第26話 ありがとう

「――ここは?」


 普段よりも低音質の声を漏らしたのはヴィルヘルムだった。

 それも当然だろう。

 彼は目覚めたばかりなのだから。


「陛下の寝室ですよ」


 シリカが穏やかな表情で答える。

 ヴィルヘルムはベッドに横になっている。

 シリカはベッドのすぐそばの椅子に座り、ヴィルヘルムを見ていた。

 ヴィルヘルムの寝室には、簡素なベッドと小さなテーブルとクローゼットがあるだけだった。

 それはおよそ、王の寝室とは思えないほどに侘しい様相だった。


「体の調子はいかがですか? どこか痛んだりは……」

「問題ない。痛みもない。ただ少々身体が重いが」


 ほっとシリカは胸を撫で下ろした。

 ヴィルヘルムが上半身を起こそうとすると、そっと手を貸した。


「何が起きたのか覚えていらっしゃいますか?」

「……ああ。覚えている。城前で起きた騒動も、そなたと余もそれに巻き込まれたことも。そして……己が死んだことも」


 ヴィルヘルムは過去を想起するように目を閉じる。


「痛みや意識は薄れ、次第に……闇の中に溶けるような感覚だった。深い場所へと沈み、恐ろしいはずなのに感情はなく、無機質に理解した。余は死んだのだと……だが、その中で光を見た」

 再び目を開け、緩慢にシリカへと視線を移した。

「温かな呼び声と共に、余はその光に手を伸ばした。そして、今ここにいる。あの後……余は気を失ったのか?」

「はい。突然倒れてしまわれて。そのまま寝室へお運びしたのです」

「手間をかけたな」

「当然のことです。私を庇ってのことなのですから。そのおかげで私は無事でいられた……ありがとうございます、陛下」

「よい」


 たった一言、それだけで済ましてしまった。

 シリカは、何かを言いかけてぐっと堪えた。

 ヴィルヘルムは自身の胸を触る。

 そこにはもう傷は存在しない。

 確認するようになぞり、そして安心したように手を下ろした。


「……夢ではないのだな。余は……蘇った」

「とても信じられないことですが」

「余の知っている限りでは、聖女は人を生き返らせることはできぬはず」

「その通りです。私も聖女だった時、癒すことはできても生き返らせることはできませんでした。それは歴代の聖女もそうです。蘇生聖術……『リザレクション』は伝説の聖術。伝承として残されてはいますが、実際に使えた聖女はいません」

「では、なぜ?」

「私にもわかりません」


 リザレクションのことは聖女であれば誰でも知っている。

 聖女に関する書物に記載されているからだ。

 しかしその書物の出所は不明であり、そして聖女の成り立ちや起源もまた曖昧である。

 元聖女のシリカであっても、聖女に関して知らないことは山ほどある、ということだ。


「その蒼髪と蒼眼、そして手の甲の聖印は、聖女の証で間違いないな?」

「はい。間違いなく」

「では、聖ファルムス国の現聖女は力を失った、ということか。聖女は世界に一人しか存在しないはずだな?」

「そのはずですが……それもわかりません」

「なにゆえだ?」

「本来、聖女の力は受け継ぐもの。次代の聖女は聖印の兆しと聖神様の啓示を受け、聖ファルムス国の大聖堂にて聖女の力を継承します。それは前聖女の意思に関わらず決行され、聖神様のご意思で行われるのです。私には兆しも啓示もなく、そしてロンダリアには大聖堂がありません」

「常でないことが起きていると。それゆえ、聖ファルムス国の聖女が力を失ったか、その確信がない、ということだな?」

「おっしゃる通りです」


 そもそも聖女の歴史はまだ浅い。

 その中で培われた知識や技術は、結果から導き出した相対的なものだ。

 つまり、聖女に関する常識はいつ変わっても不思議はないということでもあった。

 多くの疑問が二人の間に浮かんでいる。

 しかし、シリカにはそれよりも優先すべきことがあった。


「陛下は私を庇ってくださいました。御身を犠牲にして……どうしてですか? 私とは離婚する間柄のはず。なのにどうしてそこまで」

「……咄嗟のことだった。考える暇もなく、体が動いただけのこと。気にする必要はない」

「気にします!」


 思わず叫んでしまい、シリカは自分を諫めた。

 感情的になるべきではないとわかっているのに、簡単にはいかない。


「それでご自身は命を落とされたのですよ。私なんかのために」

「……なんか、などと卑下することはない。そなたは……」


 ヴィルヘルムは言葉を呑んでしまった。

 言葉は漂わず、沈黙が場を支配する。

 ヴィルヘルムは何を言おうとしたのか、シリカはわからなかった。

 連想はした。

 しかしそれはただの空想に過ぎない。

 例えそうだろうと察したとしても、それは言葉として生まれてない。

 それでは実感がない。

 わかった気になるだけで、結局は心に沁み込まない。


 シリカはぎゅっとスカートを掴んだ。

 逡巡したが、それでも進むしかない。

 だから、シリカは口火を切った。


「言ってください。私は……察しが悪い女です。だから……言っていただけないとわかりません」


 今までも勝手に相手の行動で傷ついて、察した気になって、距離をとってしまった。

 それじゃダメだと思ったのだ。

 少なくとも自分とヴィルヘルムは、言葉にしなければならない関係性なのだと思った。

 死の間際でしか、互いの心の内をさらけ出せないなんてお断りだった。

 物語の登場人物が自己陶酔するためだけの展開なんて、シリカは大っ嫌いだった。

 生きている間に、わかりあうために努力しあう方が、よっぽど美しい。

 シリカの言葉に、ヴィルヘルムはわかりやすいほどの迷いを見せた。

 以前の彼よりも、柔らかでそして素直な姿がそこにはあった。

 ヴィルヘルムは顔をしかめ、そして顔を背けた。


「そなたは……美しく聡明だと、余は……思う」


 ぼそぼそとした声。

 耳を澄ましても聞き取ることが容易ではないほどの声量。

 しかし確かにシリカには聞こえた。

 予想はしていた。

 そうかもしれない、そうだったら嬉しいと思った。

 しかし、確かにヴィルヘルムの口から、明確な言葉が紡がれた。

 それがとても嬉しくて。

 そしてとても恥ずかしかった。


 自分で聞いておいて、期待しておいて、実際に聞いたら恥ずかしくて死にそうだった。

 なんと図々しいのかとそう思いながらも、後悔はなかった。

 自分に自信なんてない。

 綺麗だとも思ったことはない。

 でも、ヴィルヘルムの言葉に嘘はないと感じた。

 だから少なくとも彼は、本当にそう思っていると、信じることができた。


 耳まで、首元まで熱くなってしまう。

 互いに目を逸らし、また沈黙が漂う。

 しかし先ほどまでの気まずさはなく、今度は気恥ずかしい感情だけがシリカの中を走り回っていた。


「……すまない」


 不意に聞こえたヴィルヘルムの声音は、どこか沈んでいた。

 謝るようなことは言われていないのに。

 シリカは純粋に疑問を抱き、首を傾げた。


「なぜ……謝るのですか?」

「余は醜い。やせ細り、骨と皮だけ。目は落ちくぼみ、美しさとは掛け離れた容姿をしている。そんな余に褒めそやされても不快だろう」

「そんなことは……」

「無理をする必要はない。直接は言われぬが、幼少の砌(みぎり)から、陰で言われていることは知っている。そして余もそうだろうと思っている」


 幼少の頃から、彼は容姿を貶められてきたということだった。

 それならば自信を持てなくて当然だろう。

 頑なに自分は醜いと、そう思ってもおかしくはない。


「陛下は、最初に私と会った時に好印象を抱いたと、そうおっしゃってくださいましたね?」

「ああ……その時に、余を見て落胆しただろうとも思った」

「それは違います。私は、陛下を見て落胆などしていません。むしろ同じです。私も陛下に……」


 直前までつらつらと話していたのに、シリカは会話を止めた。

 言うべき言葉は頭に浮かんでいる。

 なのに喉が動かない。


(どうして……? なぜ声が出ないの?)


 自覚はなかった。

 それなのに身体は一気に熱くなり、動悸は激しくなった。

 体中が脈打って、手は少し震えだした。

 その時ようやく、シリカは理解した。


(は、恥ずかしいっ……)


 本音を口にすることの恥ずかしさ。

 しかも相手を褒める、いやそれどころか好意を持っているという言葉を紡ぐということ。

 別に好きだと告白するわけでもない。

 懸想していると伝えるわけでもない。

 ただ印象が良かったという話をするだけだった。

 だが、シリカは動揺した。


 会話の途中で、突然シリカがあわあわとし出すものだから、ヴィルヘルムは怪訝そうにしている。

 流れを見れば、明らかに褒める言葉を言うことは想像できそうなものだが、自信を持っていないヴィルヘルムにとってそれは困難なようだった。

 つまりヴィルヘルムからは、会話の途中で黙りこくって、挙動不審になり、顔を真っ赤にしているという風に見えている。


 言わなければ。

 だってヴィルヘルムは言ってくれたのだから。


 言わないと。


 言うしかない。


 言う!


「わ、私は、へ、へへ、陛下が……」

「余が? なんだ?」


 ヴィルヘルムが顔を寄せてくる。

 これは単純にシリカの答えを、きちんと聞こうとしているだけのことだろう。

 だが今のシリカにそれは効果的だった。

 頭が沸騰し、もう何がなんだかよくわからない状態になった。


 そして――

「格好いいって思いますぅっ!!!」

 ――暴走した。


「表情があまり変わらないところも、さりげなく優しいところも、背が高くて優雅な足取りも、サラサラの髪も、仕事熱心なところも、真面目で実直なところも、実は優しくて気遣いができるところも、綺麗な瞳も、身を挺して守ってくれる男らしいところも全部、格好いいって思いますけどもぉっ!!」


 立ち上がり目を白黒させ、ペラペラと口を動かすシリカ。

 ヴィルヘルムは呆気にとられ、ぽかんとシリカを見上げていた。

 一気にまくしたてたものだから、シリカははぁはぁと息を荒げる。

 そして、即座に後悔した。


(わ、私は何を言ってるのぉ! もぉぉっっ! なんでこんなに動揺してるのよぉ!)


 男性経験なんて皆無だし、色恋にうつつを抜かす時間も余裕もなかった。

 聖女として大勢の人と接した経験から、人間関係の構築は上手い方ではある。

 しかし異性関係となれば話は別だ。


(多分、別に好きとか嫌いとかそういう段階ではないのだけれど……)


 体中が熱を発して、汗が滲む。

 こんな感情は生まれて初めてで、シリカ自身持て余していた。

 そんなシリカをヴィルヘルムは呆然としたまま見つめていた。

 射貫くような視線に居心地の悪さを感じ、シリカはむっとする。


「な、何か言ってください」

「い、いや……」


 ヴィルヘルムが戸惑っていることは明白だったが、本音をさらけ出した手前、シリカに返事を待っている余裕はなかった。

 むしろ今までため込んでいたものが一気に吹き出す。

 もうここまで来たら全部言ってしまおうと、シリカはヴィルヘルムに顔を寄せた。


「そもそも陛下はですね、ちゃんとお食事を摂るべきです! どうして残すのですか!?」

「それは……仕事が多く、食事をしない日が多かったせいか、小食になってしまったのだ」

「食が細いと胃も小さくなって食べる量も減ります! 過剰に摂るのはよくありませんが、少ないのは論外ですよ! 人間、体が基本! 国王が倒れたらどうするんですか!? ご飯はちゃんと食べる! わかりましたね!?」

「しかし……」

「もしかして、アリーナのために食事残してますか? 彼女、家族のためにお給金全部家に入れているらしいですね」

「なぜそれを」

「それならアリーナにご飯を出してあげればいいでしょう! 陛下は普通に食べればいいじゃないですか! なぜわざわざ手を付けず、残すようなことをするのですか!?」

「余が話しかけると委縮してしまうようでな……ならば気兼ねなくできるようにすべきかと思ったのだが」

「彼女は頑張っているのですから、ただ報いてあげればいいだけでしょう! お給金を少し増やすとか、食事を用意してあげるとか! 陛下はやり方が回りくどいし、不器用すぎます!」

「む、そうか」

「それにこの部屋……家具はどうしたのですか?」


 明らかに最低限の家具しか置いていないし、すべて安価なものばかりだ。

 今のシリカの部屋と同じような感じだった。


「……財政が悪化した時に売り払った」

「ですが、私には王族らしい家財を用意してくださいましたよね?」

「その方がそなたも暮らしやすいと思ってのことだったのだが」

「お心遣いには感謝しますが、陛下を差し置いて優遇されても嬉しくありません!」


 食事然り、家具然り、自分は後回しにして、他者を優先するとは。

 心優しいとは思うが、その事実を知って喜ぶ人間はいない。

 少なくともシリカはそうだった。


「そもそも陛下は言葉が足りません! 何事も言わないと伝わりませんよ! もっとご自身の考えやお気持ちを周りに伝えてください! それに国民との交流がないらしいじゃないですか! 小国なんですからもっと査察をすべきでは!?」

「それはそうだが、余の姿は……」

「醜くないです! そう言っている人なんて無視していいんです! 的外れなこと言ってるだけですから! それでも気になるならちゃんと食事を摂りましょう! 今の陛下は痩せすぎです!」

「……善処しよう」

「善処でなく、今日からしてください! ご自身も気にしているんでしょう!?」

「……わかった。必ずそうしよう」


 言いたいことを言って、シリカは椅子に座りなおした。

 そしてすぐに猛省する。

 明らかに言い過ぎだった。

 これではただの口うるさい姑だ。

 嫌われても仕方がないだろう。

 でも言わないとこの人はわからない。

 そして自分も言われないとわからない人間なのだ。

 だから間違ってはいないはずだ。

 そう自分に言い聞かせるも、やはり不安になってしまう。

 シリカはヴィルヘルムの表情を覗き見た。


「感謝する」


 ヴィルヘルムは今までにないほどに清々しい顔をしていた。

 予想だにしていなかった反応に、シリカは何も返せない。


「余に、ここまで言ってくれた人間はそなたが初めてだ。父上が身罷り、以降は余が王としてしっかりせねばならないと、そう思ってから一人、気を張り続けていた。その結果……国を衰退させ国民には負担を強いた……一縷の望みにかけ救済の象徴の聖女を王妃として迎えれば、国を栄えさせることができるやもしれぬと、他人頼みの策を弄し、そしてそなたを巻き込んだ。せめて不幸にしないようにと、身勝手な贖罪でそなたを傷つけた。国民の心の内を知ろうともせず、歴史を語らず、おためごかしの国政の先に破滅の結末があった。そなたがいなければ、凄惨な結果になっていただろう。余は……何もできぬ無力な王だ」

「…………陛下」

「だが、一つだけ。正しかった決断があった……そなたを迎え入れたことだ」


 ヴィルヘルムはシリカを真っすぐ見た。

 淀みなく、迷いなく、綺麗な瞳がシリカを見つめる。

 シリカも目を逸らさない。


「ありがとう。シリカ。ロンダリアに来てくれて」


 その言葉の真摯さが、心の水面を波立たせた。

 感情が高らかに鳴り響き、そして涙となってあふれ出した。

 たった一つの感謝が、シリカの感情を弾けさせた。

 嬉しかったのだ。

 自分のやってきたことは間違いではなかったと。

 自分は必要とされているのだと。

 そう思えたから。

 裏切られ、聖女の力を失い、人との繋がりも消えた。

 ただの一人の人間として、必要とされることなどないかもしれないと思った。

 色濃い不安を見ないようにして、必死で日々を過ごしてきた。

 それが、報われた気がした。

 だから、シリカは涙を流す。


「うあぁ……ううっ、ぐすっ……あああああぁぁぁーーーっっ!!!」


 堰を切ったように泣き出したシリカを、ヴィルヘルムは抱きしめた。

 あやすようにではなく、寄り添うように。

 わんわんと泣くシリカを、ヴィルヘルムは何も言わず抱きしめ続けた。

 ヴィルヘルムに戸惑いはなく、ただその顔には決意の意思があった。

 頼りない王の背中は、僅かに大きくなっていた。

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