第二章〈ラヴァルの邪悪な伯爵〉編
8話 魔女メフレー(1)
伯爵夫人は狼狽して取り乱したかと思うと、気絶したように長椅子に倒れ込み、心ここにあらずといった様子で深い考えごとに耽った。
「お母様……」
対照的に、アリスは伯爵夫人に近づいて優しく声をかけた。
「さっき、『この件をオリヴィエに話さない』と約束したことを忘れないでください。お母様を信頼しているからこそ打ち明けたのですから」
「ええ、そうだったわね……」
「それに、トリスタンを恐れて警戒しすぎるのは良くないと思います。彼は野性的でミステリアスな人ですから、私は必要以上に怯えていたのかもしれません。彼の告白は、脅すというよりむしろ悲しんでいるようにも見えました」
アリスは天使のような優しさで、この件を修復しようとしていた。
数分前に非難したばかりのトリスタンを擁護し、許そうとしていたのだ。
「トリスタンの考えはわからないけど、彼には良いところもあるのですから、私から手を差し出して『あなたを許し、先日のことを忘れましょう』と伝えようと考えています」
さっきまでの恐怖は消えて優しさがにじみ出ていた。
トリスタンを責めるどころか哀れんでいるように見えた。
「あなたという人は……」
伯爵夫人はアリスの純真な気持ちを察して、清々しい気持ちで少女を見つめた。アリスの慈悲深い振る舞いに感謝すら覚えた。
「なんて善良な人なのかしら」
伯爵夫人はアリスの手を取った。
「いつも寛容で、いつも許す準備ができている。本当に素晴らしい子ね。キスをしてもいい?」
アリスは伯爵夫人に額を差し出した。
少女を抱きしめて額にキスをした伯爵夫人の瞳から涙がこぼれ落ちた。
「どうして泣いているの?」
「知っての通り、わたくしはね、アリスやオリヴィエのことを考えると心配しすぎてしまうの……」
アリスは、伯爵夫人を心配させたくなかったから、トリスタンとの秘密を急いで打ち明けたのだと言った。
「トリスタンへの不信感とオリヴィエへの愛ゆえに、私は必要以上に恐怖を感じていたのかもしれません。あの日のことを思い出して『トリスタンが逆恨みして復讐を計画している』と決めつけてしまいました。でも、安心してください。きっと私の思い違いです。何も恐れることはありません」
伯爵夫人はうなずき、「アリスは正しいわ。私たち自身が落ち着かないといけないわね。そして彼を許しましょう」と続けた。
「トリスタンがアリスを愛していたなら、きっと苦しかったでしょうね。呪われた性質というものがあります……わかるかしら? 悪いことをしても咎めてはいけない性質というものよ。こういう類いの悪は、彼らのせいではなく、不幸の連鎖から生じるものです。トリスタンもその一人で、彼は父親も母親も知らずに浮浪者として育てられた。彼の心は何かが欠けていて、それを埋めようといつも苦しんでいるわ。トリスタンはアリスを愛さずにいられなかった。アリスが美しくて、完璧で、とても良い人だからよ」
伯爵夫人は、トリスタンの不遇な生い立ちと風変わりな気性について話して聞かせた。
「トリスタンは『アリスに愛される』という愚かな夢を見てしまったのね。自分の中にある荒んだ心と衝動に突き動かされて、やっとアリスに話しかけたのに、アリスが愛ではなく恐怖と嫌悪を示したときに、彼がどんな気持ちになったか想像してみて。かわいそうな人だと同情してあげましょう」
自分に言い聞かせるように、「彼を責めてはいけない」と諭した。
「孤独な子供時代にさまざまな苦悩や失望があったのだろうと思うと、わたくしはトリスタンを甘やかしてあげたい気持ちで一杯になるわ……」
伯爵夫人は、トリスタンに寛大な理由を吐露してからさらに話を続けた。
「ねえ、アリス、お父様とお母様を亡くしたときにたくさん泣いたわね。あなたが両親と過ごした十六年間、彼らの愛はあなたの魂を導いて正しい道を歩ませた。愛していたからよ。小さい頃、幼い考えや悲しみを両親に打ち明けていたでしょう? 両親の死後も、彼らはあなたに純粋な記憶を残し、その記憶が今もアリスを導いている。……けれど、幼いうちから喜びや悲しみやさまざまな感情をすべて封じ込めていたとしたら、今の自分とはどれほど違う人間になっていたかを想像してみて。初めて出会った人に、今まで知らなかった気持ちを感化されたら、きっとどうしていいか分からなくて、気持ちがあふれ出すまま何もできないと思うわ」
「お母様のおっしゃるとおりね……」
アリスは伯爵夫人の話に感動して、「トリスタンがここにいてくれたらいいのに」と答えた。
「トリスタンの生い立ちを深く考えてませんでした。本当にかわいそうな人! 私は彼を憐れむことで許してあげます。彼のために神に祈ります。彼の心を理解して傷心を癒してくれる魂に出会えますように。彼の心の荒野の下には金脈が眠っているかもしれないのですから」
しかし、伯爵夫人はどこか冷ややかに「残念だけど、アリス以上の魂を見つけることはできないでしょうね」と言い、次のように結んだ。
「もうこの件は忘れましょう。どうせアリスはトリスタンを愛していないのだから」
最後の言葉は、伯爵夫人に苦味を与えたようだ。
口をついて露わになった私情を隠しきれなかった。
アリスは戸惑い、その貞淑な純真さゆえに聞かずにはいられなかった。
「なんだか、お母様は私がトリスタンを愛していないことを残念がっているみたい」
伯爵夫人は顔を赤らめて「おかしなことを言わないで」と答えた。
「幸せになってほしい人が不幸になるのは残念、ただそれだけよ。わたくしはアリスがトリスタンを愛していなくて良かったと思っているわ。もしそうなら、オリヴィエはどうなるの?」
伯爵夫人は立ち上がり、姪を抱きしめてもう一度キスをした。
「そろそろ帰るわね。オリヴィエに早く朗報を伝えてあげなくちゃ!」
伯爵夫人が部屋を去ったあとも、アリスは不思議そうに扉を見つめていた。
「変なの!」
そうつぶやいたが、伯爵夫人の不可解な態度よりも、オリヴィエと婚約した喜びが胸に広がり、唇に自然と笑みが浮かんできた。生まれてこの方、アリスは人を疑うことを知らなかった。
「ねえ、マルグリット」
寝室のベッドに横たわると、そばに控えている付き人に声をかけた。
「寝物語の代わりに、聖書で神が夫に対する妻の義務を述べている一節を読んでみて」
*
伯爵夫人が、アリスの返事を伝えるために大広間へ戻ってくると、オリヴィエは別れたときと同じ姿勢で待っていた。思考以上に、オリヴィエの態度は揺るぎなかった。
「朗報よ!」
伯爵夫人は、満面の笑みで部屋に入ってきた。
「アリスは間違いなくオリヴィエを愛しているわ! 明日、司祭があなたたちを婚約させます。アリスのお父様の喪が明けて、オリヴィエが戦争から帰ってきたら正式に結婚しましょう」
「ああ、母上。十倍の祝福を受け取ってください!」
オリヴィエは歓喜を叫び、伯爵夫人に飛びつくとその手にキスした。
「オリヴィエは幸せ?」
「ええ、母上のおかげです」
「じゃあ、しばらく一人にしてあげるわ。幸せを噛み締めるには孤独が必要よ」
「もう行ってしまうの?」
「ええ、わたくしは自分の部屋に戻ります」
「僕の勘違いかもしれないけど……」
オリヴィエは少し首を傾げて「なんだか、母上が悲しそうに見えるよ」と言った。
「当然だわ。息子が愛する伴侶を見つけたことは嬉しいけれど、息子が母のもとを去る悲しみもあるのだから。母性愛とは、自分勝手で嫉妬深いものなのかもしれない。わたくしがアリスに嫉妬していないとは言い切れないわよ」
「アリスに嫉妬? でも、母上はそう言いながら笑っているね。僕が、母上をこの上なく愛していることをよくご存知だからだね」
母と息子は幸福を噛み締めるように、目を細めて笑い合った。
「おやすみ、オリヴィエ」
「おやすみなさい、母上」
伯爵夫人が出て行ったばかりのドアを見つめながら「母上は、本当に清らかな女性だ」 とつぶやき、愛と感謝を込めて祈った。
「神よ、母の美しく平穏な余生を末長く守ってくださいますように」
オリヴィエは母に続いて大広間を去った。
自分の部屋へ戻ると、夜の寒さにもかかわらず窓を開けて、城の別の窓から差し込む光を眺めた。その光は、アリスの部屋の明かりであった。
*
伯爵夫人は部屋に戻ると、長く熟考した末に突然「トリスタンをここへ連れてきて。話があるわ」と命じた。ところが、伯爵夫人に仕える侍女が「トリスタンはいません。城を出たようです」と告げた。
「一人で?」
「一人です」
「徒歩で?」
「いいえ、奥様。馬に乗っていきました」
「いつごろ?」
「15分ほど前です。探しに行かせましょうか」
「大丈夫、心配ないわ、放っておきましょう」
そうは言ったものの、侍女たちが引き揚げると、伯爵夫人は不安と心細さに涙ぐんだ。
「神よ、トリスタンはどこへ行ったのでしょう。わたくしたちは、これからどうなってしまうのでしょう」
信心深い伯爵夫人は、悩みごとがあるときはいつも祈りに頼っていた。
この夜も、ひざまずいて、神が助言を与えてくれるように真剣に祈りはじめた。
【追記】
本作を電子書籍/ペーパーバック化するにあたり、規約の都合上、非公開にしました。見本代わりに、本編冒頭〜主人公が登場するまで、各章1話目と登場人物紹介を残しています。
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