第21話 ピクニック?

「今日は城壁の外に出て、より実践的な状況で魔法を使ってみましょう。」

 朝、ローレンツから突然告げられ、ヒルデガルトは慌てて動きやすい服装に着替えて出掛ける準備をする。長袖の白いブラウスにくるぶしまで丈のある若草色のサロペットスカートを合わせ、背中に背負うことができる鞄に水袋などを詰めてローレンツの前に出ると、彼は苦笑した。

「まるでピクニックに行くみたいですね。もし、本気で霊峰シュピッツェに行くつもりなら、もっとしっかりとした旅の装備が必要ですよ。」


 世間知らずの自分の甘さを指摘されたヒルデガルトは頬を赤らめた。

「家族と少し遠出をしたことがあるくらいで、どのような準備をすれば良いのか存じ上げなくて・・・」

「まあ、その辺りのことは、追々教えてあげますよ。それよりもまずは、きちんと自分の身を守れる程度の魔法を使えるようになることですね。」


 二人は馬車に乗り、王都から東の方に少し離れた所にある森に向かう。この森は貴族が狩猟を行う狩場として使われるくらい野の獣が多く棲んでいる。時には魔獣に分類されるような魔力を持ったものに出くわすこともあるが、概して危険は少なく、見習いの騎士が森の中で寝泊まりしながら訓練を行うことも多い。


 昼前に森に着いた二人は馬車を降り、徒歩で森の奥へと進んでいった。


「大きな獣か魔獣に遭遇したら、私が指示を出すので、魔法で攻撃してください。」

 ローレンツはそう言いながら、ヒルデガルトの前を歩いていく。


「大きな獣といいますと、どのような獣でしょうか?」

「そうですね。この森だと野猪か山鹿あたりですかね。あと稀に灰色熊が出ることがあるようです。」

「まあ、熊が出るのですか。」ヒルデガルトは不安げに繰り返した。

「そうですよ。灰色熊は大きな個体だとあなたの3倍近い大きさで性格も荒いから戦闘訓練にはもってこいですよ。どういう魔法で戦うか、今からを頭の中で想像しておいてくださいね。」恐ろしいことをさらりと言うローレンツの背中をヒルデガルトは恨めしそうに見た。


 時折、野兎のような小動物や色鮮やかな鳥を見かけるが、灰色熊はおろか野猪にさえ出会わないまま、二人は森のかなり奥の方まで入り込んでいた。


「うーん。ここまで何も出てこないのは不思議だな。山鹿の鳴き声さえ聞こえてこない。」立ち止まって辺りを見回すローレンツ。耳を澄ませても、聞こえてくるのは風が木の葉を揺らす音だけだ。


「仕方がない。まだ何も訓練をしていませんが、とりあえず昼食を取りましょう。」

森の中の少し開けた場所に出たところでローレンツはヒルデガルトにそう声をかけた。

「かしこまりました。では、準備をいたします。」師匠の指示にヒルデガルトは背中の鞄から敷布を取り出して地面に敷き、さらに侍女が持たせてくれた昼食の包みを広げた。


(やれやれ。本当にピクニックになりそうだ。)心の中で苦笑しながらも顔には出さず、ローレンツは敷布の上に腰を下ろした。

 ヒルデガルトもその隣に腰を下ろして、燻製にした野猪の薄肉を挟んだパンをローレンツに差し出す。

「どうぞ、お召し上がりください。」パンを乗せた包みを両手で捧げ持つようにして自身に勧めるヒルデガルトを見て、ローレンツは不思議な感じがした。


(彼女は辺境伯の令嬢で、俺の雇い主の娘だろ?師匠とはいえ、平民に先に食事を勧めるような貴族がいるとはな。)

「では、遠慮なく頂こう。」そう言ってローレンツはパンを受け取り、口に運んだ。

 それを見てヒルデガルトも自分のパンを手に取り、少しずつ千切りながら食べ始めた。


「学院長様はこうして森や山に出られて、魔法を実際に使って修練をなさるのですか?」

「そうですね。若い頃は食料の調達も兼ねて、よく森に来ましたよ。自分が食べる分だけでなく、街で売る分も捕まえて、生活費の足しにしていました。」少し懐かしそうな目をしてローレンツは応えた。

「まあ、弓矢も使わなくとも猟師さんになれるのですのね。」ヒルデガルトは素直に感心して、ローレンツに目を向ける。

「魔法の矢を撃ち込むなり、魔法の網で絡めとれば簡単ですよ。あなたも旅に出るなら、そうしたことも覚えないと霊峰までたどり着けませんよ。」

「おっしゃるとおりですわ。旅に出れば、野宿することもありますものね。」以前に読んだ冒険譚を思い出しながら無邪気にはしゃぐヒルデガルトにローレンツは呆れつつも優しい視線を向けた。


**********


「食後のお茶はいかがですか?」そう言いながら、ヒルデガルトは背中に担いで持ってきた鞄の中から小さめの木のカップを2つ取り出して並べ、さらにティーポットに茶葉と皮袋の水を入れる。

 そして、ティーポットを両手で包むように持ち、そっと『加熱』と呟くとしばらくして辺りに薬草茶の薫りが漂い始めた。


 ヒルデガルトはポットからカップにお茶を注ぎ終えると、そのうちの1つをローレンツの前に差し出した。

「略式でお淹れしたので、お口に合うとよろしいのですけれど。」はにかむようなヒルデガルトの笑顔に自然とローレンツも笑顔になる。

(いやいや。略式も何も俺はいつももっと適当に淹れてるよ。というか、こんな所で食後の茶を楽しんでいるとは、本当にピクニックだな。)


「えーっと。ヒルデガルト、あなたは森に魔術の修練に来るのに何を持ってきたんですか?」

「今敷いている敷布ですとか、このティーセットですとか、皮の水袋ですとか、あとはお昼のパンですわ。」

 にこやかにそう答えるヒルデガルトにローレンツは脱力しそうになった。


「食べることは旅や冒険の基本です。それは否定しません。しかし、魔物退治というほどのものではありませんが、森に魔術の修練に来ているのに、怪我をしたときのための霊薬や雨具、料理などに使うナイフなどは持ってきていないのですか?」

「まぁ。確かに学院長様のおっしゃるとおりですわね。日帰りで、馬車も近くにいてくれますので、つい野遊びに来るときの物しか持ってきておりませんでしたわ。」

 ヒルデガルトは右手を頬に当てて、小首をかしげ、困ったような表情になる。


(ああ、もう。本当に基本の『き』から教えないといけなさそうだな。)

「今回は急に森に連れ出した私も悪かった。今度はきちんと準備の段階から指導しよう。」頭を掻きながら、そう言ったローレンツは少し疲れたように見えた。


**********


 昼食とその後のお茶まで堪能した二人は、獲物を求めてさらに森の中へと進んでいった。

春になったばかりで、木々の葉が新たに芽吹き、爽やかな緑の薫りと葉を通して届く柔らかな陽光が心地よい。下草はまだそれほど伸びておらず、歩を進めると冬に落ちた葉がパリパリと軽い音を立てる。


(これだけ暖かくなったら灰色熊が冬眠から覚めていると思ったんだがなあ。どこか開けた所で高位の魔法を使う練習をして帰るかなぁ。)

 目論見が外れたローレンツがどうしたものかと頭を捻っていると、森の奥から大きな獣が吠えるような声と野太い人間の掛け声、そして武器を打ち付けるような鈍い音が聞こえてきた。音の大きさからまだ少し距離がありそうだ。


「森の奥で猟師が灰色熊でも狩っているのかな?」そう呟きながらローレンツは黒光りする木を磨いて作られた短い杖を握りながら右手を森の奥に向ける。目を半眼にして、精神を集中させ、『探知』と呟くと黒い杖の先端にはめられた紅玉がきらめいた。


(ほう。かなりの魔力を持った大きな魔物に人間が5人か。)

 ローレンツは『探知』の魔法の網に引っ掛かってきた生き物の放つ力 - それは魔力であったり、生命力であるのだが - を感じ取った。

 魔物から感じられる魔力は縦横無尽に動いていることから、おそらく空を飛べる魔物だろう。対する人間の方からは魔法を放つような魔力の流れを感じられない。聞こえてくる音からしても剣などの武器で戦っているのだろう。


「少し離れた所で魔物と人間が戦っているようです。」ローレンツはヒルデガルトの方に振り返りながら、そう告げた。

「ま、魔物が現れたのですか?」少し怯えたようにヒルデガルトが聞き返す。

「ええ。森の猟師が魔物に襲われているのかもしれません。」ローレンツがそう答えた時、森の奥から大きな叫び声が聞こえてきた。誰かが魔物の攻撃を喰らったらしく、「大丈夫か?」といった声もしている。


「なかなか強力な空を飛べる魔物のようで、人間の方は苦戦しているようです。どうされますか?このまま知らぬふりで逃げても良いですよ。何しろ恐ろしい魔物が現れたんですから。」軽い口調でローレンツはヒルデガルトに尋ねた。


(ここで怯えて逃げるような弱虫なら、これに懲りて霊峰シュピッツェに行きたいなどと言うこともなくなって、辺境伯も安心だろうな。勇猛をもって鳴る辺境伯の娘が他人を見捨てて逃げ出すようなら、それはそれで幻滅だが。)

 ローレンツは覗き込むような視線でヒルデガルトの顔を見つめている。


「先ほど大きな叫び声が聞こえきましたわ。もしかすると怪我をされたのかもしれません。幸い私は『回復』や『治癒』の魔法を教えていただきましたので、戦えないまでも怪我をされた方をお助けすることができると思います。」

「ふむ。では、助けに行くと?」

「はい。学院長様も私に実戦で魔法を使わせるためにこの森にお連れくださったのでしょう? 今魔法を使わずにいつ使えばよいのでしょうか?」強い意思を感じさせるヒルデガルトの声にローレンツは思わず彼女の顔を見直した。


「なるほど。思った以上の答えです。よろしい。いざというときは私が助けますから、あなたはこれまでに覚えた魔法で魔物と戦い、怪我人を治療してみてください。」晴れやかな声でそう宣言するとローレンツはヒルデガルトの前に立って森の奥へと進んでいった。

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