恋愛 マニュアルカップル
一人の男が、焦って汗を飛ばしながら走り過ぎた。僕はそれを冷たく見送る。
「あんなに焦って。愛人でもいるのかな」
僕は必死になっている人間のことが苦手だった。ほとんど嫌悪に近かった。
駅までの薄暗い道のりがむしろ、自分の心を表しているように思う。あぜ道のようになっていて、いかにも不審者が出そうだ。
父は五歳の時にいなくなった。母は今、他の家にいるだろう。夕飯の支度をしなければならないことが面倒なので、アパートの前のコンビニで、肉まんを2個とおにぎりを買った。ノリがパリッとしたやつが、美味しいから好きだ。
アパートに着いて電気をつけると、いきなり誰かに両眼を塞がれる。
「だあれだ」
背中で跳ね上がった声がした。
「ゆりか、君だろ?」
僕は別人のように甘い笑顔で、さりげなくゆりかの手をほどき、振り返る。ゆりかは嫌になるような媚びた目をした。僕は、恋人というのは勝手に人の家で帰りを待っていても許されるのだな、と呆れていた。
「実はね、夜ご飯を作ってきたの。今日も誰もいないんでしょう?」
ゆりかは制服のスカートの裾を揺らしながら、こたつに足をつっこんだ。テーブルの上には湯気がたったオムライスがあった。僕は大袈裟に喜び、ゆりかの頬にキスをしてみたりして反応を伺った。さあ次はどうくるのだろう。黄色い卵と一緒にチキンライスを頬張った。僕の演技も上手くなったものだ。
「ほっぺたが落ちそうだよ、こんなに美味しいのは食べたことがない」
ゆりかは照れて真っ赤になりながら、嬉しがる。吐き気がしそうだった。
彼女が帰った後、僕はオムライスをチラリと見ただけだった。コンビニの袋から肉まん2個とおにぎりを取り出し、無言でそれを食べ始める。
「おかあさん、このひとだあれ?」
このひと、おとうさんじゃない。おとうさんよりおおきいもの。おとうさんじゃない。いいにおいがするもの。ねえ、おとうさんはどこにいったの。
「きいくん、おかあさん、このひととだいじなようがあるから。このおへやに、はいってこないでね」
おかあさん、いつもとちがう。おめめのまわりがきらきらしてる。おくちがまっか。とまとでもたべたのかな。
「おい、がきをなんとかしろよ。おれはこどもがでぇっきらいなんだよ」
おとこのひとがおかあさんのかたをつねった。ぼくはかっとして、おとこのひとをたたいた。
「おかあさんをいじめないで!」
そしたら、おとこのひとがしゃがみこんで、ちいさなこえでいった
「なあ、おかあさんはな、いまからおまえのことを、すてるんだぜ。このへやにはいっちまえば、もうおまえのおかあさんじゃなくなっちまうんだ。わかるか?」
おとこのひとはとてもおおきなこえでわらった。ぼくはおかあさんをみあげた。はじめて、おかあさんがべつのひとにみえた。
「おかあさん、ぼくをすてちゃうの?」
おかあさんはおとこのひとのかたをだいた。
「もうやめて、わるいじょうだんは」
おかあさんはふりかえらなかった。おとこのひとといっしょにへやにはいっていった。とびらがしまった。
ぼくはりびんぐでひとりぼっちになった。
「おかあさん、ごめんなさい」
きっとぼくがなにかわるいことをしたんだ。ぼくがわるいこだったから、おかあさんはぼくをおいていっちゃった。
「ごめんなさい、おかあさん、おいていかないで」
すてないでっていったとき、かなしくてかなしくて、なみだがでた。
へやにはいっちゃいけないからちょっとこわかったけど、とびらのかぎあなをのぞいてみた。おかあさんがぼくのおかあさんじゃなくなることのほうがこわかった。
へやのなかはくらかったけれど、おかあさんのかおはすぐにみつけた。ぼくはひっしによんだけれど、こえがとどかない。そのうちに、おかあさんのかおが、おとこのひとのかおとくっついた。おなかのあたりがすごくぞわっとして、とてもとてもこわかった。かぎあなからめをはなして、ぼくはしくしくなきながらじっとすわっていたーーー。
最悪な朝だ。よりにもよってなぜあの夢を見るのだろう。準備を済ませ家を出た。母さんはどこにもいなかった。
学校という作業を終えて帰宅すれば、またゆりかが勝手に僕の家にいた。僕はちゃんと笑顔になれているだろうか。
僕らは、テレビを見ている。最近流行りの恋愛ドラマだ。小動物のような顔をした女優が、草食動物のような顔をした俳優と抱きしめあった。こうじゃないだろう、と思った。現実はこんなに優しくない。ゆりかはずっと僕の手を握っている。その目には時に涙が溜まり、時に楽しげな色が浮かぶ。僕はゆりかと同じところで笑った。
「なんだか、あの人、喜一に似ているね」
ふと、ゆりかが言う。先程の俳優のことだ。僕は、さっぱりわからないけれど君の話は面白いから聞きたい、という表情を作るのに苦労した。
「どういうところが似ているの?」
すると、ゆりかは驚異的な一言を放った。
「なんか、影があるところ」
僕は固まった。
「明るく振る舞っているんだけど、実は暗い過去があって…みたいな。あ、ごめん、喜一には暗い過去なんてなかったね」
その言葉は久しぶりに、もう忘れかけていた怒りという感情を呼び覚ました。
僕が独り言のように呟いた言葉は、うるさいCMにかき消されずにゆりかの耳に届いた。
「なに、それ」
ゆりかが僕の顔をまじまじと見た。もうそんな顔しても遅い。
「馬鹿にしてるの?」
滅多に出さない低い声に、ゆりかが怖がっている。ゆりかは、単に少し冗談を言ったに過ぎない。そんなことは僕も知っている。
ただ、僕と一緒にいるのが幸せそうな顔をするものだから。昔のことを思い出させたりするものだから。真っ直ぐな笑顔を見せてくるものだから。だから僕は、その演技に吐き気がする。母も然り、生き物はみな、マニュアルで動いているに決まっているのだ。ゆりかが僕に向ける心も、本物ではないのだ。そうに決まっている。
ゆりかが涙目になって帰って行った後、僕はテレビを蹴り倒した。甘い恋愛の夢物語などとても見れたものではない。愛など紛い物,作り物なのだ。幼い頃知った母のぬくもりも、あの煌めく目元も、赤い唇も。なぜなら、母は僕を捨てた。僕を愛おしげに見る目さえ、作り物だった。
僕が悪い訳ではないと、少しはわかってもらえただろうか。
しかし、その1時間後、つまり午後9時に、なんとゆりかは帰ってきた。流石に予想外だった。僕は風呂から上がってスウェットに着替えていたので、ゆりかは少し気まずそうだった。
「やっぱりさっきのこと、謝りたくて」
玄関に立ちっぱなしにさせるわけにもいかないので、こたつを勧めた。僕らは向かい合っている。こたつの中でゆりかの指先が触れたが、すぐに離した。
ゆりかの眉がしょぼくれたように下がっている。
「ごめんね、私、無神経なところがあるから、きっと喜一の気に触るようなことを言ってしまったんだね」
そうだよ、といいたいのを我慢する。僕が黙っていると、ゆりかは意を決したようにして言った。
「だけど、本当にそう思ったんだ。私、喜一に嘘はつかないから」
濁り一つない瞳に捕らえられた。その瞬間、僕の理性の糸がぷつんと切れた。ゆりかがまだ何か言おうとしたが、構わず言葉を遮る。
「それも、マニュアル通りなわけ?」
僕に嘘はつかないと言う行為自体が、嘘なのだから、ひどい皮肉だ。
「そうやって僕を、持ち上げていい気にさせて、君は何がしたいわけ?僕の何が欲しいの?」
ゆりかが困っている演技は見たことがなかった。僕も、これほどまでに女を怖いと思ったことはなかった。
「何言ってるの。私はあなたが好きだから」
ついに僕は叫んだ。
「やめろ!」
それは怒号のようでもあり、泣き叫ぶようでも、恐怖に対しての抵抗のようでもあった。もう自分でも何がしたいんだかわからない。
「愛してるとか、好きだとか、簡単に口にするなよ!最後には僕から離れていくくせに!」
止まらない。
「君だって、あいつと一緒のくせに。笑顔を貼り付けて平気な顔をして嘘を吐くんだろ。いい加減にしろよ、もういい加減、僕の胸からいなくなってくれ!」
自分でも恥ずかしくなるほど悲痛な声だったし、何がいいたいのかさっぱりわからない。ただ、ゆりかが、僕よりも僕の言葉と真剣に向き合っているように見えて、また腹が立った。
リビングの空気がしんと静まり返る。ゆりかの目を見ることがどうしてもできなくて、リビングから出て行こうとした。言い方を変えれば、逃げようとしたのだ。
「ありがとう」
ゆりかの掠れた声に、僕の足が止まる。
「やっと、本音で話してくれた」
鼻を啜る音がした。ゆりかが何度か、嬉しいなと言った後、僕の背中に何かが当たった。そして二本の腕が、僕の腰に巻きついてぎゅっとしがみついた。
「私を信用してないことなんて、とっくの昔に知っていたよ。あのオムライスも、捨てちゃったんでしょう」
僕の鼓動が早まる。
「君だって、これから僕を捨てるんだろう」
こんなに惨めで弱くて卑屈な人間が、愛されるわけがない。
ゆりかの体温が上がった、ような気がした。さっきより抱きしめる力が強くなったせいかもしれない。
「どうして、そうなるの・・・!」
スウェットがゆりかの涙を吸った。
「喜一はわかってない。何もわかってない!」
ゆりかは震えた声で、何度も言葉を詰まらせる。その話によれば、僕は何度もゆりかを救ったらしい。しかし、ゆりかの言葉は僕には届かないだろう、最後まで。
いい加減、ゆりかの体温が鬱陶しくなってきた。背中に熱がこもる感覚は、日常生活の中でも滅多にないからこそ、気味が悪い。僕は、ゆりかの手を払って、振り返る。ゆりかの顔は涙でぐちゃぐちゃで、初めて彼女を一瞬だけきれいだと思った。
僕の顔には再び分厚い仮面が付けられた。ゆりかは僕の微笑みを見つけて、辛そうに胸をグッと掻きむしって、泣き喚いた。気の毒だとは思えなかった。
本当に?
窓の表面に雫が、模様みたいになってぎっしりとついている。休日の朝に限って雨が降るような気がする。僕は寝室と廊下を通ってリビングに入った。こたつの前の一人用のソファで、ゆりかが眠っている。昨夜貸したブランケットは豪快に地に落とされていた。寝返りによって少し乱れた制服を、無言で直してやると、僕はソファの肘掛けに軽く腰を下ろした。それから思い立って正面のベランダに続くガラス扉を全開にした。叩きつけるような轟音が髪を濡らした。部屋の中はモノクロだ。それが心地良い。
再び、ソファの肘掛けに戻ると、ゆりかが身じろぎをした。起きてはいない。寒かったのだろう。起こさないようにしながらブランケットを静かにかけてあげた。
斜め上の視点から、ゆりかの寝顔をそっと見つめた。恋人とはいえそんな行為には少し抵抗があったが、ほんの数分の間だけだ。目の端に涙の跡がある。昨夜は一人で、この場所でずっと泣いていたのだろう。
「ごめんな」
僕の口が勝手に動いた。
「傷つけたいわけじゃないんだ」
いや、何を言ったところで、言い訳にしかならない。
ゆりかのまつ毛は、不自然な伸び方をしていなかった。唇もいつものようにほんのり桜色じゃない。いつもは長い髪にもちゃんと手入れが行き届いてるが、今は違う。ぴょんぴょんと別方向に毛先が伸びている。少し意外だった。いつもよりこっちの方が、親近感が湧く。少なくとも今のゆりかには、作られた場所がなかった。
「ねえ、僕は君を苦しめたくなんかないんだ。そんなこと、したいわけがない。だって僕も幼い頃は、愛なんてものに、散々傷つけられたんだから。同じ思いをしてほしくない」
僕のような人間と、ゆりかのような人間は、合わない。
「だから、君はもっと、君を大事にしてくれる人と付き合うべきだよ」
ちゃんと愛を信じることができて、恋人を信じることができるような男が、ゆりかにはふさわしい。柄にもなく熱っぽく語ってしまう。
僕はゆりかを嫌ってるわけじゃない。ただ、ゆりかから与えられる視線や言葉が、あまりにも真っ直ぐで。心の殻の固定観念が、崩されそうになるのが、恐ろしいんだ。
「また信じることで傷つくのが、怖いんだよ」
僕はきゅっと目を瞑った。心の奥から、何か熱いものがこぼれていきそうだった。
その時、指に体温が触れた。
「信じなくても、いいよ」
身体中が、殴られたように大きく脈打った。ゆりかは目を閉じたまま、ふわりと微笑んだ。
「あなたが辛い時、そばに居たいの。それだけ」
それだけ、とゆりかは小さく繰り返した。それだけ?
「どうして?愛されたいとか、信じられたいとか思わないの?」
思わないだなんて、そんな無欲な人間がいるものか。誰しも、好かれたがっているし、信じられたがっているじゃないか。それが叶わないから、勝手に傷つくんじゃないのか。
再びゆりかのまっすぐな視線に貫かれる。嘘は少しだって混じっていないと、うっかり認めてしまった。
「好きだから、自由に幸せに生きていてほしいの」
僕は静かに息をついた。どうしても演技には、見えなかった。僕は、負けたのだ。いや、あるいは勝ったのかもしれない。ゆりかが僕の堤防を決壊させたことは、紛れもない事実だった。
ゆりかは、「僕に愛される自分」なんてどうでもよかったのだ。本当に思ってもらうとは、そういうことなのかもしれない。作り物は、ゆりかの方じゃなかったのだ。僕は理解し、沈黙した。
元来無言の空間は苦手だったのに、今は違った。言葉を使わないことで得られる静かな空気もあるんだなと知った。
「私ね、なんで昨日怒ったのか、理由を聞こうと思ってたんだ」
ゆりかが囁く。もう僕は、ゆりかの手を振り払おうとはしなかった。
「・・・図星だったからだよ」
僕は答えた。今更だけど、自分が恥ずかしかった。図星を突かれたからキレたなんて、子供みたいじゃないか。
「嫌な過去を無かったことにしたくて、明るく普通にしてるつもりなのにさ」
言い訳じみた文句に、ゆりかは小さく噴き出した。笑うなよぉと頭を軽く小突いてみると、ゆりかの笑いは更に大きくなった。花が咲いたみたいな笑顔という例えの意味が、わかった。
モノクロの世界の中で、絶えない雨と風の音の中で、僕はゆりかだけが聞けるように、打ち明けた。あの汚らわしい男の言葉が、呪いのように胸に突き刺さっているんだと言った時、ゆりかが僕の掌を包む力が強くなった。
「流石にもう、わかるよ。母さんは別に僕を捨てようとしたわけじゃないし、誰と恋愛しようと母さんの自由だって。だけどこういうのは」
僕は言葉を切って生唾を飲み込んだ。
「こういうのは、頭でいくらわかっていても、だめだね」
無理に笑うことはしなかった。再び昔の感情が蘇ってきて、ゆりかと繋がっていない方の片手で、心臓の辺りを撫でた。幼稚園の思い出は見当たらないのに、辛い記憶ばかり覚えているのだから、僕も哀れなやつだ。ゆりかが僕の横顔を見つめる。
「そんなの、寂しくって当たり前だよ!」
それから、言葉を探すようにして押し黙る。余計な言葉なんてなくても、ゆりかが僕のためにと考えてくれる気持ちが嬉しかった。昨日まで誰のことも信用できなかったくせに、なんという変わり様だろう。
ふと、嵐の音が止んだ。世界から音が消える。僕らは、何か感情の深いところにはまってしまったみたいに、黙っていた。居心地が良かった。しかしそれは一瞬の間だけだった。突如、チャルメラのメロディが静けさをかき消すようにして部屋の中に入ってきたのである。ゆりかの肩が大きくびくりと動いた。左から右へと流れていく音は、ずいぶん間抜けで遠慮がなかった。それが変にツボに入ってしまい、僕はくくくと笑いだす。つられてゆりかも笑いだした。
何がおかしいのか忘れるぐらい笑い転げた後、僕らはチャルメラを追いかけて外に飛び出した。焼き芋屋台だった。こういう全然重要じゃないことで日常はできていて、その時間をゆりかと居ることが、僕をちゃんと信じられる人間にしてくれる、のかもしれない。
いつか目の前の、強くて不思議で美しい人と怯えずに向き合って、愛することができるかもしれない。できたらいいな、と、包み紙を開けるゆりかの横顔を見つめながら、思った。
END
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