契約の刻印 5/5


「あっ! ゼノさん! おかえりなさい!」


 迷宮を出てギルドの建屋に立つと、可愛い女性の声に名を呼ばれた。


 たった一度で良く名前を覚えてくれたと、感心する。――そんな有能で可愛いポニーテールの女性に詫びを入れた。


「すまない。ポーションは持って帰っていない。だがもう一度このまま潜るよ。今度は三個くらいは渡せると思うから、またその時に……」


 そう言って手を振れば、彼女驚いた顔で見つめてくる……だが、悪いが時間が無い!


 俺がパーティーを離れたことで、魔獣たちはアジールたちを襲い出すことだろう。


 急がねば……


 そのまま、再び迷宮へと……階段を走り降り、急ぎ足で戻ってゆく。


 ――魔獣と戦うことは無い。


 地下十一階、二十二階とゾロ目の階では、ポーションだけを回収する。


 四十四階までは一度通った道であり、さっきの数倍早くそこまでは到達できた。


 ――だが、遅かった。


 四十五階からは、知った顔の遺体に出くわしてしまう……アジールの近衛兵たちが魔獣に襲われ、無残な姿になっていた。


 五十階までには五人の死体を確認。


 地下五十一階への階段の手前、そこで、隊長ギーの死亡も確認する。


 この男も有能だったと思うが、上が無能なら仕方がない。――あの男とあの娘は生きているだろうか?


 地下五十一階へ降り立つと、俺の懸念が当たりでも外れでも無いことがわかる。


 瀕死の二人が倒れていて、それに襲いかからんと巨大な熊の魔獣が立っていた。


 俺はカバンから金の小刀を取り出す。


 そして背後から、俺に気づいていない……その熊の魔獣の首へと小刀を突き刺した。


 熊は痛みと抵抗で暴れたが、右手で腰のナイフを抜いてその爪を防ぐ。


 左手は熊の首へと突き刺した小刀を持ったまま……そこから意識せずとも神術エネルギーが注ぎ込まれ、魔獣にダメージを与えていく。


 しばらく熊は暴れたが、ついには動かなくなり、そして死んだ。



 それから、二人の元へと駆け寄る。


 貴族の男アジールは座り込んでいる。


 その体はもう、ポーションでは回復しきれないほど傷だらけになっていた。


 その横でぐったりとしつつも、リリスは主人に回復術をかけ続けている。


 それは、契約の刻印によるものなのか?


 彼女の優しさによるものなのか……?


 彼女自身の外傷は少ないが、頭を打った様子で、瀕死であることに変わりはなかった。



 ――中年の男が呟いた。


「――お、お前は?」


 男の黒い目も娘の緑の目も、もう死んだような光の無い色をしている……だが、どうやら俺に気づいたらしい。


 俺は悩んだが、一人を助けると決める。


 カバンから小瓶を取り出して、それをアジールに見せた。


 ポーションの青では無い、緑の液体の入った小瓶――それを見てアジールは目を少しだけ見開く。


「そ、それは……、エ……リクサー?」


「さすがだ。よく見たことがあったね。」


 アジールはこのレア物を見たことがあったらしい……


 ポーションの回復力を遥かに凌駕し、瀕死の傷も病をも癒す、奇跡の秘薬エリクサー。


 貴族でも滅多にお目にかかれないはずの代物だが、知っているとはお目が高い。


 ――それに、話が早い。


 俺はアジールに取引を持ちかける。


「なあ、アジールさん、賭けをしないか?」


「か……、賭け?」


「そう、コイントスさ。あんたが勝ったら、このエリクサーをあんたに飲ませよう。」


 俺は賭けの報酬を伝えた。


 そして、リスクを伝える。


「エリクサーは貴重な品だ。釣り合いが取れるように、俺が勝ったらその娘も含めたあんたの持ち物、全部頂こうと思うけどどうだろう?」


「わ、わかっ……た。」


 提案に、アジールは素直に応じる。


 どうやらもう、元気だった頃の威勢は失っているようだった。


 俺はアジールの肩に触れ……そして、意識を集中し契約の刻印を施す。


 契約の刻印はこういった賭けにも使える便利な術だ。


 もちろん俺自身もこの契約に必ず従うことになるのだが……


 ――さあ、賭けの開始だ。


 俺は口元に笑みを浮かべ、アジールの前に座り込む……そして、じっと彼を見つめる。


「は、やく、コインを……な、げろ、」


 アジールは急かしてくる。


 だが俺は何もせず、じっとアジールを見つめ続けた。


「は、はや……はや……が、げはぁ!」


 アジールは口から血反吐を吐き出し、その血飛沫が俺にも飛んでくる。


「――ぼ、がぁ、あ、」


 こちらを見ながら、力ない声と血を垂れ流すアジール。――その血の叫びは……最期の叫びだ。


 血反吐を吐いた後アジールは、首をカクンとうつ向かせ、もう言葉を発することは無くなった。


 それを見て俺はコインを投げて手の甲で止め、それから彼に尋ねるのだ。


「なあ、アジールさん。表にするかい、裏にするかい?」


 アジールはもう答えない。


「答えないなら俺の不戦勝だが、いいのかい? アジールさん?」


 もう首も手も全てを力無く垂らして、座り込むアジール。


 彼はもう問いに答えることは――無い。


 どうやら……俺は賭けに勝ったようだ。


「残念だったねアジールさん。でも、契約は契約だ。――自己責任だから仕方ないね。」


 そう言って俺はもう死んだ男に、賭けの負けを宣告したのだ。



 今度は、少女を抱きかかえる。――少女もまた力なく、人形のように動かない。


 俺はエリクサーを一滴、少女の口に注いだ。


 だが、少女は飲む力無く、小さな咳と血とともにエリクサーを吐き出してしまう。


 ならばと俺は自分の口にエリクサーを含み、口移しで少女にエリクサーを飲ませた。


 少女が吐き出そうとしても、ずっと口づけをしたままでその口を押さえ続ける。――どうやら、エリクサーが体内に入ったらしい。


 少女の身体から神術エネルギーが溢れて、その傷が瞬く間に癒えていく。


 彼女の白い肌に血の気が戻るのを見て取れた。


 俺は少女から顔を離して語りかける。


「やあ、お嬢さん。君のご主人から君を譲り受けた。もう契約の刻印の効果も無いはずだ。俺と一緒に来ていただこうか。」


 そう言ってから少女を抱え、地面へと立たせてあげる。


 少女は混乱した顔で、死んでいる元主人と、俺の顔をキョロキョロと見回している。


「名前は、なんだったかな?」


 そう尋ねると、彼女はその緑の瞳で俺を見て、小さな声で答えてくれた。


「リ、リリスです……」


「そうだったねリリス。俺はゼノだ。両親か、家族はいるかい?」


「い、いえ……」


 寂しそうな少女。


「なら、そうだなぁ……。もう少しこの迷宮を潜った後で俺の家に来てもらおう。――そこが君の新しい住処だ。」


「は、はい……」


 少女は相変わらずの弱々しい声で、かろうじて返事を返した。



 ――そんなやりとりの後。


 戸惑うリリスの柔らかな手を、俺は無理矢理に左手で掴む。――そして、右手で握って握手をする。


「よろしく、リリス。」


 リリスは顔を硬直させていたが、俺は笑みを向け続ける……すると、その手に少しだけ力が入るのを感じ取れた。


「リリス、ついておいで!」


「は、はい。」


 俺は立ち上がり進み始めた。


 少女はまだ、自分の意思では歩けない……だけど、俺に付いてきて歩き出す。――自分の力で立ち上がり、歩き始めた。

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