Like Water Drop

佐倉花梨

水滴のような

「私は今から人を殺します。よろしければ、8月15日の午前0時、ハチ公前でお会いしましょう。匿名希望」


 僕の家のポストに、くしゃくしゃの紙が転がっていた。掠れた文字でそんなことが書いてあったけれど、とても丁寧な字体で読みやすかった。

 恐らく女の人が書いて、ポストに直接投函したのだろう。

 ――今から人を殺す。

 それが引っ掛かった。人を殺すということは本来人としてあり得ないのだ。

 何かのイタズラだとは思いながらも、ハチ公前なら家から近いし行ってみるのもありかと僕は考えた。

 手紙を丁寧に折りたたみ、制服のポケットの中に突っ込む。

 高校生が午前0時に外出するのは条例違反だけど、好奇心では裏返せない。

 イタズラでも構わない。いや、確実にイタズラだろう。それでもいいんだ。こんな手紙が来るなんて、もう一生ない。

 それがイタズラだったとしても、本当だったとしても、それは僕の社会経験として脳に刻まれる。

 行こう、今日の夜、東急に乗って。


「こんばんは。来てくれたんですね」

 8月15日になったその瞬間、スマートフォンに向けて俯く僕の前から美しいその声が聞こえた。

 日が変わっても衰えない渋谷の喧騒も、僕の耳からは切り離されて、美しい声だけが透き通る。

「その手紙、私が投函したんです」

 長い黒髪が下ろされたその先には、暑そうなスーツのジャケットを着ていて、真夏なのによく耐えれるなと感嘆した。

 見たところ僕より10歳は年上の社会人で、自立した大人のようだった。

 スーツは全くもって着崩されていない。きっと毎日アイロンかけたりしているのだろう。この人がイタズラをするのは、想像つかない。

 もしかしたら、表向きはすごくまじめだけど、裏を返せばとてもイタズラ好きな女の子ということもあり得なくはない。

「えーっと……」

「読んでくれましたか? 殴り書きなので、見苦しかったかもしれませんけど」

 名前も知らない彼女の目線の先には、僕の手中に収められる、手紙があった。

「いえ、ちゃんと読めましたけど……。この、人を――」

「そのことについては、あそこで話しましょうか」

 僕の言葉を遮って、彼女が指をさしたのは、典型的なホテルだった。カップルが行くようなホテルでもなく、ビジネスホテルでもない。観光地にあるようなものでもなく、高級なものでもない。

「ホテルですか?」

「そうです。お金ありませんか?」

「いや、ありますけど……」

「よかった……。私、あまり持ってないんですよ」

 彼女がジャケットの胸ポケットから取り出したのは、たった35円の小銭だった。これではホテルどころか、食べ物もろくに買えない。

 もしかしたら遠くから来た人で、もう電車に乗るお金もなく、お金を出して泊めてくれる人を探す為にあんな手紙を投函したのかもしれない。

 そうだとしたら、見逃すわけにはいかない。僕はホテル代を支払うことを了承した。

 朝になったら、電車代を出して帰してあげよう。

「歩きながら、自己紹介でもしましょうか」

「は、はい」

 ハイヒールを履く美麗な脚から目を逸らし、背中を追いホテルに向けて歩き出した。

「私は波音。もう生まれてから28年ですよ。早いもんです」

 ロングヘアを揺らし、邪魔じゃないのかなと思いつつ、年を聞いて衝撃した。僕と12歳差だ。

「なみおとさん……。姓名ですか?」

「それは、どうでしょうか」

「はぁ」

 不思議な人だと感嘆する。あんな手紙を送ってくるのだから、不思議なのは当たり前か。

「貴方の名前は?」

「僕は、木下きのしたりょうです。16歳で……」

「16歳かぁ~。高校一年生、懐かしいなぁ」

 きっと波音さんは僕が年下だと確証がついたから、タメになったのだろう。年上のお姉さんから向けられるタメ口も良いものだ。

「ごめんねぇ。16歳なのに、こんな時間に外出させてしまって」

「それは別に、大丈夫ですけど……」

「そっか、ありがとね」


 そのあとは、僕も波音さんも無言で、ホテルに向かった。

 2つの部屋を借りるお金は僕になかったので、仕方なく一緒の部屋にした。女の人と一緒に泊まるなんて人生で初めてだけれど、きっと何も起こらない。いや起こさない。理性を保てばいいんだ。

「暑いから、ジャケット脱いでいいかな」

 部屋に入ってきて、扉を確実に閉めてから波音さんはそう言った。

「なんで真夏にジャケットなんて着てるんですか……」

「言ったじゃない。私は人を殺したって」

「でもあれは、嘘なんじゃ……」

「どうしてそう決めつけるの?」

「電車代もなくて、泊まるために僕の家に投函したんじゃないですか? 僕の家は、少なくとも地方の人たちよりは高所得ですし、きっとそれを狙って……」

 僕が喋っている間に、黒いジャケットを強引に脱いだ。

 露になったのは、赤い液体がこまごまと付着した、シャツだった。

 血だけではなく、破れた跡やひっかき傷などが所々についている。

 刑事ドラマでこんなものを見た。赤い液体は返り血で、破れた跡やひっかき傷は殺人犯が被害者ともみ合った後。あれは間違いなく作り物だが精巧にできていて、見たことも無いがリアルだなと毎回驚かされる。

 だけれど、波音さんのそれはまるで違った。

 工作とは明らかに違う。オーラというか、なんというか。嗅覚的にも視覚的にも、それは本物だと確信させる証拠他ならなかった。

「私は人を殺した。そんなくだらない理由で、あの手紙を出したんじゃない。――いや、それもあるかもしれない。救いが、欲しかったのかもしれない。けど……」

 波音さんから、次の言葉は出てこなかった。

「教えてください」

「え?」

「どうしてそんなことになったのか。なにがあったのか。教えてください」

 また好奇心だ。

 渋谷に来たのも好奇心。僕はどれだけ好奇心に負ければ気が済むのだろうか。

 でも波音さんは、僕の気持ちを汲んでくれた。

「ありがとう。じゃあ、教えるよ」

 終戦の日なんてみな忘れ、渋谷のスクランブル交差点は若者の喧騒でにぎわっていた。


 私が浮気をされていたことに気が付いたのは、同居している彼氏が全く帰らなくなってからだ。

 その時までごく稀にそんな日もあったけれども、一週間ずっと帰ってこないことなんて考えられなかった。

『ごめんごめん。今友達の家にいるから。しばらく帰れない』

 スマホのスピーカーからツーツーという無慈悲にも通話終了を示すサイレンで、私は気が付いたのだろう。

「もう嫌……」

 彼と共に作って、彼と共に四年も過ごしたこのマンションの一室。月光や街明かりは全て遮光カーテンに殺され、私を照らし出す存在はその瞬間、全てが消え失せてしまったのだ。

 私は口を強く抑え、吐き気を催す腹を引き締め、そして泣いた。

 まだ浮気だと決まったわけでもないのに、私は決めつけてしまった。逃避すればよかった。でも何故が、現実を真っ向から受け入れた。

「別れよう」

 そうメールに送って彼のIDをブロックし、もう二度と話すことがないように手段をすべて消した。

 きっとこの家にもう一度やってくるだろう。その時どんな顔をして迎え入れればいいのだろうか。

 暗い顔? それとも明るい顔? 笑顔? あえて泣き顔? どれも合わない。きっと私は否定してしまう。

 もうアラサーだというのに、彼氏に浮気されて独り身なんて、もうトラウマになって彼氏ができずに一生過ごしていくかもしれない。

 お粗末な台所の、つきっぱなしで放置された古いランプ。それだけが部屋の中を照らして、同時にそれだけが私の視界だった。

 それすらも鬱陶しくて、彼氏がここにいたころは自動で点くというメリットの上買ったのに、無造作に消した。

 別れを告げたメッセージに既読は未だにつかなくて、ブロックしたはずなのにまだ彼を思ってしまって。

 きっと何かの間違いだと、きっと彼は帰って来るのだと、そう信じたくて。

 私の中に残る不可解な『何か』はその瞬間、熱を帯びて再び燻っているように思えた。

 再び彼のあの言葉が聞きたくて。

 ずっと使っていなかった睡眠薬をオーバードーズして、無理矢理にも睡眠欲を沸かし、白いセミダブルベッドに寝転がる。

 溜息を零しつつ、明日の私が彼を許すように期待して、夢の中に落ちた。


「それが、今から三日前のこと。たった数日で、こんなことになるなって思いもしなかった」

 波音さんはボロボロになったワイシャツを脱いで、僕が見ていない間にホテルに置いてあったバスローブを着ていた。

 渋谷の喧騒はホテルの中であっても聞こえていて、やっぱり終戦の日という事実を忘れた若者たちがいつものように騒ぎ、警察のお世話になっている。

 波音さんはホテルの目の前を横切るパトカーを一瞥して、話をしながらもわずかに顔を険しくした。

「話を聞いて、きっと君は私に同情しているかもしれない。だってそうでしょう? 浮気は悪いことなんだから。でもね、私はそれ以上に悪いことをしたの」

 悪いこと。おそらく人を殺したことだろう。

 波音さんは僕の隣に座る。ベッドの淵に二人が横並びになる。そして、波音さんが口を開いた。


 インターホンが鳴らされた。薄々これくらいの時間に来るだろうなと思っていた。

眩しい日光を一瞥して、鋭い包丁を反射させる。

 彼はそれに眩んで、一瞬ひるんで後ずさりした。

 それを見逃すことは無かった。憎ったらしいこいつに制裁を……。

 肺を的確に刺して、周囲の人間に見られ悟られることのないように玄関をバタンと閉める。

 もちろん、彼を引きずりながら。


「そこで彼が嘆いた言葉を、私は覚えていない。ワイシャツについたひっかき傷は、この時ついたものなんだ。死にたくなかった彼は私と何度ももみ合って、生きようともがいた」

「でも……」

「うん。彼は私に殺されちゃった。多分失血死とかかな、すごく苦しそうだった」

 波音さんは表情を一切崩すことなく、そう話した。それが少し怖くて、僕はわずかにも身じろぎをする。

「でも仕方ないよね。私は、それ以上に苦しかったんだから」

 波音さんが苦しかったのは、容易に想像できる。

 何年も付き合った、大好きだった彼氏に裏切られたのだ。僕は彼女なんかできたことがないけれど、それだけは分かる気がする。

「そのあと、彼のスマホを見たら、浮気相手とはもう三年の付き合いだったらしいの。なんで私は気が付かなかったんだろうね。馬鹿みたい」

 三年という長い間、二人で愛をはぐくんだ瞬間も数多とあるだろう。結婚を考えたことだってあったはずだ。

 だけど、相手は本当は自分のことなんて微塵も想ってなくて、他の人のことをずっと考えていた。僕は当事者でもなんでもないけれど、吐き気がする。

「この後、君はなにする?」

「何するって……」

「この話を聞いて、これから君の行動が変わる?」

「……」

 たしかに僕は波音さんの話を聞いた。だけれど、直接的に僕に関係があることではないのだ。だから、話を聞いたところでまず僕の生活に影響が出ることは無い。

「私は、今日で最期だから」

 恐らく、相手の女に接触するのだろう。そうしたら警察に通報されて、波音さんは終わる。浮気をされたという動機はあるものの、重罰は免れないであろう。

「最期に会えたのが、君で本当に良かったよ」

 短くも長い会話が終わった。波音さんは、「事実は小説よりも奇なりだね」と笑って、ホテルのふかふかの布団に入った。


 朝起きて、波音さんがいないことに気が付いた。

 まだ波音さんの匂いが残っていて、それを軽く嗅ぐ。

 昨日止めればよかったなと感嘆しながら、テレビをつけた。

 いつの間にか昼前になっていて、チェックアウトの時間が迫っていることに焦り慌てて身支度を済ませる。

『速報です。渋谷の高架下で、女性が自殺している現場を、登校中の学生が発見しました』

 対称的に焦燥感の全くない、冷静沈着なアナウンサーが原稿を読みつつそう言った。

『現場はJR山手線、京浜東北線が走る高架下で、女性は28歳の――さんということです。現場に遺書等は残されておらず、動機は分かっていません。次のニュースです』

 無造作にテレビを消して、誰もいないのに焦燥を隠しつつリモコンを丁寧にそろえた。

 不可解な『何か』が僕の中に発生した。

 何かは分からないけれど、それは喜怒哀楽とかそういうものを、心の奥底から搔い摘んで、嘔吐してしまいそうになるほどこみ上げた。


 貯金の一割にも満たないホテル代を支払って、昼の渋谷に足を踏み入れた。

 街の平静にくたびれて。

 今日に自分に呆れあくびをする。


 こんなにも穹は蒼いのに。

 こんなにも僕の眼は黒いのに。

 貴方はどこにも現れない。

 それがどうしても辛くて、どうしても哀しくて、どうしてもやるせない。

 そんな僕はまた、欠伸をする。

 そして水滴のような、涙を流す。

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