返礼と注釈

mee

001

 夜。

 美術室に僕は入り込んだ。知りたいことがあった。見たい絵があった。それらはたしかに名作ではあったものの、僕はフランダースの犬のネロほどの情熱なんて持っていない。だがこの絵たちだけは見ないわけにはいかなかった。

「やあ」

「やあ」

 挨拶をする。挨拶は大切だ。特にこのような異界に入りこんでしまったときにはより一層。返礼は正しく行わなくてはならない。たかが挨拶ひとつとっても、借りを作ることになるかもしれない。夜は利子の膨らむ速度が速いから、たかが一晩で魂の破産を引き起こすことだってある。

 彼は果たしてそこにいた。

「来たんだね」

「きみが来いと言ったんじゃあないか」

「もちろんそうだ。でも、来てと言ったら来てくれる、会ってと言えば会ってくれる、愛してといえば愛してくれる、そういうのはただただ『愛』と呼ぶしね」

「ぼくは愛してと言われてもきみを愛さない」

「注釈は?」

「つけよう。《今のところは》」

 夜。夜は不思議だ。魔境だ。昼とはなにもかもが違う。

 美術室にある絵画のレプリカたちは、夜には全てが反転している。

 昼は夜に、皇帝は奴隷に、戦争は平和に、愛は放棄に、死は生に。

 クリムトの「抱擁」では、恋人同士が別れ話をしている。

 ミレーの「落穂ひろい」では、紙吹雪を蒔いた貴族たちが酒を飲んでいる。

 ドラクロワの「民衆を導く自由の女神」では、光あふれる世界のなかで美しい少年が一人ほほ笑んでいる。

 ゴヤの「我が子を食らうサトゥルヌス」では、ほほ笑む母親が赤ん坊を抱いて己は世界で一番幸せな女だと言いたげにしている。

 ボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」では、固く固く閉じられた貝が深海で一つ眠っているだけ。

「夜バージョンも名画だね」

「無論そうだ。美というものは一定の方向への突き抜け具合だ。しっかり的を絞って針を刺せているかどうかということだ。すべての作品は丸い円のなかにあって、そこから出たがっている。風船の中から針を外側に向けて、すこしでも世界を拡張せしめんとするのが名作だ。その力を持つのが名作だ。だからつまりね、これはきみにしか教えない大切な秘密なのだけれど、昼が夜になり、全てが反転し、その作品がもつ方向性がまったく逆さになってしまったのだとしても、それは百八十度針がぐるんと回転するだけのことなのだから、やはりその作品の鋭性が失われることはないのだよ。きちんと世界を突き刺す力を宿したままだ」

「ではあれも?」

「あれが気になるかい?」

「とても気になる」

 それは黄金の輝きのように思えた。部屋に入ってきたときには気にも留めなかった絵だった。しかしいろんな名画の『反転』を楽しんだ今、この、光満ち溢れるきらめきの絵がどうにも気になる。元の絵はどんなものだったのだろう?

「この絵も元は名画なんだよね?」

「この子だけは違うな。これに関しては、先ほどの僕の主張はすべて忘れてほしい……」

「すべての絵は、すべての作品は、反転しても持つ鋭さは変わらないのでは?」

「そう、たしかにそう……」

 ふと思う。これほど黄金の美しい絵に変わってしまうということは、元絵はどんな絵なのだろう。昼、この絵の中ではどれほどひどいことが起きているのだろう。想像するだに恐ろしかった。

 とても美しい絵が、夜、恐ろしくなっているのには耐えられる。昼の姿を思い出せるから。反対に、昼に恐ろしい絵が、夜、やさしく甘い絵になっているのも耐えられる。それが夜だけの仮初の姿であっても心救われてしまうから。

 しかし、この絵は。元絵はなんなのだろう。

 ここに絵があった記憶はない。キャプションも存在しない。

「きみが分からなくて当然なんだよ」

「注釈は?」

「つけよう。《今のところは》」

「確かに。朝になればすぐに分かる」

 僕はふと思う。朝日が来るのは正しいことだろうか、この黄金の光が反転されて、この幸福がすべて消えてしまうことは正義だろうか。これ以上ないほど祝福を受けることと、これ以上ないほど絶望の淵に落とされることを、波打つ海のように行き来することは、この絵にとって真に正当なありかたと言えるのだろうか。

 僕は油絵セットを開けた。そこにナイフが入っていることを知っていたので。

「そんなことをしても大した意味はないよ」

 彼が言ったが、僕は無視した。この黄金のまま死ぬほうがきっと絵にとって幸せなのに決まっている。とはいえ、出来るだけ長い間輝いていられるほうがいい。今日の日の出は何時だっただろうか、と時計を見る。もう少し時間がある。ギリギリまで見つめていようと思った。彼は何度か僕を控えめに窘めたが、結局刻限までに僕の決意を覆すことは叶わなかった。

「さようなら」

 僕は絵を切りつけた。もともと傷を付けるための道具ではないから、とてもやりづらい。黄金はうごめきながら死んでいった。中絶ビデオを見せられたときと同じような居心地の悪さを感じた。申し訳ないと思ったが、これが正しいことだと思った。想定よりも時間がかかったので、終わったころにはカーテンの隙間から薄青い朝特有の色が射していた。

「ほら、死体を見る気分はどうだい?」

 彼が言う。朝が来てしまう。嫌な言い方だ。いちばん最近に見た人間の死体のことを思い出す。しかし確かにこの絵画の死体も見ておくべきだと思い、キャンバスを手にとって光に曝した。この絵はなんだったのだろう。

 ――いや、なんでもなかった。

 絵の正体はわずかな衝撃を僕に与えた。

 それは真白なキャンバスだったのだ。なにも描かれていない、だからキャプションもなかったし、見覚えもなかった。多分美術教師の斎藤がたまたま出しておいただけの一枚だったのだろう――これが、黄金に光っていた。

「……これは?」

「絵でもないし作品でもない。すべての絵は、すべての作品は、反転しても持つ鋭さは変わらない。しかしこれは……」

「真白のキャンバスがどうして黄金になるんだよ。絵じゃないなら、ただの道具だろ」

「そう、たしかにそう……」

 でもね、と彼が言う。

「作られていないことは絶望のひとつだから」

「でも、夜には幸福なんだね」

「それは反転の結果に他ならない」

「ぼくはこのキャンバスを、これから不幸にするんだね」

 柱に隠れた彼が、それでも朝日に焼けて靴元から少しずつ姿を消していく。膝より上だけで浮いている。

 その消えかけの彼が、笑って言った。

「今日は、なにか絵を描くのかい?」

「よかったらきみの絵を」

「嘘つけ」

 朝が来た。死者は墓場に帰ってしまった。足のないきみの絵を描こう。それをここに飾らせてもらえたら、そして夜に会いに来たら、きみの完全な姿に会えるだろうか。できるだけ不幸なきみの絵を描いたら、夜に幸せなきみに出会えるだろうか。


<了>

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返礼と注釈 mee @ryuko

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