小説「三つの人格」

小説家 川井利彦

小説「三つの人格」

これが夢であることは、間違いない。


いつも同じ内容だから、すぐにわかる。


上も下もわからない、真っ白な何もない空間の中に、自分一人だけがふわふわと浮いている。


このまま浮いてたままでいると、やがて空間の中に、溶けて跡形もなく無くなってしまいそうな気がする。


そして『あーまた同じ夢だ』と意識した瞬間、必ず目が覚める。



ベッドの上で、薄っすら目を開けると、朝の日の光に照らされた、白いカーテンが風に揺れているのが見えた。


まだ半分夢の中にいるような、寝ぼけた頭のまま、何気なく寝返りを打つと、目の前に突然見知らぬ女の顔が現れた。


「わっ」と思わず声を上げて、ベッドから飛び降りた。


その時、自分が全裸であることに、初めて気がついた。


(えっ誰、、、)


困惑しながら、目を白黒させていると女が「うぅ」と声を漏らした。


タオルケットを身体にかけているが、女も服を着ていないのが、わかった。


いったい、この女はどこの誰で、昨夜何があったのか。


必死に記憶を探るが、頭の中に靄がかかってしまったようで、うまく思い出せない。


とにかく服だけでも着ようと、ベッドの周りを探すと、すぐ脇に下着とシャツやズボンが散らばっているのが見えた。


慌てて下着を掴んだ時、視界の隅にあるものが写り、思わず手が止まった。


おそるおそる首を回すと、眠っている女のすぐ下に、白のシャツと真ん中にマークのようなものがついたブレザー、そして同じ色のスカートが落ちていた。


それらはどこからどう見ても、高校の制服だった。


心臓が早鐘のように打ち、全身から血の気が引いた。


今ベッドの上で、寝息を立てている女は、高校生なのか。


自分は、未成年を相手に・・・。


頭を覆いつくす靄を消し飛ばすように、首を何度も横に振る。


しかし、何回振っても、昨夜の記憶を思い出すことができない。


混乱しながら、急いで服を着ると、逃げるように寝室を出て行った。


扉が閉まる音で、目を覚ました女は、身体を起こし短いため息をつくと、右手を伸ばし枕元にあったスマホを掴むと、タイマーを止めた。


『7:24:18』


「七時間か・・・」とつぶやき、仰向けに倒れる。


その反動で、タオルケットがはだけ、透き通るような白い肌と、形のよい小ぶりな乳房が、露わになった。


「きついなぁ」


見知らぬ天井を、虚ろな目で見つめる。


「だんだん短くなってる。これじゃあ、いずれ・・・」


身体を横向きにして、頭を抱えた。


「なんで、私が・・・」


そう言って、女は背中を小刻みに震わせた。


制服に袖を通し、寝室を出た女は、リビングの隅で身を固くしている衿崎順也と目が合った。


「おはよう」と笑顔で挨拶をしたが、順也は視線をそらした。


「そんなに怖がらなくてもいいのに・・・」


サイドテーブルに置かれていたペットボトルを手に取ると、ソファに腰を下ろす。


「この後どうする?お腹すいたから、何か食べに行かない?」


額に手をあてた順也は、項垂れてしまう。


「何、その態度。昨日はあんなに楽しそうだったのに」


「昨日のことは、何も覚えてない」


しおりが「あーそういうこと」とわざとらしく、肩をすくめる。


「・・・昨日何があったのか教えてもらないだろうか」


「いいよー」


ひらひらと片手を振って、足を組んだ。


「君の名前は?」


「五十嵐しおり」


「しおりさん。昨日、僕とあなたの間に何があったのか・・・教えてほしい」


「しおりでいいよ。えー私からそんなこと言わせるつもり・・・。あの状況見たら、なんとなく想像できるでしょ」


「やはりそうなのか」


順也は愕然とした。


「昨日の順也、可愛かったよ。猫みたいに甘えてきて、私の胸に顔をうずめてきて―――」


順也は、立っているのもしんどくなってきたのか、壁に手をついた。


「ねえ、昨日の続き・・・しない?」としおりは、スカートの裾をほんの少しめくった。


「やめろ!」


慌てふためく順也が、声を上げる。


「もういい。わかったから、出て行ってくれ!二度とここにも来るな」


「そんな冷たいこと言わないでよ」


猫なで声を出したしおりに対し、嫌悪感を覚えた。


「ふざけるな。さっさと出て行け!」


スッと笑顔を消し、ため息をついたしおりは、態度を変えた。


「別に、帰るのはいいんだけど。まだもらうものもらってない」


真っ青な顔の順也が、振り返る。


しおりは、手のひらを広げ「五万」と冷めた目つきで言った。


怪訝な表情で、少しだけ首をひねる。


「終わったら払うって、言ったじゃん。あー覚えてないのか」


めんどくさそうにスマホを操作すると、LINEの画面を、順也に向かって突きつけた。


向けられたスマホの画面には、LINEのやりとりが表示されており、真ん中辺りに『五万でどう?』と書かれていた。


「ほら。これ順也のアイコンで間違いないでしょ」


左上のアイコンを指で示し「早く払って」と蔑むような眼差しで言った。


「だから覚えてないと言っただろ!お前と何があったのか、わからないのに五万なんて大金払えるか」


そもそもそういう行為があったのかさえ、はっきりしないのだ。


もしかすると、裸で寝ていただけかもしれない。


「じゃあ警察に、男の人にレイプされましたって言っちゃおうかな」


嘲笑を浮かべたしおりは、スマホを耳に当てた。


「待て!やめろ!わかった・・・払うよ」


そう言ってズボンのポケットに入っている、財布を掴む。


その時順也は、若干の違和感を感じ、わずかに眉をひそめた。


いつも使っている財布より、分厚く、手に持った感じもズシッと重い。


中を開くと、見たこともない枚数の札束が入っていた。


ざっと見ても、100万近くある。


「なんだよ。これ」


順也が困惑していると「うわっすごっ」と後ろから声がした。


知らぬ間に、近づいてきていたしおりが、背中の方から、財布の中をのぞき見ている。


「こんな大金みたことない。順也、金持ちなんだね」


「・・・知らない」


「えっ」


「僕は、こんな大金持ってない」


全く身に覚えのない大量の札束に、恐怖を感じた。


「へぇー。でも良かったじゃん。早くちょうだい」


しおりははしゃぎながら、腰に手を回す。


「おい!やめろ!」


順也がしおりから離れようと、身体をのけぞらせる。


しかし腹の前で、両手をがっちり組まれてしまって、すぐに振りほどけない。


「そのお金、全部くれるなら、もっとすごいことしてあげる」と耳元で囁いた。


「いい加減にしろ!」


組まれている両手を無理矢理外し、腰をひねって、しおりと距離をとった。


そして財布から札を五枚だけ引き抜き「これを持って、さっさと出て行け!」と叫んだ。


「冗談よ。本気にしないで。赤くなっちゃって、可愛い」


唇に手をあて、楽しそうに笑った。


「金はもらうけど、まだ出て行かない」


「ハッ?」


目を点にしている順也から、五枚のお札をひったくったしおりは、すばやく紺のブレザーの内ポケットにしまった。


「私にも事情があるの。別にいいでしょ」


「だったらさっきの金は返してくれ」


「いやよ。順也の方から、五万でどうって提案してきたんだから、その分はちゃんともらう」


頭を左右に振り、悲痛な顔で訴える。


「だから、昨日のことは、覚えてないって言ってるだろ」


「まだ思い出せないの?」


「ヤバっ」と鼻で笑う。


肩を落とした順也は、その場にへなへなと座り込んでしまった。


憔悴しきったその様子を見て、しおりはちょっとだけ憐れに思えた。


「ねえ。昨日何があったか、教えてあげようか」


「何がって。だいたいの想像はついてる」


「じゃあ聞くけど、一昨日とか一週間前とかその辺のことは、覚えてるわけ?」


ハッと頭をあげた順也が、目を泳がせた。


「・・・覚えてないんでしょ」


昨日のことばかりに気を取られていたが、それ以前のことも何一つ思い出せない。


さらに言えば、今いるこの部屋にも、見覚えがない。


「何も・・・思い出せない。・・・それに、ここはどこ・・・」


おろおろと立ち上がった順也の肩に、固いものが当たった。


目線だけを動かすと、しおりの白い手が、置かれているのが見えた。


長くて綺麗な指に魅せられた。


「大丈夫。私がちゃんと説明してあげる。心配しないで」


優しく慈しむような声色に、順也の心は揺さぶられた。



しおりの話を聞いた順也は、疑いの眼差しを向ける。


「そんな話を信じると思っているのか」


「信じるか信じないかは、順也の自由よ。でも・・・」


フッと微笑を浮かべると、すっと順也の頬に触れた。


「あなたは、信じるしかない」


しおりの手を払いのける。


「わかった。とりあえずは信じる。でもそれじゃあ、この部屋はなんなんだ。どうしてここに―――」


「その辺のことは、そのうち思い出すわ。それよりお腹すいたー。何か食べ物ない?」


そう言って、キッチンへ向かったしおりは、冷蔵庫を開け中を物色し始めた。


「ん―大したものはないな。やっぱり外に買いに行かないとダメか・・・」とブツブツと独り言を言っている。


そして「私、何か買ってくる」と玄関に向かった。


外に出る直前「順也も何かいる?」と振り返った。


「いや。腹減ってない」


かぶりを振った順也は、ソファに腰掛けたまま、両手で顔を覆った。


「そっ」


短く答えたしおりは、一瞬寂しげな表情を浮かべたが、そそくさと出て行ってしまった。


しおりが出て行ったのを確認した順也は、ソファの上に仰向けで倒れこんだ。


(ここまではうまくいったか・・・)


頭の下で両手を組むと、天井を見上げた。


(・・・かなり早いけど)


順也はゆっくり目を閉じた。



20分後、コンビニの袋をぶら下げたしおりが帰ってくると、順也がソファの上で寝息をたてていた。


まだ、起きてから数時間しか経っていないのにと、不思議に思ったしおりは、ハッとして順也の顔を凝視した。


「まさか・・・。こんなに早く―――」


しおりが逡巡していると、順也がおもむろに目を開けた。


「・・・さゆりか?」


順也は、自分の本当の名前が『さゆり』であることを知らない。


驚いたしおりは、慎重に聞いた。


「勇也なの?」


わずかに首を縦にふり「あぁ」と答えた。


「えっほんとに!だってまだ、そんなに時間経ってないのに」


上半身を起こした勇也が、しかめっ面で首の後ろをさする。


「俺にもわからない。こんな変な場所で、寝たりなんかするからじゃないか。あー首が痛い。寝違えたか」


首を左右に振ったり、ぐるっと回しながら「それで、どうだった?」と聞いてきた。


「・・・これよ」


さゆりは、スマホの画面を勇也に向ける。


「7時間か。思ってたより短いな。前回は10時間はもったはずだ」


顔も背格好も、全く同じなのに別人として、相手をしなければならない。


(わかっていても、慣れないな)


苦笑したさゆりが、ビニール袋をサイドテーブルの上に置く。


「それで順也のやつはどうだった。戸惑ってたか」


「うん。私のことを本当に女子高生と勘違いしたみたい。でも昨日セックスまでしたかは、半信半疑だった。さすがに一緒に裸で寝てただけじゃ、信憑性が薄い」


「マジか」と手を叩いて笑う。


「こんなのどうみてもコスプレだろう。企画物のAVでもこんなやついねえよ」


「ドンキで買ってきたのは、あんたでしょ」


そう言いながら、ブレザーとワイシャツ、スカートを脱ぎ、下着姿になる。


「なんだよ。もう着替えちゃうのか」


「少なくとも、7時間は出てこないんだから、女子高生のふりする必要もない」


「たしかに」


「それより、順也のやつ昨日どころか、もっと前の記憶も無くしてたわよ。そろそろ本当にまずいんじゃない」


「時間も短くなってきてるみたいだしな。俺が消えるのも、時間の問題か」


「主人格は、順也なんだから、こうなるのはわかりきってたでしょ。どうするのよ」


「どうしようもない」そう言いながら、勇也が抱きついてきた。


「ちょっと、やめて」


「少しだけならいいだろう。どうせ俺は消えるんだ。消える前に楽しみたい」


「人をおもちゃみたいに言わないで。今そんなことしてる場合じゃないでしょ。なんとか対策を考えなきゃ。ちょっと・・・」


勇也がブラジャーの中に、手を入れてきたので、肩を押して突き飛ばした。


「なんだよ。冷たいな」


ズレたブラジャーを直し、寝室に駆け込むと、クローゼットにしまっておいた私服に着替えた。


「そういう格好の方が、さゆりらしくていい」


「誉めたって、ヤラないわよ」


目尻をつりあげ、勇也を睨む。


「さっきのは冗談だって。そんなに怒るなよ」


目を丸くした勇也が、両手を振る。


「それで?この後は?」


私服姿のさゆりが、凛と背筋を伸ばす。


勇也は、顎に手をやって視線を上に向けた。


「うーん。また場所を変えるのは、不味いだろう。順也が混乱する。当初の計画通り、この部屋に監禁して、遺言書の保管場所を聞き出す」


「部屋なんてどうでもいいわ。問題なのは、順也が何も覚えていなかったことよ。あの感じじゃ保管場所も、本当に忘れてる。どうすんのよ!」


「だから落ち着けって」


憤慨しているさゆりを、勇也がなだめる。


「今はちょっと、混乱してるだけだ。薬で眠らせたりしたからな。落ち着いてくれば、順也の記憶は戻る。だから心配するな。さゆりは、計画通り保管場所を聞き出してくれたらいい」


「勇也が考えたあの計画ってどうなの。あんなのうまくいく?」


「それは問題ない。俺が三日三晩寝ずに考えたんだ。絶対にうまくいく!」


そう言って胸を張る勇也に、冷たい視線を向ける。


「学生のテスト勉強じゃないの。そんな理由で、信じられるわけないでしょ」


勇也は、ほんの少し顔をしかめた。


「そればっかりは、信用してもらうしかないな。じゃあ他にいい案があるのか?だったら聞くけど」


視線をそらしたさゆりが、勇也の横をすり抜け、足早に寝室を出る。


「まあ、よろしく頼む」とさゆりの背中に、声をかけた。


ドカッとソファに腰を下ろしたさゆりは、乱暴にビニール袋を取ると、不機嫌そうにおにぎりの袋を破いた。


「俺の分は?」


「いらないって言ったでしょ」


「誰が?」


「あなたが」


「それは順也だろ?俺は勇也。腹減ったよ」


「買いに行けば?」


「・・・そうするか」と部屋を出て行ってしまった。


勇也、正確に言うと順也は多重人格者だ。


専門的な言葉で『解離性同一性障害』と言うらしい。


複数の人格が同一人物の中に存在する状態のことで、交代でそれらの人格が現れる。


それぞれの人格には、個性があり全く違う性格を持っている。


順也は、真面目で優等生タイプだが、気が弱くいつも何かに怯えている。


勇也は、ガサツでいい加減な性格で、ロクに物事を考えず、直感で動くことが多い。


全く性格の違う順也と勇也には、特異な点が一つある。


それはお互いの記憶を、共有することができないことだ。


順也が表に現れている時は、勇也本人曰く、ずっと眠っているような感覚で、何も覚えていないらしい。


それは順也の時も同様で、勇也が表に現れている時のことは、順也も覚えていないようだった。


そしてなんと順也は、自分が多重人格者であることを認識していない。


そのため、勇也の存在も知らない上に、たまに記憶を無くすことを、何かの別の病気だと勘違いしてしまっている。


そのせいで、ますます自信を無くし萎縮してしまっていた。


反対に勇也は、順也の存在を早くから認識し、うまくその状況に馴染んでいるようだった。


元々順也が、主人格、最初から存在した人格であり、勇也は12歳の頃、母親の死をきっかけに生まれた人格だ。


順也が12歳の時、母親が運転する自動車が、信号を無視し交差点に突っ込んできたトラックと衝突事故を起こした。


助手席に乗っていた順也は奇跡的に軽傷で済んだが、トラックの衝突をまともにくらってしまった運転席側の母親は、即死だった。


天地が逆さまになった車内で、運転席に横たわる無残な姿の母親を目の当たりにし、順也の心は壊れてしまった。


その悲惨な現実から目をそらすために、勇也という人格が誕生した。


勇也が覚えている最初の記憶は、頭から真っ赤な血を流した見知らぬ女性の姿だった。


『解離性同一性障害』の発症する主な要因として考えらえているのが、幼少期に受けたトラウマや心身喪失ではないかと言われている。


ある時期に体験したひどい出来事を受け止めるために、自分ではない、もう一人の人格を形成しているのではないか。


悲惨な事故をきっかけに、勇也が誕生したことを考えると、それも頷ける。


母親を失ったばかりの順也は、精神が安定せず、勇也が表に出ることが多かった。


彼はその間に、自分の正体と周りの状況を理解した。


それから数年の間は、勇也が表に出て、順也は裏に隠れていることが普通になっていた。


ところが成人式を終えた頃から、主治医の献身的な治療のおかげで、順也は母親の事故のショックから立ち直り始めた。


すると勇也が表に出る時間も短くなり、その影響なのか順也の記憶も曖昧になることが増えていった。


そんな折、唯一の肉親である父親のガンが見つかり、余命半年と宣告されてしまう。


実業家である父親は、仕事が忙しく週に数回しか家に帰ってこなかったが、妻を失ってからは、親戚や家政婦に順也の世話を押し付け、全く家に寄りつかなくなった。


愛する妻を不慮の事故で失った父親は、その現実を受けいれることができず、実の息子である順也と距離をおいた。


父親と疎遠になり、自立していく道しか残されていなかった順也にとって、余命宣告はあまり大きな問題ではなかった。


ところが、ここで思ってもみなかった問題が浮上する。


実業家として成功をおさめていた父親には、莫大な資産があった。


彼の死後、その資産は息子である順也が相続することになるのだが、それを快く思わない連中がいた。


父親の会社の取締役会は、彼の遺産は会社のものであり、親子関係が希薄だった長男には、その資格がないと訴えたのだ。


個人の遺産を会社の財産と考える、あまりに傍若無人な訴えであり、到底認められるものではなかったが、この訴えをきっかけに「父親と内縁関係にあった」や「子供を産んだ」などと言い出す女性達が多数現れた。


どれも事実関係がはっきりせず、虚偽である可能性が高かったが、肝心の父親は、この頃から病状が悪化し、意識不明の昏睡状態に陥ってしまったため、真実を知る術が無くなってしまった。


事実関係が、はっきりしないとわかった途端、女性達は父親と順也を相手に民事裁判を起こした。


実は、この女性達は取締役会が父親の遺産を、自分達のものにするために用意した偽物だったが、順也はそんなこと知る由もない。


しかしここで、父親がガンの宣告前に、遺言書を残していたという、新たな事実が発覚する。


そしてなんと父親はその遺言書を、順也の元に郵送していたのだ。


『私に万が一のことがあれば、これを開封しろ。それまでは大切に保管してくれ』


父親からそう伝言を受けた順也は、遺言書を無くさぬよう、厳重に保管することにした。


ところが、さらなる不運が重なってしまう。


解離性同一性障害によって、記憶が曖昧になっていた順也は、その保管場所を忘れてしまったのだ。


遺言書の内容が、裁判の行方を大きく左右すると考えた取締役会は、順也にどこに保管したのか問い詰めたが、その時表に出ていたのは勇也だった。


勇也は、取締役との会話から、これまでの事情を知り、遺言書をうまく利用する手を考えた。


そして、父親と内縁関係にあると、虚偽の証言をしていたさゆりに接触し、一緒に遺言書を手に入れて、莫大な財産を手に入れないかと持ちかけた。


初めは、警戒し見向きもしなかったさゆりだったが、勇也が自分達は解離性同一性障害、多重人格者であることを告白し、おそらく遺産は全て順也のものになること、その順也に取り入れば、遺産を自分のものにできると持ち掛けられ、協力することを決めたのだった。


当初の勇也の計画では、さゆりが女子高生のふりをして、ロリコンの順也を誘惑し、気を許したところで、遺言書の場所を聞き出すということだった。


「でも忘れているんだから、そんなことしても意味ないでしょ」


さゆりが疑問を口にすると、勇也が首を横に振った。


「いや。これは俺の勘だが、順也は保管場所を忘れていないと思う。ただ忘れたふりをしているだけじゃないかと思う」


「なんのために?」


「そりゃあ、めんどくさいことに、巻き込まれたくないからだろ。順也は、人付き合いが苦手で他人に興味がない。自分一人が生きていければ、それでいいと思っている白状者だ。裁判なんて最も嫌悪する部類の一つだ」


「だったら遺産なんて放棄したらいいんじゃない」


「他人に興味はなくても、金はいる。もらえるものはもらっておこうって腹積もりなんだろ」


自分のことなのに、まるで他人事のように話す勇也が、おかしかった。


「わかった。協力する」


―――あの時は、そう言ったけど・・・。


さゆりはここにきて、勇也に協力したことを後悔していた。


勇也のこんないい加減な計画では、とてもうまくいくとは思えなくなってきたからだ。


初め、順也はロリコンだから、女子高生のふりをして、近づけばイチコロだと言われたが、実際会ってみるとそんなことはない。


警戒心が強く、さゆりがいくら誘惑しても、暖簾に腕押し、全く手応えがなかった。


昨日は仕方なく、睡眠薬を使い順也を眠らせ、勇也と人格を入れ替え、計画通りこの部屋まで連れてくることができたが、予想外の出来事の連続に、さゆりは生きた心地がしなかった。


それに勇也の人格が出ていられる時間が減り始めたことも心配材料の一つだ。


以前は、10時間以上は平気だったが、今日の朝は7時間とこれまでより3時間も短くなっている。


このままでは、いつ勇也の人格が消滅してしまってもおかしくない。


先ほどの様子だと、本人もそのことに薄々気がついているようだが、全く焦っている気配がない。


万が一勇也が消えてしまった場合、さゆりだけでこの計画を進めることはできない。


(なんで私がこんな目に・・・)


乱暴にペットボトルを掴んださゆりは、力任せにそれを壁に投げつけた。


鈍い音をたて壁でバウンドしたペットボトルは、キャップが外れ、中身のミネラルウォーターをまき散らしながら、床を転がった。


さゆりはその様子を、憎々しい眼差しで見つめた。



さゆりは買い物から戻った勇也と、今後について真剣に話し合うことにした。


「ここにいつまでいたって、埒があかない。順也が私に心を許すとは到底思えないもの」


「やっぱり陳腐なコスプレじゃダメか」と勇也が苦笑した。


「茶化さないで!こっちは真剣なのよ」


「わかったよ」とめんどくさそうに答える。


「勇也・・・。あなたどうせ自分はもうすぐ消えるからって、投げやりになってるでしょ」


「んー」


首をひねって、おどけて見せる。


「あなたはそれでいいかもしれないけど、残される私の身にも、なりなさいよ」


「大丈夫だって。必ずうまくいくよ。順也をちゃんと、誘惑してくれたら、問題はない」


「警戒心が強くて、私になびいてる感じが全くしないのよ。あのメールも逆効果だったし」


「あの五万か?・・・そういえば金、制服のポケットに入ったままだろ。回収しとかなくて大丈夫か?」


「とっくに財布にしまったわよ。それよりも、これからどうするのか真剣に考えなさいよ!」


我慢の限界に達したのか、さゆりがものすごい剣幕で言った。


「わかったって。・・・そうだな」と勇也が腕を組み、すぐに「あっこうしよう」と膝を叩いた。


「どうせだったら、順也に全部白状しちまえよ。取締役共に騙されて、嘘の証言を強要された。生きていくためには、どうしても、金が必要だって、情に訴えかける。お子ちゃまで、人を見る目がない順也だったら、すぐに同情するはずだ。ほら。押してもダメなら引いてみろって言うだろ」


訝しげに目を細めたさゆりは、「そんなことで、上手くいくわけない」と吐き捨てた。


「大丈夫だって。順也は単純だから、すぐに信じる。あいつの同情を買ったら、遺言書の場所を聞き出すなんて簡単だろ」


確かに、これ以上、誘惑しようと脅しをかけようと、順也が口を割るとは思えない。


「涙ながらに、昔の苦労話を聞かせてやれよ」


勇也が下品な笑みを浮かべた。


「前から気になってたんだけど―――」


冷めた目つきで、さゆりが問う。


「勇也は、順也のことが嫌いなの?」


わずかに目を見開いた勇也は「直球だな」とつぶやくと、笑顔を消した。


「嫌いだよ。弱くて気が小さくて臆病者だ。そのくせ、他人に責任をなすりつけて、自分は悪くないと思ってる。母さんが死んだのだって、あいつのせいなのに・・・」


淡々と話す言葉の裏にある怒りの感情を、さゆりは敏感に感じ取った。


「それはどういう意味?」


勇也はフッと笑顔を作った。


「それは今話すようなことじゃないよ。大事なのは遺言書。順也から保管場所を聞き出すことだ」


勇也にはぐらかされたさゆりは、少しムッとしたが、確かに今この場で話すようなことではないと、気持ちを切り替えた。


「もう一度順也を出すから、うまいことやってくれ。お涙頂戴の不幸話を頼むぜ」


「そんなにうまく交代できるわけ?まだ二時間しか経ってないわよ」


「寝たら大丈夫だ。なんかちょっとふわふわしてて、少し前からどうも落ち着かない。さゆりの影響で、順也のやつが、混乱してるみたいだ」


「私のせいにしないで」


「いいじゃん。こっちにとっては、都合がいい」


「じゃあさっさと寝なさいよ」


「その前に一発・・・」といやらしく鼻の下をのばした。


「絶対嫌!」


ものすごい剣幕でテーブルの上に、睡眠薬を叩きつける。


舌打ちをした勇也は「順也の時は、抱きついてきたのに」と愚痴をこぼした。


さゆりは、ほんの少し眉を上げた。


「じゃあ、おやすみ」


睡眠薬を飲み、ソファに寝そべった勇也は、ほんの数分で寝息をたてた。


勇也が眠ったのを確認したさゆりは、両手で顔を覆った。


お涙頂戴の不幸話となると、思い当たるのはあの話しかない。


(でもあれは・・・)


さゆりが金を求めるのには、理由がある。


それを話せということなんだろうが、あの話は思い出したくもないし、口にしたくもない。


順也はその話で心を許すと勇也は言っていたが、そんな簡単にうまく行くのだろうか。


そしてもう一つ、さゆりには気になることがあった。


その時「ん、、、」といううめき声が聞こえ、勇也がゆっくりと身体を起こした。


「あの・・・大丈夫・・・ですか?」


探るようにさゆりが聞いた。


勇也はきょろきょろと周りを見渡して、不安そうな表情を浮かべた。


「僕は・・・まだここに」


自分のことを『僕』と呼ぶのは、順也だ。


「疲れていたんじゃないですか。何時間も眠っていましたよ」


さゆりが、優しく微笑んだ。


「もう夕方だ・・・。僕・・・帰ります」


「待って!」と立ち上がろうとした順也の腕を掴む。


「聞いてほしい話があるの」


目元を潤ませ、順也を見つめた。


「はなしてください。もううんざりだ」


「お願いよ!」


涙ながらに訴えるが、順也はさゆりの腕を振り払った。


「いい加減にしろよ!五万も払ったんだから、もういいだろ」


「そうじゃないの。これには理由がある。それを聞いてほしい!聞いてみて、それでも納得ができないんだったら、その時は帰ればいいわ。・・・お願い」


なおも腕にしがみつき、しつこく食い下がるさゆりに、根負けした順也は、渋々ソファに座り直した。


「私の本名はしおりではないの。本当はさゆり。五十嵐さゆり」


「この際名前なんてどうでもいい。全部、正直に話してくれ」


「それは・・・」


さゆりは、ぽつぽつと空から小雨がふるように、少しずつ丁寧に言葉を発した。


「物心ついた時から、私は母親と二人きりだった。一回だけ「お父さんは」って聞いたことがあるんだけど、母親は「遠くに行っちゃった」って正直に話してはくれなかった。私が小学生のころ母親が連れてきた、三十代くらいの男と一緒に暮らすことになった。その男は―――」


「ちょっと待ってくれ!」


順也が慌てて話を遮る。


「子供の頃からの、話をするつもりなのか。僕は昨日のことが、聞きたかっただけなんだけど・・・」


「昔の話から、昨日の話へ最終的に繋がっていくの。ちょっと長くなるけど、順也の知りたいことも全部話すから、我慢してよ」


「しかし―――」


「お願い・・・」


両手を握ったさゆりは、潤んだ瞳で見つめた。


「わかった」順也が小さな声で答えた。


さゆりは両手を離すと、話を続けた。


「一緒に暮らし始めたばかりの頃、その男は優しかった。母親とも仲が良かったし、私にも何でも買ってくれて、本当の娘みたいに大事にしてくれた。でも私が中学生になった頃、男の私を見る目が変わってきた」


男は相変わらず母親とは仲が良かったが、やたらとさゆりの身体に触ってくることが多くなった。


思春期真っ只中のさゆりにとって、不快感極まりなかったが、実の父親ではなかったため、無下に扱うこともできなかった。


その中途半端な態度が、最悪の結果を招くことになる。


ある日学校から帰宅すると、母親が外出しており、男しかいなかった。


男は、同窓会に出かけた母親の帰りが遅くなると告げると、突然さゆりをリビングの床に押し倒した。


床に倒れたさゆりの上に、覆いかぶさってきた男は、制服の裾から手を突っ込み、ブラジャーの上から幼い胸を、乱暴に掴んだ。


「やめて!いやだ!どいて!」と騒ぐさゆりを無視し、男は制服とブラジャーを捲り上げ、汚い舌を這わせた。


さゆりは、男の後頭部や背中を、何度も殴りつけたが、か弱い力ではびくともしなかった。


男は今度は、スカートの中に手を入れると、下着を強引に脱がせ、さゆりの下半身に指を這わせた。


背筋に悪寒が走った。


さゆりは身体をねじり、なんとか男から逃れようと必死に動いたが、そんな抵抗も虚しく、男は左腕一本でさゆりの下腹部を押さえつけたまま、履いていたズボンを器用に脱ぎ始めた。


恐怖でさゆりの頭の中が、真っ白になった。


経験はなかったが、男が何をしようとしているのか、十分に理解できた。


「お願い!やめて!」


悲痛な叫び声を上げるが、男の股間がさゆりの下半身を貫くのを、止めることはできなかった。


痛みと恐怖と屈辱で、両目から涙が溢れた。


さゆりの上で、腰をふりながら、ハアハアと男は荒い息を漏らしている。


男の臭い息を嗅ぎながら、さゆりの思考や感覚が、徐々に薄れて行き、次第に何も感じなくなっていった。


数分後何事もなかったかのように、身体を離した男は、放心状態のさゆりに目もくれず、家を出て行ってしまう。


その後、男が帰ってくることはなかった。


男に捨てられたと勘違いした母親は、悲しみに暮れ、身体を壊してしまう。


そんな母親の様子を、さゆりは黙って、見守ることしかできなかった。


男にレイプされたことを、告白することもできず・・・。


予想だにしなかったさゆりの壮絶な過去に、順也は言葉を失った。


「そんなことが・・・」


さゆりは順也の顔を一瞥すると、心のなかでほくそ笑んだ。


正直半信半疑だったが、順也の様子を見て、これはうまくいきそうだと確信を得た。


「もう昔のことだから・・・。それに本当に大変だったのは、その後」


愛する男性を理由もわからず、突然失ってしまった母親は精神を病んでしまい、一日中塞ぎこむようになってしまった。


そうかと思えば、突然泣き出したり、大声で発狂したりと、不安定な時期が続いた。


当然定職にもつけず、代わりに中学を卒業したさゆりが、高校進学を諦め、働かざるを得なかった。


昼間はスーパーのレジ打ちに立ち、夜はコンビニで遅くまで働いた。


消費期限切れになったコンビニ弁当を特別に持って帰り、一人で食べるのがその頃のさゆりの一番の贅沢だった。


同級生達が遊びや恋愛に浮かれている中、さゆりは生きていくために、一日一日必死だった。


いずれ母親は、正気を取り戻してくれると、頭の片隅で信じていた。


それだけがさゆりの支えであり、希望だった。


ところが、そんな希望も無残に裏切られることになる。


コンビニの仕事を終えたさゆりが帰宅すると、母親が首をつっていた。


醜い顔で糞尿にまみれた母親の姿を、さゆりは呆然と見つめていた。


家族を失ったさゆりの、その後の人生は、困難を極めた。


「就職もしたんだけど、長続きしなくて・・・。気がついたら夜の店で働いていた。その頃かな。あなたのお父さんの会社の人と知り合ったのは」


莫大な財産を、手に入れるチャンスがあると、持ちかけられたさゆりは、二つ返事で引き受けたが、まさか愛人のふりをするとは、知らされていなかった。


「これまでひどい生き方をしてきたけど、人を騙したことはなかったから、戸惑ったわ。中卒で頭は悪いけど、やっていいことと、やっちゃいけないことの区別はできる。人を騙してまで、金がほしいなんて思ったこともない。順也にはひどいことをしたと思っている」


「ごめんなさい」とさゆりが頭を下げた。


じっとさゆりの話に、耳を傾けていた順也は、首を横に振ると、目を伏せた。


「君がそんな苦労を、重ねていたなんて知らなかった。僕もさっきは、混乱していたとはいえ、ひどい態度をとってしまった」


「順也は悪くないわ」とそっと右の手のひらに触れる。


「女子高生のふりをして、あなたを騙そうとした私が悪いの。昨日順也と私は、何もなかった。一緒のベッドで寝ていただけ。五万円も返すわ」


「あのLINEは?」


「あれはフェイク画像よ。順也を騙すために、こっそり作らせたの」


本当は勇也が実際に送ったものだったが、勇也の存在を知らない順也には、説明できない。


「そうか」と順也が、つぶやいた。


「だからもうここにいる必要はないわ。今日はもう遅いから、明日の朝、帰りましょう」


「そうしようか」


順也が柔和な笑みを浮かべた。


その笑顔を見て、さゆりは静かに胸をなでおろした。


お人よしで単純な順也は、さゆりの話を鵜呑みにし同情したようだ。


心を許した順也から、遺言書の場所を聞き出すことはたやすい。


「お腹すいてない?何か作ろうかな」


そう言って立ち上がろうとしたさゆりは、順也が「ちょっと待って」と引き止めた。


笑顔を消し、神妙な顔つきになった順也が「遺言書」と言った。


「さゆりも遺言のことは、聞いているんだろう。愛人が何人現れようと、遺言がある以上、全く意味がない。だから会社の連中も、喉から手が出るほどほしいはずだ」


ソファに座り直したさゆりは、背筋を伸ばした。


「ここに来て隠す必要はないわね。知ってるわ。それを探し出せと取締役の一人に言われたのも事実よ。でももういいの。私は抜けるから。お父さんが順也のために残した大切な財産でしょ。あなたのものよ」


まさか順也自ら、遺言書のことをと口にするとは思ってもみなかったので、一瞬喜色ばんだが、ここで焦って、隠し場所を聞き出そうと話に飛びつけば、また疑われるかもしれない。


そう考えたさゆりは、わざと興味のないふりをして、一歩引いた態度を取った。


「そうだね。あれは僕のものだ。遺言書に父親がなんと書いたかはわからないけど、大方の想像はつく」


そして順也は真剣な表情で「そしてその財産をどう使うかは、僕の自由だ」と自分に言い聞かせるようにつぶやいた。


「でも遺言書の保管場所を、忘れてるって聞いたけど・・・」


順也はかぶりを振る。


「実は嘘なんだ。遺産がどうとか、愛人とかめんどくさいことに、巻き込まれたくなくて、忘れたと嘘をついた」


さゆりは、笑い出しそうになるのを、なんとかこらえたが、頬がピクピクと上下してしまった。


「そっそうなんだ。本当に忘れているものだと思ってた。でもなんでそのことを、私に?」


「僕は・・・さゆりに遺産の半分を、渡してもいいと思ってる」


衝撃の発言に、さゆりは耳を疑った。



「えっうそ。なんで」


「さゆりが苦労してきたことを教えてもらった。・・・大変だったんだね。それに比べて僕は、甘やかされて楽な人生を生きてきたと思う。そんな君を少しでも助けてあげたいと思うんだ」


順也のまっすぐな眼差しが、彼が本気であることを証明していた。


「どうかな?」


「どうって・・・」


遺言書を探しにきただけなのに、まさかこんな話の展開になってしまうとは、想像していなかった。


金が手に入るのは嬉しいが、少しためらってしまう。


「嬉しいけど、なんて言えばいいのか」


「素直に受け取ってくれたらいいんだ。父の遺産は全て僕のものなんだから、どう使おうと僕の勝手だ。僕がさゆりに渡すと決めたんだから、周りに文句は言わせない」


順也の、険のある言い方が引っかかった。


本来のさゆりの目的は金であり、そのために勇也と結託し、今回の計画を実行した。


金がもらえるなら、勇也だろうと順也だろうと、どちらでも構わない。


しかも正式な相続人である順也が渡すと明言したのだから、これ以上の保証はない。


ある意味、さゆりの目的は達成されたことになる。


「そうだね。順也がそう言ってくれるなら・・・じゃあありがたく」


「あぁ」


順也が満足そうに頷いた。


「ちなみに遺言書はどこに保管してあるの?」


眉を少しあげた順也が「それはもうどうでもいいだろ」とぶっきらぼうに言った。


「遺産は全て僕のものになって、さゆりはその半分を手にすることができる。それで十分だ」


「・・・そうね」


それは重々わかっているつもりだったが、なぜか胸の奥に違和感が広がる感じがした。


「あまり嬉しそうじゃないね」


順也が寂しげに微笑む。


「そっそんなことは!・・・急な話で、ちょっと戸惑って」


慌てて否定するが、広がり始めた違和感が、消えることはなかった。


勇也の考えで、辛い過去の話を順也に聞かせ、同情を買い遺言書の場所を聞き出し、それをネタに取締役会と交渉し、金を手に入れる。


その予定だったが、いろいろ飛び越えて、財産の半分を手に入れることが出来た。


さゆりにとって、願ってもないことだが、ここまでうまくいきすぎていると、逆に怪しく思えてくる。


誰かの手のひらの上で踊らされているような、気味の悪さを感じた。


それに、さゆりには前々から、ずっと気になっていることがあった。


「財産を半分くれるなら、昨日もらった五万円は、返した方がいいかしら」


「・・・そうだね。ひとまず返してもらおうかな」


さゆりは、ズボンのポケットに手をやる。


「あれ。どこにしまったか、忘れちゃった。順也覚えている?」


「えっ・・・。確か制服のポケットにしまって、その後財布に入れたはずだよ」


「あー思い出した。確かここに・・・」


さゆりは、床に落ちていた制服を取り上げて、内ポケットの中を探った。


「ほらあった。ここに入れたままだった」


手に持った五枚の札を広げる。


「あっそうなんだ」


「財布には入れなかったはずだけど、順也、さっき入れたって・・・」


順也は、わざとらしく首を傾げた。


「いや・・・。お金は財布に入れるものかなって。まだ記憶が・・・曖昧みたいだ」


声がわずかに上ずっている。


さゆりは、順也から奪い取った五万円を、財布にはしまわずに、制服のポケットに入れたままにしておいたのだ。


ではなぜ順也は、財布にしまったと勘違いしたのか。


(そういえば)とさゆりには、思い当たる節があった。


勇也が順也と入れ替わる前に『財布にしまった』と嘘をついた。


別に悪気があって言ったわけではないが、つい口から出まかせを言ってしまった。


だが、別々の人格である順也と勇也は、お互いの記憶を共有していないはずだ。


つまり勇也にしか話していないことは、順也は知らない。


それなのになぜ順也は、財布にしまってあると勘違いしたのだろうか。


「とにかく、これは返すわ」と順也の目の前に差し出す。


「ありがとう」と順也が気まずそうに受け取った。


返された五枚の札をしまいながら、順也はふと手を止め、床をじっと見つめている。


その視線の先には、床に溜まった水たまりと底がへこんだペットボトルがあった。


それは数時間前に、さゆりが壁に投げつけたものだった。


「これどうしたの?」


順也が問いかける。


「あっそれは・・・」とさゆりの顔が、ほんの少し赤くなった。


「あーあ」とペットボトルを拾い上げると「全部こぼれちゃってるね。さっき新しいものを買ってきたから、それ飲む?」と言った。


「ありがとう・・・。えっ?」


さゆりが目を見開いた。


「どうした?」と順也が首を傾げる。


「・・・いつ買いに出たの?順也・・・あなたは、ここの部屋を一度も出ていないはず。唯一出かけたのは、私と・・・」


「えっ、あの・・・それは・・・」


しどろもどろになった順也が、冷や汗をかく。


コンビニに買い出しに出かけたのは、私と勇也の二人だけで、順也は昨日から一歩も部屋を出ていない。


順也と入れ替わった直後、勇也は腹が減ったと言って、おにぎりとペットボトルの水を買ってきた。


それらは、サイドテーブルに置かれたままになっているので、順也もとっくにその存在に気がついているはずだ。


だが、なぜそれを自分が買ってきたと言ったのか。


買ってきたのは、勇也なのに・・・。


眠っていた順也が、さゆりが買ってきたものだと勘違いしてしまったのなら、まだ理解できる。


しかし今はっきりと、自分が買ってきたと順也は言った。


「どうして、これを自分が買ってきたものだって言ったの?」


「そっそんなこと言ってないよ。さゆりが買ってきたものがあったから、それを飲んでって意味で―――」


「違う!今はっきり、自分が買ってきたものだって言ったじゃない!」


さゆりが語気を強めた。


「だから、それは・・・」


焦っているのか、順也の笑顔がひきつっている。


「やっぱり・・・。何か怪しいって思ってた。さっきの五万円のことも、なんで財布にしまったって思ったのよ」


「お金は、財布にしまうのが普通だろ」


「でも実際は、制服に入ったままだったじゃない」


「なんか思い違いをしてたのかな」と順也が、頭をかいた。


「違うわ。私が財布にしまったって、嘘を教えたからでしょ。それで勘違いしたんだわ。でもそのことを順也は、知らないはずよ。だってあなたは眠っていたんだから」


落ち着かない様子で、順也が目を泳がせる。


「本当は入れ替わっていないのかと思ったけど、それだと何か違う気がする。あなた達は記憶を共有していないって言ったけど、本当はお互いの記憶を共有できる。もしくは・・・」


「さっきから何を言ってるんだよ」と苦笑いを浮かべながら、額の汗を拭う。


「初めから勇也なんていなかった」


順也は冷静さを装っているが、動揺しているのがさゆりにはわかった。


「あなたは多重人格者なんかじゃない。ただそのふりをしていただけ。そう考えた方が合点がいく。一人で二人の人格を演じた。そうなんでしょ」


さゆりが鋭い視線を向ける。


何も言わず、黙って聞いていた順也は、突然大きな声で笑い始めた。


「突然何を言い出すんだ。多重人格者って何の話だよ」


「とぼけないで!なんかおかしいと、ずっと思ってた。さっきのこともあるけど、何よりおかしいと思ったのは、眠ると人格が入れ替わるってこと。そんな話、聞いたことないわ。今日だって、こんな都合よく何度も、入れ替われるはずがない。前は7時間、その前は10時間は勇也が出ていることができたのに」


「それはずっと起きてたからで、途中で眠っていたら、もしかしたら―――」


「ほら!今も」


驚いた順也がビクッと肩をふるわせる。


「勇也の話では、順也は自分が多重人格者であることを知らない。それなのに、何で今知ってるふうな話をしたの」


「・・・」


順也は唇を噛みしめた。


「もういい加減にして。こんな茶番劇につきあってられないわ」と呆れ顔で言った。


「・・・茶番劇ってのは言い過ぎじゃない」


不貞腐れたように、口元を尖らせた順也がつぶやいた。


「どういうつもり?」


明らかにさっきまでの順也の、物腰の柔らかい雰囲気と違う。


「うまくいくと思ったんだけどな」


その横柄な態度は、どちらかと言えば勇也に近い。


「どういうつもりって聞いてるのよ!」


憤ったさゆりが叫んだ。


まあまあと両手を広げた順也が、ソファに腰を下ろし、足を組む。


「お察しの通り、俺は多重人格者ではありませ~ん」


「なんでこんなことを・・・」


「なんで・・・。そうだな」


顎に手をやると、視線を上に向ける。


「しいて言うなら、面白かったから・・・かな」


「ハア!」


憤慨したさゆりが、眉間を¥に皺をよせ顎を突き出した。


「まあまあ。ちゃんと説明するから」


順也は横にズレると、隣に座るよう、目線で示した。


それを無視したさゆりは、壁にもたれて腕を組んだ。


「つれないなー」


順也が口をへの字に曲げる。


「結局、今は順也なの勇也なの?」


「んー、どっちでもないな。名前は衿崎順也だけど、それはあくまで一つの呼び名でしかない。もしかすると、順也も勇也も最初からいなかったのかもしれない」


わざと、ややこしい言い方を、しているのだろうが、要するに始めから順也しかおらず、あくまで勇也という人格は、順也が演じていたということだ。


「もう順也でいいわ。それで、なんでこんなことを?」


「だから、おもしろ―――」


「ふざけてないで、ちゃんと理由を説明して!」


強い口調で、順也の言葉を遮った。


順也は少しだけ顎を引くと、やれやれと首を横に振る。


「最初は本当に、面白かったんだ」


順也は、わずかに声を落とした。


突然の事故で愛する母を失い、そのショックが原因で塞ぎこんでいたことは事実だ。


しかしそれ以上に、幼い順也の心を煩わせたのは、周囲の大人達の態度だった。


悲惨な事故と身近な人の死によって、精神を病んでしまったと考えた大人達は、順也に気を使い過ぎて、まるで腫れ物に触るような態度をとった。


そんな大人達の態度から、疎外感と孤独感を感じた順也は、無理をして明るくふるまうことで皆を安心させ、かまってもらおうとしたのだ。


ところが、それまでのおとなしかった順也とは、180度違う豹変ぶりを目にした主治医が、事故のショックが原因で、別の人格が生まれてしまったのだと、誤診を下してしまったことで、事態はさらにややこしいことになってしまう。


主治医のその診断に、最も戸惑ったのは、順也自身だった。


皆を心配させまいと、明るく振舞っただけなのに、別の病気だと疑われてしまった。


最初は、正直に白状しようと思っていた順也だったが、慌てふためく大人達の顔を見て、このまま演じるのも面白そうだと、子供ながらの悪戯心が生まれた。


一度、嘘をついてしまうと、ずっとその嘘を、つき通さなければならない。


結局順也は、勇也と名乗る別人格を、ずっと演じ続けることになってしまった。


「だから、正直言うと、ホッとしてる。これでもう、めんどくさいことをしなくて済む。記憶が共有できないことや、順也が勇也の存在を知らないこととか、いちいち辻褄を合わせないといけなかったから、結構大変だったんだ。自分で作った設定だったんだけど、複雑にしすぎたって後悔したよ」


長年背負ってきた肩の荷を下ろした順也は、ホッとした表情を浮かべた。


だがそんな説明では、さゆりは到底納得がいかない。


「子供の悪戯に、私はつきあわされてきたわけ」


怒りに打ち震えたさゆりが、奥歯を噛んだ。


「だから、それは謝るって」


全く悪びれる様子のない順也の態度に、さゆりは怒りを通り越して、ただただ呆れてしまう。


「もういいわ・・・。じゃあさっさと遺言書の場所を教えて」


「あー・・・」


「とぼけないで。私の目的は、最初からそれよ。遺言書を手に入れて、その代わりに報酬をもらうの。もうこんなことに、つきあわされてるのは、うんざりよ。さっさと白状して」


「でも白状したら、取締役の強欲じじいどもに、渡すつもりだろ。それは困るんだよね」


「もう私には関係ないわ」


冷めた口調でさゆりが言った。


「だからさっき言ったじゃん。遺産の半分を渡すから、協力してくれって」


「あの時と今じゃ、事情が違う。多重人格だって人をだます相手を信用できると思ってる?遺産を餌に、私を騙すつもりだったんでしょ」


「そんなわけないよ!本当に遺産の半分を渡すって」


「だからそれが信用できないって言ってんの!」


「・・・どう言えばいいかな」


順也が頭をひねる。


「正直なことを言うと、俺は遺産になんて興味がない」


勇也の時と言ってることが違う。


「俺一人が、生きていくだけの金なら、なんとかなるし、金なんてたくさんあっても、めんどくさいだけだと思ってる」


真剣な表情の順也が、別人のように見えた。


「金持ちのボンボンが何言ってんだって思うかもしれないけど、家を出てからは、一円ももらってない。会社の連中が遺産をよこせって言うなら、別に渡してやってもいい」


「じゃあそうしなさいよ」


順也の横顔がくもった。


「それは・・・今すぐは無理だ」


「なんで?」


「それも・・・今は言えない」


「ほら。やっぱり信用できない。悪いけど、順也が多重人格者のふりをしてただけだって、取締役会にばらすわよ。遺言書の保管場所もちゃんと覚えてて、私たちをからかって、裏で笑ってただけだって」


慌てて順也が、腰を浮かす。


「待ってくれ!今はダメだ。いずれ俺の方から、連中には説明する。だからそれまで待ってくれ!」


「ハァー!今まで散々好き勝手やってきて、そんなことが通用すると思ってるの」


「これまでのことは本当に申し訳なかったと思ってる。金もやるし、土下座でも何でもする。だからそれだけはやめてくれ!」


突然狼狽え始めた順也が、膝に手をついて、深々と頭を下げた。


順也が態度を急変させたことで、面食らってしまったさゆりだったが、すぐに悪い考えが頭に浮かんだ。


「じゃあ、こうしましょう。遺産を全部、私にちょうだい」


「えっ」と順也が顔を上げる。


「えっじゃないわよ。さっき言ったじゃない。金に興味はないって。だったらいいでしょ!」


「それは構わないが・・・」


左右に目を泳がせた順也が、口を濁す


「何よ。迷うようなことじゃないでしょ」


煮え切らない態度を、訝しく思った。


「俺はいいんだけど、会社の連中が何て言うか」


「遺言書には、順也に全額渡すって、書いてあったんでしょ。その後、相続人がどう使おうと勝手じゃない。・・・さっき自分で言ってたわよ」


「そうなんだけど、さすがに全額となると・・・」


結局、ある程度の金を、自分の手元に残しておきたいと言うことか。


「あんたって本当に自分勝手ね」


「そう思われても、仕方ないことだと思ってる。でもさすがに全額は・・・」


「だったら全部ばらす」


冷めた口調でそう言うと、順也がゆっくり頷いた。


「わかった・・・。全額をさゆりに渡す」


「・・・最初からそう言えばいいのよ」とさゆりは吐き捨てるように言った。


順也は肩を落とすと、ソファに腰を下ろし項垂れてしまった。


その様子を満足げな表情で、さゆりは見つめていた。



いつだってそうだ。


嫌なこと辛いことは、全てこっちに押し付けられる。


あの時だって・・・。


だから許さない。


絶対に・・・。


「ねえ。ひとつ聞いてもいい?」


「・・・何?」


順也が目線だけを動かし、さゆりを見た。


「母親が死んだのは、順也のせいだって、勇也が言ってたけど、あれって変じゃない?だって結局多重人格者じゃなかったんだから、勇也なんて存在しない。悪いのは全部自分じゃん。それにあれって車の事故だったんでしょ。本当に悪いのは突っ込んできたトラックの運転手であって、子供だった順也には、どうしようもないと思うけど」


「あれは・・・言いたくない」と顔を背けた。


「何それ。どうせ、悲劇の少年を気取って周りからちやほやされたかっただけでしょ」


「違う!」


バッとこちらを見た順也が、怒りで顔を赤くする。


「あれは・・・。元々あの日は、出かける予定なんてなかったんだ。それを俺が、わがままを言って、海が見たいって言ったから、母さんが仕方なく車を出してくれたんだ。あの時俺がそんなこと言い出さなければ、母さんは死なずに済んだ!だから・・・順也のせいだ」


「ほら、悲劇の少年ぶってる」


さゆりが冷めた口調で言う。


「多重人格者のふりをして、大人をからかってみたり、自分が一番この世で不幸だって卑下してみたり・・・。あんたって本当に、どうしようもないわね」


「別にいいだろ・・・。そんなこと、さゆりに言われたくない」


順也がソファに、深々と腰を沈めた。


「よく見なさいよ。あんたなんかより、苦しい思いをしてる人は、いっぱいいる。自分だけが特別だなんて思わないでよ」


「そんなこと思ってない」


「思っているわ。自分でそのことに気が付いていないなんて、一番タチが悪い」


「さゆりは・・・自分が一番不幸だって言いたいのか」


「・・・そうね。私の昔話を二回も聞いてるから、もうわかるでしょ。信頼し始めた男に傷つけられ、母親は私を残してさっさと死んでいった。こんな不幸なことはないわ」


「二人を憎んだりしないの?」


「憎んでるわよ。今でもあの二人の顔を思い出すだけで、虫唾が走る。でも一番憎いのは・・・」


「一番憎いのは?」


「・・・今更私の話をしても、しょうがないでしょ。それより今何時よ」


時計の針は、午前四時を差し示していた。


「あんたのせいで、一睡もできなかったじゃない。お腹すいたから、何か買ってくる」


「じゃあ俺の分も―――」


「知らない。自分で用意しなさい。私がいない間に、逃げたって無駄だから。あんたの秘密を握ってるのは、私なんだから」


「こわっ」と肩をあげ、おちゃらけている順也が、憐れに思えた。


「ホントにバカ」


そう言い残すと、さゆりは部屋を出て行った。


数分後、さゆりが部屋に戻ってくると、順也の姿が消えていた。


さゆりは大きなため息をつくと、フラフラと洗面所へ向かい、浴室の扉を開ける。


後ろで束ねた髪をほどきながら、壁にあるスイッチを押すと、白い湯気を上げながら、大きなバスタブの中に、お湯が溜まり始めた。


服も下着も脱ぎ、全裸になったさゆりは、洗面台の鏡に写る自分の姿に、ふと目を止めた。


白く透き通るような素肌に、細身のウエスト、張りのある、形の整った乳房。


美麗で魅力的な身体つきをしているが、その奥はすでに穢れている。


理不尽な暴力を前に、小さく、力の弱い存在は、屈服するしかない。


必死に抗っても、凶暴な力には、歯向かうことはできない。


―――それは仕方のないことだ


そうやって自分に言い聞かせてきたが、心にぽっかりとあいた空洞を、塞ぐことはできなかった。


『時間が経てば、いずれ忘れる』と無責任な大人に言われたことがある。


ならばそれはいつだと聞き返すと、言葉を濁した。


無責任で身勝手な言い分に、無性に腹が立った。


それと同時に、誰にも理解はされないと、諦めの気持ちが生まれた。


―――もういい。


こんないびつな形でしか、私は生きていけない。


鼻の奥がつんと熱くなり、鏡に写る自分の姿が歪んで見えた。


その時、目の前が突然真っ暗になった。


停電でも起こったのか、部屋中の電気が消えている。


驚いたさゆりが、その場から動けないでいると、背後で何かが動く気配がした。


すると後ろから腕と背中を掴まれ、そのまま床に倒された。


胸をしたたかに打ったさゆりは「あぐっ」と声を上げる。


うつ伏せに倒れたさゆりは、今度は肩を掴まれ、強引に仰向けにされた。


真っ黒な影が、視界を覆う。


「誰よ!やめて!」


必死に抵抗するが、真っ黒な影はビクともしない。


そのうちに、両手首を掴まれてしまい、床に押し付けられるかと思うと、胸の間をザラザラとしたものが、這う感触がした。


「ひっ」


おぞましい感触と恐怖で鳥肌がたつ。


「ふざけないで!やめなさいよ!」


今度は影の股間に膝蹴りを見舞うが、すんでのところを腕で防がれてしまった。


その腕がスッと動いて、さゆりの股間をまさぐる。


あの時の絶望と屈辱、痛みが、脳裏に蘇った。


男の臭い息が、鼻腔の奥を漂う。


「お願い!やめて・・・」


さゆりが涙声を上げると、ピタッと相手の動きが止まった。


「―――やっと会えた」


聞き覚えのある声に、ハッとする。


影がさゆりの身体から、離れる気配がしたかと思うと、パッと電気がついた。


眩しさに目が眩む。


よく見ると、洗面台の前に順也が立っていた。


「まさか・・・。あなたが―――」


気まずそうに順也は、頭をかいた。


「すまない。この方法しか思い浮かばなくて・・・。でも、やっと会えたな」


―――しおり・・・さん。


さゆりが目を見開いた。


「しっしおりは偽名だって言ったでしょ。私はさゆり―――」


「違う。さゆりは偽名だ。いや、正確には偽名じゃないな。しおりもさゆりも実際に存在する」


「いったい何を言って―――」


「それより服を着てくれないか・・・」


気まずそうに、順也が目を背けた。


自分が裸であることを、忘れていたさゆりは「キャッ」と胸元を隠した。


『お湯はりが完了しました』と風呂場から、機械の無機質な声が聞こえた。



服を着たさゆりは、リビングの隅で壁にもたれている。


「できたら近くまで来てもらえると、話やすいんだけどな」


順也が苦笑いを浮かべる。


「・・・」


さゆりは、何も答えない。


「まあいいや。さゆり、いやしおりさん。君と話がしたかった」


目元を綻ばせた順也が、柔らかい声で言った。


うつむいたさゆりは、キュッと口を固く結ぶ。


「君が話したくないなら、俺が一方的に話すから、聞いてくれ」


真剣な眼差しを、さゆりに向けた順也は、軽く咳ばらいをした。


「父親から遺言を預かった俺は、初めは読まずに処分するつもりだった。めんどくさいことになるのは、目に見えていたからね。強欲な取締役会が黙ってないと思ってたし、後々遺恨を残すくらいなら、遺産はどこかに寄付でもしようかと考えてた。そんな時に、君や他の女性が、父親と関係があったと、突然現れた。父親と疎遠だった俺には、判断ができなかった。君たちの言っていることが、本当なのか嘘なのか。そして悩みに悩んだあげく、遺言書の中身を見ることに決めた。もしかすると、君たちのことが書かれているかもしれない。そうなったら、遺産は君たちのものになるし、取締役会も手が出しにくくなると思ったんだ」


さゆりが、ほんの少し唇を噛んだのがわかった。


「よくよく考えれば、遺産が君たちに渡ったところで、取締役会が黙るわけはないんだけどね。あの時はそう考えた。そして遺言書を開封し、中身を見た―――」


わずかな逡巡と、ほんの少し興奮の混じった淡い瞳で、さゆりを見つめる。


「そこには、遺産のことなんか、一ミリも書かれていなかった。そこに書いてあったのは・・・」


―――君たちのことだ。


父親の遺言書に書かれていた内容は、遺産のことではなく、彼の贖罪だった。


彼は順也の母親が生きていたころ、別の女性と何年も肉体関係をもっていた。


やがてその女性は妊娠し、女の子を出産する。


妻が事故で急死してしまったのをきっかけに、父親とその女性の関係は終わりを迎えるが、まだ幼かった女の子は、そんなこと知る由もなかった。


数年後、父親はその女性が自殺したことを知る。


父親と別れた後、彼女がどんな生活を送ってきたのか、そして残された女の子は、どうなったのか。


方々手を尽くして調べ上げた父親は、彼女が別の男性と生活を共にしていたこと、その男性が突然姿を消したこと、そしてその男性が娘を襲ったこと、それらの事実を知った。


彼は彼女が自殺したことも、娘が傷ついたことも、全ては二人を捨てた自分の責任だと、遺言書の中で懺悔していた。


そして傷ついた娘には、ある変化が起こっていた。


「その娘の名前は『五十嵐しおり』。・・・君だ」


驚いたさゆりが、顔を上げ壁から身体を浮かせる。


「つまり俺と君は、腹違いの兄妹ってこと。笑えるよね」


苦笑した順也が、肩をすくめた。


「でも問題は、この後だ・・・」


母親の内縁関係だった男性から、性的暴行を受けたしおりは、その苦痛から逃れるため、別の人格を形成してしまう。


「それが『五十嵐さゆり』。そう、君は・・・多重人格者だ」


しおりはすっと視線を外した。


その反応を見た順也は、合点がいったと言わんばかりに、大きく頷いた。


「やっぱり知っていたんだね。自分の中に、もう一つの人格があることを・・・」


また壁に背中をつけたしおりは、まっすぐ前を見つめた。


しかしその虚ろな瞳には、何も写っていないようだった。


しおりの様子を訝しく思ったが、話を続ける。


「今表に出ているのは『しおり』さんだよね。さっきまでは『さゆり』だった。というか、ほとんど表に出ていたのは『さゆり』の方だろ。君はどれくらいぶり?」


順也の問いかけにも、何の反応も示さない。


「まあいいや。俺は『しおり』さんと話がしたい。ほんの数分でいいから、今は交代しないでくれ」


虚ろな瞳がまるで何かを訴えかけるように揺れた。


「遺言書・・・いや告白文かな、あれは・・・。あの中には、君への謝罪も書いてあった。迷惑をかけてすまなかったって。今更何言ってんだとも思ったけど、父親なりに反省はしてるみたいだった。別に俺から、父親を許してやってほしいなんて言うつもりはないよ。ただ君のことを想っている人がいることを、覚えておいてほしい」


しおりの瞳が、ガラス玉のように鈍く光ってるのが見えた。


「当然、父親は君の中に『さゆり』がいることも知ってる。だから―――」


「もういい・・・」


喉が張り付いているような、ザラザラとした声が聞こえた。


ふと見ると、しおりがじっと順也を見据えている。


その目の端には、光るものがあった。


「もういい。それ以上は聞きたくない。同情してほしくもない」


口調は冷たかったが、語尾がほんの一瞬震えていたのを、順也は聞き逃さなかった。


口を閉じた順也は、次の言葉を待った。


「・・・あなた達に何がわかるの。私がどれだけ・・・怖い思いをしたか。あの男に弄ばれている間中、ずっとお母さんに助けを求めていたのに、来てくれなかった。それなのに勝手に死んじゃって・・・。私がどんな思いだったか、あなたにわかるの!」


しおりの顔が、徐々に紅潮していく。


「わかるわけない!お金があって、何の苦労もしてこなかったあなた達に。いいでしょ!誰か別の人に押し付けても!だって、あんなの・・・耐えきれなかった」


最後の方は、涙声になっていた。


「・・・悪いなんて言ってない。君が勝手に、そう感じてるだけだ。同情するつもりはないけど―――」


「ならもう言わないで!」


しおりが両手で耳を塞いだ。


「・・・『さゆり』はどう思ってるんだろうね」


しおりがかすかに反応したのが見えた。


「君の苦痛や悲しみを、受け止める器として生まれた彼女は、何を思って、どう感じてるんだろうね」


順也がわずかに、首を縦に振った。


「実は、君が多重人格者だと、父親に教えたのは『さゆり』なんだ」


バッと振り返ったしおりは、驚愕の表情を浮かべている。


「やっぱり、そのことは知らなかったのか・・・。全部、遺言書に書いてあったよ」


ある日、父親の元を、見知らぬ女性が訪ねてきた。


その女性を一目見た瞬間、父親は雷に打たれたような衝撃を受けた。


昔自分がつきあっていた女性と、瓜二つだったからだ。


女性と二人きりで会った父親は、開口一番、謝罪の言葉を口にした。


「母親を自殺に追い込んだのは自分だ。娘である君にも本当に迷惑をかけた」


深々と頭をさげ、涙ながらに訴える父親の姿を、彼女はじっと見つめていた。


彼女は、『しおり』が多重人格者であること、自分は『しおり』の影の存在であり、『さゆり』と名乗っていると、父親に伝えた。


まさかそんな事態になっているなんて、夢にも思わなかった父親は、驚きまた自分を責めた。


『さゆり』はそんな父親の姿に怒り、口汚く彼を罵った。


父親は、二人のためなら何でもする、必要なら金も用意すると平伏したが、『さゆり』は「そんなものはいらない」と首を横に振った。


「じゃあ何をすれば・・・」と困惑する父親に向かって『さゆり』は、「しおりを救ってほしい」と言った。


父親が目を点にしていると、『さゆり』は「自分の存在が『しおり』を苦しめている」「彼女は私がいる限り、あの悪夢から逃れることができない」と、悲痛な表情を浮かべた。


「しかしどうすれば・・・」と父親は困惑した。


その時浮かんだのが、同じ多重人格者である順也のことだった。


父親は同じ症状を持っている順也であれば、何か知っているのではないかと考えたのだ。


「それで俺のところに、遺言書と称した告白文を送ってきたわけ。でも残念ながら、俺は偽物だ。多重人格者の気持ちなんて、わかるわけがない」とかぶりを振る。


順也の話を黙って聞いていたしおりは、「なんなのそれ!」と憤慨した。


「裏でこそこそ、私をバカにしてたわけ!」


「そうじゃない。『さゆり』は本気で君のことを救おうとしてる」


「私はそんなこと望んでない!」


唖然とした順也が、言葉を失う。


「私は今のままでいいの!嫌なことは全部『さゆり』に押し付けて、見ないようにすればいい。それで私は、何も感じないしもうこれ以上嫌な思いをすることもない!」


順也は、苦しそうに顔を歪めた。


そんなはずはない。


これから先の嫌なこと、苦痛を全部『さゆり』に押し付けたとしても、あの時の痛みや悲しみが消えることはない。


背を向けて、どれだけ目を背けても、『しおり』の身体が、頭が、感情が全てを覚えている。


『さゆり』という存在で、ごまかそうとしてもそんな簡単に無くなることはない。


(どうしたらいい)


多重人格者のふりをしていただけの、自分がどんな言葉をかけても、今の『しおり』には届かない。


それができる人物は一人しかいない。


「『さゆり』聞こえるか」


しおりが訝しげに目を細めた。


「何を言ってるの?」


「聞こえてるんだろう。俺ではここまでが限界だ。不本意だが、お前に頼るしかない」


スッと目を閉じたかと思うと、顎をあげた。


「不本意っていうのは、どういう意味よ。元はと言えば、あんたがバカなフリをしたから、ややこしくしたんでしょ」


目を開け、見下すような眼差しでさゆりが言った。


「だからそれは謝っただろう。父親にも悪いことしたと思ってるよ。でもまさか自分に腹違いの妹がいて、しかも本物の多重人格者だなんて・・・。そんなことあるとは思わないだろ。元を正せば、不倫してた父親が悪い」


あきれ顔でため気をついたさゆりが、外国人のように両手を広げた。


「責任転嫁しても、何の意味もないわよ。あんたが頼りにならないとわかったら、お父さんはがっかりするでしょうね」


嘲笑を浮かべたさゆりに対し、無性に腹が立ったが、今は言い争いをしている場合ではないと、気持ちを鎮めた。


「だから、お前を呼んだんだ。『しおり』を救えるのはお前しかいない」


「はいはい」とめんどくさそうに、頭を振った。


「それで・・・うまくできそうか?」


さゆりが、口元を引き締めた。


「やるだけやってみる」


順也は、さゆりの真剣な顔を見て、ふとある疑問が頭に浮かんだ。


「なあ。一つ聞いていいか」


「何よ」


「『しおり』さんが立ち直ったとしたら、お前はどうなるんだ」


「さあ。どうなるのかしらね」


わざとらしく肩をすくめたさゆりの姿が、なぜか寂しげに見えた。


「やっぱりそうなのか・・・」


「あんたが心配するようなことじゃないわ」


―――あなたは妹を大事にしなさい。


順也は、唇を噛みしめると、力強く頷いた。



ここは、いつもの夢の中だ。


右も左も上も下もわからない。


真っ白な何もない空間の中で、ふわふわと身体が浮いている。


このままこの空間の中に、溶けて消えてしまうのではないか。


今回は、その感覚がいつもに増して、強く感じられる。


(今日で消えちゃうのかな)


ぼんやりとそんなことを思った。


(それも・・・いいかな)


このまま消えても何の後悔もない。


生きていても辛いだけだ。


嫌なことをすべて、もう一人に押し付けても、私の傷が癒えることはないし、気持ちが満たされるわけでもない。


見ないように目をつむっても、いつも私の中にある。


満たされない心の隙間を、埋めているのは、あの男の臭いと私を見下ろす気色の悪い笑み、そして母親の亡骸だった。


変えようのない現実と、空虚な夢想の狭間を漂っているだけで、揺るがない事実は、私の周囲を常に覆いつくしていた。


覆ることがないのなら、もう終わりにしよう。


ここまで生きてきたのが、間違いだったんだ。


その時、背後に人がいる気配を感じた。


「ちゃんと会うのは、初めてね」


声のした方に、顔を向けると私が立っていた。


いやあれは私ではなく『さゆり』か。


鏡を見ているのかと錯覚してしまうほど、私と瓜二つだった。


ニッと口角を上げたさゆりが、足を一歩前に出した。


「さっきから消えようとか、終わりにしようとか考えてたみたいだけど、その前にちょっと話さない。せっかくこうやって会えたんだから」


(どいつもこいつもさっきからいったい何のつもり)


「あなたまで順也みたいなことを言うのね。何?文句でも言いたいの。苦痛を全部あなたに押し付けたのが、気に入らないんでしょ」


「まあね。いい気分じゃないわね」


「だったら、これからは好きに生きたらいい。私はもう表に出るつもりはないから、あいつの遺産でも何でも受け取って、『五十嵐さゆり』を楽しめばいい」


「あなたはそれでいいの?」


「・・・もう疲れた」


「疲れるほど、生きてないと思うけど」


「あんたに何がわかるの!」


「わかるわよ。私はあなたで、あなたは私。考えてることも、手に取るようにわかる」


「だから何?知った気になって説教しないで!」


「あのさ、その言い方は、卑屈キャラの私の役目なんだけど・・・」


微笑したさゆりが、自分の胸を叩いた。


「まあ、あなたがいらないって言うなら、この身体をもらうわ。まだまだやりたいこといっぱいあるし」


「・・・好きにすれば」


視線を落としたしおりが、少しだけ寂しそうに見えた。


「あなたはどうするの?ずっとここに引きこもってるつもり?」


「もうわかってるでしょ。いつまでも、ここにはいられない。いずれ一人になる」


つまりどちらかが、消えると言うことだ。


「元々、こんな状態でいることが、間違ってたのよ。一つの身体に、二つの人格。いつまでも、保てるものじゃない。現にほら―――」


しおりが右手をあげると、その手のひらが、薄く透けているのがわかった。


「あなた、いつから―――」


息を飲んださゆりが、少しだけ目を見開いた。


「そんなのどうでもいいでしょ・・・」と吐き捨てるように言うと、目頭から一滴の涙がこぼれ落ちた。


目から零れた涙が、しおりの足元で白い光の中に吸い込まれてしまうと、その場所から、黒い波紋が広がり始めた。


ゆっくり、少しずつ広がる波紋は、二人の足元を徐々に黒く染めていく。


「ほら。いずれここも無くなる。早く出て行ったほうがいいわ」


「あなた、まさか一緒に心中するつもり」


しおりは、否定も肯定もしない。


「ここで消えるっていうなら、私は止めないけど、これだけは覚えておきなさい」


そう言って、大股で近づいてきたさゆりが、消えかけているしおりの右腕を掴んだ。


「あなたは・・・悪くない」


驚いたしおりが、目を見張る。


「あなたのせいじゃない!」


さゆりは、右腕を掴んでいる手のひらに、グッと力を込めた。


しおりが戸惑いながら首を横に振る。


「言ったでしょ。私はあなただから、考えることが、手にとるようにわかる。あなたはずっと自分を責めてる。あの男に犯されたのも、母親が自殺したのも、全部自分が悪いって思ってる」


さらに激しく首を横に振ったしおりが、「離して」と腕を振り払おうとする。


しかし、さおりの腕は、びくともしない。


「あの男に犯されている時に、もっと拒めばよかった。いや、それ以前に男の態度が変わり始めた時に、もっとちゃんと拒絶しておくべきだった。一人になったお母さんをしっかり支えるべきだった。傷ついたお母さんの気持ちに寄り添ってあげるべきだった。そう思っているでしょ!」


「いや・・・やめて」


大粒の涙を流しながら、訴えるしおりを無視し、さゆりは容赦なく続ける。


「私が悪い。全部悪い。こうなったのは、全て私のせいだ」


「もうやめて!」


肩を上下させながら、ハアハアとしおりの荒い息づかいが聞こえる。


そんなしおりの感情に呼応するように、黒い波紋の浸食が勢いを増した。


すでに足元は一面真っ黒に染まり、あっという間に、頭上にまで到達する。


掴まれていない左腕で、頭を抱えたしおりは、「いやー」と叫び声を上げる。


その時、しおりの身体を引き寄せたさゆりは、力いっぱい抱きしめた。


「そうじゃない。・・・あなたは悪くないよ」


そっと髪をなでたさゆりは、ゆったりとした柔らかな口調で言った。


「幼いあなたを、自分の欲望を満たすためだけに、手にかけたあの男が悪い。残されたあなたがどんな思いをするか、考えもなしに、自分のわがままを通した母親が悪い」


しおりが息を止めたのがわかった。


「あなたのせいじゃない」


―――あなたは悪くない。


しおりの身体が、小刻みに震え始めた。


「もう自分を責めないでいいの」


立っているのが辛くなり、膝をついたのか、肩口にあったしおりの頭が、突然胸の辺りまで下がった。


「本当に・・・」


しおりが顔をあげた。


そこには、中学生の頃の幼いしおりがいた。


これが本当のしおりの姿だった。


しおりは、男に犯され、母親を失った時から、ずっと自分の中の時間が止まっていた。


しおりの正体に、薄々気がついていたさゆりは、わずかに眉を上げただけだった。


「本当に、私のせいじゃないの?」


涙で腫れた瞼と赤く染まった鼻頭が、幼いしおりを象徴している。


さゆりは、大きく頷くとさらに強くしおりを抱きしめた。


周囲を埋めつくしていた黒い波紋の浸食は止まり、元の白い光が輝きを取り戻し始めた。


しおりは、さゆりの胸の中で、声を上げて泣いた。


思えばあの時から、しおりは泣くことを忘れていた。


男に犯されてる時も、母親の葬式の時も、涙を流さなかった。


絶望的な出来事の連続に、心がついていけなかったこともあるが、それ以上に、自責の念に苛まれていたことが大きい。


全ては私の不甲斐なさが招いた結果であり、責任は全て私にある。


そんな私には泣く資格がない。


幼く小さな胸の内が、刻まれ張り裂けそうなほど、しおりは自分自身を責め続けた。


いつか癒される時が来るのか、もしくは救われる時が来るのか。


淡い理想を思い浮かべながら、心の奥でそっと身をひそめていた。


外のことは全部『さゆり』に押し付けて・・・。


しおりの泣き声に呼応するように、白い光を取り戻した空間が、徐々に収縮を始めた。


さゆりは、自分の意識が段々と薄れていくのを感じた。


見ると、足先から少しずつ消え始めている。


微笑みを浮かべたさゆりは、泣きじゃくるしおりをきつく抱きしめた。



一カ月後・・・。


順也としおりは、父親の葬式に参列していた。


遺言書そのものが、存在しなかったことを知った取締役会は、一様に安堵の色を示したが、しおりが実の娘であることを話すと、一斉に騒然となった。


動揺する取締役会を前に、順也は遺産を全て放棄すると宣言し、しおりもまた遺産を相続しないことを伝えた。


二人は、ポカンと口を開け呆然としている取締役会を残し、その場を後にした。


一度だけしおりに、本当にいいのかと尋ねたことがある。


その時しおりは、「お金が欲しかったのは『さゆり』だから」と笑顔を浮かべた。


朗らかなその笑顔に、順也はほっと胸をなでおろした。


火葬も終わり、参列者にお礼の挨拶をすませた順也は、しおりの姿が見当たらないことに気がついた。


周りを見渡したが、その影すら、見つけることができない上に、携帯電話もつながらない。


いったいどこに行ってしまったのか、キョロキョロと周囲に目を走らせていると、「すみません」と葬式場のスタッフから声をかけられた。


「先ほど、ご親族の方がもうお帰りになるとおっしゃって・・・。まだ最後のご挨拶が残っていますとお伝えしたのですが、用があるからと出て行かれましたが、よろしかったでしょうか」


おそらくその親族というのは、しおりだろう。

「どこに行きましたか?」と尋ねると「あちらへ」と火葬場の出口を示した。


彼女を連れ戻してくるから、参列者にはもう少し待ってもらうように伝えてほしいと、スタッフに頼み、順也は出口に足を向けた。


火葬場の周りを囲む針葉樹が、早春の穏やかな風に揺られて、サーサーと心地よい音色を奏でている。


さんさんと降り注ぐ陽光に照らされた、新緑の葉が光の粒ように、ピカピカと輝いている。


その光の緑の下に、真っ黒な喪服を着たしおりが立っていた。


「しおり?」


順也が声をかけると、わずかに頭が揺れた。


「もう帰るのか?」


こちらに背中を向けたまま、しおりは何も答えない。


「ありがとう。今日は来てくれて・・・」


しおりがゆっくりと振り返った。


針葉樹の影が、しおりの顔にかかる。


「もうこれで会うことはないかもしれないけど、何か困ったことがあれば、いつでも頼ってくれていい」


「・・・わかった」しおりは口元を綻ばせると「何かあれば連絡させてもらうかもね」と言った。


「あぁ」


その時二人の間を、強い風が吹いた。


大きな塊のような風は、順也としおりの間を通り、周りを囲む針葉樹を揺らす。


ザァーと葉のこすれあう音が、順也の耳に響いた。


その雑音の中に紛れるように、「じゃっ」としおりが片手をあげた。


風と葉のこすれあう音でしおりの声が聞こえなかった順也は、首を傾けた。


しかししおりは、そのまま踵を返し、振り返ることなく火葬場を出て行ってしまった。


足早に遠ざかる後ろ姿を見つめながら、順也はもう二度としおりに会うことはないのだろうと、予感めいたものを感じた。


それから何年か経ったある日、古びた木造のアパートの一室で、一人息絶えている『五十嵐しおり』の遺体が発見された。


<了>

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小説「三つの人格」 小説家 川井利彦 @toshi0228

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