三日月を伸ばしたくて

崇期

ちょっとしたことで取り返しがつかないことになりかねないという世界に私たちは生きていると思う。

 ちょっとしたことで取り返しがつかないことになりかねない、という世界に私たちは生きていると思う。

 そして堂々と、それ──取り返しがつかないこと──を何度でもやってのける自分がいるのだ。どうしても避けられないものなのだとうそぶく用意も同時に行いながら。

 今、栃原とちはらに対して実行しようとしている殺人を前に、過去に、自分の人生で起こった失敗の記憶すべてが吹き飛んでいることがはっきりわかった。何度でもやってしまう愚かさの仕組みが理解できた気がした。

 スピードを上げて、まさに衝突せんとする車内にいるわけでもあるまいし、踏みとどまろうと思えば踏みとどまれるのではないかと思うだろう。

 でももう、頭の中は成功に酔う自分の姿しか見えない。この殺人が成功したら、私の人生にかつてないほどの大きな大きな失敗が足されることになるわけだけれど、私が栃原を愛した二年間の方がもっと愚かな失敗だったのではないだろうか。


 いなくなってほしいなんて、誰かに対して思ってはいけないのだ。誰がどう考えても悲しい感情なのに、その人の人生にたった二年関わっただけの人間がそれを思っている。

 ただ、どうしようもなく魅力を含んだ相手というのは危険な存在だ──といつか観た映画のセリフにあった気がする。

 あなたはなぜそれを持って私の前に現れたの? 誰の手によっても消せない思い出、自分の手で消す覚悟を決めた。私に愚かしい想いをもたらした人を葬るために、私はあの三日月の切っ先を伸ばしたい。



 ***



 春の夜の街の営み──。酒屋のガラス戸から角打ちしている男性の左半身が覗いている。電球をぶら下げたビニールハウスから明かりよりも苺の甘い香りの方が濃く流れてくる。古い自転車の言うことの聞かなさに困っているのか自分の不器用さに困っているのかわからない老人の緩慢な動き。


 とぼとぼと、誰でもない人物のように歩いていく元恋人もその景色の中にいた。この視線は、もう届けられない贈り物なのに、自分一人で噛みしめるために捧げていた。

 睦まやかな時間はいつもあっという間に終わったよね、とつぶやいているような背中で、彼は家々がひしめく通りへ吸い込まれていく。追跡ごっこは終わりよ、と誰でもない誰かが私に言い聞かせ、それでもまだ動こうとする足を必死でき止める。

 取り残された後、所在なさに空を仰ぐと、一帯に広がる薄い雲の切れ間にぼうとした月があった。月は見上げたとき同じ姿であったことがない。いつの間にか伸びている髪とか、流行やイベントごとに色を変えていく商店のディスプレイのように、いつも個人の悲哀をよそに時を示していくものだ。


 あるとき鋭く尖った釣り針に似ているな、と思ったことで、妙なアイディアが浮かんだ。あれで栃原を引っかけて、空高く釣り上げてしまえないだろうか、と。誰もが無聊ぶりょうや不定愁訴の疎ましさを口にしなければ過ごせない季節。私もそれだけの苦しみを抱えていたのだ。

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