6月24日

 オーストラリアのキャンベラに留学していた頃、僕は大学のキャンパスから少し離れたところに住んでいた。

 オーストラリアというのは恐ろしく広い場所だ。たとえば君が渋谷スクランブル交差点の目の前にある、二階のあのスタバに座っているとしよう。もちろん窓際の特等席だ。そして、人がゴミのようだ、と思わず言いたくなるような景色から、すべての建物と人間を消し去ってみよう。見渡せる限りのすべてを。もちろん車や電柱やその他もろもろもだ。すると君がいる建物が、荒野の真ん中にぽつんと佇むことになるだろう。オーストラリアというのは、だいたいのところそのような国だった。

 つまり僕が言いたいのは、その宿舎の所在地のために、当時の僕は毎日大変遠い道のりを歩い登校し、そして再び同じ道のりを歩いて下校する必要があったということだ。

 そのおじさんは毎日の通学路に欠かさず登場した。しかも同じような仕方で。彼はいつも庭の椅子に寝るように座っていた。あるいは座るように寝ていたと言うほうが正しいかもしれない。日々の登下校はもちろんきっちり同じ時刻に行われるわけではない。しかしいつその白塗りの家の前を通ったとしても、彼は必ず同じ姿勢で、道路を挟んではるか遠くのほうをぼうっと見つめていた。

 僕は彼の素性が気になって仕方がなかった。何度かこっそり観察したこともあるが、彼はとにかく微動だにせず、これといった収穫はなかった。ある日、僕はとうとう好奇心を抑えきれず、彼に話しかけようとした。この頃には、オーストラリア人はみなオープンでフレンドリーだという考えを獲得していたのだ。

 その偏見、あるいは統計的考察は、少なくともこのケースでは正しかった。簡単なあいさつを交わしたかと思えば、彼のほうが僕に質問した。

 「君はどこから来たのかい?」

 「日本です」

 「日本か! そいつはいいな。俺も日本に行ったことがあるんだ」

 僕は相づちとして何か言おうと思ったが、適切なフレーズを思いつく前に彼は続けた。

 「とてもいいところだったよ。街はきれいだし、ご飯も美味しい。特に寿司とラーメン。どこに行っても寿司とラーメンばかりだった。それから、何と言っても忍者だよ! 忍者。彼らは本当にかっこよくて――」

 「忍者を見たんですか?」と僕はなんとか話に割り込んだ。

 「そうだよ、それはもうたくさん。あれはクールだったよ。みんなこう、ポンって消えるんだ」

 そう言いながら彼は両手で胸の前にへんてこなポーズをつくった。

 「彼らはエンターテイメントをしている人たちでしたか?」

 「いやいや、本物の忍者だよ」

 オーセンティック、と彼は言った。

 「オーセンティック?」

 「そう、本物ってことさ」

 リアル、と彼は言った。

 「つまり、あなたは日本に行って、本物の忍者をたくさん見た」

 「そうだ」

 僕はどうしても信じられなかった。仮にそれが本当だとすれば、僕が生まれ育ち、数か月後に帰ることになっているあの郷は、いったい何だというのだ?

 「日本のどこに行ったんですか? 都市とか、街とか」

 「都市? そこまではわからないよ。だって脳の中で旅行したんだから」

 「脳の中?」

 彼は椅子の背もたれから身をはがし、身振り手振りを混じえて説明し始めた。

 その時期、僕はまだまだ英語が堪能とはとても言えなかったし、オーストラリア人というのは英語をいくらでも速く話す生き物だった。そのおじさんも例外ではなかった。彼の話はだんだん早送りのテープのように聞こえ、僕はリスニングの試験を受けている気分になった。

 なんとか聞き取れたことから話の内容を推察するに、彼が言いたかったことは要するに、妄想、ということだったと思う。日本を訪ねる妄想にふけった、というわけだ。

 もちろん僕は納得いかず、そのような旅行は実際の旅行とはちがう、という趣旨のことを説明しようとしたが、彼の弾幕の第二陣を引き起こしただけだった。妄想することと体験することは同じことだとか、君だって今オーストラリアに来ているけどそれと妄想はどう異なるのかだとか、あれこれ言われたり聞かれたりしているうちに、僕はすっかり疲れてしまった。きちんとした内容はもうほとんど覚えていない。

 「ごめんなさい。とても疲れました」

 エグゾーステッド、と僕は言った。

 「おーけー、ここで終わりにしよう、大丈夫さ」

 ドント・マインド、と彼は言った。

 僕はいったい何をマインドするのだろうか、と思った。しかし何も言わなかった。何か言うと第三陣が来てしまうのではないかと恐れたからだ。そして僕たちはみながやるようにお互いによい日を祈り、僕は帰路についた。

 次の日から、僕は登下校の道順を変えた。一ブロック横にずれる程度なので、大して労力は増えなかった。あのおじさんの前を通るのはどうしても避けたかったのだ。再び目があってしまうことを想像するだけで嫌な気持ちになった。

 それから月日は流れ、彼への感情も風化していった。事実としての記憶だけが、バオバブの木のようにしっかりとした根を張った。日本に帰る前にもう一度彼の様子を訪ねてみようと思っていたが、想像以上にばたばたしてすっかり忘れてしまった。だから結局あの日以来、彼を見かけたことはない。今も彼は道路に面して座り、遠くを眺めているのだろうか? そして世界旅行をしているのだろうか? 今度会えたときには、ぜひ月や火星の話を聞いてみたい。

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