恋心廻るとき、強かに人魚は唄う。
七織 早久弥
人魚の秘密
第1話 二つの鱗族
その昔、人魚と龍と人間が深く関わっていた頃がありました。これは、その頃のお話でございまず。
その頃は、天と海に棲み家を分けた二つの種族が、鱗族として暮らしていました。海に棲み家を持つ鱗族は‘人魚’と呼ばれ海鱗宮で暮らし女しかおりませんでした。一方、天空に棲み家を持つ鱗族は‘龍’と呼ばれ天鱗宮に暮らし男しかおりませんでした。この二つの種族は、互いに助け合い血脈を守っていたのでございます。
人魚には産まれたその日から一体の守り龍が付き、この一対の関係は生涯変わる事はございません。数百年という永い永い二つの種族に産まれた命が過ごす生涯を、一対の相手と過ごす事になるのです。
人魚たちは時折、人間の脚を手に入れ姿を変えました。それは、人間の若い男に恋をし、成就させて血脈を繋ぐ為。海鱗宮の妖魚に頼み、美しい尾を脚に変える秘薬を飲むのです。その美しい脚を得る際には、激しい痛みが伴いました。痛みに耐えた後、美しい人間の姿を得て恋しい男の前に現れる。しかし、人魚が人間の姿でいられるのは、わずか七日間。その間に、想いを告げ男を虜にし交わりを得て海鱗宮に戻らねばならない。そして、秘かに出産する。
人魚の姿に戻り海鱗宮に帰れば、時の流れが変わる。海鱗宮の一日は、人間の時なら一年。人魚が人間と子を得て翌日には、もう海鱗宮で出産するのです。こうして産まれた女児は、人魚となり海鱗宮で生き、男児は天鱗宮へ上げられ龍となり生きる。人魚たちが人間と交わる事でのみ、鱗族は血脈を繋ぎ繁栄させてきたのでございます。
人魚たちは、難破船の中から助けた男を見初めることもあれば、沖で漁師に恋をする事もありました。岩場から見つけた浜辺の男の事も。人魚たちは皆、美しく豊かな髪と容姿、優しく響く声を持っていました。彼女たちの歌声を聞いた者は、その歌声が耳から離れず深く心を奪われてしまう。昼も夜も、甘い歌声を心の内で聴いている。そして、彼女たちの姿を見たものは、その姿が心に焼き付き四六時中浮かび上がり、ただただうっとりするのでございます。
年頃を迎えた人魚の
「月李。そろそろ、あなたも恋をする事を考えなさい。他の者は皆、毎日あちこち出かけているわ。」
「えぇ、分かっています。王女様。ですが私はまだ・・・」
「月李。あなたは一際美しく、優しい声を持っているのよ。心もまっすぐだし、それを生かさないのは勿体ないわ。あなたが見初め本気で恋をすれば、きっと成就するわ。必ず、子を得て戻って来られる。怖がることはないのよ。」
「王女様。怖くなどないのです。ただ、私はまだ・・・ 心の準備が出来ていません。でも、いつか必ず、皆のように恋を成就させ子を得て海鱗宮に戻って来ます。そう、お約束致します。」
月李は、王女に約束し海鱗宮を後にした。
そして、いつもの岩場から海を眺めていると、守り龍の陽光がやって来た。
「どうした? 月李。何かあった? 心が沈んでいるようだけど。」
陽光は、優しく月李を尾で包み話しかけた。
「王女様に叱られてしまったわ。皆のように恋を探しに行きなさいって。」
「そうか・・・ 君も年頃になったのだから、王女様も心配なさっているのだね。鱗族の血脈を繋いでいく為には、避けられない事だから。」
「えぇ、分かっているわ。でも、嫌なの。陽光、あなたが人間なら善かったのに。そうしたら私、喜んで恋に落ちるわ。片時もあなたを忘れず歌を唄い、傍に居て子を得るわ。」
月李は、無邪気な華やいだ笑顔を陽光に向けた。
「月李。残念ながら僕は人間の男じゃない。君が産まれた時からの守り龍だ。それは難しいね。だけど数百年という永い時間を君と共に過ごす事が出来る男だよ。」
陽光も笑顔でウインクした。
「それはそうだけど。人間と恋をした人魚は皆、話しているわ。恋をすると心も体も一つになろうとするって。お互いが一つである事を願うって。」
「へぇー。そう云うものなんだ。」
「そうらしいわ。だから一瞬の恋でも、十分に味わい得られる物があると云っていた。私は、陽光。あなたにその感情を感じるわ。」
「おいおい、月李。どうした? 僕だって君が好きだよ。君とずっと一緒にいられるなんて、なんて楽しいんだ。なんて幸せなんだと毎日思っているよ。だけど、人魚と龍は決して交わらない。それが鱗族の種族の在り方だ。君もよく分かっているはずだろう? だから、どうにもならない。君の望みは叶わないんだよ。」
月李をなだめるように陽光が言うと
「本当にそうなのかしら? 人魚が龍を好きになってはいけないの? もし恋をしても、その恋は決して叶わないの? 本当に、どうにもならない事なの?」
月李の瞳からぽろぽろと涙がこぼれた。その涙は、次々に真珠になり海へ落ちてゆく。
「ごめんよ。月李。君を泣かせる気なんてなかったんだ。ごめんよ。」
陽光は、月李の涙を受け止めながら謝った。
「もういいわ。帰る。」
月李は泣きながら海へ飛び込み、海鱗宮へ帰ってしまった。
「月李、ごめんよ。君があんなに泣くなんて思ってなかったんだ。僕だって本当は、君が何より愛しいよ。君の声をずっと聴いていたいし、君の姿をずっと見ていたい。出来る事なら僕が、君と恋をし子を成す男でありたいさ。だけど、僕は龍族なんだ。人間じゃない。だからこそ、君と数百年を一緒に過ごせるんじゃないか。人間の寿命より、一度の恋より遥かに永い時を君と一緒に。そう、僕は龍族なんだ・・・」
一人残された岩場で、陽光は呟いた。
陽光の胸には、二つの想いが交錯し渦巻いた。龍族である事の誇りと恩恵。そして、守り龍であるが故の苦しみと痛み。本来なら恋とは無縁の龍族でありながら今、陽光の胸には恋が生まれている。その温かく小さな痛みは、本当に‘恋’なのだろうか? それとも、守り龍として一対の人魚への種族の情愛なのだろうか? どちらであっても陽光の胸には、月李への特別な深く温かい想いが生まれ育とうとしている。その大きな蠢きを感じ恐れを抱きながら、陽光は天空へ昇って行った。
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