第一話〜⑤
* *
あの年頃の娘を言い包めるのは簡単だ。
静かな笑みと穏やかな口調。そっと肌に触れ、甘い言葉を囁く。そうすれば、世間知らずの小娘など、いくらでも誑しこめる。貴賤に拘らず裕福な家の娘というものはいつだって暇を持て余している。いずれは親の決めた夫のもとへ愛も無く嫁ぐと分かっているから、束の間の恋愛ごっこに現を抜かし、無価値の出会いに『運命』という言葉を当てはめ心を躍らせるのだ。
馬鹿馬鹿しい。
だが、そこに突け入る隙が出来る。
若い娘の浮ついた思考回路には、主人の命令に従って行動しなければならない時には非常に助けられてきた。
それにしても……。
ビウス橋での出来事を思い出し、ローフォークは笑みを溢した。
自ら欄干によじ登って転落しかける良家の娘など初めて見た。
どんな娘か興味はあったが、まさかブラッシュ・コールの顔を確認するために港に立ち寄った帰りに助ける事になるとは思いもよらなかった。
「エリザベス・コールか」
下着丸出しで宙吊りになるような娘だが、元気で素直な良い子だという印象を受けた。その所為か、聞いていた年齢よりも幼く見えたが、確かに器量はなかなかのものだった。なかなかどころか、あれほど美しい娘は王都にもそうはいないだろう。あれなら宮廷の夜会に出しても充分に通用する。家柄も良く器量も申し分ないのであれば、タンサンが息子の嫁に欲しがるのも無理はない。
動揺して落ち着きなく手遊びをするところが知人の子に似ていると思った。
無数の商店が建ち並ぶ繁華な通りを越えて、公園に併設された劇場に訪れた。オペラでも上演されているのか、舞台ホールに繋がる扉の向こうからは女性歌手の高い伸びやかな歌声が響いていた。
下階の客席には入らず、横の階段を上階へ向かって登った。最上階の貴賓席には主人がおり、舞台を鑑賞しているはずだ。
一歩、段を踏み締めて上階に近付くにつれ、ローフォークの表情からは穏やかさが消えていった。主人が待つ貴賓席の前に辿り着いた時には、エリザベスが魅入られた濃紺の優しい瞳は冷め切った鋭い光を帯びていた。
扉をノックしようとして、その手が少女の唇に触れた手である事を思い出して小さく笑った。
「助けなければ良かったかもしれないな」
呟いて、右手の爪先に軽く口付けた後、再び表情を凍てつかせて右手を握り込んだ。
「ローフォークです。グラッブベルグ公爵」
ノックをすると、間をおかず返事があった。
室内では、グラッブベルグ公爵が満面の笑顔で待ち構えていた。傍らにはビウスの商人リヒャルト・タンサンもいる。異常なまでに上機嫌の公爵とは対照的に、タンサンは骨張った顔から血の気を失っているように見えて、ローフォークは僅かに眉間に皺を寄せた。
「遅かったな。女でも口説いているのかと思ったぞ」
「申し訳ありません。少し、手間取りました」
「まあ良い。それより聞け、ローフォーク。計画の夜、娘は無傷で残すつもりでいたが、生け捕ってこい」
思わず、目を丸めてグラッブベルグ公を見ていた。ローフォークが凝視する中で、公爵は座席脇のテーブルからグラスを取り、一口含んだ。
「コールの娘、まだ十四になったばかりだというが、ビウスではすでに評判の美少女らしい。じゃじゃ馬ということだが、それでも生娘のまま馬鹿息子に嫁がせるのは惜しい。まずは儂が愛でてやろうと思う」
公爵の口元がニィッと引き上げられた。
「領地に戻っている時でなければこんな気晴らしなど出来ん。用が済んだら近所の道端にでも捨てておけば良かろう」
「りょ、領主様。しかし、それでは息子は傷物を娶る事になってしまいます。それだとタンサン家の家名に傷が付きますし、後々の商売にも差し支えが。そこまで大事にせずとも……」
「タンサン、貴様の息子は下の病気に事欠かんそうだな。馬鹿息子の所為で既に家名は傷だらけではないか。この儂が自分の為にわざわざ来てやったと言うのに、廓に籠ったまま顔も見せん礼儀知らずだ。もはやどこの家からも嫌われて貴様も切羽詰まっているのだろうが。儂が口添えしたところで、コールは娘をくれると思うのか? そもそもお前が欲しいのはコール貿易商会の権利と結婚によって得られるコール家の財産だろう。それと貴様は勘違いをしている。コールの娘は傷物などではない。領主の情けという栄誉を賜るのだ。お前の息子は栄誉を受けた娘を下げ渡されるのだ。光栄な事ではないか」
拐われた先で身を汚した者が領主であると、自らコールの娘に打ち明けるわけでもないだろうに。
タンサンは笑って返事をしたものの、その顔は引き攣っていた。
こんな筈ではなかったと、後悔している顔だ。ただ単純に領主であるグラッブベルグ公爵に口利きをしてもらえたら、それで充分だと考えていたのだろう。
この男は運が悪い。
シュトルーヴェ伯爵にしてやられた後でなければ、公爵はタンサンの手紙になど目もくれなかった筈だ。機嫌が悪い時にたまたま目に留まったばかりに、とんでもない機嫌取りをさせられる羽目になってしまった。
だが、タンサンを憐れとは思わなかった。息子を甘やかして育てたツケだ。タンサンの不幸は自業自得なのだ。
「分かったな、ローフォーク。明日だ。人手を集めて明晩、実行しろ。儂はタンサンの屋敷で娘が来るのを待っている」
この時、観客席から爆音が起こった。
舞台が終わり、盛大な拍手が沸き起こったのだ。タンサンが全身を強張らせたのに対し、公爵は御満悦の様子で拍手の波に参加した。顔中に噴き出した汗を忙しく拭っていたタンサンも、慌てて公爵に倣った。
公爵は喝采を浴びる女優を熱心に眺めて指を指した。タンサンに顔を寄せ、何やら話しをしている。大方、あの女優に今夜の相手をさせるつもりなのだろう。
ローフォークが立ったままでいる事に気付いた公爵が追い払う仕草をすると、浅く頭を下げて貴賓席を出た。
いつもの事だ。
階段を下りながら考えていた。
今更、罪が一つ増えたところでどうと言うことはない。グラッブベルグ公の為に女を調達する事はこれまでいくらでもあったではないか。
いつもと同じだ。
そう思いながらも、拳を握り締めずにはいられなかった。
劇場を出て空を見上げると、雲一つない青い空が広がっていた。それなのに、舞台ホールから漏れ出る盛大な拍手が、降りしきる雨音のように聞こえ、背中に染み込みローフォークの心を冷やしていったのだった。
* *
「なんだ。カレルはいないのか」
きっちり片付けられた無人の執務机を見るなり、第二連隊長フランツ・シュトルーヴェは肩を落とした。
「ローフォーク少佐でしたら、三日前から休暇をお取りになっています。私で宜しければ御用件を承りますが」
ローフォークの副官であるドンフォン中尉は、作業の手を止めてそう言った。
「急ぎの用事じゃないんだ。ただ例の件、どこまで調査が進んでいるのか気になって。クロッツ地区に次いでジャンヌ・フローでも見付かったと報告書が上がってきたからな」
「ああ、あれですね」
ドンフォンは難しい顔をした。
今年に入って、王都ではかつてない機構の銃が見付かっていた。
グルンステイン国軍の正式採用銃はフリントロック(燧石)式で、弾丸を銃口から装填する仕組みになっている。火薬(装薬)、弾丸を装填し、押し矢と呼ばれる棒で銃身の奥にそれらを押し込む。火皿に点火用の火薬を入れ、撃鉄を上げ、当たり金を火皿に被せ、引き金を引く。撃鉄が倒れ燧石が火皿に落ちると、当たり金との摩擦で起こった燧石の火花が点火薬、装薬へと引火して弾丸が発射される。これが射撃の一連の流れになるが、最近になって報告に上がってきている銃はこれらと異なる仕様となっていた。
まず、撃鉄に燧石が無い。
フリントロックでは撃鉄の先端に燧石を挟む箇所があるのだが、押収された銃の撃鉄にはその機能は無く、ただ平らな状態だった。それに伴って、火花を起こす当たり金も、装薬に着火させる為に必要な点火薬を入れる火皿も無い。本来、火皿があるべき箇所に備えられていたのは、金属製の筒だった。
親指の第一関節程も無いその装置は撃鉄が当たる終端部分に穴が空いている為、当初はここに点火薬を入れるのだろうと思われたが、それでは燧石が無い状態でどの様に着火させるのか疑問が残った。
撃鉄に何かしら挟み込む機能があればマッチロック(火縄)を想定したが、板バネの機能がない以上はマッチロックでもない。試しに一通りの発砲準備を整えて火の点いた香を差し込んでみたところ発砲は可能だったが、香を差し込んだ瞬間に点火し装薬に着火、発砲となり、銃身を充分に支えきれぬまま射撃手の上体は反動で弾かれ弾は在らぬ方向へ消え、射撃手は肩と腕を痛める結果となってしまった。そして、そのやり方では撃鉄が存在する意味が無い。
最初に押収された場所がアンデラ王国との国境付近の街だった事から、アンデラの新兵器の試作品が横流しされてきたのだろうと受け止められていた。取り敢えず造ってみた不完全な銃、というのが軍上層部の考えだった。
だが、今月の初めに第二連隊の管轄内で起こった発砲事件によって、その考えは一掃された。
部隊が逮捕に至る際、犯人は部隊へ数回発砲し、連射の時差を見誤った兵士が一人負傷している。数丁の拳銃を所有している可能性があったが、実際に出てきたのは一丁の拳銃と数個の薬包そして、厚みのある銅製の釦に似た物体だ。
取り調べの結果、疑問のままだった件の銃の謎が解明された。
釦に似たそれには火薬が内包されており、強い力を与えると発火する構造になっていた。これは金属筒の先端に施された溝に嵌め込み使用した。撃鉄を落とし、それによって生じる衝撃で内包された火薬が発火。金属筒を一気に駆けた火が銃の機関部内に装填された発射薬に着火し、弾丸が発射される仕組みになっていた。
小さな釦一つに、点火薬と当たり金、燧石の役割が集積されていたのだ。これはフリントロック銃の発砲までの手間を大きく省力化することになり、一度目の発砲から次弾装填までの時間の損失を無くすことにもなる。
それはつまり、連射と速射の速度が格段に上昇し、部隊の戦力の上昇にも繋がる事になるのだ。さらに金属製の容器を使用している点で、天候に左右される心配もない。
この事実は、グルンステイン国軍を戦慄させるものだった。
この機構の銃が真実にアンデラ王国の新兵器であり、すでに大量生産が行われているのであれば、グルンステイン王国果ては連邦国家である『聖コルヴィヌス大帝国』は軍事面で大打撃を受ける可能性が生まれたのだ。
この一件は軍上層部へ報告が上がり、国王フィリップ十四世へ届けられた。
フランツが統轄する第二連隊は、最初に武器が発見された国境の街を管轄する部隊と情報を共有し、これらの銃が本当にアンデラ王国からの横流し品なのか、それともそれ以上の目的があって国内に持ち込まれた物なのか、調査を行っている真っ只中だ。
それなのに、
「この状況下で休暇とは、らしくないな。カレル本人の意思とは思えない」
「宰相閣下ですよ。グラッブベルグ公のお供でビウスという街に行くと仰っていました」
「ビウス? 聞いた事があるような、ないような」
「私も詳しくは知りませんが、グラッブベルグ領内の運河街らしいですよ。少佐は七日程休暇をお取りになっています。ちなみにその際、『どうせいつもの金払いの良いタンサンとか言う商人に集って飯や女をタダ喰いするだけだ。フランツのクソ馬鹿め、覚えていろ』とも仰っておられました」
「は? 何故、俺?」
少なくとも、直近でローフォークの苛立ちの矛先が向くような事はしていないはずだ。首を傾げる上官にドンフォンは苦笑いを溢した。
「グラッブベルグ公がシュトルーヴェ中佐の御父君……、軍務大臣閣下にいっぱい喰わされたからでしょうね。公が拗ねると御機嫌取りが大変だと、いつもうんざりしておられましたから」
「それなら文句は父上に言ってもらいたいな。俺は完全に無実じゃないか」
顔を顰めるフランツにドンフォンは声を出して笑った。
「では、それも含めて少佐にお伝えしておきましょう」
「頼む。カレルの怒りはあまりにも理不尽だ」
フランツの言葉にドンフォンはもう一度笑った。
自分の執務室に戻ったフランツは、先程のドンフォンとのやりとりを反芻していた。
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