2
「おはよう、透。朝、早いんだね」
「そっちこそ、なんでこんな早くからここに居るんだよ」
「どの時間帯に透が来ても見つけられるようにと思って」
「ストーカーかよ」
僕が皮肉っぽく言うと、映見は僕を悲しげに見つめた。
てっきり、昨日のように負けずに食って掛かってくると思ったのに、いやに真面目で冷静だった。
言葉なくお互いを見つめていると、僕の方が戸惑ってしまって目を泳がせてしまう。
頼りない僕のその態度は映見の機嫌をそこね、その目つきは次第にきつくなって睨み出した。
何かに逡巡し、葛藤しながら次の言葉を探している間、映見は僕から視線をずらさなかった。僕の方がそれに耐えられなくなり、逃げ出したくなってしまう。
威圧的な映見の態度は、まるで責められる事をしたかのように無言で僕を脅していた。やがてそんな態度をとるのも仕方がないと自分自身で悟ったように、映見は大きくため息を吐き出した。
その後、鞄から何かを取り出し、それを僕の前に差し出した。
「はい、これ」
「なんだよ。おもちゃのカメラなんか出して」
「『写ルンです』だよ? 覚えてないの?」
「そういうカメラはあることは知ってるけど、まさかこの時代にまだ残ってるなんて思わなかっただけだ」
映見は眉根を下げ、いたたまれない顔をして僕にそのカメラを乱暴に突き出す。
「ほら」
強く迫られ、僕は仕方なくそれを受け取った。
どうすればいいのか、そのカメラを見ていると映見はぼそっと呟いた。
「それあと一枚フィルムが残ってる」
僕がフィルムカウンターを確認すれば『1』となっていた。
どういう意味かわからず疑問符を頭に乗せていると、映見は悲しそうな瞳を僕に向けた。これ以上我慢できないのか、声を荒げた。
「本当に覚えてないの?」
「何が?」
映見はやるせなく深いため息を吐いた。
「やっぱり変だ。透は記憶をなくしてる」
「えっ?」
ばあちゃんにも朝、同じような事を言われたばかりだったから僕は困惑してしまう。
「僕をからかうのはやめてくれよ。一体何の目的があって、僕につきまとって、わけのわからないことするんだよ」
僕だって我慢がならない。
「何を言っているのよ。そのカメラで気づかれずに写真を隠し撮りする賭けをしてたじゃない」
「隠し撮り? 賭け?」
僕は交互に映見とカメラを見合わせた。僕がさっぱり理解していないのを見て映見は悟ったようにさらなる深いため息を吐いた。
「これは透にも何かが起こってるんだね。これで確信したわ。お姉ちゃんの状況と透はなんらかの形で関係してこの状態にしている」
「お姉ちゃん?」
僕がキョトンとしていると、映見は目に涙を浮かべた。それを指で軽く拭い泣くのを我慢する。僕と向き合って、力強くその目をまっすぐ向ける。
「私は
何をどう答えていいのかわからないまま、喉に反射した声だけが漏れた。
「思い出して、映見のこと。映見と過ごした日々のこと。映見はまだ病院にいる。きっと今でも透を待っているのよ」
「ちょっと待って、どういうことだ?」
僕にはさっぱりわからなかった。
「昨日、笑う犬の写真を見せて、私が映見のふりをしたのは、一年前の昨日、透と映見が初めて出会った記念日だったから。私はできるだけお姉ちゃんになりきって透の様子を見ていたの。でも透はお姉ちゃんのこと本当に忘れていた。そっくりな私を見ても初めて会ったと言わんばかりだった。なぜそうなったのか、 これには何かわけがあるんじゃないかと思ったの。私がホテルに透を呼び寄せたあの時、透は自分の命に代えてもお姉ちゃんを死なせはしないって誓ってくれた。その通りにお姉ちゃんは手術した後の今も生きている」
「ちょっと待ってくれ、また僕をからかってるんだろ」
「私は何もからかってない。事実を話している。柴太君の写真を見せたのも、積極的にエキセントリックな姿を晒して透に接したのも、みんなお姉ちゃんが透にしてきたのと同じことだよ。私はただ透にお姉ちゃんを思い出してほしかっただけ。でもやっぱり透にはお姉ちゃんの記憶がなくなっている。透は死神だから、お姉ちゃんの命を守ろうとして特別な力を使ったんでしょ。そのせいで自分の記憶を失ったんじゃないの?」
僕は首を横に振る。そんな力持っているはずがない。
「そりゃ、あの時はお姉ちゃんを助けてって言ったわ。でも、今の状況を考えるとそれは間違っていたかもしれない。お姉ちゃんの体は生きていてもずっと意識不明のままなの。正確には植物状態って言われてる。回復する兆しが一向に見えないの。医者も匙を投げてるわ。こんな状態が生きているっていえるんだろうかってずっと思って、この一年私たち家族は暮らしてきたの。そしたらお姉ちゃんはもしかしたら透に会いたいために頑張ってるんじゃないかって思えて。ほら、そのカメラあと一枚フィルム残ってるでしょ。お姉ちゃんはまだ賭けを続けてるんだよ」
想子は虚ろな目を向けて僕に説明する。でも僕はさっぱり何のことかわからない。一体僕に何が起こってるんだ。渡されたカメラを僕は暫く見つめた。
「透、お願い。お姉ちゃんをもう解放してあげて。私たち家族はこれ以上目覚めないお姉ちゃんを見続けるのは辛いし、正直看病にも疲れてしまった。勝手な事を言ってるのはわかってる。でも現実はもうどうしようもないの。私だって悩んだ上でやっとこんなこと言えるようになったの。やっとお姉ちゃんの死と向き合 えるようになった……」
想子は肩を震わし、僕に紙を手渡した。そこには病院の名前と所在地、そして部屋番号が書かれていた。
ずっと堪えていた想子の涙腺は崩壊し、ここにきてとうとう泣きだしてしまった。僕はその涙を見ても戸惑うだけで何も思い出せなかった。
電車が駅に入る度、生徒たちが改札口から出てくる。その数がどんどん増えてきた。想子は同じ制服を着た生徒たちと紛れて去っていく。清楚なグレーのワンピースがずらっと並んださまはまさに金持ちのお嬢様たちに見える。あの女子高は中高一貫のお嬢様学校と呼ばれて、制服は中等、高等関係なく統一されていた。
ぼくもまた同じ制服を着た男子たちの中に紛れて学校に向かう。僕たちの制服のブレザーの色がグレーなのは、近所のお嬢様学校の制服と均等が取れるようにわざとそうしたのかもしれない。
想子の話が本当なら、一年前、僕はまだ中学三年生で黒の学ランを着て、映見と会っていたことになる。その時僕はまだ都市に近い場所で父と住んでいた。
中学二年の二学期の終わり頃、未可子さんが他界してしまい僕はとても寂しく、その面影を追いかけて時々未可子さんの実家に身を寄せていた。
ひとり暮らしのばあちゃんは何も言わず僕の好きにさせてくれ、父が海外出張の時は保護者となって僕を時々家に住まわせた。
父が長期の赴任でベトナムに行くことになり、ついて行く事を僕は拒否した。そのためひとりになる僕はばあちゃんと暮らすことを決意し頼み込んだ。
ばあちゃんは快く受け入れてくれたけど、僕はばあちゃんに災いがふりかからないようにつれない態度を取って毎日を過ごしていた。
僕の何かが抜け落ちて、話がかみ合わないと、今朝言っていたばあちゃん。
未可子さんがいなくなってから、特に中学三年の記憶が僕にはあまりない。死神とだけ酷く言われ続けたくらいしか覚えてない。
それが映見の事を意味しているんじゃないだろうかとふと僕は思った。
それじゃ、なぜ僕だけが記憶を失ってしまったのだろう。
僕は手渡されたカメラをじっと見つめた。
ここに一体何が写されているのか。残り一枚と記されたフィルムカウンターをみて、僕は思い出そうとしていた。
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