ブラッディ・コンプライアンス
亜鋼
序章 魔法を唱える時
序章 魔法を唱える時
地平線まで続く荒れた大地、舞う砂埃、そして無数の悲鳴に囲われながら、十代半ばの少女がひとり、立っている。
彼女は、思い出していた。昔聞いた懐かしい曲を大切に思いだすように、虚空を見つめて。
幼いころは寝る前に、年の離れた優しい姉によくお話を読んでもらっていたことを。
たとえばその一つは、まほうつかいが出てくるお話。
主人公の女の子は、覚めぬ眠りの呪いにかかった幼馴染の男の子を救いたい。その呪いの力を源にした“まほう”を使って、花を増やしたり火を起こしたり、時には精霊の協力を仰ぎ、時には敵と戦ったりしながら、街の人々を幸せにしていく。そうして呪いを消費させて、いつかは男の子を目覚めさせようとする。
幸せな結末を迎える、幸せなお話だった。
お話を聞いている自分も、今に思えば幸せだった。
では、お話を聞かせている姉は、どうだっただろう?
わからない。
もう二度と、尋ねることはできないから。
「まほう、つかい……」
自然と漏れたその呟きは、どこか遠くから聞こえた他人の言葉のようだった。
頬を熱いものが伝う。拭った指は濡れ、涙だと気が付いた。
「──姉さん、」
少女は、宝石のように紅いその双眸を空に向けた。
灰色の厚い雲から、何本かの光の筋が差していた。
雲の向こうに語りかければ、届くような気がしたのだ。
冷たい風が、少女の銀色に煌めく長髪を高くなびかせる。金のダブルボタンがしつらえられたワンピースも、風を孕んで裾をぶわりと膨らませた。
だがそれでも、ワンピースを上から下まで染めあげる返り血のどす赤さは、どこへも飛んでいってはくれない。この服が元の美しい純白に、戻ることはない。少女はもう、戻れない。
「助けて!」
甲高い悲鳴が、その少女を回想の世界からいくらかは引き戻す。
少女の周辺、半径百メートルはあろう広大な範囲の地面には、赤い光で描かれた円陣が無数にあった。円陣は、大小の異なる円を幾重にも重ねたような形象をしていて、その円と円の合間には、やはり赤い光で書かれた文字列がある。文字列は左に右にと高速で回転していた。円陣は興奮した獣の心臓が脈打つように、赤い光を激しく明滅させている。
無数の円陣の中央から、赤黒く長大な何かが生え、絶えずうねっていた。その、何か──蛇、あるいは百足のような蠢き。人の胴体ほどの太さがある巨大な鋼鉄の矢じりを、何百何千と繋ぎあわせて作られた──もはや触手、鋼鉄の触手としか形容のしようがあるまい。乏しい日光に対して赤黒い光をぎらぎらと跳ね返す、残忍めいた金属質。
その触手が、激しくうねり、のたうち、円陣からさらに這い出ようと身を伸ばしている。
触手の先端には、鋏があった。鋏は三角の
少女を取り囲む無数の悲鳴の出どころは、ここにあった。
一つの触手は、先端の鋏が槍のように青い軍服の兵士の身体を貫いて、血液のシャワーを辺りに散乱させていた。
また一つの触手を見れば、鋏が兵士の身体を真っ二つに嚙みちぎり、叫ぶ暇も与えず絶命させたところだ。
銃を捨て、地を逃げ惑う兵士がいた。触手はそれを数十メートルの高さから機敏に捉え、鎌首をもたげる蛇のように、鋏の先端が彼の背中に照準を合わせる。一秒の後には、兵士は腹から貫かれた。
幾百の鉄の触手がうねり、その先端で、幾百の兵士たちが断末魔を上げながら赤子に引きちぎられる人形のように壊れていく。
少女の眼前に、地獄と見紛う光景が広がっている。
「た、頼む……助けてくれ……命だけは……」
少女の足元に膝を屈した一人の兵士がいた。涙と泥と血に汚れた顔は思いきり老けて見えるが、よく見ればまだ三十代に留まるであろう壮年の男だ。
少女は靴に乗った虫けらを見るような目で彼を見下ろす。兵士はそれに一層慄きを深くしたのか、ひっ、と上ずった声を上げた。それから、慌ただしい手で懐からロケットペンダントを取り出した。
「み、見てくれ。娘だ。ふ、ふたり、二人いる。ベネッタが、ああ、妻が早くに死んで、親は俺しかいないんだ」
「魔法を否定する者は殺す」
これだけ多くの悲鳴の中にあってなお一際映える、上質の琴を鳴らしたような高く美しい声だった。
「ぅううそだ! こんな、こんな終わり方うそだ!」兵士はいよいよ精神の均衡を崩したようだ。「どうしてなんだ、どうしてこんな、わけのわからない殺され方を……! いやだやめてくれ! たのむ、助けてくれ! お願いだ死にたくない!」
少女は答えなかった。代わりに彼に応答したのは触手の一本だった。触手の頭は彼の真上にやってきて、鋏ががばりと口を開けた。
「待て、ゼーゼベルケ判事補」
少女の肩に、岩のような手が乗った。
「……先生」
忌々しげに振り返る。一人の男がそこに立っていた。
険しい面持ちの中に鷹のような黄金色の瞳。髪は白いが、加齢によるのではなく、人種ゆえのものだ。その白髪は全て後ろにまとめあげ、首の後ろで縛っている。下顎に短く残された白い顎髭は、いくらか血で汚れていた。彼のではなく、敵兵の返り血だろう。彼が自ら血を流すほどの敵など、ここにはいるまい。事実、彼の羽織る黒いマントは、乱れなく、しわ一つなく綺麗なままだ。
先生、と呼ばれたその男は、へたり込む兵士を見ながら少女に告げた。
「彼は自分の死の意味をわかっていない。裁きが、裁きであると知らないんだ。“教戒”をしてやるべきだ」
「なぜこいつだけ? いま私の“大執行”に喰われている奴らは何も教わらずに死んでいったのに」
「それでもこの者は今、教えを乞うている。そしてゼーゼベルケ判事補、お前には教戒を与える余裕があり、ゆえに義務がある」
「必要ない。どうせ今から──」
死ぬのだから、と続けようとしたところに、遮って彼はたしなめた。
「ゼーゼベルケ判事補、俺たちは虐殺者ではない。軍人でもない。法の執行者だ」
口の中で舌を打つ。少女は、疎ましく思いながら再び兵士を見下ろした。
「ここは皇領となった。それはわかっているか」
「こ、こうりょう……?」
兵士は震える声で問い返す。
やがて、その言葉が“皇帝の領土”を意味することに気がついたのか、兵士は歯をがちがちと鳴らしながら抗弁してきた。
「ちがう、ここはおれたちの国の土地……ノウェイラの領土……」
「今はもう違う。空に光を吐く柱を見たはずだ」
「はし、ら……柱……空から降ってきた、あのばかでかい……」
「そうだ」
遥か遠く、連なる山峰の間に、紫色の光の筋が地から空へと放たれているのが見えた。その光の根本に、件の“柱”がある。
「あの柱が他にも何本もある。柱で囲われた土地には、我がヴェルヘイル帝国の皇帝が制定した“魔法”が適用されることとなる」
「ま、魔法……」
「“断罪ノ魔法”。その第二編第六条。
“帝国の統治機構を破壊し、又はその領域において皇帝の統治権を排除して権力を行使し、その他統治の基本秩序を壊乱することを目的として暴動をした者は、死刑又は無期禁獄に処する。”
いうまでもなく、おまえたちは本条に反した」
魔法とは、何もないところから火炎を生み出す奇術でもなければ、精霊の召喚を為す奇跡の業でもない。その名が示すとおり、遵守されるべき“法”にほかならない。
それは、ヴェルヘイル帝国が頂く皇帝と呼ばれる存在が定め、皇領とされる土地すべてに適用される絶対のルール。
歴史の時を問わず場を問わず、あまねく人類が定めてきた法と呼ばれる規範の、人智を超えた完成形。
兵士は口を開け放ったまま震えているだけで、何も言葉を返せないでいた。
やはり無駄なことをした、とレーアは静かに怒りを覚える。
怯えて固まった蛙に、世の法を説いて何になるというのだ。無意味な儀式だった。倫理の最低限というのは、いつだって無意味だ。
白く細い人差し指を兵士にまっすぐ向けた。そして、切るようにピッと下に振る。直後、口を開けたまま微動だにせず待機していた触手が、今一度キリキリと鳴動し、そして兵士の上半身に勢いよく噛みついた。
悲鳴が上がり、兵士は暴れる。触手はそれに何ら煩わされる様子もなく、兵士を空高く持ち上げていく。
灰色の空を背に、鋏の口は兵士の上半身を見事に食いちぎった。血と肉片が辺りにこぼれる。これで彼もほかの仲間と同じになれたというわけだ。
──それから十分もした後には、辺り一面に血の池が広がっていた。
触手は消え、それを生み出していた赤い光の円陣も失せて、後にはばらばらに砕かれた人体が散乱していた。
レーアは、彼女が“先生”と呼ぶ男に連れられて、その只中を歩いた。生き残りがいないか確かめるために。だが、壊れた人形のように転がる死体の一つ一つに割く関心など、レーアにはなかった。
ただ、風景の中に、鈍色の陽光を跳ね返して輝く何かを見つけた。
近づいてみると、それはロケットペンダントだった。拾って開けば、目を細めて笑顔をよこす軍服の男と、その男が肩を組む幼い少女が二人。
そういえば、こんなものをいつか見せられたような気がする。何分か前に。いや? 何時間前だったか、あるいはもう何日も前だったような気もしてきた。とにかくそれは、遠い過去のように思われた。
「姉さん。私、姉さんが守ろうとしたものを、今日もちゃんと守ったよ」
そこで初めて、レーアは周囲の死屍累々に関心を生じた。生じるべきではなかった。生じないように努めていた、のに。
左を見、右を見、後ろを見、そして前を見る。どこもかしこも死んだ人間ばかりが転がっている。
どういうわけか立っているのが辛くなり、その場にしゃがみこんだ。
「私の魔法、姉さんの魔法とこんなに違うなんて。ああでも、姉さん、これでいいんだよね? 私は正しい、そうだよね?」
呼吸が、早く、荒くなっていく。血の染みこんだ黒い土を見つめながら、片手で銀の前髪を強く握りこむ。
「――ゼーゼベルケ判事補」
男の声。
「ゼーゼベルケ判事補。……おい、レーア」
突然、強く肩を揺さぶられた。はっとして前を見れば、先生の黄金色の瞳と目が合った。
「レーア、気を確かにもて。おまえは法官として、なすべきことをしたんだ」
少女──レーア・ゼーゼベルケは、瞼を一度閉じ、それからゆっくりと開く。
息を薄く、長く吐き。
そして、今一度、浅く桃色づいた唇をゆっくりと引き結ぶ。
「先生、私は大丈夫」
「レーア、お前は十分すぎるほどによくやった。帝国はノウェイラを併合し、“魔法の支配”はまたひとつ、拡がりを見せるだろう。おまえには十分な休息を──」
「大丈夫だと言った」
断ち切るような言葉だった。
肩に触れていた逞しい腕を払いのけるように立ち上がり、数歩を踏み出して先生の脇を通り過ぎる。
横顔だけで先生に振り返り、長い睫毛の隙間から紅い瞳を向ける。
「休む必要なんてない。この皇領で魔法に反する者がいる限り、私は裁きを与え続ける。先生、あなたが法官として忠実に魔法を守ったように。姉さんの命よりも優先してな」
噛み殺さんばかりの啖呵を受け、彼女の師匠たるこの男──アムゼル・フォイエルバッハは、苦渋を隠しきれない様子で下唇を噛むばかりだった。
その面を見て、ふん、と鼻を鳴らす。手にしたロケットペンダントを地に落とし、ブーツの踵で木っ端微塵に踏み砕いた。飛び散った笑顔の破片。そこに見下ろす視線など、もう持ちあわせていない。
その時、裂けた雲間から陽光が差した。レーアの長髪が真っ白な銀に染まる。
その光に答えるように、レーアは空を見上げた。
眩しさに、目を細める。
その紅い双眸を挟んだ目尻は、さながら、鋭い意思の刃。
「魔法を否定する者は殺す。そうして私は魔法を守る。それが姉さんの命の意味なのだから」
──帝歴一二三〇年。
この戦闘は、魔法をあまねく世界に及ぼすことを野望するヴェルヘイル帝国の威容を、伝統的な銃砲と火薬で抗う隣国ノウェイラに対してもこの上なく誇示した点において、まったく決定的なものだった。
帝都の地方法院に所属する一介の法官に過ぎなかったレーア・ゼーゼベルケ判事補は、このとき齢十四にして、ノウェイラ軍の虎の子といわれた三個突撃旅団を全滅させた。
命乞いすら聞き入れず、類まれなる絶大な魔法の執行力をもって敵兵を屠り続けた彼女の無慈悲な戦いぶりは、やがて、両国民をして“法令遵守の虐殺者”と呼ばしめるに至る。
ノウェイラの大統領がついに休戦を申し込み、皇帝が慈悲としてそれを応諾したとき、帝国の目指す“魔法の支配”に満ちた世界の実現が近いことは、世界の誰の目にも明らかなように思われた。
そして、六年後。
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