死神少女と七日間の人生
@pola199006
死神少女と七日間の人生
円形のシーリングライトが容赦のない白色光を殺風景な部屋に投げかけている。月曜日の夜更け、退屈だった学校の復習もせずに僕は考える。何故、僕はこうしてここにいるのだろう。十八年の人生で、という事は大体十年間くらい、僕はそんな事を考え続けてきた。冷静に考えればそこに理由はない。僕の両親も人間という一種の動物で、その本能によって僕を生み出した。人間は皆んな意味もなくこの世界に投げ込まれたに過ぎない。それだけの事だ。でも僕の直感はどうしてもそれを拒絶する。この世界には何かがなくてはならない。僕は頭を振った。
「はあ。こんなことばっかり考えてるから僕は折角の高校の三年間を台無しにするのさ。もっと華やかな生き方だってあっただろうに。ああ死にたい。なんてね…」
「あなた死にたいの? それはそれで好都合だわ。」
窓は開いていない。しかし、窓のこちら側には闇夜を背景に一人の少女が立っていた。いわゆるゴスロリと言う奴だろうか。そんな服装で、手には不釣り合いに大きい死神が持っているような鎌。まあ死神という奴だろう。
「いやまあ、死にたいというのは弾みで言ったというか何というか… 楽に死ねるならそんなに悪い話でもないかもしれないけど。いやでも、死後の世界を何にも知らないで死ぬっていうのもちょっと怖いような… あ、そう言えば好都合ってどういう事ですか? もしかして僕は死…」
「ちょっと、ちょっと、いきなり話し出す前にもっとするべきことあるでしょ! もっとこう、「うわー!」って驚くとか、「お前は誰だ?」って聞いてみるとか。」
「その下り要ります? だってあなた死神様でしょ? 凶器を持ったコスプレの変態を侵入させるほど僕の家のセキュリティーはザルじゃないですよ。」
「誰が凶器を持ったコスプレの変態よ! 様付けで呼ぶくせに失礼な奴ね、あんた。」
「これは確かに言葉を選ぶべきでした。それで、死神様なんですよね。」
「そ、そうよ。私は死神。今日は仕事をしにここに来たの。あなたは…」
「三日後に死ぬんですか!?」
「人の話を遮るな! 一週間後に死ぬの! このままいけばね!」
「一週間後か。まあそんなに悪い話ではないかな?」
「悪い話でしょ! あんた死ぬのよ! 一週間後に! 華の高校生活も終える事なく! なんでそんなに落ち着いてんのよ!?」
いや、落ち着いてなんかいない。死がどんなものであるか分からない以上、死ぬ心構えなんて当然できない。でも死神様の雰囲気がそうさせるのか、僕は表面上おどけた様なのんびりした様な態度が取れているだけだ。
「うーん。実感が湧かない。」
「当然よ。こんなこと言われて実感が湧くなら、そいつは頭が沸いてるわ。」
「お、上手いこと言いましたね。」
「うるさい! とにかく、あんたはこのまま行けば一週間後に死ぬ。但し、この一週間の行いが良ければ運命が変化して死を回避する事ができる。で、私の仕事はあんたの一週間の行いを観察して報告する事。そしてもし死んだらその魂を導く事。」
「ちょっと待ってください。運命ってそんなに簡単に変わっちゃっていいんですか? 定まって動かし難いからこそ運命と呼ぶに値するのでは?」
「質問するところそこ!? 行いによっては死ななくて済むかもしれないのよ。そっちに注目しなさいよ。尤も、これまで死の運命を回避できた人なんて私は見た事ないけどね。」
そうでなくては運命と呼ぶに値しない。
「ところで、報告という事は死神様以外にも別の神が?」
「報告っていうのはあんたに分かりやすく伝えるためにそう言ったの。私たち死神より上位で、殊に運命を操作できるほどの存在になるとあんた達が理解できるような姿形で存在してないの。私の目で見て感じた事が神に伝達されて、それが神を通じて運命に作用するの。」
運命を左右できる神は人格神ではないらしい。何て事だ! ではこの世界の不幸の責任を誰に訴えれば良いのだ! しかし全知全能の神が何故に人格を持った死神を遣わして運命を変えたりするのだろうか。人間を測る為には人間的尺度を持った知覚器官が必要で、それが死神であるとか? 想像に耽るのは楽しいが、測りがたい神を理解しようとしても話が進まないだろう。
「因みに行いが良くなければどうなります?」
「過去の行動とこれからの行動に応じて行き先が決まるわ。天国、煉獄、地獄、存在の完全な消滅。お好きにどうぞ。」
「存在の完全な消滅! なんて素敵なんだ!」
「素敵!? それは一番最悪のケースよ。あんた本当に変わり者なのね。」
最悪だって? 存在が完全に消滅するならば、何も知覚する事がなく、故に苦しむこともない。一番素敵ではないか。広大無辺な宇宙を漂い、自他の境界さえも失って溶けていくような真実の暗闇。孤独を孤独と知ることもない孤独。素敵だ。
「どれくらい悪い事をすればそうなれるんですか!?」
思わず身を乗り出す。
「知らないわよ! て言うか存在の消滅を目指すつもり? あんた本当に頭沸いてんじゃないの?」
「いえ、参考までに聞いておこうと思って。」
「どう見ても参考までに聞いておこうと思った人間の聞き方じゃなかったわよ。まったく、私も知らないのよ。経験上、そうなった奴は見た事ないわ。人を殺すとかそういう場合は普通に地獄に落ちるの。程度によってはその地獄の中でも深いところに落ちるわ。でも存在の消滅はそういうケースがあるって知っているだけで、実際どんな事をした奴がそうなるのかは分からないのよ。よっぽどの悪人なんでしょうけど…」
「いや案外よっぽどの善人がそうなるのかもしれませんよ?」
「何でそうなるのよ! 良い事をした人が存在ごと消されるなんて理不尽すぎるじゃない!」
「人に死の宣告をしに来る存在も結構理不尽だと思いますけど?」
「いちいちうるさい!」
「ええと、状況を整理すると、僕は基本的には一週間後に死ぬ。行いによっては死なないケースもあるけど、死後の行き先が変わるかもしれない。で、死神様はその監視役と。」
「そんなところね。」
「因みに、今の僕だとどこに行く事になるかわかりますか?」
「知る方法はあるけど教えない。」
「えぇ? 参考程度にそれくらい教えてくださっても良いじゃないですか。」
「私に負担があるのよ。なんであんたにそこまでしてやる必要がある訳?」
「負担ですか。なら仕方ありませんね。それでは死神様、ここは一つ宜しくお願いいたします。ところで、死神様はこれからどうなされるのですか?」
「どうって、あんたを一週間監視するのだけど?」
「いえ、今日はもう遅いですし、私は何もなければ寝るつもりだったのですけど。」
「寝ればいいじゃない。私はあんたの椅子に座って考え事でもしておくわ。それとも私がいると寝辛い? それなら姿を見えなくする事もできるけど。」
「ああ、文字通りつきっきりでの監視なのですね。それなら折り入ってお願いがあります。」
「なによ?」
「せっかく死神様とお近づきになれたのですから、一つ無駄話にでも付き合っていただきたいのですが…」
死神様はあまり気が進まない様な顔をしたが、拒絶する事もなかった。僕は全ての事には原因があるというが、なら全ての事柄の第一の原因が神なのではと問いかけたが、死神様はそういう議論がしたいならもっと正確な言葉遣いを覚えてからにしなさいと一蹴した。また、天国や地獄について尋ねても、一般的なイメージとさほど変わらない答が返ってきた。しかたがないので他愛もない話を夜通し語り合う事にした。語り合うと言っても、僕が殆ど一方的に話をしただけだったが。しらじら夜が開ける頃、死神様はうんざりしたような顔であくびをした。死神様も眠くなるのかな、などと考えていたら意識が薄れて行った。今日が祝日でよかった。
「ちょっと、いい加減に起きたらどうなの? もう昼過ぎよ。明け方に眠って八時間睡眠をとろうなんて贅沢なんじゃない。大体、あんたには一週間しか残されてないのよ。それを惰眠で消費するなんてそれこそ贅沢だわ。贅沢は罪よ。地獄に落ちたいの!?」
余計な事を言うものだと思ったが、美少女に起こされるというのは悪くない。
「おはやくないけど、おはよう。」
「はい、おはよう。下から何かいい匂いがするわよ。お昼ご飯なんじゃない? さっさと食べて来たら?」
「死神様はどうなされますか?」
「どうって、私はここで待ってるわよ。」
「せっかくならご一緒にどうかなと思って。」
「大鎌を持ったコスプレの変態をどうご家族に紹介する気?」
「まだ根に持っていたんですね、それ。いや、食事を部屋に持ってこようかなと。」
「いいわよ別に。人間界の食事なんて別に珍しいものでもないし。それとも何? 「わあ、私、人間界の食べ物を食べてみたかったんです〜」みたいな反応が欲しかったとか?」
妙にひねくれた死神様である。
「いえ、自分の部屋に誰かを一人にするのも居心地が悪いですし、かと言って死神様の目の前で一人黙々と食事をするのもどうかなと思ったので。」
「そういう事なら付き合ってあげない事もないけど? でも、二食分持って来るのは家族に変だと思われない?」
「一人で二人前を食べようとするくらいで心配する家族ではないのでご安心を。」
「まあ、あんた変だものね。」
「それは変のベクトルが違いますが。」
僕はミネストローネとパンを二人分持って来た。
「美味しいじゃない。」
「それはどうも。ところで、死神様のお名前を聞いていませんでしたね。」
「クロでいいわ。」
「クロ様。僕は長岡優です。改めまして宜しくお願いします。」
「名前くらい知ってるわ。仕事だもの。」
「まあ、人間としての挨拶ですよ。」
僕はパンをミネストローネに浸して口に運んだ。
「ところで、これからの生き方の参考にしたいのですが、死を回避しようとした人たちはどんな風でした?」
「何? あんたも死が怖くなった?」
クロ様は少し口角を吊り上げニヤリとした。
「いえ、そういう訳ではありませんが、純粋な好奇心で。それに、死の運命を回避した人はいないようですし、すこしでも善行を積んでせめて天国くらいには行っておこうかと。」
「天国ねえ、運命を変えたくて財産の半分を寄付した男がいたけど、結局地獄に落ちたわよ。」
「実は犯罪で稼いでいたとか?」
「いや、一応は真っ当な金よ。ただ、汚い事はずいぶんやって貯め込んでいたらしいわ。まあ当然よね。土壇場になって寄付したくらいで、これまで傷つけて来た人たちの事はチャラにならないわ。」
「可哀想な人ですね。」
「因果応報じゃない?」
「いえ、それも含めて哀れです。」
他人を傷つけたり出し抜いたりして貯め込んだお金を死の宣告で半分捨てて—-彼にとっては寄付は金を捨てる様なものだろう—-それでも地獄に落とされる男とはなんと哀れな事だろう。僕はなんだか少し苦しくなった。
「ま、そんなもんだからあんたも悪あがきなんかしないで普通に毎日を大切に楽しめば? 尤も、あんたはプロフィールを見た限り地獄に行くような感じでもないから案外悪あがきも意味があるかもしれないけど。」
「ええ、良い感じにやって行くつもりですよ。大体、僕なんかにできる善行なんてたかがしれてますしね。」
「それで、今日はどうすんの?」
「どうしましょうか。クロ様は何かしたい事とかありますか? ほら、人間界に来てこれがしたかったとか。」
「特にないわよ。主体性がないわね。あんたの残り少ない人生なのよ。予定一つも人任せでどうすんのよ。それに、仕事で何回も人間界に来てるんだから、特にしたい事もないわ。」
「手厳しいお言葉で。しかし、それでは僕の無駄話にまた付き合ってもらう事になりますよ。僕はお喋りなので、残り少ない時間をクロ様にお話を聞いてもらう事で使い果たしても全然構いません。」
「げっ。それは勘弁して欲しいわね。あんたの話は妙に理屈っぽいから聞いてて疲れるのよ。あんた普段の休日は何して過ごしてるのよ?」
「普段は読書ですが、クロ様が居るならたとえ姿が見えなくても集中できないですね。あとはカラオケとか?」
「歌ねえ。素人の歌なんて聴いても楽しくもなんともないけど、理屈っぽい話を聞かされるよりマシか。」
「確かに人様にお聴かせする様な歌ではありませんが、歌の感想を貰えるのは悪くない事です。僕、歌を聴いて貰うのも好きなんです。」
「私の評価は厳しいわよ。」
「厳しい方が励みになります。尤も、どんな評価を頂いても改善するチャンスはもう無い様ですが。」
「あんたその事でよく軽口叩く気になれるわね。」
「まだ実感がないからですよ。ところで、クロ様はその格好で出かけるつもりですか?」
「ああ、これね。確かに目立つわね。高校生男子とゴスロリ少女が歩いてたら訳が分からないわ。」
「ご自覚があったんですか!?」
「なによ!? 人が恥ずかしい格好してるみたいに! 大体ね、この格好はあんたのせいなのよ。性別とか顔はともかく、死神は現れる時に相手のイメージにある程度応じた格好で現れるの。だから大鎌にゴスロリ服はあんたのイメージな訳。」
「なるほど。」
と、僕が瞬きをすると彼女の格好は変わっていた。ぴったりと体のラインがはっきり分かるズボンに黒いTシャツ。まあ、この格好なら特に違和感はないだろう。尤も、僕に洋服のセンスはないので、その格好がどんな風に他人に映るかまでは分からないのだが。
「ついでにツインテールも解いてみたらどうですか? そっちの方が違和感がないかもしれませんよ。」
「うっさいわね。」
クロ様は少し赤くなって髪を解いた。あまり他人の外見にとやかく言う趣味はないのだが、女性の長くてサラサラした黒髪は綺麗だと思う。
かくして僕は思いがけず美少女とカラオケデートに出かけると言う幸運を得た。高校生らしいどころか、青春エピソードの中でもこんな幸運に恵まれる者はそういないだろう。カラオケ店までの道中、クロ様は道を知らないから、僕が一歩先を歩く。彼女の顔は見えないが、多分、事務的な顔をしているのだろう。何度も通った道なのに、今日はなんとなく違った風に見える。実際、僕は初めて花壇に可愛い花が咲いている事に気が付いた。こんなところに花壇なんてあったっけ。名も知らぬ花に心の中で挨拶して、僕たちはカラオケ店まで歩いて行った。
「何を歌うの?」
「Caro mio benです。」
「イタリア歌曲? カラオケで歌うイメージはないわね。それにしても、下手くそから聴かされたくないタイプの歌だわ。」
照れ臭さから普通に歌うつもりだったけど、僕はマイクを置いた。マイクを通して聴くより、自分の声を部屋に反響させて聴く方が本当は心地が良いのである。前奏が終わり歌詞の始まる直前にお腹に空気を溜める。そしてそのまま歌い始め、自分では特にミスがないと思える歌い方で歌い終えた。
「へぇ…」
クロ様はどことなく真剣な表情をしていた。
「あんた、なかなか上手いじゃない。素直に褒めてやるわ。」
意外な評価だった。もっと辛辣な評価が返ってくるかと思ってたのに。
「磨けば光ると思うわよ。」
「磨く時間がありませんけどね。」
クロ様はハッとした表情をして黙った。
「いや、まあでも、ありがとうございます。ただ、僕はこの曲がそんなに得意って訳じゃないんですよ。「愛しい人よ、私につれない態度を取らないで。」なんて、愛しい人がいた事のない僕には情感を込めて歌う事ができませんから。」
「別に必ずしも経験に基づいて情感を込める必要もないじゃない。恋愛を主題にする歌は腐るほどあるけど、その作者が皆んな御大層な大恋愛をしてると思う? それに情感を込めるばかりが歌のポイントでもないでしょ。」
そうかもしれない。
「では素直にお褒めに預かります。」
「そうしなさい。他の歌も聴かせなさいよ。」
「似た様な種類の歌はもう歌えませんよ。」
「いいわよ、それで。私、割と音楽の趣味は広いから。」
僕は自己評価の良い順に曲を選んで歌っていった。面白いのは自己評価とクロ様の評価が異なる事である。どの曲もクロ様は真剣に聴いてくれ、手短な感想をくれた。途中、クロ様にも一曲歌うのを勧めたが、あっさりと断られてしまった。それにしても、クロ様の新しい表情が見られたのは今日の収穫である。はっきりと笑ってはいないがどこか楽しげで満足した様な表情を見ると、僕もなんとなく嬉しくなるのであった。三時間はあっという間に過ぎ去っていった。
時間は五時を回ったところ。適当に散歩して夕食を食べて帰ればちょうど良いだろう。
「もう帰る?」
「いえ、散歩して食事をしたら帰りましょう。」
「食事って、家で食べるんじゃないの?」
「予め外食するって家族に伝えてあります。家族に連れていってもらったお店で、とても好きなお店があるんですよ。そこに行きましょう。死ぬ前に一度は行っておきたいなと思い付いたので。」
死ぬ前という言葉に一瞬、クロ様の表情がピクリと動いた。
「そう、それなら行きましょ。未練はない方がいいものね。」
普通に向かえばカラオケ店から店までは十分程度で着くのだが、遠回りをして一時間程度歩いて店に着いた。道中、相変わらず一方的に話しかけたが、昨晩と違ってクロ様はそれなりに言葉を返してくれた。
「ああ、長岡くん。いらっしゃいませ。」
「お久しぶりです。飯田さん。家族にいつも連れてけって頼むんですけど、中々タイミングが合わなくて。我慢できなくなって家族を置いて来ちゃいました。」
「でも代わりに彼女さんを連れて来てくれたのかな? 嬉しいですよ。デートコースにうちを選んでくれて。」
「いや、まあ、デートと言うかなんと言うか。」
「ふふっ。ごゆっくりどうぞ。」
僕たちは席に通された。クロ様は飯田さんに愛想のいい笑みで会釈してから僕に続いて席についた。
「クロ様、なんというかすみません。その、デートだなんて。」
「別にいいわよ。これも仕事みたいなものなんだし。彼女のふりくらいしてあげるわ。それより、あんたこそ本当は好きな人と一緒に来てみたかったんじゃないの?」
「その発想はありませんでした。僕が言うのも変ですけど、初デートでイタリアンに連れて行く男子高校生って何か不釣り合いに気取っていてどことなく滑稽じゃありませんか? まあ、このお店は寛げない様なお店ではないですけど。」
「いや、自分で言うなよ。まったく、あんたの言動はどっか俯瞰的なものが多いのよね。」
「そう言う人間ですので。」
そうこう言っているうちに料理が運ばれてきた。コースではなく僕が好きな料理を単品でいくつか。その中でも、オッソ・ブーコが僕のお目当てだ。
「これが食べたかったんです。仔牛のスネ肉の煮込みなんだそうですが、初めて食べた時に感動して。」
「確かにこれは美味しいわね。あぁ、これだとワインが欲しくなるわね。自分は大学生ですって事にして頼みたくなるわ。」
「ペアリングってやつですか? その設定で頼んでもいいですよ。話は合わせますので。」
「やめておくわ。仕事だし。」
仕事か。僕は家族と来た時とは違った楽しみを覚えていたのだけど、クロ様にとってこれはただの仕事なのだ。僕はちょっぴり恥ずかしい様なバツの悪い様な思いがした。
「それにしてもペアリングと言うのはわかりません。」
「当然でしょ。未成年なんだから。」
「ワインの味見くらいはした事があるんですが、そんなにお口に合いませんでした。」
「味見だけでワインの良さがわかる訳ないじゃない。食事と合わせたり、香りを楽しみながらじっくりと味わってみたり。そうやってお酒は好きになって行くものよ。」
「僕もそういう機会を得てみたかったものです。」
クロ様は言葉を返さなかった。そういう軽口を叩くなとかツッコミを待っていたのに。
「でもクロ様のお口に合ったみたいで良かったです。」
「ここは実際いい店だと思うわ。それこそ、大人がデートコースに選んでもいい程に。」
そうして僕たちは店を後にした。本当に好きなお店だったので飯田さんに最後の挨拶をしておきたかったが、不自然でない言い方を思いつかなかったので、ただいつもより多めに食事の感想とお礼を言っただけだった。こんなに充実した休日は久しぶりだった。
目覚ましが鳴る少し前に目が覚めた。朝日が差し込む時間ではなく部屋はまだ暗い。しかし気分はとても清々しい。こんなに気持ちよく目覚めたのも久しぶりだ。
「クロ様、おはようございます。読書するならデスクライトくらいつけてもいいんですよ。」
「おはよう。死神は目がいいの。ちょっとでも明かりがあると人間の眠りの質は落ちるのよ。」
「そうですか。お気遣いありがとうございます。」
僕は基本的に早起きなので、食事やシャワーの時間を除いても結構な時間が残る。普段はその時間で読書や勉強をするのだが、さて今日は何をしたものか。
「それにしても早起きなのね。」
「まあ、日によっては後一時間くらい寝てる事もありますよ。今日はかなりすっきりと目覚められた方です。それにしてもクロ様は眠らないんですね。」
「眠る必要がないの。とは言っても、眠る事はできるわ。私も仕事がなくて手持ち無沙汰だと眠るしね。でも今は仕事中だもの。」
「僕の寝姿は運命を決める評価に影響しましたか?」
「ふふっ、何の印象も与えなかったわ。良かったわね、だらしない寝姿だなんて評価にならなくて。」
「それは良かった。だらしない寝姿は時として大きな決断のきっかけにもなるものですからね。」
クロ様は何のこっちゃという様な顔をした。ふと壁を見やると、一匹のヤモリがいた。
「またあいつだ。」
「ヤモリがいるわね。」
「あいつ一ヶ月前から家にいて、ちょくちょく顔を出すんですよ。いい加減出ていけばいいのに。」
「ヤモリくらい別にいいじゃない。害もないんだから。生き物が苦手なの?」
「いえ、自慢じゃないんですが、うちはかなり綺麗好きな部類だと思うんですよ。実際、たまたま入り込んだ小さな羽虫以外の虫なんて家の中で見た事は殆どありません。それだけにあいつの餌がないんじゃないかなと思って。飢えて乾涸びて死んでたら可哀想じゃありませんか。」
僕は今日こそはあいつを外に逃してやろうと思って捕まえる事にした。しかしヤモリというものはすばしっこいもので、潰さない様におっかなびっくりやっていると中々捕まえる事ができなかった。朝食の前には捕まえて逃す事ができたが、思ったよりも時間を食ってしまった。
「優しいのね。」
「蜘蛛一匹に情けをかける事で天国へ行くチャンスを貰った例もありますから、生き物には優しくしてやりませんと。」
「ふふっ、相変わらず口が達者なのね。」
「それじゃあ朝食を持って来ますよ。」
「私の分はいいって言ってるのに。」
「言ったじゃないですか、そっちの方がやりやすいって。」
今日の朝食はご飯にお味噌汁、焼き魚と小松菜のおひたしだ。焼き魚以外はしれっと二人前をよそって来たが、焼き魚は一人分しかなかった。
「すみません、焼き魚は流石に家族の人数分しかありませんでした。」
「だから別にいいって言ってるじゃない。」
「いえ、そう言う訳にも行きません。」
僕は持って来たナイフで焼き魚を半分に切り、持って来た皿に乗せた。
「律儀というか何と言うか。」
「すみませんね、何となくみっともなくて。」
僕らは適当に言葉を交わしながら朝食を食べた。
「ご馳走様。」
「じゃあ、食器を片付けて来ますね。」
「コソコソと私の分も持って来たみたいだけど、食器で気付かれない?」
「僕が食器を洗って片付ける事も多いので。それに僕の家族は無頓着なので気付かないと思いますよ。」
片付けを終えて部屋に戻ると、クロ様は僕の学校の制服を着ていた。
「もしかして死神の力で都合よく僕の学校に転校して来たりできるんですか? クロ様の隣の席で授業を受けられるなんて、青春の甘い一ページが加わりますね。」
「そんな訳ないじゃない。単に登下校の時に目立たない為よ。授業中は姿を消して後ろにでも立ってるわ。ずっと姿を消しててもいいけど、通学中に独り言を喋りながら歩く男にはなりたくないでしょ。」
「女生徒と歩いてる姿を友達にでも見られたら、それはそれで噂になりそうですがね。」
「噂させておけばいいんじゃないの。生きてたとしても七十五日後には噂なんて皆んな忘れてるわ。」
「それにしても。」
「何よ?」
「登下校中のお喋りには付き合ってくれるつもりでいたんですね。ずっと姿を消してついて来ても良かったのに。」
一瞬の沈黙。軽く赤面した顔でこちらをキッと睨んでいる。
「いや、でもありがとうございます。一人で黙って歩いていたら、それこそ死を深刻に考え始めて発狂するかもしれませんから。」
「あんたは少しは真剣に考えた方がいいけどね!」
家を出てから僕たちは並んで歩いた。他愛もない話をしながら。学校に近づくと生徒たちが目につく様になる。一人で歩いている人、友達同士固まって歩いている人たち、おそらくカップルであろう男女。それぞれが他愛もないお喋りをしながら学校へと向かっている。僕は今日、初めて自分が自分の学校の生徒の一員であると言う実感が湧いた。皆んな、同じ様なものなのだ。
「じゃあ、私は適当なところで姿を消して教室に入るから。」
「分かりました。ではまた後ほど。」
教室に着くといつも通りの光景だ。特に僕の登校中の出来事を詮索してくる奴もいない。友達に休日は一人カラオケで九十八点を叩き出したなどと適当な自慢をしていると、朝のホームルームの時間になった。教員が二人入って来た。一人は担任、一人は生徒指導の教員だ。
「全員席についたな。今日は持ち物検査と服装のチェックを行う。まず女子のスカート丈の検査をするから、女子は全員前に出て来なさい。」
生徒指導の教員が威圧的に言う。この学校ではスカート丈を測るのに物差しを使う。それで膝上何センチと測って基準を満たしていたらOKという寸法だ。女子生徒の足に物差しをあてがう訳だから、後で触ったとか触ってないとか騒ぎにならないためにわざわざ教員が二人いるのではないかと疑っている。僕はこの時間が心底嫌いだ。思わず、
「馬鹿馬鹿しい。」
と口に出してしまった。
「おい、長岡。今、なんて言った?」
生徒指導の教員が詰め寄ってくる。普段なら口に出して嫌悪を表明する事はないし、万が一そんな事をしても謝ってその場を収めるはずだ。だけど今日は何故か怒りの感情が勝ってしまった。
「馬鹿馬鹿しいと言ったんですよ、先生。別に校則がある事は結構な事ですよ。皆んながそれなりに調和して学校生活を送るために一定のルールが必要だっていうのは納得できます。でもシャツの裾がはみ出しているだのスカート丈がどうだのだなんて、一体それで誰の学校生活を脅かすっていうんですか? それで誰かが傷つきますかねえ? 百歩譲ってそういうルールがあることを認めたとしましょう。でもそれが守られてるかを確かめるために年頃の女生徒の足に定規をあてがうですって? そんなセクハラまがいの所業こそ学校生活において、いや社会一般の生活において有害極まりない他人を傷つけ得る行為じゃないですか。自覚があってか無くてか分からないけど、そんな無神経な事を反抗できない人たちに押し付ける。これが馬鹿で下種でなければ、何が罵るに値するか僕には分からない。」
そこからは言い合いだった。やれ本当の非行に走らないためにはちょっとした規律の乱れも許してはならないだの何だのと言うから、僕は僕でその規律が本当に正しいものなのか、また、被害者のいない規律違反にまで徹底的な不寛容の態度をとる事は生徒の情緒的な発達に対して悪い影響を与えないかとか反論した。そこで生徒指導の教員が割れ窓理論を引用したところで、
「割れ窓理論にも当然批判はある。お前は自分の正当化のために難しそうな言葉を理解するつもりもなく引用する無知な権威主義者だ。お前の様な愚か者から学べる事など何もない。あったとしても、それは世俗を渡り歩く時にしか役に立たない皮相で卑屈な態度くらいだ。もう結構。僕は帰る!」
「帰れ!」
「ええそうします。説教なら後日聞きますよ、先生。生徒の学ぶ権利を第一にすべき先生が、まさかもう学校に来るな等とは仰りませんよねえ?」
僕は精一杯の皮肉を言ってニヤリと笑った。しかし手は信じられないほどに震えており、自分でも訳が分からなかった。頭には血が昇ってどうやって学校を出たのか分からない。気付くとクロ様が隣にいた。
「お恥ずかしい、実にお見苦しいところをお見せしてしまいました。」
「ああ言うところにあなたの憤りがあったのね。死の運命を伝えられて、普段言えなかった怒りを爆発させる人間は珍しくないから別に気にしなくていいわ。」
「そうですね。大人になる前に死ぬからこそ言える事でした。自分より弱い相手に偉そうにする事も、それに媚び諂う事も、大人になるためには学校で学んでおいた方がいい事です。」
「実に若者らしい皮相な意見ね、それ。まあでも、あなたの怒りは筋が通っていたとは思うわ。」それからは何も言わずに暫く歩いた。しかし困った。このまま家に帰るのもどうだろう。家族に怒りをぶちまけて帰って来た事を伝えても、特に学校に戻される事はないはずだ。しかし部屋でじっとしていられる自信がないのだ。
「あんたこのまま家に帰りたくないでしょ。」
「分かりますか?」
「そりゃあね。駅前の高層ビルにでも行かない? あそこならいかにも展望フロアがありそうでしょ。高いところからの景色でも見たら少しは頭が冷えるわよ。」
「そう言うものかもしれませんね。初めてのクロ様からの提案です。ぜひ行きましょう。」
歩きながら僕は僕の意見と怒りの論理的、倫理的正当性をどう言語化しようかと考えていたが、上手くまとめる事ができなかった。もしかして僕にも言語化できない領域で死への恐怖が目覚め始めているのだろうか。
展望フロアのベンチに並んで座る。僕の頭はまだ冷えていない。
「こうやって同じ学校の制服を着た学生がこんな時間に座っていたらどう見られるでしょう? こっそり学校を抜け出してデートする悪い学生とか?」
戯けた調子で僕は言う。
「それ冗談のつもり? ま、そんな風に見えるんじゃないの?」
「半分は冗談じゃないかもしれませんよ。こんな風に気遣って貰って、今僕、クロ様にすごくドキドキしてます。」
「そう、まだ怒りの興奮が治ってないのね。」
そうなのだろう。僕は軽口は叩くがこんな異性への距離感を弁えない冗談は本来趣味ではない。
「そうかもしれません。すみませんでした。」
「別に気を悪くした訳じゃないから安心して。」
それから暫くぼうっと景色を眺めた。
「何が見える?」
「綺麗な青空と汚くて雑多な街です。別れが惜しい様な自然と別れて清々する人々の営みです。」
「そう。その意見をあえて否定するつもりはないわ。私は人間が好きでもないし嫌いでもない。ただ、個々の人間に対しては好き嫌いはあるわ。あなたは好きな方よ。あなたの愚直さも決して欠点ではない。」
「そうですかね。僕が後数日で死ななかったとしても、僕はこの社会で生きて行く自信がありません。お上に逆らう愚直さなんて、何の役に立つでしょう。」
「今日みたいな逆らい方をすれば、それはそうでしょうね。でもそう言う人間性を好ましく思ってくれる人だっているわ。あなたが思っている以上にこの社会の懐は深いと、私は人間たちを観察してきて思っている。」
死の運命は動かし難いものだと彼女は言っていた。きっと僕は数日後に死ぬのだろう。なのに彼女は僕に社会を悲観しない様に言ってくれる。その優しさの意味は何だろう。
「そろそろ落ち着いた? もうそろそろ帰りましょ。」
何時間くらい座っていただろう。彼女はずっと側にいてくれた。もちろんそれは彼女の仕事ではあるのだけど、僕は彼女の態度から優しさを感じていた。
家に帰った。クロ様は今日は家族と話しながら食事したらと言って僕の部屋に行ってしまった。何となくテレビを眺める。雑多な笑い声と商業広告の繰り返し。僕はそのどちらも嫌いだからテレビは基本的に観ない。しかし、たまたま次に流れたのはいつかのドキュメンタリーの再放送だった。貧困とその貧困に喘ぐ人達を支える人達のドキュメンタリー。最初は所詮は娯楽に過ぎないテレビという媒体で、真剣に考え取り組まなくてはならない社会問題が映されている事に違和感を覚えた。だが、あるシーンに於いて貧しいながらも働いて何とか日々を凌いでいる男性がテレビを見て笑っていた。もちろんそれも、見方によっては物悲しい光景だ。けれど僕には、僕が嫌いなテレビはしかし、懸命に日々を生きる人の生活の一部を確かに支えているんだ、と言う風に映った。社会の持つ懐の深さか… 僕の価値観は一方的すぎたのだろうか。もちろん、たった一つの価値観が全ての事象に妥当すると言う風に思い込む事自体が間違っているけど。あれこれと考えていると、夕食の時間になった。夕飯は酢豚をメインにした中華だった。僕は今日の顛末を両親に話した。父は呆れた顔をし、母は笑っていた。教員と大っぴらに喧嘩して学校を抜け出した事は咎められたが、僕の怒りそのものが否定される事はなかった。お風呂に入ってから部屋に戻ると、クロ様は本を読んでいた。
「何を読んでいるのですか?」
「とある哲学者が書いた幸福論。あんたにぴったりな言葉があるんじゃないかと思って。」
「もう気分は落ち着いてますよ。」
「それはそれでいいけど、忘れたの? あんた数日後には死ぬのよ。せっかく自分の死期がはっきり分かると言う機会を得たんだから、死への心構えを作ってみたら?」
「まあ確かに、今日までの行いで僕の運命が変わりそうな事なんて何もありませんからね。ヤモリ一匹を助けたから死ななくて済むなんてそんな訳がないです。」
「残念ながらそう言う事。寂しいけど、やっぱりあんたは死ぬと思う。」
「寂しいと思ってくれるんですか?」
「言ったじゃない。どちらかと言えばあんたは好きな方の人間だって。死神の仕事は人間界からあの世への橋渡し。あの世に行っちゃったらもう管轄外よ。それなりに寂しくもなるわ。」
素直に寂しさを感じてくれている事に僕は嬉しさを感じた。別に僕がいなくなって悲しむ人がいない訳では決してないのだが、クロ様が別れを惜しんでくれると言う事には何か特別な意味が僕にとってありそうだった。いや、僕は彼女に好意を抱き始めているのかもしれない。「特別な意味」だなんてそれ位しか思いつかないじゃないか。
「今晩はもう寝ます。今日は流石に疲れました。寝ている間にも思考は整理されると言いますし、死への心構えは明日から考えますよ。」
「そう、お休みなさい。」
彼女はそう言ってまた本を読み始めた。暇潰しの面もあるだろうが、僕のためでもあるのだ。なんて幸せな気持ちで眠りに就く事ができるのだろう。
目覚ましの音量が最大になる前に何とか止めてやった。今日は流石に疲れた感じが残っている。
「おはよう。今日も早いのね。」
それでもその一言だけで幾分元気が湧いて来た。
「今日は僕が朝食を作る事になってるんですよ。なので一人分の焼き魚を半分にするなんて言うみっともない真似をしなくて済む訳です。」
「そう、楽しみにしてるわ。」
嬉しい一言を貰って台所に向かう。とは言っても朝食だ。大したものは作らない、と言うか僕の料理スキルは平凡だ。気合の入ったものなんて作りたくても作れない。今日の朝食はパンとスクランブルエッグとコンソメスープだ。まずウィンナーと玉ねぎを適当に切る。鍋に入れた玉ねぎを火にかけて色が変わったところでウィンナーと水とコンソメなどを加える。そしてフライパンにオリーブオイルを引きニンニクの香りを移す。ニンニクを取り除いたらそこにさっき切って残しておいたウィンナーを加える。このウィンナーには少しこだわりがあって、近所の専門店で買っておいたレモンとハーブの香りの効いた食べると爽やかな美味しさのある逸品だ。カットのサイズは指先程度で、フライパンに入れる前に蜂蜜を少し絡ませてある。これに軽く火が通ったら塩と胡椒だけで味付けをした溶き卵を加えサッと炒める。あとはパンを用意してスープも出来上がれば調理終了。一手間は加えているつもりだが、それにしても自分が好きかもしれない相手に食べてもらうにはちょっと心許ない。いや、寧ろ簡単なものの方が失敗しないか。家族の分を別によそってから、僕たちの分を部屋に持っていった。
「簡単なもので恐縮ですができました。」
「朝食なんだから簡単で十分じゃない。」
「どうぞ。」
「いただきます。」
彼女が口に運ぶところがどうしても気になってしまう。もちろん、ジロジロ見る様な真似はしないけど。
「なるほど、ガーリックとハーブの香りがアクセントになっているのね。仄かに甘みもあって、これは蜂蜜かしら。一手間加えていて十分美味しいわ。」
美味しいと言って貰えて内心舞い上がる様な気持ちでいたが、
「お褒めに預かり光栄でございます。」
なんて冗談めかしい言い方をした。
食事を終えて僕はシャワーを浴びに行った。僕の家のシャンプー、コンディショナー、ボディーソープは全て蜂蜜の香りで統一している。子供の頃に家族で行った海外旅行で泊まったホテルのシャンプーが甘い蜂蜜の香りのもので気に入ったのだ。それ以来、僕は母の買い物について行くとシャンプーを蜂蜜の香りのものにしてくれとせがんだのだっけ。ブランドが違うのでボディーソープとそれ以外とでは香りが違うのだが、それでも香りが良くて好きだ。体を洗っていると洗面所から声がかかってきた。
「私が持ってる歯磨き粉が切れちゃったから、あなたの家のものを使っていい?」
「どうぞ。」
何気なく返事をしたが、クロ様が部屋を出ている事に気づいた。少し声のトーンを落として話しかける。
「大丈夫ですか? 幾ら何でも僕の家族にバレたりしません?」
「大丈夫よ。見えなくしてるって言うのもあるけど、あんたの家族、言っちゃあ悪いけど鈍感だもの。初めは気配でバレるんじゃないかって思ってたけど、そんな事ないみたいね。本当は断ってから借りるべきだったけど、実は洗面所とかお風呂はタイミングを見計らって勝手に使わせてもらってたわ。」
そうだったのか。まあ確かに鈍感なのは事実だと思うし、それに僕は家族の中で一番早く起きて行動するので、顔を一切合わせず学校に行くなんてこともザラにあるが。まあしかし、もし気配とかに敏感な家族だったら、初めてクロ様が来た日に夜通し語り合った段階で何か言われていたかもしれない。
お風呂から上がって制服に着替えた。
「今日も学校に行くのね。」
「まあ、サボってもいいんですけどね。お気に入りの哲学書でもあったら、サボって一日中読み耽ってた方が死への心構えを作る事ができたかもしれませんが、どうもそうする事がピンとこなくて。死への心構えは日常を送りながら考えますよ。それに、昨日の今日で僕が学校に行ったら周囲の反応が面白そうです。どうせ死ぬんですから恥ずかしさなんてどうでもいい感情ですよ。」
「それもいいかもね。」
「所で、相変わらずいつの間にか制服を着ていますが、それって魔法みたいに一瞬で身に纏ってますよね?」
「魔法、まあ、そんなところね。」
「歯を磨いたりお風呂に入ったりするのは魔法でできないんですか?」
「魔法が使えると言うか、死神には実体化の能力があって、この世界に現れる時には洋服を含め自分の体を実体化するの。その力を使って洋服を瞬時に再構成してるって訳。確かに、体の方まで一度分解して再構成すればそれはそれで清潔を保つこともできるけど、洋服の再構成と違って体の再構成は手間なのよ。死神の力と言っても見えなくする事とか早着替えとか、実体化している間はそんなに大した力を使う機会はないわ。と言うか、そう言うところは違和感を持っても詮索しないでよ。デリカシーに欠けるわね。」
「それもそうですね。失礼しました。」
間違ってもクロ様の入浴を想像したりなんかしていない。僕はそう言う軟弱な奴が嫌いなはずだった。
いつもの様にクロ様と雑談しつつ学校に着いた。教室に入るのがワクワクして仕方がない。客観的に見てあんな激昂の仕方をする奴はどこかおかしい。教室に入ると実際、一瞬教室が静まり返った。しかしポツポツとお喋りの声が戻り始めて、いつもの教室に戻った。何だか肩透かしを食らった様な気持ちになって僕は友人の田中の席に向かった。
「おう、長岡。流石に今日は来ないんじゃないかと思ってたよ。」
「まあな。実際、ちょっとバツが悪いよ。」
「まあでもいいんじゃねえか? 生徒の中で生活指導に反抗したからってお前の事を嫌いになる奴はいないだろ。俺はお前がああ言うのを心の底から軽蔑してたのは知ってたから、キレた事以外は驚かなかったけど。まあ、お前の沸点が分からないから近づかない様にしようと思った奴は結構いるだろうな。」
「まあ、それはいいさ。」
元々友達も少なければ、もう友達を作る必要もないのだ。
「あとは生徒指導の権威主義者にお説教を食うだけだな。」
それは心底どうでもいい事だ。怒りの感情が落ち着いた今、関係性を維持する必要もない相手に何を言われた所でどうでもいい。なんなら今度は落ち着いて皮肉ばかりを浴びせてやってもいいのだ。するとホームルームより少し早めに担任が教室に入ってきた。
「おお、長岡。」
僕は軽く会釈する。この人はどちらかと言うと生徒の話に耳を貸すタイプで僕も嫌いではない。流石にこの人にまで失礼な態度を取り続けるのは少し違う。
「ちょっとこっちに来てくれ。」
手招きされて人気のない廊下の端に行く。
「まあ、何と言うか、長岡が今日も学校に来て嬉しいよ。流石に休むんじゃないかと思ってた。もちろん、ああ言う言葉遣いをした以上はケジメをつける必要があるが、ここだけの話、俺は少しだけ納得したよ。女子生徒の足に間接的にせよ教師が触れるのは俺もどうかと思ってたんだ。まあでも、長岡のご指摘通り学校のスタンスはゼロトレランスでね。」
「昨日はすみません。生徒指導の彼がいけ好かないのは今も変わりませんが、先生にまで無礼な態度をとってしまいました。」
「まあ、気にするな。俺は名指しで批判された訳でもないしな。長岡にも元気な所があるんだなって感心したよ。あと、心の準備ができたら生徒指導室に謝りに行けよ。何だったら俺が着いて行ってやろうか?」
「大丈夫ですよ、先生。適当なタイミングで謝りに行きます。」
結局、このやりとりを最後に僕のあの一件は終わった。生徒指導の教員だけは今も腹を立てている事だろうが、あと何日かしか残されていない僕があんな男の顔を見る必要はもうない。ぼんやりと考え事をしながら授業を受けて、昼休みの時間になった。僕は屋上に行って、フェンス越しに街を眺める。隣にクロ様が歩いてきた。
「クロ様、もし僕が今ここで飛び降りたらどうなりますか?」
「死ねないでしょうね。あなたが言った通り、動かし難く定まっているからこそ運命よ。一週間後に死ぬって事は、逆に言えばその時まではあなたは生きるって言う事。」
「では世界は厳密な決定論的支配の下にあるのですか?」
「厳密ではないわ。ある部分は確率的に揺らぐ事もある。」
「ならそこに人間の自由意志があると?」
「だからそう言う事を考えたい時は用語に気をつける事と論理を飛躍させない事ね。私はあくまでも世界には確率的にしか予測できない部分があるとしか言ってないわ。あなたの自由意志の定義は何?」
「それは簡単に言えば、二つの選択肢がある時にそのどちらかを自由に、いえ、自由という言葉は訂正します。自分の好きに選べるという事です。」
「その言い方では「自由に」という言葉を避けた意味があまりないんじゃない? 私も詳しくは覚えてないけど、人間が選択肢の中からある事を選択するという状況を作り出した上で脳の信号を調べると、その人が何かを選んだとはっきり意識するよりも少し前に脳からはその選択肢に関する電気信号が流れているんですって。つまり選んだという事実は選んだという意識に先行するの。どう? あなたの単純な選択と自由意志のモデルはこの例で揺らがない?」
「自由な意志があってそこから行動が生じるのではなく、行動を追認する形で意識が形成されている? ではやはり自由意志は存在しない?」
「そこまで言う必要もないんじゃないかしら。正確な定義を言語化できない事とある存在が実在しない事は別だと思うわ。私たちが何となく自由意志と呼んでいるものが何かしら実在する可能性まで排除する必要性は無いと思う。」
「でも、僕達の意識は脳の電気信号に還元されて、それは決定論的支配の下に、部分的には確率的偶然に支配されているのだと考えると、僕達が知覚できる現象の世界には自由意志と言うものが入り込む余地がない様にも思えます。」
「物が存在して物は法則によってその過去と未来を決定されている。確率的な偶然性も入り込むけど、それはあくまでも偶然であって何かを自由に選び取る事ができる事は意味しない。そんな風に考えればそうでしょうね。でもそこにすら疑う余地があるとすれば?」
「疑う余地? 今挙げた事柄に疑う要素を僕は見つけられません。」
「物は誰が見ていなくても確かにそこにある。言ってみれば物の実在性。それから空間的に隔たっている物体同士は瞬時には影響を及ぼしあう事はできない。本当はこの事をそう呼ぶのは相応しくないかもしれないけど、客観的因果律と呼びましょうか。この二つの事柄がさっき私が述べた事の前提よ。でもね、現代物理学においてはこれらの二つの事は同時に成り立たないと言う事が知られているわ。自由意志の非存在を導いた前提達は同時には成り立たないの。どう? 私たちの強い直感に根ざす自由意志を擁護したくなったかしら?」
「物は実在しない? 因果という時間の鎖は存在しない? 或いはその両方?」
「両方捨てるの? どちらか一方を捨てるだけでも私たちの直感を強く傷つける大きな選択なのに?」
「全く理解できません。でも興味深いです。」
「理解できなくて当然ね。形而上学的な問いが現代に至って、形而下の現象を取り扱う学問を深く掘り下げる事で現れてきたのだもの。きっと、漠然と物や時間についての問いかけを発する事は誰にでもあるけど、これは明らかにそれ以上のものだわ。」
物、因果、自由意志、空間、時間、そう言ったものへの漠然とした疑問に思考を巡らせながら、昼休みは過ぎていった。クロ様の言う通り、これらの事を真面目に考えるには慎重な思考と時間が必要だ。僕に残された時間ではどうする事もできない。
午後の授業を受ける。しかし、僕はそれに集中できない。死への心構え、クロ様へのまだはっきりとした形を取らない恋心、世界のあり方。それらへの思考が頭を巡り、僕の考えは焦点が定まらない。今は歴史の授業だ。歴史の先生は雑談が好きな人で、何の話からか葬儀のあり方の変遷について話していた。時代や地域によって宗教や習慣の違いがあり、それによって弔い方も変わってくる。では、愛する人との別れを惜しむ人の心はどうだろう。そこにも何か違いがあるのだろうか。無いだろうという漠然とした直感と、人間の心も環境から独立したものでは無いのだから、やはり心のあり方にも何か違いがあるのでは無いかという検討を要する疑念。するとふと、頭の中に人々が生活をし、死に出会い、それを乗り越えてまた生活に戻っていくという姿がありありと浮かんだ気がした。皆んな同じ様なものだ。僕はたまたま死期を告げられるという特別な経験を得た。しかしそれすら僕だけの経験では無い。人はただ生まれ落ち、生活をし、死んで行く。僕も皆んなと同じ様なものだ。皆んなの一員であるというより、皆んなと僕の間に隔てる物はないという様な感覚。その感覚に僕は漠然とした安心感を覚えた。
放課後、校門の手前でクロ様が待っていた。
「そのまま帰る?」
「いえ、今日は行きたいところがあるんです。」
そう言って歩き出す。
「どこに行くの?」
「喫茶店です。そこもお気に入りの場所なんですよ。」
そこは学校から駅の方に十五分ほど歩いたところにある。駅からも近いので学生より大人の客が多い。落ち着いて考え事をするには適した店だった。
「いらっしゃいませ。」
「二名で。」
「あちらの席へどうぞ。」
小さな二人がけのテーブル席で向かい合う。
「ここは結構コーヒーの種類が多いのでまずはブレンドなどいかがでしょう? 私はこのブラジル産の豆を使ったコーヒーにしようと思いますが。」
「そうするわ。」
暫くするとコーヒーが運ばれてくる。僕は彼女が口にするのを待つ。
「このコーヒー、苦く無いわ。それにどことなく柑橘系の様な爽やかさもある。他のお店のコーヒーとは全然違うわ。」
「そうでしょう、そうでしょう。それが豆の持っている個性なんですよ。」
僕も一口飲む。
「こちらはお茶の様な香り高さとすっきりとした余韻があります。ここで飲むコーヒーはどれも豆の個性が感じられて飲むたびに楽しいのです。」
クロ様は二口目をじっくりと味わう。目を閉じ、舌の上に満遍なくコーヒーを広げ、そのコーヒーの持つ味わいを存分に楽しむ。静かにコーヒーを楽しむクロ様に僕は持論を展開した。
「食欲とは最も次元の低い快楽だと思われがちです。実際、ただお腹を満たすだけならその通りでしょう。しかしこのコーヒーの様に豆の違いが持つ個性を楽しんだりするのはただ食欲を満たす様な行為とは次元が違います。同じ料理でもスパイスを工夫してそれが出す味の複雑さを楽しんだり、各地方の料理を食べ比べてその類似性や差異を楽しんだり。隣接する国に似た様な料理がある事はしょっちゅうですから、その料理のルーツはどこからきたのかなと想像したり。食事からくる満足は何も食欲を満たす事に留まりません。」
「ふふっ、饒舌ね。その持論を本当は彼女にでも…」
できればよかったのにね、ですか。でもその願いは叶ったも同然です。しかし、一筋の涙が突然、僕の頬を伝った。
「ちょっとあんたどうしたのよ。」
「自分でも訳が分かりません。」
実際、僕の心は落ち着いている、筈だった。ひとまず涙を拭う。
「大丈夫です。コーヒーを味わう余裕はあります。でも飲み終わったら帰りましょうか。」
コーヒーの味はだんだん分からなくなっていった。クロ様も時折心配そうにこちらを見ている。
店を後にする。本当はもっとゆっくりしながら雑談でも楽しむつもりだったのに。
「好きな人と心を通じ合わせる事って人間にとっては大切な事だわ。でもそれがあなたには叶わない。私も言葉には気をつけるべきだった。ごめんなさい。」
「違います、クロ様。それは良いんです。僕にも何が何だか…」
しかし、彼女の言う事にも一理あるのかもしれない。二度と僕はあのコーヒーをあそこで味わう事は多分無いだろう。もう知らない豆の新しい個性に出会う事もない。そして好きな人、クロ様とあの場所で静かな時を共有する事も二度と叶わない。僕の言語化されていない領域でその事の悲しさに思いが至っていたとしたら?
「気持ちを整理するために一人になりたい?」
「とんでもない! クロ様。お側にいてください。」
僕の思考は放っておくとどこに飛躍するか分からない。クロ様にいてもらう方が僕の思考は整理されやすいだろう。でもそれは二番目の理由だ。僕はクロ様と離れたくない。そうだ、せっかく心惹かれる相手ができたのに、それも、僕の考えを聞いてくれた上で的確な意見までくれる理想的な相手に出逢えたのに、僕達は心を通じ合わせる事もなく別れるのだろう。今まで「どんな目論みも達成される事はない。」と言う言葉を納得と共に弄んでいた。どんな目標も最終的には死によって挫折せざるを得ない。だから物事に執着するなんて馬鹿げてると思っていた。なのに僕はクロ様に執着している。クロ様への想いが実らない事を悔しく思っている。僕は怯えからか苦しさからか、胸がどんどん重苦しくなっていく。部屋についても、沈黙が暫く続いた。
「ねえ、あなたどうして私の事を様をつけて呼ぶの?」
「それは…」
ある小説で死を望む男が「私は死神の首に縋り付いて、私はここにいますと囁きたい。」と話すシーンがあった。死神は死を運ぶ神。この苦痛と虚無に満ちた世界を創った神よりよっぽど救世主じゃないか。だから死神は死神様なのだ。他の神とは違う。でも…
「僕なりの死神様への敬意と愛情表現のつもりでした。でも今はあなたをどう呼ぶべきか。クロ様の事を嫌いになったりしません。しかし初めて死神という存在が恐ろしくなりました。」
「そう。クロって呼んでも良いのよ。」
様をつけずにクロと心の中で言葉にした瞬間、僕は感情の奔流に巻き込まれた。
「クロっ… 僕はあなたが好きです! 愛という言葉は使いません。それがどんなものか僕には分からないから。でも僕はあなたの事が心から好きです! その事だけは確かに分かる。そしてこの想いも数日後には僕の肉体の死と共に消えてなくなる! そのことが辛い… この想いはどこに到達する事もなく消えて無くなる。それだけじゃない! 僕はっ、僕は何も成す事もなくこの世を去らなくてはならない。僕には知りたい事が山の様にある。なのに僕はその山の入り口にさえ立つ事ができない! 何事かを成し遂げるなんてそんな御大層な事は言わない。けれど僕は自己満足すらする事なく死ななくてはならない! 僕は無ではないのに無の様なものだ… 僕はっ!」クロはさっと近づき僕を抱きしめた。僕は何事かをまだ言わねばならないと口を動かそうとしていたが、やがて彼女の温かさが体に伝わってくる程に僕の心は落ち着きを取り戻していった。
「あなたは今、あなたの死を一人称で捉え始めたのね。そう、それが今まであなたに見えていなかった死の一側面。でも大したものよ。それに気づかずに死んでいった人達だって沢山いるわ。あなたは死の心構えを作るスタートラインに立ったのよ。」
僕は泣いていた。僕の涙が彼女の肩を濡らす。暫くそうしていた後、一度彼女は体を離そうとしたが、僕の腕が引き留めた。彼女は再び僕の体を抱く腕に力を込めた。僕が泣き疲れうとうとし始めるまで、ずっとそうしていた。
目覚ましの音が聞こえる。こんなもの無視してやろうかと思ったが、クロのいる手前、起きざるを得なかった。
「おはよう。」
「おはよう、クロさ… クロ。」
とりあえず顔を洗いに行く。家の中はまだ静かだ。シンとした空気の中、顔に拭きそびれてついたままの水分が蒸発して熱を奪っていく。部屋に戻ると、もうクロは制服に着替えていた。
「学校ですか。今更学校に行って何になるでしょう?」
「死への心構えは日常の中で作るんじゃなかったの?」
「そのつもりでした。でも、どうすれば良いか分からなくなったんです。サボってクロと一日中いた方が満たされる様な気もして…」
「多分、それでは何かと未練が残る気がするわ。」
「ええ、そうですね。より一層別れが惜しくなりそうです。」
「それだけじゃないわ。学校にも、最後に見ておくべきものが何かあるんじゃ無いかしら。」
そうなのだろうか。でもクロがそう言うならそうなのかもしれない。
「そうかもしれませんね。それじゃあ、朝食を用意してきます。」
今日の朝食はベーコンと目玉焼きだった。カリカリとしたベーコンが好きな筈だが、今日は何だか味気ない。身支度を済ませて学校に向かう。登校中の景色もいつもと変わりない。いつもの街並み、いつもの人々、何と言う事もない曇った空。月曜日には、僕だけがそこからいなくなる。でも、全ては相変わらず同じ様に進行して行く。ふと、花壇の花に目が行った。名も知らぬ花がそこにある。クロと初めて出かけた時は花がとても可愛く見えた。でも今日は何の印象も齎さない。綺麗でも汚くもない花。ただそこに変わらず存在するだけの花。変わったのは僕の心。ある意味で、世界がどうあるのかは自分が決めるのだなと漠然と思った。校門と校舎が目に入る。朝、この景色を見る事ができるのもこれが最後だ。これは惜しむべきものだろうか。
クロと別れ教室に入る。席に着くと田中がやってきた。
「よう、長岡。」
「おはよう、田中。」
彼と他愛のない話をするのもこれが最後かもしれない。彼は僕の話をそれなりによく聞いてくれるし、さっぱりしてていい奴だ。何か伝えておくべき言葉はあるだろうか。
「いつもみたいに深刻な顔つきだな。」
「いつもみたいに他愛もない事を考えているだけさ。」
結局いつもの様に雑談をしていたらホームルームの時間になった。彼は自分の席に戻ろうとする。
「田中、その、いつもつまらない話に付き合ってくれてありがとう。」
「うん? まあ、お前の理屈っぽい話を聞いてやるのは俺くらいなもんだからな。」
別れの言葉はこれくらいでいい気がした。そしていつもの様に時間が過ぎて行く。いつものホームルームにいつもの授業。何と無く、クラスメイトたちを眺める。彼らにはこれからも人生があるのだろう。もしかしたら明日死んでしまう人がいる可能性だってゼロではないが、多くの人は大学へ行き、社会人になり、家庭を持って子供を育てたりするのだろう。僕にはそう言う未来はもうない。しかしふと思う。ここにいない人たちはどうだろう。もしかしたら僕よりも早くに亡くなって、この教室に居る事ができなかった人や、家庭の事情でこの場所に居る事のできない人も居るのではないだろうか。そう思うと、繰り返される世界の中で僕の死は何も特別な事ではない。僕はまだその事に納得し切れてはいないだろうが、その考えはどこと無く僕を安心させる。僕たちは皆んな意味もなくこの世界に産み落とされ、各々の定めに従ってその人生を生きる。富める者も居れば貧しい者も居よう。健やかなる者も居れば病める者も居よう。長生きする者もいれば短命の者も居よう。世界はそれの繰り返しだ。僕たちを隔てるこの差異は本質的なものだろうか。どんなに表面的な差があっても、僕たちは無意味にこの世界に産み落とされながら、しかし盲目的にただ生きようとして踠き苦闘すると言う点では一緒じゃないか。僕は次の月曜日にはもうここに居ないけど、僕の本質、人間の本質は何も変わらずにここにあり続けるのだ。
昼休みになった。何となくまた屋上に行こうかと思っていたら、担任の先生がやって来た。
「長岡、生徒指導室には行ったか?」
「まだです。」
「俺もついて行くから今から行ったらどうだ? こういうのは時間が経つほど行き辛くなるぞ。」
どうでもいい話だが、まあ従おう。
「分かりました、先生。」
生徒指導室に入る。
「何だ?」
「先日は口の利き方を弁えずすみませんでした。」
初めは怒鳴りながら、段々とただの威圧的な口調になりながら、彼は彼の理屈に基づいてお説教を展開した。実に下らない話だが、僕は別に反論しない。もうする必要がない。僕には納得できないが、彼には彼の定めがあってこう言う人間になったのだろう。これからも彼は理不尽に生徒に接する筈だ。その事はもう仕方のない事だ。
「先生のお考えは分かりました。ただ僕は、皆んなが気持ちよく学校生活を送れればいいなと思っただけなのです。」
お小言が追加された。僕の一言はただの無駄口で終わったのだろうか。彼がより深く生徒の事を考える様になってくれればと思って口にしたのだが。少し頭痛を覚える。僕は生徒指導室を後にした。
午後の授業も淡々と過ぎ去って行く。段々と頭痛が酷くなって来て、内容がまるで頭に入ってこない。結局、僕は特別な何かをするでもなく最後の学校生活を終えた。
「どこかに寄って行く?」
「せっかくのお誘いだけど頭痛が酷くて。それに行くあてもないしね。」
そのまま真っ直ぐ帰って部屋に入る。僕はベッドに横たわった。
「大丈夫?」
「平気ですよ。それに、頭痛に効果的な方法があるんです。」
僕はベットに横になりながら深呼吸をした。そして体の感覚に神経を集中する。CTスキャンのイメージでつま先から頭のてっぺんまで意識を向けて行く。次に頭を集中的に「スキャン」する。脳の左側、眼球の奥に痛みが集中している事がわかる。痛みの質に集中する。ズキンズキンとした痛み、痛みの強度は脈拍のリズムに一致している事に気付く。こうして痛みを客観的に分析する事を繰り返していると、痛みに耐える事ができるし、痛み自体が段々と和らいでいく。痛みが和らいだ後も、暫くベッドの上でぼんやりしていた。すると右腕が少しくすぐったい。何かと思って見てみると一匹の蟻が腕を這っていた。珍しい。僕の家の、それもベッドの上に蟻がいるなんて。ティッシュを取って包んで捨てようかとも考えたが、ふと思った。この蟻はちっぽけだが一つの命だ。それが何の縁でか今ここに居る。この蟻に人間の様な意識があるとは思わないけど、それでもその意識の程度に応じてやっぱり苦しみの世界を生きているのではないだろうか。それを潰して殺すのは良いのか? 僕は蟻を腕に乗せたまま窓のところへ行き、窓を開けてそっと蟻を外に逃してやった。
「どうしたの?」
「大した事ではありません。」
窓を閉めてベッドに座る。
「クロはどのくらいこう言う事を繰り返して来たのですか?」
「人間の寿命より遥かに長く。」
「そうですか。クロにとってはまだまだ仕事は続くのだろうけど、お疲れさま。」
「どうしたの? 急に。」
「いえ、何故かそんな言葉が浮かんできたんです。」
「そう。」
暫くの沈黙。僕は日曜日には死ぬ。大好きなクロを残して。その想いも実る事なく。その事をどう思っているのだろう?
「僕たちは、何のために生まれてくるのでしょう?」
「少なくとも、魂の成長とかそんなものではないでしょうね。そんな人は見た事がないわ。人は皆その行いに定められて、あの世のどこかに向かって行くわ。そこで永遠に生きるのね。」
「天国にせよ地獄にせよ、その者にふさわしい境遇をその身に受け続けると?」
「そうでしょうね。」
「クロは以前、死神は人の行動を観察し、場合によってはその死を回避するきっかけにもなると言った。でも、そんな機会を得た人はいない。クロはただ、生まれては死に、天国に行ったり地獄に落ちたりする魂を見続けた事になる。その意義は何?」
「分からないわ。私ね、天国や地獄に行った魂はもう管轄外だと言ったけど、彼らの顛末が伝わってくる事はあるの。地獄に行った者はその責め苦に絶叫をあげていた。天国に行った者は、表面上満たされているけど退屈そうだった。私の導いた魂はどれも、救われているとは言い難い。彼らがそこに送られる意味も分からない。私の存在の意義って何なのでしょうね?」
クロは遠い目をしている。本当に彼女は彼女の存在意義がわからないのだ。僕は思う。
「クロの存在意義はやっぱり死の運命を回避させる事なのではないかな? 天国に行っても地獄に行っても救われないなら、限られた時間で彼らを更生させて、彼らに生きる意味を考えるチャンスを与える事なんじゃないかな?」
「それを私が考えた事がないと思う? 何度も試したのよ。私が担当する人が、何か運命を変えるほどの行いをする手伝いができないかって。でも、何もできなかった。地獄に落ちる者はその心を改める事もなく、天国に行く者もそれを超える程の行動をする事もできずに、皆んなあの世に行ってしまった。経験上、私の役目はただ死の運命にある者を観察する事だけ。私の存在意義なんてあるのかしら。私は彼らの運命を知りながら、何もできない…」
クロの顔は悲しそうだ。
「でもクロは僕の残り少ない時間に充実を与えてくれた。それだけでも僕にはとても嬉しい出逢いだったよ。」
「そんな場合もあるのかもね。でも、私は多くの同情に値する人々を見送って来たわ。彼らに何も与える事が出来ずに。」
「でもそれは仕方のないことで…」
クロの表情が少し厳しいものになる。
「仕方がない? 私は死にゆく者の傍観者でしかあれない。その事が仕方がないですって? あなた、思ったより冷たいのね。」
クロはまた遠くを眺めた。そうか、今までクロは死神だから何か別の存在だと感じていた。でも、彼女も理由もわからずにこの世界に生成し、存在の意義を探している。彼女も苦しんでいるのだ。
「ごめん。」
「いいのよ。あなたには関係のない事だわ。」
違う。君も苦しんでいた。そして苦しんでいる君が、立場を超えて僕の苦しみに寄り添ってくれた。思い返せばそれはどんなに心強い事だろう。クロが僕に寄り添ってくれた時、僕は初めて苦しみを共にする仲間からの励ましをもらった。本当に心強い事だ。なのに僕は君に寄り添わず、君の苦しみに無神経な言葉を発してしまった。
「良くない! クロ。許してくれとは言わない。でも、本当にごめん。僕は人間で君は死神。僕はいつの間にか僕達の間に線を引いていたのかもしれない。でもそれが間違いだった。君は仕事である以前に、僕に寄り添ってくれた。仕事だからと言うばかりでなく、僕たちは似ているところがあるからこそ寄り添ってくれたのでは? 君は君の苦しみを通して、僕の苦しみを感じてくれた。なのに僕は君の苦しみを感じようとすらしなかった。だから本当にごめん。」
全ての利他的な優しさは、相手が苦しみを感じる存在だと実感した上で、その苦しさを自分の身に重ねる時に生まれるという。
「クロっ! 本当に謝る。改めて、許してくれとも言わない。でも、僕は今、君の苦しみを自分に重ねて感じる事ができた。だから、君の苦しみを蔑ろにした事がまるで自分の事を蔑ろにされた様に痛い。自分の事さえ理解できないこの身で、君の苦しみを理解できるとは言わない。でも、僕は君の苦しさに耳を傾けてその苦しさを感じる事はできる。それが何か考える事はできる。だから、僕をそういう仲間でいさせて欲しい。君はさっき僕が窓辺に近づいた時に何をしているのかと尋ねたね。僕は一匹の蟻を逃していたんだ。彼も苦しみの世界の仲間だと思って。でも、それは観念的な行為だった。苦しむ君が苦しむ僕に寄り添ってくれた事で初めて、「あなた以外の皆んなも苦しんでいるのだよ。」という決まり文句の意味が分かった。苦しみを分かち合い得る人間が寄り添ってくれる事が、こんなに救いになるなんて思いもしなかった。だからどうか、僕に君の苦しみを分けてください。」
クロはちょっと驚いた様な顔をした後に言った。
「そう、私はあなたの苦しみを私の身の上に感じる。あなたは私の苦しみをあなたの身の上に感じる。私たち、対等な仲間なのね。さっきは突き放す様な言い方をしてごめんなさい。」
僕たちは苦しみという接点を通じて初めて、お互いに通じ合った。
「おはよう、優」
「おはよう、クロ」
昨晩は初めてお互いに通じ合えたという感覚に包まれて眠りに就いた。まだ外は暗い。目覚ましは鳴る前に止めた。
「今日はどうするの?」
「分かりません。死の運命を変えられそうな行動なんて想像もつきませんし。たとえ今日誰かに親切にしてみたからと言って、僕の運命は変わらないですよね。」
「経験上そうね。でも、何か手はないかしら。私、あなたにこのまま死んで欲しくない。」
「ありがとう。でも、何かがあるとしてもそれは日常的な事の中にありそうな気がする。付け焼き刃の行いで運命が変わるとは思えない。」
「それもそうね…」
「本でも読みながら暫し考えます。」
「私がいたら集中できない?」
「いえ、折角です。一緒に静かな時間を過ごしましょう。」
初めにクロが来た時、もう読書をする事はないかなと思った。一週間後に死ぬなら、もう新しい知識は必要ないと思ったからだ。読書はある意味で、他者に自分の代わりに思考を行なってもらう行為だ。でも、僕は今日までの経験をまとめるヒントが欲しかった。
人に限らず全ての生命は目的もなくこの世界に産み落とされる。そして目的もないままただ必死に生きようと踠く。しかし人間には唯一理性が備わっており、そこに一つの可能性が生まれる。それは理性を通じて自己を認識し、やがて生きようとする意志そのものを鎮め、静かな境地に達する事。僕はなんとなくそんな文章に心惹かれた。この世界は明らかに虚無であると僕は直感的に思う。僕達の存在に目的らしきものは見受けられない。この世界にもし目的があるとするならそれは苦痛そのものでないかとさえ思える。実際、無神論者なら創造主はこの世界という舞台に生命という楽器を並べ、その苦痛の絶叫が奏でる音楽を彼は楽しんでいる事に違いない等と皮肉を言うかもしれない。しかし、もし本当に苦痛というものがこの世界の目的だったとしたらどうだろう。何しろ人間は苦痛を通して初めて自分自身への省察に至る。自己認識という究極目標のために世界があるのだとしたら、世界が苦痛に満ち溢れている事は納得ができるかもしれない。では、苦痛とは一体なんなのだろうか。僕達は生きようと踠く。しかし、その目論見はおおよそ満足させられる事はない。食べては飢え、飲んでは渇き、得ては失う。生きるとはそんな事の繰り返しだ。僕達の欲求は予め不満足に終わる事が定められている。そこに苦しみが生まれる。では、そんな苦しみから僕達が学び得る事はなんだろうか。それは僕達が欲望の塊で、そしてその果てなき欲望の無意味さではないだろうか。そんな風に考えれば、やはりこの世界は虚無だ。こんなものに執着しても仕方がない。これが結論なのだろうか?
「クロ、散歩に行かない?」
「どこに行くの?」
「前に行ったビルの展望フロア。」
僕達はビルに向かって歩いて行く。今日は澄み切った青空が広がっている。この空のように曇りなく静かな心が目指すべき境地なのだろうか。そんな事を考えながらビルの展望フロアに着く。
「今日も相変わらず晴れた空と雑多な街並みが見えます。」
僕は窓に近づいて街を見下ろす。
「人々が生活を営んでいます。溌剌とした者、草臥れた者、地獄の亡者でありながら獄卒の務めまで果たす人間、ただ鞭打たれる哀れな囚人、時折、まるで地獄に降りた仏のように清らかな心と強さを持つ人間。そんな人々が犇めき合いながら生活をしています。この人間たちの驚くべき多様性は一体どう理解すればよいのでしょう。その一方で人間は、ただ苦しみの前に苦闘する存在としては同一のもので…」
僕はまとまらない考えを口にする。クロは黙ってそれを聞いている。
「クロ、君は魂の成長などないと言った。でもそれは本当なんだろうか。それが無いとすれば、人間は本当に哀れにこの世界に無意味に産み落とされて、ただ苦しみの中でいじめ抜かれて死んで行くだけに過ぎない。僕にはそんな世界観は耐え難いよ。」
「そうね。でも人間の本質は生まれ落ちてから殆ど変わらないわ。三つ子の魂百までと言うのはそんなに間違っていない。そしてあの世に行ってしまえば、その人の本質はなおさら変わりようが無い。この世界を苦痛と虚無だと断言する人に、私は反論する言葉を持っていないわ。」
繰り返される人間の生死を見守ってきたクロでさえ、この世界の意義は見えないのか。個人の本質は一生を通じて変化しない。また、人間の本質も殆ど個体差はない。時間と空間に渡って展開されるこの世界の驚くべき多様性に反して、人間というものは同じ事を繰り返しているに過ぎない。この世界は一体何事なんだろうか。
「僕達が登ってきたこのビル。例えばこれは一体なんの価値があるんだろう。こんなに高く聳え立つ建築物というのは、何か人間の役に立つのだろうか?」
「狭い土地を有効活用するため、雇用を創出するため。そう言った答えではあなたは満足しないのでしょうね。」
「ええ、満足できません。多くの人間の苦しみの上に聳え立つ摩天楼。それが確かに人間にとって意義深いものだと納得できなければ、僕には意味がないのです。」
「あなたの納得の基準に立つなら、医療従事者とかはともかく、殆どの人間の営みに価値を見出せないでしょうね。」
「それどころか、飢えから救う事も病を癒す事も、究極的には無意味だと言い始めるかもしれません。」
「酷い極論ね。」
「僕にとっても反直感的です。でも、生きる事に意義がないなら、その生を長らえさせる事になんの意味があるのでしょう?」
「ただ生きるという事に価値があるとは思わないの?」
「それはつまり苦痛と虚無に価値があるという事ですか?」
表面上は僕達は問いを投げかけあっている。でも僕達は同じ立場で同じ疑問を持っているはずだ。
「僕にはやはり、魂の成長という救いが必要です。生きるという事、即ち苦痛と虚無に価値があるとするなら、それを通じて何か自己を省みる事に何かしらの意義がなくてはならない。」
「そう思いたい気持ちはわかるわ。でも…」
「経験上、そんな人は見た事がない。」
人間には時間が足りないのだろうか。
「クロ、君はいつ頃生まれたの?」
「あまり覚えていないわ。でも、人間がこんなにも急激に文明を発達させるよりもずっと前から存在している。」
「と言う事は、君の歴史は地球よりも浅い。また、地球の外に出た訳でもない。僕は今ふと思ったよ。魂の成長には、それこそ宇宙的スケールの時間が必要なんじゃないかって。宇宙はビッグバンに始まって今、百三十七億年くらい経っているそうだけど、その前の宇宙はどうなっていたのだろう? また、この先の宇宙はどうなるのだろう? 宇宙そのものも生成消滅を繰り返しているのだろうか? そのくらいの繰り返しの中で人間は魂の成長を得られると言う考えはどうだろう?」
「あなたの発想は本当に飛躍するのね。私にはそんな事想像もつかないし、あなたがそんな想像に頼らなければならないほどこの世界を知り尽くしているとも思えない。」
「まあ僕も自分で何を口にしているかよく分からないよ。でも、僕の狭い視野で見る限り救いのない苦痛と虚無は動かし難く、そして耐え難い。」
考えがまとまらない。僕は残された時間の中で何をするべきなのだろうか。
「他の死神はこう言う事について何か言ってないの?」
「分からないわ。私たち死神に交流はないの。死神は一人で生成し、役割を果たしながら存在し続ける。それに終わりがあるのかさえ私には分からない。役割を果たすために必要な知識は直感的に備わっているけど、人間や死神、他の生き物たちの存在意義は私にも分からないの。」
「それは酷い孤独だ。」
「そうね、これが人間の感じる孤独と同じなのかは分からないけど。」
「同じ様なものじゃないかな。人は誰でも一人で生まれて一人で死ぬ訳だし、その存在意義だって知らないのだから。」
「そうかもしれないわね。」
「でも、死という終わりが約束されているだけ、人間の方がマシかもしれないね。いや、でも君の話だと、人間は人格を保ったままあの世に行く。存在意義もわからず、孤独なまま。そう考えると、やっぱり人間の孤独も君達の孤独と同じ様なものかもしれないね。」
「そう。だから時々思う事があるの。存在の消滅は極悪人の終着点ではなくて、救いなのではないかって。死という終わりが死後の世界を考えない限りに於いて一つの終着点であって、人間を等しく苦しみから解放する様に、存在の消滅は人間を根本的に苦痛から解放するわ。でも、それで終わってしまっては、やはり人間は何のために生まれて何のために苦しみ抜いて生きるのかは相変わらず分からないままだわ。」
「存在意義…」
僕達は会話に終着点を見出せないまま語り合って、家路についた。
死の宣告からくる焦燥感はいまだに実感を伴わない。当然だ。いくらクロが死神だという事が事実だったとしても、こんな死に方は非常識だ。参考にすべき先例もない。病床で医師から余命宣告されるのとも話が違う。それでも、僕にはもう二十四時間も残されてないかもしれない。少なくとも、四十八時間はもうない。いくら死への心構えを日常の中で形作ると言っても限界がある。
「クロ、僕は死んだらどこに行くのかな? 初めて会った日にそれを知る方法はあると言っていたよね。でも、それには君に負担があるんだっけ。」
「そうね…」
クロは何かを考えている。躊躇っている様にも見える。
「僕は君のことが好きだから無理強いするつもりは一切ない。それに死んだ後でも人格が保たれるなら、いずれ判る事でもあるしね。そう考えると、そもそも死への心構えなんて必要なのかな? 僕は死という眠りについて、再び目覚める。そして然るべき所に向かう。きっと僕の死に方は突然の死なのだから、家族とかに対してそれを予感させる様な言動をとるのも何かおかしい。僕にすべき事なんて残されているのかな?」
クロは相変わらず考えている。
「僕は何だか疲れたよ。抽象的に人間存在の意義を考えるのは楽しくはあるけど、それが死への心構えに結びつくとも思えなくなってきた。なにしろ答えの出ない疑問だしね。色んな事に未練はあるだろうけど、未練を断ち切れるだけの何かをする様な時間も残されていない。」
「未練…」
「とりあえず夕食を食べてくるよ。明日何時に死ぬか分からない以上、これが家族との最後の晩餐かもしれない。済まないけど、部屋で待っててくれるかな。」
「ええ…」
クロを残して夕食に向かう。野菜炒めやら何やら。最後の晩餐にしては簡素だ。それを黙ってつまんでは、咀嚼し、嚥下する。普段何気なく行っている食事も、色々な動作で成り立っている事に気づく。今日は美味しさも不味さも感じない。ただ、取って、噛んで、飲み込んでの繰り返し。家族は何かを話しかけてくるが、僕は返答する意味がありそうな事だけに答えて、後は適当な受け答えをしていた。結局そのまま風呂に入ったりしてから部屋に戻った。
「戻ったよ。」
クロは相変わらず何かを考えている様だった。しかし、何かを決めた様にこちらを向いた。
「あなたの行き先を見るわ。でも、この事があなたにとって良い事かは分からない。」
「本当ですか? 死への心構え作りにも行き詰まっていた所です。そうしてくれると助かります。」
「でも、あなたの未練を強くしてしまうかもしれないわ。」
「既に未練は沢山ありますよ。それが一つ増えたってどうってことありません。」
「そう…」
クロの顔はどことなく紅潮している。
「あなたは私に想いを伝えてくれたわ。初めは若くして死ななければならない者への同情でそれを受け入れていた。けど、同じ苦しみを共有する仲間だと言われた時、私も嬉しかったの。優、私もあなたの事好きよ。」
そう言ってクロは近づいてくる。僕は今の発言の意味が飲み込めてない。やがてクロの唇が僕の顔に近づいてくる。頭は相変わらずまとまらないが、体の方は何をすべきか知っていたらしく、僕は目を閉ざしクロと唇を重ねた。始めは両手を肩に置き、やがて腰の辺りに回して抱き締めた。僕に流れ込んでくる温かさ、通じ合えたんだという一つの証。その温かさの中で、初めて僕の世界に対する憎しみの念が和らいだ。世界は相変わらず理不尽だが、クロの温もりの中で憎しみが溶けていく感覚。クロが居てくれるなら、世界のどんな事にだって立ち向かっていけるであろう勇気。今まで頭でっかちと言われるくらいチグハグだった心と体がクロのおかげでピタッとハマった様な感覚。喜んでいるのは脳だけではない。ドクンドクンと今までにないくらいの拍動を上げる心臓、血が抹消まで行き届いてふわふわと温かい手足、身体中の各部位もまた喜びに震えていた。何かを感じたり考えたりするのは脳だけだと思っていたが、体のこんなに沢山の部位が喜びに湧き立っている。長いキスと抱擁の後、体を離した。クロは少しぼんやりしている。僕も喜びの余韻に浸っていたがその刹那、僕の頭には僕がクロに看取られる情景がはっきりと映った。時間は十八時。一体僕に何が起きたのだ? クロの方も余韻からは冷めたらしいが、彼女も驚いた顔をしていた。
「優、端的に言うね。あなたの、存在が消えかかっている…」
「つまり僕の行き先は天国でも地獄でもなく、存在の消滅であると言う事?」
「その… 可能性があるわ。」
「僕の方でも分かった事があるよ。僕は明日の十八時きっかりにこのベッドの上で君に看取られる。それが見えた。」
「死の場面が予知できたと言うの? そんな事は今までになかったわ。」
「僕にも言葉では説明できない。でもそのシーンがはっきりと脳裏に焼き付いたんだ。生々しく。僕はこれを単なる妄想だとは思えない。」
僕は明日の十八時に存在が消滅するかもしれない。
「そんな、存在の消滅だなんて。それは確かに救いではある。けど…」
クロはまた何かを考え出した。僕に存在の消滅のチャンスが与えられている。この事の意味は一体なんだろう。我欲や未練の残った身でそんな筈はないと思うが、僕は悟れるとでも言うのか?
「折角できた絆なのに。優、あなたさえ居ればあなたがどこに行ってもつながりを感じる事ができる。なのに、あなたが消えてしまったら…」
クロはとても寂しそうだ。もう一度、今度はこちらから抱き締める。
「僕はどうなるか分からない。でも、君と唇を重ねた時、君との強い繋がりと共にこの世界の理不尽への赦しを僕は感じたよ。この世界が苦痛と虚無でありそこに存在意義がない事、これは覆しようがない。でもそれを赦す事で僕達はこれからも生きていく事ができるんじゃないかな。」
「だから優が消え去った後でも穏やかに生きろって言うつもり? そんな事できる訳ないじゃない! 心から通じ合えた相手を一晩で奪い去るなんて、世界はどうしてこうも残酷なの?」
今度は彼女が僕の胸で泣いた。静かに。暫くしてから体を離して言った。
「でも、これは可能性よね。まだ存在が消滅すると決まった訳じゃない。」
「そうだね、僕は残された時間で何をすべきだろうか?」
どうせ残された時間も僅かだ。徹夜で考えてもいい。
「優、今晩は寝ない?」
「いえ、残された時間で何をなすべきかを考えなくてはなりません。」
「そうじゃなくて、その、あなたの隣で眠りたいの。」
想定外の言葉。
「死神の眠りはいわば機能停止。ただ次の活動まで起きている事が無駄だからする行為。そこに安心感や温もりは存在しないわ。だから優、私の側に来て。あなたの温かさに包まれながら眠ってみたい。これが最初で最後だったとしても。」
「そうだね、それも良いのかもしれない。」
ベッドの中でお互いを見つめ合う。手と手が触れお互いに握り合う。そんな温かい時間に包まれていると、安心感からかやがて僕達の意識は薄れていった。
昨日は目覚ましを止めておいた。最後の日くらい多少の朝寝坊をしても良いかと寝る前に思ったのだ。しかし、習慣の力は強く僕はいつも通り夜が明ける前には目を覚ましてしまった。ベッドから出ようとする。ベッドの中はまだ二人の温もりで満たされている。二度寝したい欲求に打ち勝つのは大変だったが、いつもと違って僕が先に起きてからおはようの挨拶をするのも悪くない。クロはまだ眠っている。今までで一番穏やかな顔で。こうして見ると、自分より長く生きた存在だとは思えない。でも、彼女は実際どのくらい生きたのだろう。仕事等の時以外は眠っていると言うから、起きている時間だけをカウントしたら意外と若かったりするのだろうか。まあ、そんな事はこの安らかな寝顔の前ではどうでも良い事だ。こんな可愛い寝顔を見せられたら、未練を断ち切れなくなるかもしれない。長い髪を優しく撫で、涙を拭うときの様な指先で頬をなぞった。肩に手をかけ優しくゆする。
「おはよう、クロ」
「おはよう、優」
彼女はまだ眠そうだ。
「朝食を作ってくるよ。その間、ゆっくりしてて。」
おいしいと言ってくれたスクランブルエッグをもう一度作る。彼女は喜んでくれるだろうか。
「いただきます。」
彼女は静かに、味を噛み締めながら飲み込んでいく。
「あなたの手料理を食べるのもこれが最後なのかしら。」
そうかもしれない。それとも夕食を作るべきか。いや、僕の死が十八時だとすればそれには間に合わなさそうだ。
「何か作り置きできるお惣菜でも残しておいた方がいいかな?」
「あってもなくても離別の悲しみは変わらないと思うわ。」
それもそうだ。僕は何となくクロや家族に何が残せるかを考えていた。お気に入りの本に線でも引いて置いておけば、僕の死後に家族が読んで僕の思考の軌跡を辿る事ができるだろうか? 写真を残すよりは自分らしい思い出の品の残し方だとも思うが、それは自己満足で終わる様な気もする。
「僕は君たちに何を残せるだろう?」
「何を死別した人の形見とするかは人それぞれじゃないかしら。あなたが考える事でもないと思う。」
それもそうか。
「ところで、レシピを教えてくれる?」
「朝食のですか? 簡単ですよ。」
「簡単でいいの。この味を思い出せば、あなたの事も思い出せそうな気がして。」
クロにレシピを教えた。こだわりのウィンナー以外はどこででも手に入る物だ。難しいところなど何一つない。
「今日はどう過ごすの?」
「どうしましょうか? 主体性がないって怒られちゃいそうですけど、もうしたい事がないんです。昨夜、あなたと通じ合った事で世界の理不尽に対して言葉ではなく体で赦す事ができました。もちろん相変わらず世界は残酷で苦痛と虚無に満ち溢れていますが、何だかそんな事はどうでもいいと言う気持ちになったんです。また、世界には興味深い様々な出来事がありますが、それを理解する価値があるにせよ、僕にはもう時間がありません。だから、クロのしたい事に付き合いたいなって思うんです。」
「私のしたい事…」
クロは少し考えてから、
「あなたの歌を聴かせて。」
と言った。
「もちろん。」
並びあって手を繋ぐ。カラオケまでの道のり。澄んだ青空。名も知らぬ花。明かりのつき始めた看板。店支度をする人々。日曜日なのに背広に身を包んだ人。ただ歩いているだけでも色々なものが目に入る。雑多な世界の中を、右手の温もりだけを感じながら一歩一歩踏み締めていく。
「Caro mio benを聴かせて。」
「同じ曲でいいんですか。」
「初めて聴いた時、技巧的には未熟だけど、聴いていたいと思わせる何かを感じたの。だから。」
「分かりました。」
マイクを置く。いつもの様に、しかしいつもと違って愛しい人のいる今、より情感を込めて歌い切った。
「情感を込めて歌うのも悪くないもんです。」
クロは少し赤くなる。
「あとはLiebestraumなんかも歌えればよかったのですが、カラオケには入っていないですね。流石に伴奏なしでは歌えないからなあ。」
「伴奏してあげようか。」
見ると、部屋の隅にキーボードがある。
「実体化の力の応用。疲れるし必要がなかったから使わなかったけど。」
「是非よろしくお願いします。」
おお、愛しうる限り愛せ。素敵な曲だ。それに、初めてのクロとの共同作業だ。体の底から喜びが込み上げてくる。歌を通して僕達はより一層通じ合えた気がした。
一時間程度でカラオケ店からは引き上げた。
「次はどこに行きますか?」
「喫茶店に行きたいわ。あなたの飲んでいたコーヒーが飲みたいの。」
少し距離があるが歩いていく。相変わらず片手には温もり。雑多な景色が映り込んでくるが、その温もりが今ここで地面を踏み締めているという感覚に引き戻す。彼女と共に一歩ずつ進んでいく。集中していれば、喫茶店まではすぐだった。
「いらっしゃいませ。」
「二名で。」
「あちらの席へどうぞ。」
前のテーブルに向かい合って座る。頼むのは二人とも前に僕が飲んだコーヒー。
「本当ね。お茶の様な香り高さと余韻があって素晴らしいわ。コーヒーの世界って奥深いのね。ところで、優は同じものでよかったの?」
「ああ、いいんですよ。前回、途中から味が分からなくなりましたし。」
彼女は前回の様に味わいを楽しんでいる。僕はカップの手触り、持ち上げた時の感覚、口をつけた時の温度の熱さ、香り、舌の上に広がる感触、味、それぞれをじっくりと感じていく。
「私、こう言うところで心を許せる相手と時間を過ごせる事が嬉しい。」
「そうですね。」
「それに、あなたの願いを叶えられたのが私でよかった。」
彼女は優しい笑顔でこちらを覗き込んでくる。
「ええ、もう未練なんてないかもしれませんね。」
その言葉に彼女の顔が一瞬曇る。
「未練がないなんて言わないでよ…」
「そうですね、未練を断ち切れたなんてそんな都合のいい話はありませんから。」
暫く寛いでから喫茶店を出る。
「そろそろお昼の時間ね。ねえ、初めに行ったイタリアンにもう一度行かない?」
「今だったらランチタイムですかね。行きましょうか。」
そうしてまた二人で歩き出す。彼女と歩む一歩一歩に集中しながら。やはりあっという間に店に着いた。
「長岡くん、また来てくれたね。彼女さんも気に入ってくれたのかな。嬉しいなあ。」
「ええ、どれを食べても美味しくて、一緒にあの店は良かったねなんて話すんですよ。」
「それは良かった。じゃあ、お席へどうぞ。」
今回の料理は彼女のチョイスだ。オッソ・ブーコ以外はどれも違った品だ。心なしか、お酒に合うものが多い気がする。すると、赤ワインが彼女の方に運ばれてきた。
「頼んじゃった。」
大学生という事にしたのか。飯田さんは僕の事を信用してくれているみたいだし、クロなら学生証の偽造くらいは簡単にできるのだろう。
「味見して見る? このくらいの違反なら罪にはならないわよ。」
「いえ、やめておきましょう。万が一バレたら飯田さんに迷惑をかけてしまいます。」
「そう…」
クロはどこか残念そうだ。しかし、今さらワインの味を覚える事に意味が見出せなかった。食事と会話そのどちらも魅力的だった。だが、何かが引っかかる。その何かがわからないまま店を後にした。今度こそ最後のお礼だが、
「飯田さん、いつも素敵な食事と空間をありがとうございます。これからもどうぞ宜しくお願いします。」
と言っただけだった。
「クロ、もう帰る?」
「最後に後一ヶ所、例の展望フロアに行きましょ。」
今日のクロはよく話しかけてくる。ビルへの道中、初めとは立場が逆転したかの様だった。ビルに着いて景色を眺める。澄んだ青空、雑多な街並み。いつもの光景だ。でも、右手を通じて伝わってくる温もりが、空の青さをより一層美しく際立たせている様にも感じた。
「ある本でね、愛する人の隣でなければ絶景の真の魅力はわからないって言葉があったの。私、今その言葉の意味がわかった気がする。」
愛、か… 僕と、僕が赦した苦痛と虚無の世界を結ぶもの。つまりそれは、僕が断ち切らなくてはいけないもの? その考えに行き着いた時、僕はクロと繋いだ手を離したくなった。けれど、僕はその場の空気のせいか離す事はできなかった。そして暫く景色を眺めて、僕たちは帰宅した。
帰宅したのは三時頃だった。父親はリビングでテレビを見ており、母親は食器を洗っている最中だった。
「僕がやるよ。ついでに紅茶も入れたいし。」
あら助かるわと言って母もリビングの椅子に腰掛けた。ササッと食器を片付けて、お気に入りの紅茶を淹れた。
「いつもありがとう。」
といって二人の前に紅茶を差し出す。何気ない光景だった。このありがとう以上に残せる言葉はあるまい。僕は二人分の紅茶を持って自室に戻った。
「はい、僕が一番好きな紅茶を淹れてきた。」
「ありがとう、優。」
あと一時間半くらいだろうか。
「クロ、僕は自分が悟れたとは思わない。けれど、僕の心は静かに落ち着いている様な気がする。君はどう思う?」
「分からないわ。存在の消滅なんて経験した事がないもの。ただ、私はあなたに消えてほしくない。」
「あの世のどこに行こうともう会えないのに?」
「それでも、あなたが居ると言うつながりを感じる事はできるわ。存在が消滅してしまえばそれすら叶わなくなる…」
愛しいクロ、可哀想なクロ。僕には、僕が世界から切り離されつつあると言う確信が生まれ始めている。だから多分、君の願いは叶わない。
「せめてあなたを天国に引きとどめる方法はないかしら?」
そう言うクロの目は潤んでいる。
「君さえ知らない方法は僕には知る由もないよ。」
「ねえ、今日はとっても楽しかったじゃない。二人で曲を奏でて、コーヒーを楽しんで、食事を味わって、景色を眺めて。二人でいれば世界も捨てたものじゃないなって思わなかった?」
「うん、君といる時間はとても素晴らしかった。でも世界は相変わらず苦痛と虚無に満ち溢れている。その事は揺るがない。」
「だからあなたはこの世界とのつながりを断ちたいと言うのね。なら…」
クロは言葉を濁す。僕は続きを待つ。
「なら優は私との繋がりも断ってしまおうと言うの?」
「そうしなければならないのだと思う。」
「本当にそれができる?」
僕は黙る。僕は呼吸は乱れてないし、脈拍も正常なつもりだ。頭もスッキリしていると思う。けれど、次に言うべき言葉がなかなか出てこない。沈黙は暫く続き、もうすぐ十八時だ。答えを出さなくては。
「できるよ。」
「なら確かめさせて。」
クロは僕の事をぎゅっと抱きしめてキスをした。時刻は十八時。薄れゆく意識の中、最期に感じたのは彼女の温もりだった。
「逝ってしまったのね。あなたはきっと、戸惑いながらも自分は悟ったのだと思った筈ね。でもね、あなたは悟ってなんかいない。その事ははっきり分かるわ。何故って、あなたと通じ合った時にできた絆は切れてなんかいない。ちゃんとここにあるわ。この繋がりの先が何処なのか、あなたの言った様にこの宇宙の生成消滅の彼方にあるのか、それは分からない。けれど、この愛を通じて、私たちは確かに繋がっているの。だからあなたの存在の本質は消滅したりはしてないわ。消えたのは長岡優という人格だけ。あなたは輪廻の輪からは抜けられてないのよ。何処かで新しいあなたが再生するのね。つまり存在の消滅には人格の消滅と存在の完全な消滅の二種類があったのだわ。そしてその長い道のりの中で、あなたはあなたの疑問と戦っていくのね。それにしても、ふふっ、紅茶を持ってきてからあなた、平静を装ってたけど、落ち着かない雰囲気までは隠せていなかった。最期のキスの時のあなたの潤んだ目ときたら可愛かったわ。それじゃあ、さよなら、優。」
死神少女と七日間の人生 @pola199006
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