第2話

 中は、なんの変哲もない、ぼろ城だ。色褪せの壁、デコボコの地面、埃だらけの内装。事前に知らなかったら、ただの廃墟だと思うのかもしれない。


 ほかの兵士とともに、東へ進む。


 途中に何枚ものの肖像画を見た。しかし、絵も額縁もぼろぼろで、よく見えなかった。肖像画の数を見ると、かつてこの城の主も豊かな生活を送っているに違いない。


 廊下の奥に行くと、寝室だらけだ。中を見ても、ぼろぼろなベッドばかり、どこも空っぽで、埃しかない。山賊や野盗に取られる可能性が高い。


 だからと言って、失踪事件は野盗の仕業とは思えない。生活の跡がない。ここで籠城しても、被害者を殺すとしても、必ず跡が残る。ここには、なにもない。なにも。


「なにもないや」


 兵士の一人がぽつりと零した。


「ただの時間のムダじゃないか」


 もう一人は明らかに諦めた。


「何を期待したんだ、偵察なんてこんなもんだろう」


 クルトは思わず返事したが、その兵士はなぜか憤慨した。


「おまえは黙ってろ」

「そうだそうだ、団長の贔屓があっていいよな、黙っても騎士になれるのだから」

「そこまで言わなくでも!」


 エモンは二人の間に入り、話を遮った。二人はエモンを冷たい目で見る。


「なんだ、おまえはあいつの肩を持つか」

「エモン、そいつらの話は聞く耳を持つな、役に立たないから」

「だけど」


 クルトはエモンを止めようとしたが、突然声が聞こえた。


「――こっちに来ないでください、危険です!」


 また、あの幻聴か。無視、無視に決まってる。


 次の瞬間、兵士達は雷のごとく前に走った。幻聴じゃないと知り、クルトも急ぎ声の方向に進んだ。


「クルトさん、はやく!」


 彼は少し遅れて到着した。遠目でも、おかしな光景だと、一目でわかった。


 獣が、少女を見ている。鋭い爪で攻めれば、脆い少女など一捻りだ。しかし、獣は一気に攻めず、距離を置き、少女を見つめた。まるで何かを警戒しているかのよう。


「お嬢さん、危ない! 下がってください」


 他の兵士は速やかに追いつき、少女と獣の間を挟まった。


 少女は逆に「来ないでください」と兵士に懇願した。なら、なぜわざわざ声を上げた。このふしぎな思考回路に、クルトは思わず心の中で突っ込んだ。


「来ないでって言ったのに、どうして来るのですか」


 少女は訳が分からず、そのまま立ち尽くした。兵士たちは少女の思考を理解する時間もなく、ただひたすら獣の進路を拒み続けた。


 盾のように道を阻む兵士たち。だが、獣は道を阻むものを許さない。


 獣はひたすらに進んだ。文字通りに。

 獣の爪は鋭く、すべてを引き裂く。

 爪は急に伸びた。どんな装甲も、どんな人も、引き裂く。まるで銀糸コードの威力だ。彼らにとっては、兵士たちはただの障害物でしかない。


「なっ」


 クルトは加勢しようとしたが、頭を冷やした。いや、冷やさないといけなかった。これは異常だ。


「今助ける!」


 エモンは違った。熱い眼差しで駆け出す。彼は引き留めようとしたが、間に合わない。


 エモンはそのまま剣をとって、まるで矢のように投げた。剣に刺された獣たちは叫びながら倒れた。


「ざまぁみろ、狩人の技を舐めるな!」


 エモンは興奮状態に陥り、そのままほかの兵士も助けようとした。


 騎士らしくない戦法だ。剣は騎士の生命線、だれも自分の得物を投げたりはしない。投げたら、一巻の終わりだ。


 ――そして、異常なものには効かない。


 心臓を命中したのに、獣はよろよろと立ち上がった。命中したのに、全く効いていない。エモンは自分のミスに気付いた。


 ――狩りなら、逃げでもよかったんだ。


 だけど、今のエモンは騎士だ。後ろには兵士がいる。少女もいる。逃げ出すことができない。騎士なら。騎士なら。たとえ新入りでも。少女を放って逃げ出すことができない。


 留まるのか。少女を放って逃げるのか。


 エモンの顔に迷いの色が浮かぶ。


「エモン、逃げろ――!」


 クルトは走り出した。エモンの手を取ろうとした。しかし、二人を阻む獣は厚い壁のよう、たとえ剣をとり、どれだけ手を伸ばしても、届かない。


「ク、クルト」


 エモンは獣の牙を見て、実感した。すべてが、すべて、死の前に、ただのガラス細工にすぎない。

 弱々しく、花が散るように。手を伸ばした。

 手を、クルトに、伸ばそうとした。


 花は赤を染めた。

 瞬く間に、エモンはエモンという名の肉でしかなかった。ほかの兵士も血の海に溺れた。


 ――足りなかった。何もかも足りなかった。


 クルトは、今更気づく。彼は獣の進路を阻めないから、助かったのだ。


 ――エモンは人好しだから、さっきケンカしてた仲間まで助けようとするからダメなんだ。


 いや、そうじゃない。彼が遅かった。遅すぎた。


 ここにいるのは皆新入り、彼こそ先頭を切るべきなのに、一番遅れてきた。面倒すら見ていなかった。先輩失格だ。くそ。


 獣はまだ血と肉を啜っていた。クルトはなりふり構わずに、少女の手を引いた。


「はやく」

「放してください!」引っ張れながら、少女は拒んだ。「どうか、一人で逃げてください」


「黙れ、舌を噛むぞ!」


 今度こそ、届く。手を離さない、どうしても、この子だけでも、助かるんだ。


「私と一緒にいれば、あなたもケガを――」

「戦う前に負けを認めてどうする! 見ていろっ!」


 この空しい言葉は彼自身への励ましのような気がした。


 背後は獣だらけだ。いったい、どこから湧いてくる。どこだろうと、追いかけてくる。まるで未来を予知できるように。どこでも、姿を現す。


 ここは闘技場だ。

 全滅するまで、誰も逃げられない闘技場だ。


 クルトは少女の手を引き、迫り来る獣を次々と追い返した。しかし、どれだけ剣を振り下ろしても、獣はどこでも湧いてくる。


 入口が見えた瞬間、少女は彼の手を放す。


「おい、なにをする!」


 振り返る。彼は初めて少女の目を見た。それは、一際に美しく、空のような、海のような、沈むような、青空色の瞳だ。


「あなたをケガさせたくないんです。私を、私を構わないで。これが最善の手です」


 最善ってなんだ、ここで諦めるのか。なぜそんなことを言うのか。その瞳に、答えはいなかった。


 クルトは憤りを覚えた。なぜだ。自分のことを、自分の人生をいともたやすく諦めるのか。なぜ最後まで戦わない。なぜ戦う前に諦めるのだ。


 ただ黙って、すべてをあるがままに受け入れるような強さが、彼にはなかった。


 背後に立つ獣たちは、二人を別れるのを見て、立ち止まる。火花のような短い停滞だった。瞬く間に、彼らは少女に襲い掛かった。その爪を。その牙を。その身を。少女に捧げた。


 ――また、間に合わないのか。


 いや、まだだ。諦めるもんか。


「伏せろ!」


 クルトは急ぎ少女を押し倒した。獣の隙に突く。獣たち飛び上がる隙を潜るんだ。間に合え。間に合え。


 ――少し外れた。これじゃ逃れない。


 いや、まだだ。諦めるもんか。


 クルトは剣を逆手に持つ。その忌々しい大口をあげる途端、一気にその口に剣を放ち、獣そのものを、まるで盾のようにふるまった。生温かい盾で、他の獣も一掃した。


 盾は血を流し、剣を通って、流水のように、絶えなく流し続けた。


 そのまま全部倒すのか。いや、それじゃ間に合わない。獣を倒すのか、少女を守るのか、その一つしか、選べない。騎士としての経験がささやいた。


 考えるまでもない。


 彼は、速やかに剣を抜いて、少女の手を取った。彼の手は血まみれだ。でも、なぜか、少女の手が、さっきよりも力を感じた。


「――走れ!」


 厚い扉だ。クルトと少女は一生懸命に扉を開こうとした。


 倒しても倒しても、湧いてくる獣。よく見ると、クルトが今相手にしている数は、一人じゃとても倒せない。いや、偵察隊の全員が掛かっても無理だ。獣は、野草のように湧き続けた。


 扉を、扉を開けるまでの辛抱だ。


「開けましたっ!」


 息も絶え絶え、少女はやっと扉を開く。その声は歓喜に満ち、生への渇望を感じだ。すべての声に勝るその声を、クルトは聞き逃さない。


 しかし、扉の外は暗闇とつながった。何もかも吸い込む泥沼のように。二人はその闇に逆らうことができず、ただ、落ちるだけ。


 何もなかった。恐怖すら感じない、ただ落下するだけだ。


「――ごめんなさい」


 闇に落ちる間、彼女の謝罪の言葉だけが聞こえた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る