第13話 罠 in 迷宮
11日19日火曜日、昼休みに突入した三階職員室は、教師や生徒でごった返していた。
「じゃあ、明日のアップの後はレシーブ練習中心で始めておきます!」
「よろしく、大西ちゃん。ストレッチはしっかりやってね」
「了解ですっ」
バレー部顧問からの指示を受けた香鈴奈は職員室を元気に飛び出した。
明日の部活動の事務連絡を顧問に確認して、部長へと伝えに行くのは二年生が交替で行う大事な仕事だ。
同じように授業や部活の連絡で行き来する生徒たちで、休み時間の職員室の狭い通路はいつも
そして、お互いがお互いの言動にも無関心だった。すぐ隣で誰が誰と話しているか、きっと知らない。満員電車のような空間。
思い出したように香鈴奈は立ち止まり、振り返り、職員室を覗いて見回す。
……事務員さんは職員室には……居ないよね。
確か別に事務員用の事務室があったはず、と前任の澤木さんのことを思い出していた。
あの、イケメン人気で、美月も結構気にしている、橘さん。
橘さんが学校に来たのは金井さんの事故の後。ないとは思いたいけど……。
香鈴奈は心に巣食った不安を振り払うように首を振って、職員室に背を向けた。
先輩たちから聞いた情報メモの中で、昨日、美月に話すのを止めた
私の前に、事務員の橘が、
先輩たちはその話をしたと言う認識も、聞かれたと言う認識も薄くて、「話の流れでなんとなく喋っちゃった」とか、「そう言えばその話もしたな」とか、「知ってたみたいだけど少し違ったから正しいのを教えた」とか、まるで気にかけていなかった。
実際全部たまたまのことで、私の思い過ごしかも知れないとも思う。
だって、
それだけに、気づいた時は少しゾッとした。あんなに目立っている人がこんなに
ただ、偶然と片付けるよりは、その明確さがむしろ自然に受け入れられた。
……
先輩たちからの情報を得て以来、香鈴奈は美月が渡邉先生から何かされたことがあるんじゃないか、と疑っていた。
夏休み頃から変だったし、昨日の反応も……
そのことに香鈴奈は変な責任を感じていた。
なんとなく警戒していた美月を、むしろ渡邉先生と近づくよう後押ししたのは私だ……。
人を見る目はある方だと思ってたんだけどな……。
廊下の向こうに職員室へと戻ってくる渡邉の姿が見えた。
悔しさと嫌悪感で思わず両手を握りしめていた。
橘さんのこともあるし、もう軽はずみに余計なことをするのは止めよう。
とても後悔してしまうから……。
香鈴奈は渡邉を避けるように進路を変え、教室へと向かうのだった。
あれ?
二限の授業を終えて職員室へ戻って来た渡邉純一は、部屋の入口で白衣のポケットを探って少し慌てていた。
いつも無造作にポケットに入れているスマートフォンがない。
どこかに置き忘れたか?
普段は入れることのないズボンのポケットとか、ワイシャツのポケットとか、探しながら自分の席へと向かう。
どこかへ置き忘れたとしてもそうそう中を見られることはないだろうが……。
やはりスマートフォンの所在が分からないのは心配だし落ち着かない。
席に戻ると、書類に埋もれた机の上に見慣れたスマートフォンが置いてあった。
……なんだ、さっきの授業の時に持っていってなかったのか……。
手に取り画面に触れると、ロック解除の認証画面が表示される。
少しホッとして、そのまま椅子に腰掛けると、再びスマートフォンを机上に置いた。
無意識とか慣れって良くないよな。
気をつけないと……そう考えながら、積まれた書類を片付ける。
昼食の時間だ。鞄からコンビニの袋に入った菓子パンを取り出し、無造作に食べ始める。
それにしても、もう一週間が経つのに何の音沙汰もない。
しらばっくれるつもりだな……
渡邉は一条美月と大西香鈴奈二人のことを思い出していた。
くそっ大西のやつ、邪魔しやがって。
思い出すほど大西への嫌悪感が増してくる。
ああいう、どんな相手でも得意です、みたいな顔で、いつも人に囲まれて楽しそうにしている
パンの空き袋をまるめてゴミ箱に投げ捨てる。
……いっそ大西を
あの余裕ぶった顔がどう歪むのか想像するとそれも少し面白いと思えた。
けれど、すぐその考えはなくなった。
その時は良くても、ああいうタイプは絶対に泣き寝入りしないだろう。
誰かに話して、皆を味方につけて、俺を追い詰めるに違いない。
……それに……
渡邉はスマートフォンのメッセージアプリに「今日いつものところで」と打ち込む。
今日は宮原を呼び出していたぶってやる。それでスッキリするはずだ。
もう、一時の感情で無意味な関係を広げることはしない。自分が疲れるだけだ。
事務椅子を
……俺が欲しいのは、この社会で生きるために被らされたたくさんの仮面の下に隠された、本当の俺を知ってくれて、それを受け入れてくれる
そんな
渡邉はスマートフォンの画面の向こう、どこか別の世界を虚ろに眺めていた。
「? 浅井先生?」
「あ、すみませんっご迷惑をおかけしてすみませんが、よろしくお願いします!」
話の途中で固まって変な間を作った英語教師の浅井が慌てたように頭を下げた。
「いいのよ、気にしないで。急に振られた研修出張じゃ仕方がないし、正直若い人ばかりに押し付けて申し訳ないくらいだし」
同じく英語教師の嘉多山は先輩の余裕で微笑むと、視線を机に戻しながらチラ、と対面の席を伺った。
あらあら、やっぱり。
向かいの席では、アンニュイな
少しの間堪能してから、隣に座る浅井の様子を伺うと、周囲を気にする様子もなく渡邉に見とれていた。
若いっていいわね。
浅井は
今年来た渡邉とは年もそう変わらないし、席も近くになったため、よくこうやって見とれている。
初めは呆れて注意しようかとも思ったが、浅井の目線に促されて渡邉を見るようになって、なんとなく注意するのも野暮だなと思った。
とりたてて美形とは思えない。整っているとは思うけど。
あの長い前髪と眼鏡で誤魔化される雰囲気美形だと思う。思うのだが、時折見せるアンニュイな瞬間は嘉多山もドキッとすることがある。
人と必要以上に関わらないのが余計に興味を惹く。
生徒が騒ぐのも無理はない。浅井ちゃんだってしょうがないでしょう。
女子校には適さない教師だと思うのに、なんで採用したのかしら。
嘉多山は席を立って、家庭科教師の水野のところへ行くと声をかけた。
「水野先生、
「あぁ、私も相談に行こうと思っていたのよ。研修出張が入った浅井先生の授業のクラスも合同になったから、食材を2クラス分用意しないとなのよ」
「ええ、木曜日に水野先生と私の二人で準備する予定でしたけれど、2クラス分となると、2回に分けないとでしょうか……」
「そうねぇ」
正直それしか手段は残されていないのだが、お互い気が進まない結論だけに沈黙が続く。
「あの、お手伝いしましょうか?」
声をかけてきたのは渡邉だった。あまりの珍しさに水野も嘉多山も目をまるくする。
「木曜日は用事があるので無理なのですが、水曜日でしたら部活動の後にお手伝い出来ます」
爽やかな営業スマイルに嘉多山もつられて微笑んだ。
「水野先生、どうします?」
「渡邉先生が手伝ってくださるなんて。ありがたくご厚意に甘えようかしら。水曜日に出来るだけ用意して、足りない分だけ木曜日に……」
水野先生が私の了解を得ようと目線を寄越したので、頷こうとした時だった。
「一度に済ませてしまった方が良いと思いますよ。ちょうど部活動の後なので、僕の
またもや意外な申し出に、水野と嘉多山はまるくした目を見合わせた。
「昨日の職員会議でも指示があったじゃありませんか。最近学校の周りを嗅ぎ回ってるらしい、記者のような男に捕まったら面倒でしょう。大人数でサッと片付けた方が安全だと思います」
それはそうなのだが、全く無関係の生徒に手伝わせるというのも、どうなのだろう。
水野は少し迷っているようだったが、渡邉の営業スマイルに根負けした様子だった。
「渡邉先生がそれで宜しいのでしたら…私としては助かります。生徒さんに頼んで頂くのは申し訳ないけれど」
水野は非常勤なので部活動の顧問をしていない。まぁ、この場合、甘えておくのが得策だろう。
「では明日、部活動の後にということで」
そう言いながら、渡邉はポケットからスマートフォンをとりだして何やら操作すると、
「あ、すみません! 僕、明日生徒と個人面談の約束が入ってました」
棒読みのような素っ頓狂な声で驚かした。
え???
またしても、目をまるくした水野と嘉多山が渡邉を見る。
「僕は面談が終わり次第合流することになりますが、部員には最初から手伝わせますから。水野先生のところへ集まるように伝えれば宜しいですか?」
変わらず営業スマイルを見せる渡邉に、水野と嘉多山は困ったように目を見合わせ、お互いが選ぶべき結論を了承し合うのだった。
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