第十章

 一つ目、そして二つ目の診察室にはゾンビがいない代わりに物資もバッジもなかった。残すは診察室と手術室が一つずつである。

「開けるぞ」健介は最後の診察室の扉に手を掛けた。「三、二、一……」

 開けた瞬間、何かが動く気配を感じた。

「おっと」

「ちっ」

 健介が感じた何かは、二体のゾンビだった。しかし、しっかりと構えていた明美と一真には攻撃は通じない。軽々と二体の爪を受け止めた二人は、そのまま木刀を振って二体を診察室の中へ弾き返した。

「今更そんなものに引っ掛かるかっての」

「さっさと片付けるぞ」

「オッケー」

 明美と一真が猛然と二体に斬りかかっていく。

「この程度って、なんか拍子抜けっすね」

「そうね。ゾンビが近付いている音もしないし」

 悠馬と友梨奈が肩の力を抜きながら話している。

 確かにそうだ。ゾンビの足音は聞こえない状況での二体の正面からの攻撃など、もっと消耗しているならいざ知らず、今なら油断さえしていなければ恐るるに足らない。

 その筈なのに、胸騒ぎを感じるのは何故だ。

 健介は一度目を閉じた。自分の直感を信じて、もう一度思考を組み立てる。

 相手は『ボス』と呼ばれている人間で、頭の回転が速い。アメとムチを使い分け、こちらが油断しているタイミングを見計らって攻撃を仕掛けてきており、裏をかくのが上手い。先入観に囚われていては絶対に勝てない相手。

 待てよ。

 健介は鼓動が速くなるのを感じた。

 今の状況がまさにそうではないか。ゾンビは足音がするという先入観に囚われ、二体しかいないと油断している今こそ、奴にとっては格好の狙い目だ。

「……っ!」

 健介の耳は、明美と一真の戦闘音の他に僅かな何かが近付いてくる気配を感じ取った。その音の聞こえる方向は――。

「悠馬、友梨奈! 避けろ!」

 健介は叫びながら近くにいた悠馬の腕を引っ張った。直後、悠馬がいた場所を赤紫の棒状のものが通り抜ける。

「きゃっ⁉」

「友梨奈!」

 悲鳴がした方を振り向けば、友梨奈が腕を抑えてうずくまっていた。腕を抑えている指先の隙間からは鮮血が流れ出している。

「どけ!」

 健介は友梨奈に追撃しようとする個体の腹に木刀を差し入れ、後方に吹き飛ばした。

「まりちゃん!」

「何があった⁉」

 後方から明美と一真が駆けてくる。悠馬を攻撃しようとした個体が明美に襲い掛かる。

「わっ⁉」明美は何とかそれを受け止めると、弾き返して距離を取る。「何今の⁉ めっちゃ早い!」

「新種だ!」健介は言った。「今までのより数段早く、足音も小さい!」

「みゆき」一真が前を見たまま明美を呼ぶ。「そいつらの相手は俺とけんせいでする。お前はまりなの治療をしろ」

「オッケー」

「ゆうたは周囲の警戒だ」健介は自分の後ろにいる後輩に指示を出した。「聴覚に頼らず、隅々まで見逃さないように」

「了解っす!」

 悠馬が健介から離れる。健介は一真と並んで木刀を構えた。

「来るぞ」

「ああ」

 ゆらりと立ち上がった二体のゾンビは、同時に二人に向かってきた。健介は左の個体の攻撃を弾き返すと、今度は自ら攻勢に出る。

 後方から一真の冷静な声が聞こえる。

「一撃の重さは変わってねえのがせめてもの救いだな」

 そのまま攻防が続いたが、うなじを突く事はおろか、見る事すらもゾンビわなかった。素早いゾンビの動きに対応するので精一杯で、効果的な攻撃が出来ていないのだ。

 長期戦になればこちらが一方的に消耗していくのみで、勝ち目はない。

「けんせい。このままじゃジリ貧だ。何か策はあるか?」一真が尋ねてくる。

「ある事にはある。が……」

「何だ? 浮かねえツラしやがって」

「この作戦はみゆきがいなければ完成しない上に、俺ら三人全員が負傷する可能性がある。そして、一番深刻なダメージを負う可能性がるのもみゆきなんだ」

「なるほどな……」一真が呟く。「取りあえず、次の攻撃が来たら出来るだけ奴らを遠くに弾き飛ばせ。その間に概要を説明しろ」

「分かった」

 ゾンビは学習能力は搭載されていないのか攻撃パターンは単純であるため、弾き返すのは難しい事ではなかった。

「俺らが奴らに出来るのは弾き返す事じゃない」健介は早口で喋り始めた。「もう一つ、力で劣っていないなら、受け止める事も可能だ」

「それで?」

「俺かしんやのどちらかが一体を引き付けている内に、もう一人は敢えて接近戦に持ち込んでうなじに隙を作る。そこをみゆきが後ろから襲撃する。満足に両手を使えないみゆきに攻撃を受け止めさせる訳にはいかないが、万が一ゾンビがみゆきを感知して振り向きざまに攻撃したら、あの速さだ。みゆきでも受け流せる保証はない。俺らもしっかり受け止められる保証はない」

「……悪くねえ」一真が少し迷って言う。「どうやらその作戦が現状の最適解らしいな」

「でも――」

「健介」一真の語気が強くなる。「みゆきは、明美はそんな気遣いされて喜ぶタマじゃねえだろう」

「……そうだな」健介は苦笑を洩らした。「じゃあ、この作戦で行こう。しんやはゾンビを引き付けて――」

「馬鹿か、お前は」再び一真に遮られる。「さっき怪我を理由にみゆきの配役を決めたなら、理屈を貫け。引き付けるのはお前の役目だ。俺が奴を受け止める」

「……分かった」

 健介は渋々頷いた。一真の言葉は理に適っていた。

「ただし、怪我するのもさせるのもなしだからな」

「了解だ」

 健介の左の拳と一真の右の拳がぶつかる。

「じゃあ俺は奥で相手してるからな」

「ああ。お前も油断だけはするなよ」

「おう」


 一真は向かってくるゾンビを再び弾き返した。

 ゾンビの攻撃は距離がある時は爪、組み合うと牙を使ってくる。問題は、組み合った時にその両手を封じれるかどうかだろう。木刀なしで爪と牙一本ずつを相手には出来ない。

 一真はこれからの立ち回りを脳内でシミュレートして、自らの後方に視線を投げかける。丁度明美が友梨奈の治療を終わらせたところだった。

「みゆき」その名を呼ぶ。

「何?」

「一体を仕留める。力を貸せ」

「そう言うと思った」

 一真が再度ゾンビを弾き返した隙に、右手に木刀を持った明美が隣にやってくる。「作戦は?」

「俺が奴の動きを止める。お前はその隙に奴のうなじを叩け」

「オッケー」明美が即座に頷く。「牙には特に気を付けろよ」

「お前も振り向きざまには注意しておけ」

「了解」

 明美がゾンビの注意を引かないように慎重に移動を開始する。

 健介もあれくらい思い切りが良くなればと思うが、同時に、そんな奴だからこそここまでやってこれたのだろうとも思う。

 ――そんな事、今はどうでも良いか。

 一真は首を振って雑念を頭から追い払う。視界の隅で、明美の準備完了を表すサインを確認する。視線を前に戻せば、ゾンビがこちらに向けて走り出すところだった。

 一真はわざと半身になってゾンビに左手で攻撃をさせるように誘導した。予想通りの攻撃を身体を逸らして避け、右手でゾンビの左腕をしっかりと捕まえる。視界の隅では既に明美がこちらに走り寄ってきていた。

 続いて伸ばされた右手の爪を木刀で受け止める。力が拮抗するや否や、ゾンビは顔を突き出してその牙を覗かせる。しかし、その時には明美がそのすぐ背後に迫っていた。右手を振りかぶる。

 しかし、明美の木刀はゾンビのうなじに向かわなかった。

「えっ?」

 目を丸くさせた明美は、次の瞬間には姿勢を低くしてゾンビの足を払っていた。一真の鼻先まで迫っていた牙が離れる。

 一真は自分の隣に飛び退いてきた明美に怒鳴るように聞いた。

「みゆき、どうした⁉」

「なかった」答える明美の声は微かに震えていた。

「なかっただと?」一真は起き上がったゾンビを弾き返して隣を見る。「何がなかった?」

「――ボタン」

「はっ?」

「うなじに、ボタンがなかったんだ」

「……くそっ」思わず舌打ちが洩れる。

 ゾンビが新種だと分かった時点でその可能性を疑わなかった自分に腹が立つ。その胸中の怒りが、一真の判断を一瞬遅らせた。

「健介!」

 一真がそれに気付いた時、明美は既に健介の愛称を叫びながら走り出していた。

「ちっ!」

 一真も慌ててその後を追いかける。先程まで相手にしていた個体が迫ってくるが、木刀で横殴りにする。

 視線の先では健介が新種と対峙しており、そのすぐ後ろからは三体の新手が迫っていた。その動きの早さは、全て新種のものだ。

 一体を弾き返した後の無防備になった健介の身体に、一気に二体が襲い掛かる。

「うわっ⁉」

「させるか!」

 健介が咄嗟に身体を逸らした事により作られたスペースに明美が飛び込み、健介の身体に届く前にその爪を受け止めた。

「馬鹿!」健介が叫ぶ。

「無茶するな!」

 一真は二体の内の左側の個体を正面から突いた。その個体は真後ろにいたもう一体を巻き込みながら後方に飛び、二体は折り重なるように倒れた。同時に明美も地面に膝をつく。

「みゆき!」一真は明美の左腕を見た。

 そこに巻かれていた包帯に、赤い染みが広がっていく。明美は一体は木刀で弾き返したが、もう一体は素手でその腕を受け止めたのだ。この咄嗟の判断がなければ、健介は確実にその胸か腹を裂かれ重傷を負っていただろうが、その代償で再び明美の傷口が開いてしまっていた。

 一真は唇を噛んだ。最悪な状況だ。相手は全てが新種で前方に四体、後方に一体いるのに対してこちらは木刀を持っているのが三人。その内健常者は一真のみで、明美は一刻も早く治療させなければならない。

「これ使って下さい!」

 不意に後方から声が聞こえ、派手な音がした。振り返れば、こちらに迫っていた一体が地面に伏せており、その近くには二つの椅子が転がっていた。診察室にあった医者用と患者用のものだ。

「助かる!」

 一真は医者用の椅子を拾うと、起き上がろうとしているゾンビを素早く横殴りにした。ゾンビは階段の一番下まで転がっていく。ただの時間稼ぎにしかならないが、今はその時間が一番欲しい。

「けんせい、みゆき! 伏せろ!」

 一真は二つの椅子を前方に投げた。しゃがんだ二人の頭上を越えた椅子は二体に命中し、更にもう一体が巻き添えになった。

「今のうちだ!」

 一真は流れのままもう一体も木刀で突き飛ばすと、明美を半ば強引に担いで健介と並んで走り始めた。

 悠馬が手を振る。

「三人とも。今のうちにこっちへ!」

 その示したのはまだ調べていない筈の手術室だったが、悠馬が言うなら安全なのだろう。

 一真は全速力で走ったが、やはり細身の女の子とはいえ人間一人を抱えて走っては新種のゾンビには速さは劣る。扉の前に辿り着く頃には二体が後ろに迫っていた。

「しんや!」健介が振り向きざまに木刀を振り、一体のバランスを崩させた。

 しかし、もう一体には僅かに刃先が触れたのみで、その爪は既に明美の肌に触れるところだった。

 一真は意を決して振り向いた。ゾンビの爪が一真に迫ってくる。しかしその爪先が服に触れた時、目の前のゾンビは突然バランスを崩して転倒した。

「一真君、健介君! 早く中へ!」友梨奈が右手に何かを持って叫んでいる。

「一真、入れ!」

 健介に促され、一真は手術室に飛び込んだ。続いて健介が飛び込むと友梨奈が素早く扉を閉めた。

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