13. エスタシオ
雨上がりの公園へユエは落ちていく。
なつかしさが胸をよぎる。
あの時は、真上から太陽が照らす蒸し暑い日だった。
守り通した三十年前の記憶を胸に、猫を
空気は顔の毛並みに粘る。筒袴の裾はびぃいと震える。頬が空気に引かれて牙が剥き出る。間に合えとばかりに呼び掛ける。
「ウェラン!!」
――名前を呼ばれたように思う。
ウェラン、留守を頼んだぞ。
ウェラン、きっと大丈夫よ。
ウェラン、今回も姉さんではなかったよ。
ウェラン、気を強く持ちましょうね。
十四歳の頃から、記憶にある両親の姿は「出かける姿」と「落胆して帰ってきた姿」ばかりだ。あちこちから持ち込まれた姉の消息を確認するために家を空け、しばらくすると戻ってくる。
いつか帰ってくるかもしれないから、と姉の部屋はそのままに残された。
いつか帰ってきた時のために、と母は自ら掃除をしていた。
いつ何をしていても、父母の頭の中を占める姉の影がちらついていた。
父の使い魔だった
次第に「魔法使いになれ」とは言われなくなり、ウェランは絵に没頭した。
やがて成人し、本格的に絵の道に進み、家を出て、結婚して、娘が産まれ、離婚して、もう元には戻らないとわかり、生家に戻ってきた頃にも、両親は姉の消息らしき情報を聞きつけては確認に赴いていた。
医術関係の魔法で財をなした一家だ、金銭に余裕はあるのだから、せめて人を派遣すればいいだろうと説いた。が、どうしても自分たちで行きたいのだと、聞き入れてはもらえなかった。
もう姉の事はあきらめてくれと頼み込んだ。
二人とも高齢なのだから、頼むからもうやめてくれと。
わかった、これで最後にしよう。と出かけて行った両親は、古い橋の崩落で死んだ。
広い館に、ウェランと、姉の部屋が残った。
「猫は、よく、伸びる!」
上空から左腕をみゅん! と長く長く長く伸ばし、ユエは猿型の右肩を掴む。引き寄せて落下点を定める。多数の手に掴み返された感覚があり、ぞわぞわと悪寒が腕を駆け上がってくる。同時にぱしんと、頭の中に火花のような閃きが走った。
――姉の部屋にテレピン油をぶちまけて、全部燃やしてしまいたかった。
食堂に飾られた古い湿版写真で、姉は小鼻に皺をよせ、得意げに笑っている。
なんだというのだ。
そのまま、憎たらしいままでいてくれればよかったのに。
両親の遺品を整理していて、母の部屋から姉の日記を見つけてしまった。
そんなもの、読まずに屋根裏にでもしまい込んでしまえばよかったのだ。
最後のページなど開かなければよかったのだ。
母が誰から隠したかったのか、
姉さん。
僕の脚は伸びなかった。脚が「まとも」であったら良かったと、数えきれないほど思った。でも僕は僕の人生を生きたんだよ。僕には僕の力があって、あんたは「冒険」なんかしなくて良かったんだ。突然いなくなってしまうぐらいなら、僕の脚なんかひとつも気にしなくて良かったんだ。そんなもの、ぜんぜん必要なかったんだよ、姉さん。
あんたが家族を、エスタシオを連れて行ってしまった。
ああ、くそう、なんでこんな時に思い出すのがあんたの事なんだ。
「猫は、すり抜けるっ……!」
ユエが伸ばした左腕をすり抜けさせ、戻す。
情念だ。おいしそうでしょうと言わんばかりに、猿がごちゃまぜに情念を見せてきた。
「邪魔」
ユエは狙いを定め、魔法を求める。着地まで四拍。
「リールー!」
(受け取れ!)
全身をひねって右腕を振り上げた。
「猫の、爪は!」
対象は巨大だ。
「
魔法は気合いだ。
「っっいぇあ!!!」
振り下ろす。
猫の魔法、引き裂く指。
化け猫ユエの「爪」が、猿の右腕を切断した。
ウェラン・エスタシオの視界が開ける。雨上がりの青空が広がる。胸を覆っていた重さが晴れる。
内臓が重みを失ったような感覚の後、衝撃に襲われて吐き気を飲み下した。
どさどさどさと、重い音。
遠巻きからの悲鳴や叫び声。
「ウェランくん……さん。離れてて。あとで話ある」
女の声に見上げると、真っ白な猫の顔。
驚いてウェランはじたばたともがき、ひょいと地面におろされた。
離れたところで、老婆の形をしたモノたちが芝生や花壇に散らばっていた。それらはもろもろと立ち上がり、大本の猿型にまた組み付いていく。体を切断されたモノたちも、それぞれ動く部分を動かして猿型を目指しており、その光景にウェランは吐いた。
こんなことをしている場合ではないのだ。胸を叩き、ちかちかする視界で必死に猫頭を見る。この猫頭があの猿型から助けてくれたのだと、酔った頭で理解する。
「たっ、か、たす、けてくれ。助けてくれ……、む、むすっ」
声を絞り出す。
「娘」
堰がきれる。
「娘がぁ! 中にいるんだ! あああ、あれの、あれの中に! たっ、助けてくれ! お願いだ助けてくれ……娘を、娘をおおお、助けてくれよぉぉ」
荒れる声に嗚咽が混ざる。
猫頭がしゃがんできて、顔の両脇をはっしと押さえられた。左右で異なる瞳と目が合った。
「まかせて」と猫頭は言った。
「だから泣かない」とも言った。
立ち上がって背を向け、何かを口に放り込んで、猫頭が猿へと歩みを進めていく。
雲の切れ間から日が差して、白い頭にひとふさの麦藁色を照らした。
(見事な姉っぷりであった)
「別に、
口に含んだ塩粒が舌で溶けて、神経や
依頼は承った。対価は既に受け取っている。誰が猿型に取り込まれたのかも、上空から見た。
「やろう」
と
魔女の複製が複合した、頭の無い猿。ユエの頭と猿の膝が同じ高さにある。その胸に目立つスミレ色の布。
掘り出すか、引っ張り出すか、どちらにしても! とスミレ色めざしてユエが跳びかかる。
猿は跳びすさる。
「えっ?」
と思わず声が出た。
「逃げるの?」
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