25 罠


(論文を破り捨てる……?)


 それはララにとって、想像でも胸を引き裂かれるようなことだった。

 親友であるリーチェやハーベル、そしてダンと協力して作り上げた努力の結晶だ。

 旅の間に、ララはハーベルのことをそんなに悪い人ではないと気付き、好感を持っていた。

 あのダンですら、スケベで遠慮がないが、子供と思いっきり遊ぶような姿をララは好ましく感じていた。


(こんなの、皆への裏切りだわ……)


 ララはそれが正しくないと思うのに、マルクに言われた通り資料室の前まできてしまった。

 廊下に人目がないことを確認して、ララは鍵を開けて資料室に入る。

 室内には誰もおらず、普段は鍵を管理しているはずの教師もいない。あらかじめ、マルクの手下によって教師は足止めされているらしい。そして鍵はマルクから渡され、今はララの手の中にあった。

 室内は外の曇り空を反映してか薄暗い。じっとりとした重い空気が辺りを包み、雨が降りそうな気配を感じた。

 ララは背後に怯えながら壁に設置された棚の元へおもむくと、その扉の鍵を開けた。

 明日、講堂で発表する論文はここに保管されているのだ。学園長や有識者に配るために、すでに写本師によって数十部ほど複製されている。

 リーチェ達も原本は持っているが、さすがに当日配る資料がなければ論文発表はできない。


(……本当にこれで良いの?)


 己に選択権などないのに、そう自問してしまう。

 父親が突然作った借金のせいで、ヒューストン子爵家は虫の息だ。


(でも、このままだと子爵家は潰れてしまう……)


 それを回避するためには、苦手な貴族の男性と結婚しなければならない。両親からは、皆のためにそうしてほしいと懇願されている。ほとんど身売りされたようなものだ。


(……家のためには結婚するしかないって分かっているのに、私はマルク様を愛している)


 彼は子爵家を助けてくれると約束してくれた。彼の言う通りにすれば、麗しい彼の恋人のままでいられるのだ。

 ララは並んだ書類の中から自分達の論文を見つけ、震える指でそれをつかみ出す。

 そして、それを手に持っていた袋に入れて持ち出そうとした時──背後に誰かの気配を感じた。

 そこに立っていたのは、悲しげな表情をしたリーチェだった。



◇◆◇



「リーチェ……! どうして、ここに……っ」


「今はそんなことはどうだって良いでしょう。それより、ララ。その論文をどうするつもりだったの?」


 静かに尋ねたリーチェに、ララはあきらかに狼狽したように後ずさりした。しかし逃げ場はない。

 リーチェは苦い気持ちを押し殺してララに近付き、彼女が手に持っていた袋──その中の論文を取り戻した。

 近頃ララの様子がおかしいことが引っかかっていた。

 そしてマルクの先日の発言に胸騒ぎを覚え、リーチェは改めてハーベルやララの身辺に異変がないか調べた。

 すると、ララはマルクと何度も学園内外で密会しており、ヒューストン子爵家が没落寸前であることを知った。


「マルク王子にそうしろって言われたの? ララ、正直に言って」


 リーチェは感情を押し殺してそう聞いたが、ララはうつむいたまま押し黙っている。

 一人で抱え込んでいる親友に胸が傷んで、リーチェはできるだけ優しい声音を心がけて言う。


「マルク王子がどんな人なのか、ララはもう察しがついているんじゃない? 感情じゃなくて頭で判断してほしいの。彼がどんな人間か、分かるでしょう? 自分が何をさせられているのか。賢いララなら、気付いているはず……」


「うるさいわねっ!! そんなこと私だって分かっているわよッ!!」


 ララは怒鳴り散らし、リーチェを思いっきり突き飛ばした。リーチェの手にあった袋が落ちて、資料が床に散らばる。

 友人のそんな姿を見るのは初めてだった。なんとか踏みとどまったリーチェは、目を見開いてララを凝視する。

 ララの目には涙が浮かび、小刻みに肩を震わせていた。


「マルク様が身勝手なことは、もう分かっているの……! だって本当に私を愛しているなら、私の窮地を無条件で救ってくれたって良いじゃない……っ! なのに、私の苦しい状況につけ込んで、論文を処分させようとするなんて……っ」


 それは愛する女性に対してすることではない。彼女のこれまでの努力を踏みにじる行為でもある。

 ララも薄々はそれに気付いていながら、見ない振りをしてきたんだろう。


「でも、私にはどうしようもなかったの……!!」


 そう号泣するララを見て、リーチェはふつふつと怒りが込み上げてくるのを感じた。もちろんマルクへの。


(私の大切な友人を利用しようとするなんて……本当に卑怯者!)


 自分の手は決して汚そうとしないマルクに、ますます嫌悪感が募る。


「ララ……ごめんね。気付いてあげられなくて」

 

 リーチェはララの肩に手を伸ばした。

 ララは一度ビクリと肩を揺らしただけで、抵抗はしなかった。リーチェはそのまま彼女をそっと抱きしめる。


「……っ!」


 ララが息を飲む音が聞こえた。


「ごめんね、辛かったよね……」


 リーチェが何度もそう言って彼女の背を撫でると、ララはその場に崩れ落ちて大泣きし始めた。


「どうして……? わ、わたしに……優しくしてくれるの……?」


「親友だからよ」


「でも、わたしは、みんなを裏切ったのに……っ!」


 そのララの言葉に、リーチェは大きく首を振る。


「ララのせいじゃないわ」


 リーチェだってマルクに騙される運命だった。前世の記憶を取り戻していなければ、ララと同じ道を歩んでいただろう。

 ララはリーチェにすがりつく。


「ごめんなさい……っ! 謝っても許されることじゃないけど……!」


「ララ、良いのよ。もうこれ以上、気にしないで」


 リーチェの言葉に、ララは首を振った。涙の粒がその拍子にこぼれ落ちる。その表情には覚悟が見えた。


「ううん、私は自主退学するから……どうか、それで許してほしい」


 ララの言葉に、リーチェは目を剥いた。


「ララ、そんなことする必要ないわ」


「でも皆に顔向けできないもの……」


 ララの罪悪感と覚悟が伝わってきて、リーチェは胸が潰れそうになる。


「ララが退学したら、マルクの思うつぼだわ。首謀者である彼が何のお咎めもなく、ララを苦しめるだけ苦しめておいて、のうのうと生きているなんて許せない」


「でっ、でも……」


「親友のあなたをこんなに傷つけてボロボロにしたマルクを、私は絶対に許さない。ララの家の借金もなんとかする。安心して」


「リーチェ……」


 ララの頬に涙がつたう。

 リーチェは顎に手をあてて思案した。

 ララに論文を処分させようとしたことをマルクに問い詰めても『証拠はあるのか?』と、しらばっくれられるに違いない。


(なら……)


 不安そうな表情を見せるララに、リーチェは「大丈夫、私に考えがあるから」と笑みを浮かべた。


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