息継ぐ透明に果てはなく
比古胡桃
第1話
生き苦しいは、息苦しい。
誰もが、息苦しさを抱えて生まれてくる。生まれた時、おぎゃあ、おぎゃあ、と苦しさの無い母親のお腹に返してくれと大きな声で訴える。けれど、生まれるというのは一方通行で、引き返すことは出来ないから、息苦しさを感じる世界で生きるしかない。
少しずつ、少しずつ。息苦しさとの付き合い方を、学んでいく。家族から、友達から、学校から、社会から。身体が歩き方を憶えてくれるように、心は息継ぎの仕方を学んでくれる。
身体も、心も、環境に合わせて変わっていく。息継ぎも出来ず泣いて縋って酸素を分けて貰っていた赤子から、少しずつ息継ぎの方法を、溺れながら自分の中で憶えていく。
苦しさは遠くに。苦しんでいたことさえ忘れて。そうやって、人は……ご先祖様は、海の中から進化したのかも、しれない。
世界の優しさは中途半端で、息継ぎ出来なくても。息苦しさを憶えていても。何かが終わるわけでは無い。冷たく暗く深い水底。じっと膝を抱えて蹲るばかり。
それでも、輝く水面の美しさ、光を通す透明が見えるのはここだけだから。一つだけ、ワガママを言うとしたら、透明よりも綺麗な光を、誰かと共有したい。
抱えた酸素を分け合って、誰かと息が出来ればいい。
体二つを寄せ合うと、互いの温かさがよく分かる。抱きしめられている間だけ、苦しさの無い世界を思い出す。
透明な世界の中では、透明な呼吸が形を持つ。丸い透明が、ここだよって、声を出さずに叫んでいる。
◇◆◇◆◇
他の全てが、おぼろに霞んでしまうほど美しい、水死体が眠っていた。
「へっ」
喉か、あるいは、口の中からか。一体、私のどこからそんな声が出たのだろう。引き攣った喉に言葉が引っかかって、続きが出てこない。キャパシティオーバー。想定外。パニック。混乱の羅列が、化粧ポーチをひっくり返したみたいに溢れ出す。身体も、思考も、まるで氷漬けにされたかのように固まってしまって、動けない。今の私は、ただただ一点、視線の先、像を結ぶ姿に胸を焼かれていたから。
なみなみ、張られたお湯の中に、彼女は泡沫のように沈んでいた。お世辞にも、大きいとは言えない浴槽いっぱいに張られたお湯から、ゆらゆらと陽炎のように立ち上る湯気。
その中に、膝を抱えて丸くなって沈んでいる、少女。瞼を閉じたその姿、人魚姫か、胎児。
湿度の高い、浴室。シャンプー、コンディショナー、或いはボディソープ。ふくよかで人工的な匂いが、閉めきられた四角の空間にこれ以上無いほど詰め込まれて、湿度とともに鼻腔に張り付く。
浴室という空間で、制服姿が一つ。タイルの壁に張り付いている小さな丸形ミラーには、私のプリーツスカートが映っていた。訳あって、不法侵入した浴室。それから、使用人数が一人の浴槽。傷むどころか、枝毛の一本も存在しないと思ってしまうほどの黒髪が、湯の中、重力から解放され、広がっていた。まるで、彼女を包む深黒の繭。触れてしまったら最後、燐光となって消え去ってしまうようで。
沈む彼女が胎児で、お湯が羊水。それなら、この浴槽は子宮にあたるのだろうか、なんて、のんきな思考が湧く。
だとすると、臍の緒がないのか。
お腹の中の赤ちゃんだとしても、大事な臍の緒が抜けていては、栄養が足りなくて、大きくならない。ぼんやり、益体のないことが、ふわふわ、頭に思い浮かんで、パチン。シャボン玉のように、弾ける。同時、シャワーヘッドから、水滴がバスマットの上に落ちて、ピシャリ、響く。
数秒間のタイムラグをおいて、石化していた思考と、動かなかった身体。全ての鎖が、はじけ飛ぶ。
「助けなきゃっ……!!」
手放した鞄。浴室の端、水捌けの悪い位置に落ちて、水飛沫。そんな事に、少しも気にする余裕もなく、前へ。前傾姿勢で、湯船の中に両手を突っ込む。袖の長い制服が一気にお湯を吸って、インナーまで染みこむ。普段ならば抵抗する不快感を味わう余裕なんてない。必死で、彼女を引っ張り上げようとする。お湯は人肌よりほんの少し温かい、ぬるま湯だった。
「お、もっ」
彼女は、文字通り、何も身につけていない。それでも、十二分に重たい。クラスの女子生徒でも上から数えた方が早い身長を持つ彼女と、平均くらいの私。部活も何もしていない細江だのような頼りない腕力では、自分よりも大きな相手を持ち上げるには、文字通り、力不足で。
浴槽の外からだと、踏ん張りが利かない。
ばしゃり。両脚を、更に前へ。
「ふっ、んぬぅっ……!!」
勢いよく浴槽に両脚を突っ込む。ソックスも、スカートも、僅かの抵抗を見せること無くぬるま湯を私の肌まで通す。腕だけでダメなら、全身を使って、抱きかかえようと。もう、全身、余すところなく、お湯で濡れていた。
ようやく、彼女を、抱き上げる。全てが、柔らかく、触れた傍から肌に沈む。
やたらと長い髪が、水を吸って重くなっているのではないだろうか。或いは、水を飲んでしまっていて身体の中にまでお湯が入っているのかもしれない。なんて、考えてしまうほどに、意識のない人間は重たかった。
極限の状況において、普段以上の力を発揮。いわゆる、火事場の馬鹿力を出し尽くして、私よりも大きな身体を、落としてしまわないように。ゆっくり、浴槽から引きずり出す。
しなやかな身体。透き通るような肌。皺どころか、しみ一つない。真っ白な身体と、濡れ羽色の黒髪。裸体は、ぐったりとしていることも合わさり、精巧さを極めた等身大のドールのようで。継ぎ目一つない綺麗なお人形と、狭くて古い浴室はどこかアンマッチで。
特に仲が深くもない彼女の、意識のない、生まれたままの状態。こんな無茶苦茶な状況でなければ、同じ染色体を持つ私であっても、ぼぅっと見惚れていたかもしれない。
「ま、まずは、こ、呼吸っ、息してもらわないと」
タイル上に敷かれた、柔らかな樹脂マットには、デフォルメされたお魚さんが泳いでいる。その上に、肢体を横にする。狭い浴室だから、脚を伸ばして横たわらせることが出来ないのが、もどかしい。
シミやニキビの一つもない新雪の肌に、朝露のように水の玉が浮かぶ。ただ細いだけではない。正しくスレンダーとしか言いようのないスタイル。スラリと伸びた手足や、内臓が入っているのかと問い正しくなるほど引き締まったウエスト。そこには、しなやかな筋肉が一本一本の繊維まで丁寧に敷き詰められていた。その筋肉の上、オブラートのようにうっすら脂肪が包んでいる。誰しもが、憧れを抱くほどのスタイル。
ほんの一瞬、人工呼吸を躊躇う。誰かと唇を合わせたことなんて、ないから。これが、友人だったなら、二の足なんて踏まない。けれど、相手は私が直接見たことのある中で一番の美人で、他人。その無意識状態が初めての相手だなんて、と、こんな時だというのに、逡巡してしまった。
「こんな、時にっ」
頭を振るう。毛先から水滴が飛んだ。一大事に、ファーストキスだとか、同性だとか、くだらないことを考えた、自分を内心で怒鳴りつける。この躊躇いの数秒が、彼女の命を左右するかもしれないのに。頭の中、浮かんでくるのは『あと少し早ければと助かっていた』という事実を突きつけられる最悪の未来。
こんなことなら、保健体育の授業をもっと真面目に聞いておけばよかった。今更、反省したところで後の祭り。後悔が芽を出す。それでも、にわか仕込みの、付け焼き刃であったとしても、何もしないよりは遥かに、マシ。人形のように整った顔、その唇に、近づいていく。
パニックになると、頭の中が真っ白になるという。私の場合は、真逆らしい。化粧ポーチをひっくり返したかのように、不要で無駄な情報が脳内で、とっちらかる。救急に電話したり、脈を確認したり……そんな、当たり前のことに気付くのは、後になってからだった。
思考というテーブルの上に散らかったのは、髪の毛が凄く綺麗だからシャンプーとトリートメント、何を使っているのか憶えて帰ろう、だとか。
届けに来たプリントが、濡れていないだろうか、だとか。
彼女の瞳、黒目にはエメラルドがほんの少し溶けたような綺麗な深緑色。近づけば、近づくほど、吸い込まれてしまいそうで黒翡翠みたい、だとか。
瞳。瞳?
疑問符が頭の中、形になろうとする。少しずつ、少しずつ。
「ストップ」
「へっ?」
ピタり。顔を近づけるのを一時停止。どこかから、聞こえてきた声。浴室だから反響して、何処から音が発生したのかは、捉えづらい。
「どういうこと……?」
「へ……」
「……人間って、驚きすぎると、逆に冷静になるのね」
耳心地の良い、アルトボイス。エコーが掛かる空間、反響してきた声に包まれて、ぞわぞわ、うなじがくすぐったくなって、背筋が粟立つ。顔にかかる、生暖かい湿った空気もまた、くすぐったくて、生の匂い。お風呂の湿度とは違う、もっと、匂い立つ、体温。
「誰かの顔、こんなに近くで見たの、初めてよ」
「…………」
固まった頭は、どこかから聞こえてきたその言葉に、静かに同意していた。
パチ、と瞬きをすると、黒翡翠も一瞬、途切れる。綺麗な天然睫毛が、静かに主張。もう一度、瞼を落としてみると、同じように反応。今、私に見えているのは、瞳、らしい。一つ事実を認識してしまえば、目が合っている、という次の事実に繋がるのに、それほどの時間は掛からなかった。
一体誰、と、目が合っている?
「……そろそろどいて欲しいのだけど、そういうの、聞いて貰えないの? もしかして、私、危なかったりする?」
「……………………」
「悲鳴を上げた方がいいのしら……?」
この場に居るのは、私と、彼女だけ。選択する余地のない、一択問題。こんなの、テストで出てきたら、問題を考えた教師はクビ一直線。だというのに、頭は理解を拒む。
火事場の馬鹿力を振り絞って人間一人を引きずり出した。その次は、人並み程度の脳味噌が、スーパーコンピュータばりにぐるぐると、熱を持つ。心身共に、全力運転。
「もしもーし、聞いてる……?」
あらゆる思考回路、ニューロン、それから理性を酷使。
「な」
声が、零れた。これ以上ないほど、間の抜けた。
「な?」
言葉を覚えたての幼児みたいに、腕の中のドールが、オウム返し。言葉をリピート。
数秒の沈黙。目の前の瞳、聞こえる声、伝わるぬくもり。それから、焼き付いたぬるい吐息。カチ、カチ、カチ。歯車が噛み合い、くるくる、回り出した。
「なにもしてないっ!!」
その場から、思い切り、飛び退く。磁石の同極を近づけたように、彼女から弾き飛ばされるように。まるで、ニンジャ。体感、数メートルは離れたような勢い。忘れていたのは、この浴室はあまり広いとは言えないこと。
一瞬、身体の速度を、意識が追い越す。意識が、吹き飛ぶ。後頭部を起点とし、前頭葉の先の先まで、衝撃が駆け抜けたのだと、気付いたのは、痛みが遅れてやってきてから。
「いッ!?」
タイル壁に激突事故を起こした、私の後頭部。盛大な鈍い音が、浴室と、頭の中に響く。ぶつけた衝撃が脳味噌を揺らしていて、ぐらぐら、揺れる視界には星が飛び交っている。流星群のように。
「うっわ……いたそう……」
未だ、前後不覚の状態。ただ、聞こえてきた『うわぁ』の主成分が、哀れみだということだけはハッキリと伝わってきた。抱えるように、両手でぶつけた部分を擦っていると、痛みは兎も角、視界の揺れや明滅が落ち着いていく。恐る恐る……視線を、声の方へと向ける。
「凄い音したけれど、大丈夫なの……?」
バスマットに横たえていた裸体を起こしている彼女。長く、綺麗な黒髪が、胸元へとかかり、
ぴたり。白い肌に張り付いて、隠すの黒。全てを曝け出しているよりもよっぽど扇情的で、知らずの内に生唾を飲んで、痛みを忘れる。
頭を振るう。水を吸って、ハネ出したセミロングの癖っ毛が揺れる。そんな事は二の次。一瞬だけ呑まれそうになったけれど、それどころではない。
「な、なんで、生きてるのっ……!!」
水死体、あるいは溺死寸前である彼女が、私よりもピンピンしている。オカルトの類は信じていない。それでも、幽霊か何かの類……実物なのではないか、と声が裏返る。信じていなくても、本物だとすれば、途端に怖くなる。
「見られた、のね」
台詞が、更に本物感を増長。このまま、祟られるのか、と全く別種の焦りが湧き上がる。
つい先ほどまで、お湯の中で瞳を瞑り、膝を抱えて沈んでいた姿は……眠っているか、死んでいるようにしか見えなかった。なのに、彼女は、何事もなく会話していて。
「ねぇ」
「な、なに……?」
幽霊……と、いうには生々しく、瑞々しい彼女。肌の上、水滴は丸い粒となって、弾かれている。彼女の肌は冷たくはなかったし、硬くもなかった。血の通った体温と、息づいた柔らかさに直接触れていたから、縮こまった心臓は平常運転に戻っていく。ちゃんと、生きた人間だから大丈夫。仮に幽霊だとしても、ここまで生々しくて綺麗だったのなら、生きているのと変わりない、と理性に言い聞かせる。
「どうして、ここに居るの?」
「へ?」
突然の質問。私は、意味もなく左右へと視線を動かす。少し濡れた髪の毛が、ペタり。頬や首筋に張り付く。癖毛だから水を吸うと、折角セットしたのに癖が戻ってしまう。自分の癖毛、手間が掛かるからあまり好きじゃない。
「ここ、私の家よ?」
「そんなの、改めて言われなくても……」
補足するように、付け加えられた一言。改めて、言われなくたって分かっていると、返そうとするけれど、質問の裏にある意味が、少しずつ形を持ち始めていく。
彼女からすると、私って、不審者なのではないだろうか。
「……私、あやしい?」
もう、いっぱいいっぱいだったから。冷静だったなら、わざわざ、聞くまでもないことを質問。
「これ以上ないくらいに。だって、寝込みを襲われかけたのよ?」
助けようとした事に、理由なんて無い。あんなの、誰だって助けようとする。
「さい、あく」
ここに来たのは、ちょっとした点数稼ぎと親切心。それだけだったのに。
「それで、どうして此処に居るのか説明してくれるのよね。瀬戸海月さん?」
私は、瀬戸海月は、優等生だから。
少し浮いているクラスメイトにも分け隔てなく、届け物をする。そういう風に、振る舞ってきた。あわよくば彼女に好印象を残したかった。八方美人をするのには、常日頃の積み重ねが大事。
なのに。最悪。最悪にも程がある。不法侵入を咎められ、制服はずぶ濡れ、果てはクラスメイトのお風呂の中に乗り込んで、唇を奪おうとした不貞者。
「ぜ、全部、ちゃんと、説明するから……服、着て」
なんとか、取り繕おうと、彼女を真っ直ぐ見ようとして……顔を逸らす。冷静になればなるほど、今の姿は、刺激が、強すぎた。
沢山の人の記憶に残りたい。好かれたい。ささやかな私の欲求に反して、忘れられない記憶を残されたのは私の方。
見上げた。浴室の天井から、水滴一滴、垂直落下。眉間にぶつかり、身体が跳ねる。
会話らしい会話は殆どしたこともない。クラスメイトというだけの距離。まともに話したのも、目を合わせたのも、きっと、今日が初めて。
黒翡翠の瞳。もう少しだけ見つめていたい。無意識、望んでいた。
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