名も無き旅

甘雨 霞

MISSION:1

第1話 渡り鳥の如し(改)

――俺は殺し屋である。名前はまだ無い。行き先も分からず果てしない旅が終わることだけを、俺は何年も祈り続けている――




――某日、港町ツークフォーゲルにて。



 湿っぽく淀んだ空気をたっぷりと吸い込み、一人の高身長な男は煙草を片手に海をぼんやりと眺めていた。


 やがて襲来する冬に備えて、渡り鳥たちが南の国を目指し遥か彼方へ飛び去っていく。



「……俺にとっての南国はどこなのかね」



 誰に投げかけた訳でもなく、男はぽつりと呟いて煙草を捨てる。


 消火するために靴底で踏み潰された有毒な嗜好品は、悲鳴を上げることすら許されず塵と化した。



 男の背広の内ポケットに潜んでいた携帯電話がその体を揺らし、連絡が来たことを告げる。



『新しいが入荷しました マスター』



 男はぬるい溜め息を吐き出すと人混みの中に紛れ、社会の一部へ擬態した。


――

――――


 男が向かったのは、路地裏にひっそりとたたずむ小さな酒場。



(何ヶ月振りかな、ここに帰ってきたのは……)



 昼間から安い酒で呑んだくれ、だらしなく無精髭を生やした男が店内の隅で寝ていることを除けば、古びた外観ながらも清潔な印象そのままだった。



「……“お帰りなさいませ”」



 目を閉じたままの店主――マスターが、男を一度たりとも見ることはないまま出迎えた。


 物珍しい香りを放つ朱色のお酒が丁寧な動作でグラスに注がれる。



「新しい、買いに来たんだけど」


「……お待ちしておりましたよ……今回は少々、お値段張ります」


「へぇ、マスターの少々って相当だね……よほどわけ?」


「……そんなところです」



 男は満足そうに微笑むと、カウンターの上に足を乗せて寛いだ。


 マスターから慣れた手つきでグラスを受け取ると、愉快そうに氷をカラカラと回す。

 


「……お行儀がよろしくないのでは……足を下ろしてください」


「へいへい」



 目は相変わらず閉じながらも眉間にはっきりとしわを寄せて注意するマスターを、反抗期の少年のような目で睨みながら男は渋々と足を下ろした。


 傍から見ればただの浮ついた人間のように思われるが、彼の被った化けの皮は非常に薄く破れやすい――いくら軽薄な言動で弱い己を隠そうとも、いつか必ず自分と本気で向き合わなければならない時が来る。


 マスターはそれをよく理解し彼の身を案じているからこそ、敢えて厳しく接していた。


 かつての彼ののように。

 


「……貴方はこの業界で長く生きてきた……しかし油断大敵――思わぬところに不幸が潜んでいるのは、貴方が一番よく知っているはずです」


「…………俺、まだ弱いの?」



 シュンとした子供のような、か細く今にも消え入りそうな声でマスターに問う。



「……それは貴方の生き様だけが証明してくれる事でしょう。自分と向き合うこともまた『強さ』です」


「…………」



 男は何も返さなかった。


 さて、それでは本題に入りましょうか――というマスターの言葉で始まった任務の詳細の説明は、昼過ぎまで続いた。



――

――――


 カラン、と軽快な音を鳴らすドアベルとは裏腹に、男の気分は沈んでいた。


 空を見上げれば、心なしか朝よりも曇天が影を纏い始めている気がする。


 会議を終えてマスターに送り出された彼は任務先に向かうのも億劫で、人の波に流されるまま今朝渡り鳥を眺めていた海辺に来てしまうのだった。


 ザザァ……と不規則ながらも必ずやって来るさざ波の音は、男の感情をも覆い隠し流していく――



「よぅ、相変わらず浮かない顔だな! 名無ナナシ


「――! 兄さん……」



 男――名無ナナシの後ろに立ち話し掛けたのは、彼の兄であった。


 甘いピンク色の瞳に、肩甲骨辺りまで伸ばした鈍い金色の髪を一つにまとめているその姿は、見間違えるはずもない兄そのものだった。



 彼は殺し屋である弟を持ちながら、この町ツークフォーゲルの警察官をしている。


 私服姿であることから、今日は非番らしい。



「久し振りだね、ナナシ……また影が濃くなったんじゃないか?」


「ちょっと……洒落になってないからやめてよね」



 わははは、と口を開けて明るく笑う兄に対し、名無は唇の端を少し吊り上げただけだった。


 ふと、名無の鼻がぴくりと動く。



「……香水が変わってる。兄さん、また彼女変わったの?」


「鋭いねー! 今度は花屋の看板娘ちゃんなんだ♡ これがまた良い子でさぁ~」


「……兄さんの惚気話はうんざり」


「冷たいなぁもう!!」



 名無の殺し屋業で培った洞察力は嗅覚まで過敏にさせているようだ。

 

 恋人なんて自分には無縁だから聞いてもつまらないと、名無はそう零す。


 それを聞いた彼の兄は、どこか寂しそうに微笑むと口を開いた。



「なぁ、ナナシ……人は愛情に飢えてる時ほど苦しいもんなんだよ。でもな、一番恐ろしいのはことだ――お前は特に」


「……愛は所詮、使い捨て。無くなる苦しみに耐えられないのなら、最初から求める権利なんて無い」


「お前って奴はー!! もっと気楽に生きようぜー? あ、じゃあ幽霊と愛を育むのはどうだ? 幽霊は喪うものもないしな! 名案じゃね?!」


「はぁ…………――!」



 一人で盛り上がっていた兄は、呆れ顔でため息をつく名無の頭を突然愛おしそうに撫でる。


 名無は驚きと躊躇いで声が出せず、無言でしばらく撫で続けられていた。



「……俺さぁ、ナナシに幸せになってほしいんだよね」


「……急に……何……」


「……確かに突然だよな、でも――少なくとも今、ナナシは幸せそうに見えないよ」



 そう言い残して兄が人間の群れに紛れ去って行くのを、名無はぼんやりと眺めていた。


 幸せそうに見えない――兄の声が幾度も木霊する。



「……そんなの……俺が一番分かってる!!」



――バサバサバサ!!


 それまで穏やかに砂浜のごみをついばんでいた渡り鳥たちは、名無の怒鳴り声に驚き一斉に飛び立った。


 遠くで濁った石油臭さを感じる貿易船の汽笛が聞こえる。



――時刻、午後1時過ぎ。


 もうすぐ任務先へ向かう列車が駅に到着する時間帯である。



 独りの殺し屋――名無ナナシは遠くで自由の翼を広げ躍動する渡り鳥の群れを一瞥する。


 今日もその手を血に染めるために、彼は仮初かりそめの人間を演じるのだ。


 ――なんとも人間として不名誉な異名を持つ彼であるが、そんな蔑称べっしょうの一つや二つ、彼にとっては気にするに値しない塵に等しいものであった。


 同情も愛情も必要としない彼に最早、常人の心は持ち合わせていない。



To Nanashiナナシに告げる――ヘルシャフトにて、政治家 アーテル・アインザムカイトを暗殺せよ――報酬は1億5000万』



 辺りを包み込むような石炭の香り、忙しなく動く人の群れ、時折耳に入る不愉快な愚痴。


 ここに生きる人間達は常時死の危機感に襲われることも無く、まるで飼い慣らされた獣のように偽りの平穏の味を舐めている。



 発車ベルが鳴り、車掌が笛を吹きながら自身も乗り込んだ。


 車輪がもったいぶったように緩急をつけて回り、どこかで駆け込み乗車した人間が咎められている声がする。



 死神を乗せて今、列車が動き出す――

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