第一話〜③

 しかし、この縁談はコルキスタにとっても利益をもたらす事には違いない。

 同盟が成立すれば『聖コルヴィヌス大帝国』がコルキスタの侵攻を受けなくて済むように、コルキスタもまた『聖コルヴィヌス大帝国』からの侵攻に脅かされる心配がなくなるのだ。


 お互いの体面もあり、とんとん拍子にとは行かないだろうが、婚約成立にさほど時間が掛かるとも思えない。足掻いたところで、もうどうにもならないのだ。

 ならば、待とうではないか。

 シュトルーヴェ伯爵を目の前から排除する、その絶好の機会を。


「補佐官、いつまでそこでひっくり返っておるのだ。儂はこれから数日の休暇に入る」

「へ? で、ですが、政務は宜しいのですか?」

 インク塗れの補佐官は目を丸めて起き上がった。

「ふん。国王陛下が働き詰めは身体に悪いと申されたのだ。シャルル王太子の結婚騒ぎもコルキスタから返事があればすぐにでも収まる。取り急ぎこちらから出せる結納金などの目録を作成しておくが、それ以外は特に重大な職務もなし、儂はしばし領地に帰り見回りをする。儂が留守の間は外務大臣と内務大臣に仕事をまわせ。分かったな。それから」

 荒れた室内の整理を始めた補佐官に言い付けた。


「ローフォークを呼べ。奴を視察に同行させる」



       *  *



 グルンステイン王国には二本の大河が奔っていた。

 一本は、その源をカラマン帝国とシュテインゲン王国を跨ぐ山脈とし、シュテインゲン南部からカラマンの南西部を通り、グルンステインの中部を横断して西海岸へと流れ出ている。もう一本は東の隣国サウスゼン=ファンデンブルグ君主国北方の山岳地帯から流れが始まり、君主国からカラマン帝国の南部を横切って、グルンステイン東部を縦断、再び君主国に入り南海岸へ辿りついていた。


 無数の支流が合流して膨らむ大河は、海を持たない内陸の帝国において交易と交通の要所となっていた。二本の大河沿いには必然と多くの運河が建築され、盛んな交易が行われていた。


 グルンステインの現在の王都も元は大きな運河都市の一つだった。

 分割、併合の長い長い大帝国の歴史のなかで、拡大した国土に見合う経済力と国力の確保のため、一つの運河都市を大改造して遷都したのが現在の王都『リリベット』だ。


 グルンステインのみならず、運河都市は国家にとっての錬金術だ。

 運河街の殆どが王家・皇家の所領地と定められ、都市から吐き出される税金と売上は国家君主の資産として納められた。稀に功績に応じて家臣へ下賜される場合もあり、ビウス運河もまたその権限を移譲された街だった。

 大河の支流に沿って造られたビウス運河の主な役割は、上流のカラマン帝国と下流の君主国への物資の輸出入と、二ヵ国を介して外国の物資を仕入れグルンステイン国内で売り捌く事だ。近郊にトビアスという王国治安維持軍の一個師団が駐屯する大きな運河都市があるため莫大な利益を得るまでには至らないが、トビアスを発着する無数の交易船にとって小休止するのに適度な位置関係にあることから、運河沿いには清潔な宿泊施設の他に劇場を併設した公園や遊歩道が設けられ、カフェや王都の最新ファッションを取り入れたブティックが充実し、小規模な運河街を充分に潤していた。


 その運河沿いの遊歩道を一人の少女が走っている。

 リズミカルに揺れる栗の実色の長い髪は艶やかで、胸元では小さな花型のチャームが付いたペンダントが陽光に煌めいている。

 ビウスの街の娘達に流行りの、腰の大きなリボンを付けた身形から裕福な家柄の令嬢だと分かるが、スカートの長い裾をたくし上げて疾走する様は、とても良家の子女とは思えない軽やかさがあった。手には一通の手紙を握り締めている。


 少女の名はエリザベス・コールといった。

 ビウスの街で貿易商を営むコール貿易商会の一人娘だ。

「お嬢様! エリザベスお嬢様!」

 エリザベスは走りながら後ろを振り返った。数メートル後方にコール家のメイドのタラが追いかけてきている。

「無理して付いて来なくても良いのよ」

 声を張って呼び掛けると、逸れないように必死に走っているだけのタラは、息も切れ切れに答えた。

「ですが、お嬢様、お一人では、危険、です!」

「平気よ。運河港にお父様を迎えに行くだけだもの。貴女は家に戻ってお母様のお相手でもしていてちょうだい」

「そんな……!」

「急がないと船の到着に間に合わないわ。タラ、置いて行くわよ」

「あ、お嬢様!」

 引き止めようと伸ばした指の先で、仕える主人は見る間に遠ざかってゆく。タラはもはやエリザベスを追い掛ける事を諦め、近くの立木に凭れて蹲った。


 全身で大きく呼吸を繰り返していると、横合いから笑い声が届いた。タラが視線を向けると、近くのオープンカフェに老爺がいた。

「ああ、マシューさん」

 タラは変わらず息を切らしながら、昨年までコール家で執事を勤めていた老人に微笑みを返した。マシューに招かれてカフェテーブルに同席させてもらう。

「お嬢様は相変わらず元気なようだね。結構、結構」

「何が結構なものですか!」

 マシューの言葉にタラは大いに憤慨した。

「大変ですよ。毎日毎日、走り回って。たまに大人しくしてると思えば、いつの間にかいなくなって近所の子供達と追いかけっこをしているんですよ? 堪りませんよ!」

 マシューは愉快そうに笑った。

「いや、良い事だ。お嬢様はいつだってお嬢様でなければなあ」

「もう! 奥様だって困り果てていらっしゃるのに」

「心配していたんだよ。ほら、タンサンのところから縁談がきたって聞いてね」

「ああ」

 タラの肩から力が抜けた。


 エリザベスの父親はビウス運河で貿易商を営む商人だった。

 小さな運河港といっても貿易を営む商人の数は多い。その中で、エリザベスの父ブラッシュが経営するコール貿易商会は、運河港に中型船を一隻、小型船を二隻所有し、事務を含め五十人余りの人を雇っている。ビウスの街でそれだけの人数を雇用している商人は片手に満たず、従業員の家族も充分に養えるだけの給金を支払えるコール家はそれなりに裕福な家柄だった。


 それでも、教育の為に一人娘を王都に送り出せるほどの力はない。

 地方商人でそんな事が出来るのは、銀行家か宮廷貴族の後ろ盾を得る事が叶った運の良い商人だけだ。堅実な商いを行うコール家には、その両方がなかった。


 それを分かっていたからか、エリザベスはタラにこう言った事がある。

「私は一人娘だし、いずれは地元の商家に嫁ぐか婿養子をもらう事になると思うわ。叶うなら恋をしてみたいけど、お父様とお母様が選んだ人ならきっと立派な方に違いないし、私もきっと好きになれると思うの」

 恋がどのように胸を締め付け、どのように心を切なく千切ってしまうのかも知らないお転婆な少女が、それほどまでに尊敬し信頼していたというのに、その父親が持ってきた縁談の相手はいい歳をして商売の勉強よりも夜遊びに精を出す、とんでもない放蕩息子だったのだ。


 タンサン総合商社は中型船を二隻、小型船を五隻持ち、帝国と君主国の二ヵ国と貿易を行っている。また、ビウスの街に数軒の宿屋と食堂を経営していて、雇用している人数はコール貿易商会の約三倍。その資産に頼って領主とも繋がりのあるビウス運河きっての豪商だった。


 通常、それほどの商家から縁談が持ち込まれれば、大概の親は喜んで娘を嫁がせるのだろうが、とにかくタンサンの息子はビウスのみならず、近在の何処の家からも毛嫌いされていた。何処からも断られた結果、社交界デビューすら果たしていないエリザベスのもとに話がまわってくる程に。


「嫌よ。絶対に嫌! タンサン商社の息子なんて冗談じゃないわ! 親の財産を当てにして妓楼に入り浸っているバカ息子だってことくらい私だって知ってる! そんな家に嫁いで、この家にどんな利益があるって言うの? コール商会の財産まで食い潰されるのがオチよ! お父様は会社を潰す気なの? 私が不幸になっても平気だって言うの⁉︎」

「お父様に向かってなんて事を言うの!」

「だって、お母様」

「だってじゃありません! お父様がどんな想いで貴女にこんな話をしているのか分からないの? お父様は……」

「もういい、聞きたくない! お父様もお母様も嫌い!」

「エリザベス!」

 これまで親子が喧嘩をする事は度々あったが、エリザベスがここまで両親に逆らったのは初めてだった。

 母エレーヌは食堂を飛び出した娘をすぐに追って行ったが、父ブラッシュは冷めた朝食を前に椅子に座り込んだまま、悲しげな顔をしていただけだった。そして、その日、ブラッシュは初めて娘に見送ってもらえぬまま、取引先へと出掛けて行った。


 その後、母に諭されて部屋から出てきたエリザベスは、すでに半年も前からこの縁談がしつこく持ち込まれていた事を聞かされた。その度に、父が断りの返事をしていた事も知ったのだ。


 罪悪感に涙を零しながら父に許しを乞う手紙を書いた。懺悔の手紙はすぐに取引先の父のもとへ届けられ、父の返事もまた即座に送られてきた。

 手紙の中でブラッシュはエリザベスを傷付けてしまった事を詫び、改めてタンサンにこの縁談を断ると約束してくれた。そして、四日経った昨日、父から届いた手紙には、コール貿易商会の船が翌日の昼過ぎにビウスに着く予定だと記されてあった。


 手紙を読んだ傍から、エリザベスは何度も運河港がある方角を気にかけて、習い事も手につかないほどそわそわしていた。そして今日、そろそろ昼食の用意を始めなければとタラが厨房に向かった時、裾をたくし上げて邸から飛び出すエリザベスを発見、慌てて追跡を開始したのだった。

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