッセージ。


「日曜日の午後一時に女神が丘駅の北口改札で待ってるね」が二つ目のメッセージ。


「月曜日の午後一時の方がいいかな?」が三つ目のメッセージ。


 と……以下略。合計七つのメッセージで一週間分。……見事に入試の日も含まれていた。


「わかったよ。土曜日で。一体に何を買うんだ?」

 ぼくは折れた。いつものことだ。


「それは教えられないよー。じゃ、土曜日ね」


 強制的に約束を取りつけられた後、スマートフォンは沈黙を守った。こっちの問いかけにも無反応。既読すらつかない。


 それは見事に。部屋の温度が少し下がったのではと勘違いするほど、静まりかえった。ああ、これで……勉強に集中できますね。


 ……なのに秘密にされた買い物が気になって、結局、手につかなかった。


 翌日の金曜日。約束の日は明日だ。


 あれから、一向に彼女からメッセージは来ない。約束が決まったら、あとは何もアクションしてこないのは、いつものとおり。


 買い物の内容は気になって仕方ないけれど、今は一分一秒でも惜しい。机に向かって、志望大学の過去問に取り組んでいた。英語の難問をなんとか解いていく。いいよなぁ。天才ってのは……。


 天才の幼馴染。その彼女の名前は、本上結依ほんじょうゆい。言語に関して、異常なまでの理解力と修得力を持って生まれた子だ。幼少期を、両親の仕事の都合でアメリカのカリフォルニアで過ごす。なので、英語はネイティブ並みの修得。日本人を両親にもつので、日本語も当たり前のように言葉を吸収していった。この時点で帰国子女といったらバイリンガル、というわかりやすい図式が成り立つ。


 両親を驚かせ、ギフテッドだと認められたのは、そのすぐ後だ。小学校にもまだ上がらない歳で、父親の書斎にあったフランス語やイタリア語の辞書を熱心に読み込み、修得していったそうだ。その姿を見て、両親がアルファベットの書き方を教えると、さらに修得速度は大きく加速した。


 日本に帰国したのが、小学生二年生の時。その時には、英語、日本語、フランス語、イタリア語、ドイツ語、スペイン語を流暢にもう話せるようになっていたという。


 そもそも、文字を覚える前に、その言語を理解しているというのが意味不明すぎる。あり得るのかそんなこと。


 ぼくの家の近所、というか隣に引っ越してきた結依は、日本の公立小学校に通うことになった。必然的に登下校の班分けは一緒。外国の言葉を流暢に話すことと、自分の興味が湧かないことにはほとんど反応を示さないという変わった傾向を見せつつも、どこにでもいる小学生の女の子として過ごしていった。表向きは。


 言葉、言語への関心は深くなり、小学校を卒業する頃には、中国語、韓国語、朝鮮語などアジア圏の言語も話せるようになっていった。とんでもない幼馴染だ。


 中学の頃、英語に苦戦するぼくは、

「そんなにたくさんの言語を話せると混乱しないのか?」と聞いたことがある。


「うーん。どう言えばいいかな。昔は、手に持つ本を変えるイメージだったね。日本語の辞書から英語の辞書に持ち変えるみたいな」


「今は違うの?」


「なんというか、切り替える時は、図書館を変えるイメージになっているの。フランス語を話す時は、フランス語の図書館に入ってって感じ」


 ぼくはそのイメージがいまいち理解できなかった。図書館ひとつとっても膨大な量の本が保管されているのでは。


「でもね、図書館の大きさはまちまちなんだよ。たくさん本を読んだり、話したりした言語の図書館は大きいの」


 普段の会話でも異次元を感じていたが、不思議と仲は良かった。


 でも、やっぱり彼女はちょっと変わっていた。


 端的に言えば、自分にとって興味が湧かないことには、もうとことん無視する。気にもかけないのだ。


 例えば、給食がカレーライスだったとして、クラスメートほぼ全員が喜んでいても、彼女は「今はカレーに興味ないから」という理由で一口も食べない。牛乳を飲み、デザートのフルーツを食べて「ごちそうさま」という具合だ。おかげで、変わり者扱いされていた。


「将来は美人さんになるわね」と周りの大人から言われる容姿も相まって、彼女はいつもクラスで少し浮いてる存在だった。


 *


 土曜日の午後十二時五十五分。


 待ち合わせの時間五分前に、ぼくは女神が丘駅の北口改札近くに立っていた。お隣同士なのに、あらためて駅で待ち合わせというのは変な感じだけれど。

 

 駅前のロータリーにはバスやタクシーが行き来している。ベンチが均等に並べられた小さな広場には、この街を象徴する女神像が立っている。天使のような羽根を持つ女性が立って祈りを捧げている姿。そんな銅像だ。


 スマートフォンで時刻を確認しようとしたところで、突然、英語で声をかけられた。聞き慣れた声。結依だ。そのまま英語で答える。


「時間どおりに来てくれてありがとう。今日はよろしくね」

「今日は何を買うんだ?」

「それはもう少しだけ秘密だよ」


 お互いすらすらと英語でそのような会話をする。


 結依のおかげで、ぼくは英語はある程度話せるようになっていた。同じ年頃としては、できる方になったと思う。


 中学の時に英語が苦手だと伝えたら、家庭教師になってくれたのだ。といっても机に向かって一緒にではない。ルールはただひとつ。彼女が英語で会話を始めたら、ぼくも英語で応えるというルールだ。


 彼女が日本語に戻すまで、ぼくは英語を強制的に話さないといけない。これはそうとうきつかった。スマートフォンでのやりとりも、一週間以上延々と英語になることもあった。


 たまに、フランス語とかイタリア語を混ぜてくるのは、ひどいいたずらだったと思う。


 ……そんなの、わかるか!



 そんな家庭教師の彼女は、今日は長い黒髪をおろしていて、濃いグレーのコートに赤いマフラーをしていた。ロングスカートに黒いブーツ。寒がりは相変わらずだな。天才に磨きをかけるようなメガネが、一層凛とした印象を与えている。


「大神町までいくよ。デパートに行きたいんだ」と英語で告げた後、結依は駅の改札をするりと抜けて、振り向く。


「はやく、はやく」と英語のまま。


 あ、これ、少なくとも電車内はずっと英会話教室のパターンですね。……やれやれ。

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