第2話 ヒルデガルト
春を告げる聖フリューゲルの日の前日、アルテンシュタット辺境伯ヨーゼフは、3名の供だけを連れて、自らの領地から王都ゴルトベルク城に到着した。
多くの貴族は領地と王都の間の移動には馬車を使うが、ヨーゼフは常に自ら馬の背に跨がり、王都の門をくぐる。
3名の供は門の手前で馬を降り、手綱を引いているが、伯爵以上の貴族であるヨーゼフは騎乗のまま王都の中を通行することが許されている。悠然と馬を進めるヨーゼフは上級貴族としての貫禄と軍事貴族としての静かな威圧感を感じさせ、供が先払いをせずとも王都の民は自ずと道を開けた。
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アルテンシュタット辺境伯の館は、白亜の王城の北側にある石造りの堅固な2階建ての建物で、多くの木々が植えられた庭に囲まれている。土地が限られている城壁内では、庭を持つことはかなりの贅沢であり、子爵以下の貴族はもちろんのこと、伯爵であっても街路に面した建物の一区画を王都での住まいにしている者もいるくらいであり、アルテンシュタット家の力の程が窺い知れるだろう。
ヨーゼフを乗せた馬が館に近づくと、門番が扉を開き、直立不動の姿勢で槍を引き寄せ、主人を迎え入れた。しばらく馬を進めると、邸宅の前には妻クリスティーネのほか、長女のヒルデガルト、長男のレオンハルト、執事のオットーが並んで待っているのが見えた。
「今、領地から戻った。皆、元気そうで何よりだ。」ヨーゼフは身軽に馬の背から降り立ち、クリスティーネを抱き締めた。
「ご無事のお戻り、何よりに存じます。」クリスティーネはヨーゼフに頬を寄せながらささやいた。
「お父様、お帰りなさいませ。」ヒルデガルトとレオンハルトが声を揃えて挨拶すると、ヨーゼフは左右の腕で娘と息子を抱き抱えた。
「二人ともまた大きくなったな。お母様の言うことを聞いて、ちゃんと勉学や剣術に励んでいたか?」
「もちろんです、お父様。ぜひお手合わせしてください!」レオンハルトが元気一杯に応えるのを見て、ヨーゼフは目を細めた。
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「明日は聖フリューゲルの日の祝いで登城する。クリスティーネとレオンハルトもついてくるように。」4人で夕食を囲みながら、ヨーゼフは重々しく告げた。
「国王陛下と王太后陛下にお目通りし、レオンハルトと共にアルテンシュタットに戻るお許しを頂く。」
その父の言葉にレオンハルトの目がぱっと輝いた。
「お父様、いよいよ私も騎士団に入り、戦うことが許されるのですね!」
「うむ。もうレオンハルトも今年で13歳になる。まだ見習いではあるが、騎士団の一員として実戦経験を積んでも良い頃だろう。」ヨーゼフは、興奮気味の我が子に笑顔
を向けた。
「あなた、ありがとうございます。レオンハルト、家名を汚さぬよう励むのですよ。」クリスティーネも笑顔と少しの安堵の表情を浮かべた。やはり家を継ぐことになる息子の成長は、母として喜ばしい。しかし、その表情の中にほんの少し寂しさが混じるのは、我が子が所領に赴き、年に数回しか会えなくなってしまうからだろう。
「レオンハルト、おめでとう。まだまだ子どもだと思っていたけれど、いよいよ旅立つ時が来たのですね。」ヒルデガルトは先に世に出る弟を少し眩しそうに見ながら祝いの言葉を述べる。
「ありがとうございます。お母様。アルテンシュタット伯爵家の名を汚さぬよう、力の限り励みます。お姉様もありがとうございます。これまで、お姉様に支えていただいてばかりでしたが、これからは私がお姉様のことを守ります。」もう騎士になったかのように、レオンハルトは上気しながら母と姉に応えた。
「レオンハルト、我がアルテンシュタット家は、他の多くの貴族とは異なり、代々国境の守護を任されてきた家柄だ。」ヨーゼフは笑顔を消し、少し厳しい口調で話し始めた。
「ここ10年ほどは国境紛争は無いが、北の山岳地帯に住む魔物が時折に里に下りてきて領民に害を為す。こうした魔物を討伐し、領民の生活を守るのも大切な役割だ。」
「はい、お父様。我がアルテンシュタットの騎士団が強いのも常に魔物と戦い、技を磨いているからだと聞いております。私も早く一人前の騎士として戦えるよう鍛練に励みます。」
「我々貴族そして騎士が領地を持ち、権力を持っているのは、国王陛下と王国をお守りし、領民を安んずるために命を懸ける故だと肝に銘じよ。」我が子だけでなく、自らにも言い聞かせるようにヨーゼフは締めくくった。
「はい。」父の、静かだが力と決意を感じさせる言葉に圧倒されながら、それを押し返すようにはっきりとレオンハルトは返事をした。
「さあ、あなた。固いお話もそれくらいにして、お茶と甘い物を頂きましょう。」クリスティーネが緊張をほぐすように、明るい声を出しながら、給仕のヨハンにちらっと視線を送るとヨハンは静かに頭を下げ、他の召し使い達に目配せした。
「本日のデザートは林檎の蜜煮を詰め込んだパイでございます。」デザートの皿が食卓に並べられ、それぞれのカップにハーブティーが注がれると、甘い物を前にして、食卓に和やかな空気が流れる。
「あなた、レオンハルトが騎士団に入ったら、次はヒルデガルトのお披露目ですわね。」クリスティーネがにこやかに話しかけた。
妻の唐突な切り出しに、ヨーゼフは持ち上げたティーカップからハーブティーをこぼしそうになった。
「そ、そうだな。だが、ヒルデガルトはまだ14歳。社交界に出るのはもう少し礼儀作法を身に付けてからでも良いのではないか。」
「何をおっしゃっているのですか。次の秋で15歳になるのですよ。私のお披露目は13歳の年でしたから遅いくらいですわ。」
「う、うむ。」クリスティーネの奇襲に狼狽しながらヨーゼフは返事を濁した。
(ヒルデガルトに変な虫が寄ってきたらどうするのだ。私が領地に戻って目が届かない隙を狙う不届き者がいないとも限らない。いっそ社交界になど出さず、我が眼鏡にかなう騎士に嫁がせてしまっても良いくらいだ。)
「ヒルデガルトには、王宮の舞踏会に出ても恥ずかしくないよう、しっかりと礼儀作法とダンスを仕込みました。いざとなれば、母上にお披露目の舞踏会を開いていただいても良いと思っています。」
「王太后陛下にそのようなことをお願いするのは公私混同だろう。」
「可愛い孫娘のお披露目ですのよ。母上もきっと喜んでお力添えくださるわ。」目に入れても痛くないくらい可愛がっている息子を領地に連れていかれてしまう仕返しという訳でもないが、娘を溺愛している夫に少し意地悪を言ってみるクリスティーネであった。
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