第16話 夕陽の中で
その日は、大垣佳奈江さんからの電話で早朝に起こされました。用件はお父さんがギックリ腰になったので、治るまでの数日間、ファームを手伝って欲しいというお願いでした。
良枝さんには黙っていましたが、三ヶ月前に佳奈江さんから「瑛ちゃん、暇なら、うちにバイトしに来てよ」と誘われて、不定期収入を得てました。
かつての大垣農場は「農業法人 大垣ファーム」と名称が変わり、規模も拡大して、持ち帰り弁当チェーン店や関東を中心に支店展開しているトンカツ店、冷凍食品会社、コンビニ総菜の調理会社などにキャベツを出荷していました。
今でこそ収穫と選別を同時にやってくれるキャベツ専用の農機もありますが、1990年代は、まだ手作業で人手が一人欠けると生産性が落ちるので、すぐにバイクで向かいました。
経営者の大垣晶子さんは、母親の葬儀のときから、私にファームで働く気はないかと声を掛けくれてました。
「なぁ、エイタちゃん、今、仕事やってないんだろう?
だったら、うちの営業マンにならない?
最近、うちのキャベツの評判が良くて、外食チェーンや食材商社、
大手スーパーとか、あっちこっちから商談が来てんだけど、
対応できる営業スタッフがいないんで断ってるの。
うちの父親も旦那も口下手で愛想なしの上に数字が苦手ときてるから、
商談や交渉事は私と佳奈江でやってんだけど手一杯なのよ。
生産能力は余裕あるのにもったいないって思わない?
あと、協同で加工品やる話と、新しい作物栽培の話も来てんのさ。
佳奈江も信頼できるブレーンとして、エイタちゃんに働いて欲しいんだって。
誰でもいいってわけじゃないんだから、ちょっと真剣に考えてよ」
大垣晶子さんは、なぜか昔から私のことを「エイタ」と呼びます。声を掛けてくれたときは、ここまで成長しているとは知らず、完全にスルーしていましたがバイトをして、その発展ぶりを目の当たりにし、鮎香瀬さんの案件が不採用になったときの保険として考えていました。
大垣ファームのお昼は毎日配達される日替わり弁当でしたが、この日は「みんな、聞け! 今日から、うちの未来の営業社員、エイタちゃんが応援に来てくれたから、お昼は豪華に行くぞ!」との大垣マザーの一言で、地元で美味しいと評判のトンカツ専門店の厚切りトンカツ弁当に変更されました。
12時前にトンカツ店の奥さんが、軽ワゴン車でお弁当を配達に来ると、マザーが私と佳奈江さんを交互に指差し、ジェスチャー付きで何やら話して二人で大笑いしてました。聞こえないけど会話の内容は概ね想像できます。
「あのトンカツ店にも、うちのキャベツを卸しているんだよ。
しかも地元だから、高品質のを特別価格で。
だから、こういう急な注文でも聞いてくれるの。
うちのお母さん、そういうの上手なんだよね」
一緒に収穫作業をしていた佳奈江さんが教えてくれました。
「エイタちゃん、佳奈江、お疲れ様。お昼にしようか。
私ら爺婆は、みんな休憩所の中で食べるから、
二人は外のウッドデッキで食べな。
あそこはファームで一番景色がいいし、今日は風が気持ちいいからね。
佳奈江! 食事が終わったら、この前、買ったコーヒードリッパーで、
エイタちゃんに美味しいコーヒーを淹れてやんな。
豆は私の部屋にあるジャマイカ産のブルーマウンテンを挽いてな。
エイタちゃん、100gで1000円以上する豆で、香りがたまらんから、
佳奈江と二人で、じっくり味わってな」
昔から大垣晶子さんは、なにかと理由をつけて、私と佳奈江さんを二人っきりにします。街中で偶然に会うと半強制的に愛車のフォード・トーラスワゴンに乗せられて、焼肉やステーキ、回っていない寿司屋、目の前で料理人が一つ一つ揚げてくれる天婦羅店などに連れて行かれますが、必ず佳奈江さんを呼び出すか、途中でピックアップして同席させます。
彼女も毎回、必ず来るところを見ると、決して嫌ではないのか、はたまた晶子さんの命令は絶対なのか、単に美味しい御飯が食べたいだけなのか、ちょっと真意がわかりません。
「なぁ、エイタちゃん、佳奈江とはチューしていいからな。チューはな。
でも、そっから先をやったら、責任とって苗字を大垣にしてもらうからな」
高校生時代から佳奈江さんと二人っきりにするとき、大垣晶子さんが言い続けている定番フレーズです。もちろん自分の中では姉である佳奈江さんと、そういう事をする気は毛頭なく、普通に世間話をしながらトンカツ弁当を食べていると、携帯電話に良枝さんから着信がありました。
「ねぇ瑛斗、今どこにいるの?
さっきから家に何度も電話したのに出ないから心配だよ。
どうしたの? 事故とかじゃないよね? 大丈夫なの?
えっ? 朝からキャベツを収穫してる? どういうこと?
……あぁ、なるほどね、高校の同級生から救援要請があったんだ。
その同級生は男性? それとも女性? そう、男性か。ならOKだよ。
あと収穫を手伝っている人の中に若い女の子とかいるの?
あ、いないんだね。うん。じゃあ、お仕事、頑張ってね」
のっけから一番聞きたくない「私、捨てられるのだけは嫌だモード」の悲しげな声でした。ここで正直に同級生は女性とか言おうものなら面倒なので、そこは嘘をつきます。やれやれと思っていたら、いきなり衝撃的な本題に。
「それで肝心の用件なんだけどね、瑛斗は再来週の金曜日の午後は用事ある?
何もなければ、鮎香瀬さんと会う予定を組んでもいいかな?」
「え!鮎香瀬さんと会えるということは、良枝さん、減量達成ですか?」
「うん。達成率として95%位かな? もう私自身が瑛斗に会いたくてダメだよ。
精神的に限界だから100%は諦めた。でも見た目は昔と同じになったよ。
ファミレス時代のスーツも着れたし。当日は忘れずにお泊まりの用意してきてね」
_____________________________
良枝さんと待ち合わせた場所は、都内の某ホテルのロビーでした。鮎香瀬さんと会うのは、病院勤務が終わってからの午後8時から9時頃になるので、それまでホテルの部屋で私と一緒に過ごす予定だそうです。
約束の時間の10分前に総大理石の広いロビーに到着すると、いつものように、もう良枝さんが待ってました。熊本旅行のときに着てきたグレーのタイトなスーツ姿で、明るく染めたセミロングの髪をクラウンブレイドにしています。
すっかり痩せて、三ヶ月前に喫茶店で会ったときとは全くの別人で、誇張なしで5~6年前の容姿に戻っています。私が大好きだった敷島チーフの復活です。
「敷島チーフ、お久しぶりです。見事に蘇りましたね。惚れ直しましたよ」
称賛の意味も込めて、敢えて、そう声を掛けると、良枝さんはソファーから立ち上がりました。今日は滅多に履かないハイヒールなので身長は180㎝超え。スタイルの良さもあって、すごく目立ち、隣のソファーに座っていた50代くらいのサラリーマン二人が、びっくりした顔で良枝さんを上から下まで二度見してます。
「ありがとう。ホールスタッフの島崎くん。
誰かさんのために私、頑張ったんだよ」
そう言うと抱き締めてきました。かつての熊本空港と同じで、高身長のいい女が170㎝に満たない痩せた男を折らんばかりに強く抱いているので、ロビーにいる人たちの視線が一気に集まります。
たぶん、つまみ出されることはないだろうけど、ここでのキスは拙いよなと思ったので、耳元で「みんなが見ているから、ここでキスはダメですよ」と告げると、コクコクと頷き、腕の力を緩めてくれました。
「わかってるよ。久しぶりなんだから、ハグぐらいさせてよ。
部屋はチェックイン済だから、そっちに行こうか」
客室用エレベーターが4基ほど並んでいるエレベーターホールに向かおうとすると「私らの部屋のエレベーターはこっちだよ」と良枝さんは言い、ちょっと離れた豪華な高層階専用エレベーターに。これに乗るってことは、まさかのスイートルーム?
部屋はホテルの最上階ではなかったものの、入ると玄関みたいなエントランスがあり、その奥が広いリビングルームになっていました。ベッドルームは別室で2つもあり、サラリーマン時代に散々泊まったビジネスホテルの何倍の広さでしょうか。大きな窓からは、夕陽に包まれて、赤く染まりつつある東京の街が一望できました。
「この部屋って、ひょっとしてスイートルームですか?」
「うん。そう。最上級じゃないけどスイートはスイート。
ファミリー用でレベルとしては上の中あたりかな?」
TVドラマや映画でしか見たことない部屋に私は驚いて、今、財布に3万くらいしか入っていないと思わず呟いたら、良枝さんは笑いながら、
「お金の心配ならいらないから。
この部屋はアイリーンが私たちのために用意してくれたの。彼女の奢りね」
「良枝さんは、スイートルームに泊まったことがあるんですか?」
「うん。瑛斗と知り合う前にアイリーンと一緒に何度かね。
私の誕生日祝いとかで泊まったことがあるよ」
スイートルームに入るのは、初めてだったので、ゆっくりと室内を観察したかったのですが、良枝さんは、そんな私の思いなどお構いなく、ロビーの続きとばかりに抱き付いてきます。
「瑛斗、会いたかった。本当に会いたかったの。
会いたくて、会いたくて頭がおかしくなるかと思った」
そう言いながらキスしてきたと思ったら、すぐに離れ「なんか、いつもと違う。そうか高さが変なのか」と履いていたハイヒールを脱ぎ捨てて、改めて口唇を合わせてきます。
窓からの夕陽をあびながらキスする良枝さんは、とても綺麗でした。嬉しいのか、悲しいのか、閉じた眼から涙が出ていました。良枝さんの息づかいが、キスが終わるタイミングを教えてくれます。思わず「良枝さん、綺麗ですよ。本当に」と言葉が出ました。
「ありがとう。瑛斗に、そう言ってもらえると御世辞でも嬉しい。
でも、もうシミとシワが気になる40代のオバさんだよ。
あと何回、キスできるか、あと何年、私を求めてくれるのか、
それを考えると、悲しくて胸が張り裂けそうになるの」
「御願い、すぐにして。シャワーはいいから服を着たままで。
そこに座って。私が乗るから。昔、私の車の中でしたみたいに」
このときの良枝さんは、年齢を越えて、本当に綺麗でした。今でも、その表情を思い出します。
人間は死ぬ直前、人生の思い出が走馬燈のように巡るといいます。もしも走馬燈の最後のシーンを選択できるならば、私は、このときの窓から差し込む夕陽の中で、涙を流しながらキスをする良枝さんの恍惚とした表情を迷わずに希望するでしょう。
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