不倫

あべせい

不倫



「あなた、こんなものが郵便受けに入っていたわ」

 帰宅すると、妻がいきなり不機嫌な顔で言い、1枚の封筒を目の前に突き出した。

 おれは封筒を手にとって、表面の宛名を見た。

 そこには、なぜか「遺書」とだけ。手書きの文字があり、切手は貼られていない。

 どういうことだ。しかし、妻は知っている。おれにも、どうにか事態が把握できた。こんなことを思いつき、実行するのはアイツしかしない。

 会社の部下の三咲(みさき)だ。この4月から、おれが統括する販促2課に異動してきた新卒採用3年目の女性だ。胸もヒップも豊かで、販促2課の男性課員5人が全員、目を付けていると言ってもいい。2課にはほかに女性社員が3人いるが、彼女らは若いだけで、女の魅力に乏しい。

 おれは封筒を手にしたまま、握りつぶそうとした。しかし、妻が、目の前から動かない。

「お読みになったら。封はしていなかったわ」

「……」

 ということは、妻は読んだのか。封筒を裏返す。予想通り、何も書いてない。おれたちは結婚して、13年になる。

 少し結婚が早過ぎたかも知れない。しかし、いまだにこどもには恵まれない。どちらに原因があるのかはわからないが、妻はこちらに問題があると思っている。

 妻はおれと同じ38才。年齢的に、こどもは産めないと思っている。おれは強いてこどもを産んで欲しいと言った覚えはない。だから、2人で病院に行って原因を調べることはしなかった。

 しかし、最近、妻は、「こどもがいたら……」と、よくこぼす。暗に、おれのせいだと言いたいのだろうが、おれの家系には、これまでこどものいない男子はいなかった。だから、おれは妻に原因があると密かに思っている。それを言わないことが、妻に対する労わりだと考えていたが、それが間違いのようだ。

 きょうは休日。朝から、公園で開かれるフリーマーケットに行こう、と昨晩2人で話しあった。時刻はすでに正午を過ぎている。公園近くの、うまい蕎麦屋で昼食をとるつもりでいたが、それもできそうにない。

「読まないの? 遺書よ。どなたからかは知らないけれど……」

 妻はぷいと後ろ向きになると、ようやく居間から出て行った。

 三咲はこの家を知っている。おれの住所は社員名簿を見ればわかる。しかし、交通機関などのルートを考えるのは厄介だ。切手が貼られていないということは、手に封筒を持って、直接うちの郵便受けに届けたということなのだろう。

 三咲がこの家までやって来た。住所がわかれば、家の所在は調べることができる。

 三咲は、横浜のマンションにひとりで住んでいると聞いている。隣県に近い東京のこの住宅団地まで、電車を使うと1時間余りかかる。

 三咲以外の他人のいたずらだろうか。だったら、妻のあの反応はありえない。

 おれは、四畳半余りの自分の部屋に入った。

 窓に向かって、学生時代から使っている古びた机があり、背後に、1間幅のクローゼットがあるだけの殺風景な部屋だ。

 机の前の椅子に座り、「遺書」の中身を取り出した。封には糊付けした跡さえない。最初から、三咲は妻にも読ませるつもりだったのだ。

 B5の便箋を開く。

「奥さまは、もうお読みになったでしょうね。ご立腹のようすが、手に取るようにわかります。わたくしのことを、奥さまはご存知なかったのですから、当然です。

 わたくしは、今夜の午後11時半に服毒自殺します。あなたを恨んで、この世を去るのです。すてきなあなたを選んだわたくしは、間違ってはいません。あなたに奥さまがいたことが、いけなかったのです。あなたは、奥さまがいるとは、おっしゃいませんでしたね。勿論、いないとも、おっしゃいませんでした。わたくしが確かめればよかったのかもしれませんが……。

 しかし、あの夜、わたくしは幸せの絶頂でした。このまま、2人で、天国に行けたら、どんなに幸せかと本当に思っていました。しかし、わたくしたちの現実は、残酷です。あなたには、おきれいで、聡明な、奥さまがいらっしゃる。あなたは、好きで一緒になったわけではないとおっしゃいましたが、いまだに結婚生活を続けておられる。そこにわたくしが介入することは出来ません。わたくしは、そういう女になりたくありません。

 ですから、死を選ぶのです。さようなら。愛しい匡比呂さま。

 午後11時30分が、あなたにとって、哀しい思い出になることを願っています」

 おれは、三咲のこの遺書のなかに、ウソを3ヵ所、見つけた。

 三咲と関係をもったのは、たった1度に過ぎない。それも、課のお節介焼きの志水(しみず)が催した居酒屋での新人歓迎会の後だった。

 おれは疲れていたのか、つい飲み過ぎ、眠ってしまった。目を覚ましたのは、シティホテルのダブルベッドのなかだった。その日は日曜日。おれは下着姿だった。

 ハッとして横を見ると、三咲が裸体で寝ている。おれには、何かをした覚えがまるでない。なのに、三咲は、おれが目を覚ましたことに気がつくと、顔だけを覗かせて、

「課長さん、って、強いンだから。わたし、わたし……恥ずかしくて」

 と、言った。

 おれはすぐにベッドから跳ね起き、服を着ると、

「すまない。酔っていて、何も覚えていないンだ。この埋め合わせは、きっとするから。きょうはこのまま自宅に帰らせて欲しい。おれはいままで無断外泊をしたことがない。妻が、どんなに心配していることか……」

 ベッドのなかで、おれを蔑むように見つめる三咲に対して、おれはもう一度、「すまない」と言い、深々と頭を下げて、ホテルを出た。そのホテルは、横浜の繁華街の外れにあった。

 三咲が「遺書」でついているウソとは、

「わたくしのことを、奥さまはご存知なかったのですから」「奥さまがいると、おっしゃいませんでした。勿論、いないとも、おっしゃいませんでした」「あなたは好きで一緒になったわけではないとおっしゃいました」の3点だ。

 妻の要子(ようこ)は、三咲の存在を知っている。なぜなら、新人歓迎会での集合写真が、会社の封筒で差出人不明のまま、自宅に郵送されてきた。その写真のなかで、おれの顔部分と、おれに顔を寄せている三咲の間に、ピンクのサインペンでハートマークが描かれ、写真の裏に、「課長を慕う三咲です」と書いてあったからだ。おれは、勿論、その写真を封筒に入れたまま握りつぶして、ゴミ箱に捨てた。

 しかし、翌日、帰宅すると、おれの机の上に、そのくしゃくしゃになった、ハートマークの付いた写真が、丁寧にシワを伸ばして載せてあった。

 要子が、おれの部屋を掃除する際、ゴミ箱からその封筒を見つけ、中から写真を取り出したのだ。

 それが、先月だった。おれは、3ヵ月前のあの夜以来、三咲とは2人きりにならないように気をつけている。社内でも、だ。

 廊下ですれ違うことは、ままある。そのときは、手に持っている書類に目を向けたり、腕時計を確かめるふりをして、彼女と視線が合わないようにする。しかし、それがいけないらしい。

 あるとき、廊下で、三咲が書類の束を床に落としたところに出くわした。生憎、周りにはだれもいない。おれと三咲だけだった。

「課長……」

 三咲は、床に散らばった書類を一枚づつ拾い上げながら、通りかかったおれを見上げた。

 上司と部下だ。手助けするのが当たり前だろう。おれは、彼女のそばに近寄り、無言のまま、一緒に書類を拾った。

 すると、三咲が、

「ありがとう。匡比呂さん」

 と、ささやき、タイトスカートで包まれている膝で、おれの腿をくすぐる。おれの体に、思いがけず快感が走った。

 おれは慌てて、彼女から、10数センチ離れた。すると、その分、三咲はしゃがんだ姿勢のまま、すかさず体を寄せて来る。

 もう床に書類はない。そのとき、ひとの気配がした。当然だろう。5階建ての自社ビルで、3百人ほどの社員が働くIT企業の3階廊下だ。

 三咲は立ちあがる。おれも続いて立ち、手に抱えた書類の束を、三咲に差し出す。

「課長、ありがとうございます」

 三咲はおれの手から受け取ると、そっと顔を寄せてきて、

「わたし、あなたがここを通るのを待っていたの……」

 と、蚊の鳴くような声でささやくと、すぐにふだんの声で、

「課長、では、今夜の会議、ご出席をお願いします。場所と時刻は、ここに記してあります」

 そう言って、スカートのポケットから縦に四つ折りしたA4の用紙を取り出し、おれの胸のポケットに挿し込んだ。

 それが、5日前。あの夜から、3ヵ月が経っている。

 しかし、おれは彼女の誘いを無視した。

 場所は、通勤途中の乗換駅近くにあるしゃれたバー。課員の男性がよく利用すると聞いている店だ。指定された時刻は、午後9時。その日は、社の課長会議があって、8時過ぎまでかかる。おれは夕食はいらないと妻に告げて家を出ている。三咲はそのことをよく知っていた。

 会って、どうなる。おれは、あの夜のことを後悔していた。深酒したとはいえ、正体をなくしたことなど、いままでになかった。

 部下とは不倫するな。高潔ぶるつもりはない。が、おれは三咲という女が、好きにはなれない。高慢で、男はだれでも自分になびくと考えているような女だ。

 美形と豊満な体を武器に、課の男を巧みに操る。とりわけ、入社7年で独身の志水は、暇さえあれば三咲に近付き、ヘラヘラと話しかけている。

 来年度、彼女を他の部署に、異動させようと考えている。三咲のような女は、営業がいい。どうして、販促に来たのか。人事課のミスに違いない。

 

「さあ、出かけよう」

 明日は日曜で休みだが、雨になると予報が告げている。おれは、妻の顔色をうかがうようにして言った。

 妻は、おれが三咲という女につきまとわれていることを知っている。しかし、ベッドをともにしたことは知らないはずだ。

「新しい部下だが、何か勘違いしているンだろうッ」

 妻には、こう説明した以外、三咲については一切、話していない。三咲に誘われるままつきあっていけば、課長として抜き差しならない事態に追いこまれる、と感じている。

 おれには、あの夜、彼女と関係したという記憶もない。ただ、柔らかな感触が、体のどこかに残っているような気はするのだが……。

 時間が経てば、思い出せるだろう。必ず。記憶喪失をおれの場合はありえない。あるとき、ある瞬間、突然、蘇りそうな気がいまはしている。

 三咲は、見かけは、いい女だ。しかし、おれには、それだけの女だ。妻のほうが、女性としては、はるかに優れている。妻に勝る女性に、おれはいままで出会ったことがない。

「外に出たら、あとをつけて、来るわよ」

 身支度を整えた要子が、玄関で靴を履いているおれの背中に向かって言った。

 おれは内心、ドキリとした。

「あんな手紙は冗談だ。気にすることはない」

 しかし、三咲が自宅周辺にいないという保証はない。もし、尾行されたら……。

 いいじゃないか。尾行されたって。こっちには、何もやましいことはないのだから。

 要子と2人で家を出た。フリーマーケットの会場は、元は米軍の基地だった広大な夕陽丘公園だ。休日は、フリマ以外にも、いろいろなイベントが行われている。

 フリマは盛況だった。百以上の出店に、大勢のひとが群がり、そこかしこと歩いている。しかし、おれは、始終神経を周辺に張り巡らせ、出店の品物に関心がいかない。

 つまらない休日になった。要子も、ふだんより口数が少なく、笑うことはなかった。

 2人でフリマを見たあと、近くのスーパーで買い物をし、夕食は買って来た惣菜で、すませた。

 休日の夕食後は、2人でテレビを観るのが習慣だが、この日はそういう気分になれない。要子も同じらしく、入浴すると、早々と寝室に行った。

 寝室にも小さなテレビがあり、それを観るつもりかも知れないが、おれは入浴後、自分の部屋に入り、パソコンをいじった。ネットで調べ物をするのが、近頃の趣味になっている。

 ところが、パソコンをオンにすると、ロックがかかっていて、画面が、ロックを解除するのにパスワードの入力を要求してきた。

 オカシイ。自分のパソコンにロックなどかけた覚えはない。元々、要子に見られて困るようなことはないから、ロックの必要はない。だれが、こんなことを……!

 その瞬間、

「パスワードは、ミサキ、よ」

「!?」

 三咲の声だ。空耳なのか。深層心理が声となって表れた? おれは、身震いした。

 その後、物音一つしない。辺りは静まり返っている。妻のいる寝室は、おれの部屋の左隣。おれが腰掛けている机の前と右横は窓があり、カーテンが引かれている。

 机上の置時計は午後11時を指している。

 おれはパソコン画面に、何気なく「MISAKI」と入力した。すると、ロックが解除された。ありえないッ!

「だから、言ったでしょ」

 もう、空耳ではない。その直後、背後のクローゼットが開く音がした。瞬間、おれは後ろを振り向いた。

「三咲ッ!」

 三咲がいる。通勤に使っているショルダーバックを肩から下げ、笑みを浮かべている。そして、おれは思い出した。

 会社で、キーホルダーを紛失したことがあった。先月のことだ。いつも会社の机の抽斗にキーホルダーを入れているが、それがなくなっていた。

 キーホルダーには、自宅のカギのほか、ロッカーのカギや、仕事上の重要書類を保管する、最下段の抽斗のカギを束ねてあるため、安易だが、机の右一番上の抽斗に、無造作に入れていた。しかし、幸い、キーホルダーは帰宅するまでに、元の抽斗に戻っていた。そのため、そのとき紛失は勘違いだと思った。もっとよく探せば、見つかったのだ、と。

 いま目の前の三咲を見て、カギの紛失は三咲のしわざだと気がついた。おれのキーホルダーをこっそり持ち出し、おれの自宅カギのスペアを作ったに違いない。

「もうすぐ、わたしの死ぬ時刻なの……」

 三咲の顔は青ざめている。

「キミ、そのなかにずーっといたのか……」

 おれはつまらないことを言った。三咲は、おれと要子が外出している間に侵入し、パソコンにロックをかけ、おれたちが帰宅するまで、クローゼットに忍び込み、じっと待ちながら耐えていたに違いない。

「狭いのね、ここ。それにノドが乾いて……」

 三咲はそう言い、おれに体を寄せてくる。三咲はオレンジ色のフレアスカートに、上はゆったりしたブラウスを着ているが、そのブラウスのボタンが外れ、胸元が大きく開いている。豊かな乳房のふくらみが、おれを誘っている。

 おれの思考から、自宅にいることや、隣室に妻がいることが、吹き飛んだ。

「三咲、ぼくは、キミのこと……」

 好きにはなれない、と言葉を続けるつもりだったが、それが口から出ない。三咲のしっとりと濡れた、鮮やかなオレンジ色の唇が、徐々に迫ってくる。

 こんな体験は、これまでになかった。おれは、女にもてるタイプではない。

 要子と結婚したのは、友人の紹介で、交際はいわば婚活の一つだった。しかし、要子のすばらしさに、まもなく気がついた。化粧に派手さはないが、もっと化粧をすれば、もっともっと魅力的で蠱惑的な女になる。体はスリムだが、女性の魅力を訴える部分は、充分に肉感的だった。

 しかし、いま要子の魅力を再認識している場合ではない。この場をどうするのか。不法侵入者として通報すべきなのか。それとも、あの夜と同様に、ベッドをともにするべきなのか。

 その瞬間、天啓ともいうべき、ひらめきが舞い降りた。思い出したのだ。鮮明に。ところどころ、断裂はしているが、ふだんの行動で、繋ぎ合わせればいい。

「三咲、ぼくはきょう、妻とフリーマーケットに行って思い出したンだよ」

 三咲の動きが止まる。笑みが消え、なんだろう、と自らに問い掛けている。

「あの夜のことだよ。ぼくは飲みつけない焼酎を飲んですっかり酔ってしまい、意識が朦朧とした。そして、部下たちに助けられて、タクシーに乗せられた。ぼくは、タクシーの運転手に自宅の住所を告げた。すると、部下の男性がタクシーを離れた後、発車間際にキミが運転席の窓ガラスをたたいて、ぼくの隣に乗りこむと、行き先を「横浜に」と訂正した。あの居酒屋からは、ぼくの自宅より、横浜のほうがはるかに遠い。運転手は遠いほうが喜ぶ。キミは、ぼくの交際相手とでも言ったのだろう。

 キミはタクシーのなかで、スマホを使いホテルに予約を入れている。

 ぼくはキミの肩につかまり、ホテルに入った。部屋はダブルだ。ぼくは倒れるように横になった。それだけだ。キミはぼくの服を脱がせ、自らも下着姿になった。しかし、何もしていない。キミは元々、ぼくのような男を好きになるはずがない。好みのタイプじゃないからだ。キミが好むのは、同僚の志水のような、筋肉質の男だ。

 じゃ、どうしてぼくのような男に接近したのか。それは、上司を意のままに操る。キミの目的は、その一点だ。キミはぼくが知らないと思っているのだろうが、志水はキミのいいなりだ。キミたちがどこまで進んでいるのかは知らないが、彼はキミの指示なら、なんでもする。志水は薬学部の出身だ。ぼくが飲んだ焼酎に、薬物を入れたに違いない。あの程度の酒量で、意識が無くなるほどに酔うわけがない。ぼくは、翌朝。目が醒めてから慌てた。記憶がなかったからだ。しかし、記憶はやがて戻る。どうだ。ぼくの言い分を認めるか。それとも、住居侵入罪で、告発されたいか」

「匡比呂さん、言いたいのは、それだけ?」

 三咲は、ねっとりと光る唇を舌先でチロッと舐めてから、そう言った。

「いや、まだある。キミは入社したとき、最初総務部に配属された。ぼくは課長会議で、入社が同期の総務課長の山並(やまなみ)から、キミのことをこぼされた。『総務の男性社員のだれかれとなくつきあい、意のままに操っていて困っている』と。山並は堅物だから、キミの誘惑には負けなかったのだろう。彼はキミを早く異動させたがっていたから、ぼくは販促課で教育してみると返事した。しかし、ぼくは、ミイラとりがミイラになりかけた」

 三咲の目がやさしくなった。哀しみを湛え、涙を浮かべている。

 彼女にこんなところがあったのか。気が強いだけとばかり思っていたが……。

「匡比呂さん、わたしの遺書をご覧になったでしょ。その時刻まで、あと3分です。これが、志水クンから手に入れた毒物……」

 三咲は、胸のポケットから、名刺サイズのポリ袋を取り出した。中に大豆くらいの白いカプセルが3個ある。バッグから、ペットボトル入りのミネラル水を取り出して、おれの目の前に突き出した。

「三咲、冗談はやめろ。キミが自殺をするなンて、だれも信じちゃいない」

「そうよ。匡比呂さん。でも、冗談でも人は死ぬの。匡比呂さん、わたしの代わりに、これを飲んでみなさいよ」

 おれは、思いがけない三咲の提案に慌てた。毒物なンかではありえない。ビタミン剤の類いだろうとタカを括っていたが、飲んでみろといわれて、怯んだ。

 そのとき、突然、玄関ドアが開く音がした。とまもなく、大きな物音が2階のこの部屋まで響いた。

 三咲が、部屋のドアを振り返るのと同時に、ドアが開き、要子が現れた。要子の背後には、数名の警察官の姿がある。

「この女です。侵入者は……」

 そのとき、三咲はポリ袋からカプセル1個を出し、急いで口に含むとペットボトルの水を飲んだ。と同時に、おれの口にも白いカプセル1つを押し込み、オレンジ色の唇をおれの口に押し付けた。

 要子の狂ったように怒る顔が、おれの頭のなかで渦巻いた。

 

 1週間が経った。

 事件は続いている。三咲がポリ袋に入れていた3個のカプセルのうち、1個は本物の毒物だった。三咲はそれを承知していたのか、それはわからないが、そのため、意識不明の状態のまま、病院で治療を受けている。おれが飲まされたのは、ビタミン剤だった。

 三咲は、3分の1の確率に、賭けたのだろうか。では、何を賭けたのか? 志水は警察の取り調べに対して、三咲に頼まれ、トリカブトの根をすりつぶしたカプセルを1個用意したと告白した。しかし、致死量にはしなかったと言う。しかし、薬物は体重によって、効き目が異なる。

 おれは、事件の翌々日から、通常の勤務に復帰した。課員は全員事件を知っている。課員だけではない。会社中に知れ渡っている。

 しかし、おれとすれ違っても、だれもそのことを話題にしない。

 どのように理解されているのか。おれは会社では、犠牲者なのか。それとも加害者なのか。

 さらに1週間後、三咲は意識を取り戻し、無事退院した。その後はしばらく、自宅療養することになった。

 志水が、帰宅途中のおれに近付き、こう言った。

「課長、三咲は、課長に呼ばれて自宅に行ったと言っています。課長、三咲のようなか弱い女性を騙すのは、もうやめてください」

 おれは、あの夜、三咲と……。一度ははっきりと記憶が戻ったが、事実という確証がないまま、時は過ぎていく。

                    (了)

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不倫 あべせい @abesei

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